「美しく、逞しく、清々しい物語。」一月の声に歓びを刻め m_satodaさんの映画レビュー(感想・評価)
美しく、逞しく、清々しい物語。
監督の幼少期の性被害の体験がモチーフだ、と枕詞のように映画が紹介されるのだが、
ある意味、それはどうでもいい。
いや、むしろ、「性被害者を描いた映画」だと、強いイメージがつくことはマイナスではないのか。
(それは事実だし、逃れられないことではあるけれど)
この映画が描いているものは、もっと普遍的なものだと思う。
洞爺湖で47年前に幼い娘が性被害にあり、自死したという経験がある父。
その父は、男性性を厭い、恨み、性転換手術を受けている。
その心には、ずっと後悔がある。
なぜ、あのとき娘を黙って抱きしめてやらなかったのか。
お前は汚れていないと伝えてあげられなかったのか。
その後悔の念は、残された家族にも深い疵を遺している。
八丈島で、妻をなくした男がいる。
一人娘は島を出て、結婚もしていないのに妊娠して帰ってきた。
この二人には罪の意識がある。
交通事故で脳死状態になった妻の生命維持を止める決断をしているのだ。
男、誠の独白でその経緯が明らかになる。
娘が「もういいよ」と声を出しているのだ。
そんな言葉を娘に発させた罪悪感。
その言葉を発した娘も、父との間に溝ができている。
このパートのラスト、娘の言葉には胸の真ん中を突かれる思いがした。
そして大阪・堂島。
元彼の葬儀で久しぶりに帰阪したレイコ。
母との微妙な距離。
そして、レイコは、ひょんなことからであった「レンタル彼氏」のトトに
幼少期の「事件」について話し出す。
ともすれば、「性被害を描いた、重苦しい作品」になってしまう。
ところが、この洞爺湖、八丈島、大阪と舞台が切り替わることで、
全く違う視点が見えてくる。
罪の意識。
疵。
誰しも、生きていれば疵の一つや二つ、体にも心にも残っている。
それはいつか癒えるものもあれば、死ぬまで消えないものもある。
その疵に蓋をすることもできる。
でもきっと、その蓋はひょいと開いてしまう。
そうだ。
ならば、疵とともに、生きていく。
それは、美しく、逞しく、清々しいことなのだ。