「弔いは誰のためにあるのか?」水平線 Kenny KAOさんの映画レビュー(感想・評価)
弔いは誰のためにあるのか?
この映画の主人公は東日本大震災の津波で妻を亡くし、その遺体は見つかっていない。震災以前は漁師だったが、今は一人娘と一軒家で暮らしながら海に遺骨を撒く散骨業を営んでいる。
海洋散骨は10数年前と比べると随分と一般的になったと感じる。少子高齢化や格差拡大のせいで、お墓を維持するための費用や家族がない方も多く、主人公もそんな人達を主な客としているようだ。
人が亡くなると様々な儀式が行われる。通夜・葬儀・告別式・初七日・四十九日・納骨・新盆・一周忌etc。今ではすべてを行うことは少ないが、実に細かく決められている。
5,6年前、仙台から気仙沼までの海辺を旅行した。途中に寄った南三陸町では、造成工事されたまま雑草もない剝き出しの土が広がる横で、大型重機が河口の護岸工事を進めていた。
津波で家族を亡くした人は葬儀や法要も満足にはできなかっただろう。生活も立ち行かないなか、家族の遺体も見つからず、大切な思い出の品や場所がすべて流されてしまった人も沢山いたはずだ。
葬送儀礼ではよく、故人も喜んでいるという表現を使う。しかし、弔いとは残された者達のためにあり、彼らの人生に区切りをつけるためにある。それゆえ、少しづつ切り離すための儀式を行っていく必要があるのだ。
遺骨を返しに行くものの、除染作業を行う姿をみて引き返すシーンが印象に残った。松山も殺人犯の弟として辛い思いをしたのだろう。集う墓のない海へと遺骨を撒けば、いくらかは呪縛から逃れられる。
区切りをつけ自分の人生を生きる。思い出すことと囚われることは違う、それが目の前で為すべきことなのだ。
主人公曰く、亡くなった人は星になる。毎晩夜空に集まって楽しく過ごし、夜明けとともに水平線の先へ帰っていき次の夜を待つ。
静かに佇み作業をする主人公の顔は、窓から入る日差しに照らされている。
水平線とは、清濁併せ呑む海と星の棲む空が溶け合うところ。