「あの日の君を探して」年少日記 レントさんの映画レビュー(感想・評価)
あの日の君を探して
重荷は一人で背負い込むよりもより多くの人と分かち合った方が楽になれる。
どのような境遇で生まれてくるかは誰も選べない。誰しもが自分の生まれながらの宿命を背負って生きていかなきゃあならない。
毒親の下で生まれてくるか、障害を持って生まれてくるか、こればかりはどうしようもない。
じゃあ、周りの人間がしてあげられることはなんだろうか。自分の生まれながらの境遇に苦しみ誰にも助けを求められない子供たち。自分で背負いきれないほどの重荷を背負わされた子供たちはいずれはその重荷に耐えられなくなって、自ら命を絶ってしまう。
それを防ぐにはその背負った重荷を少しでも軽くしてあげるしかないんだろう。重い荷物を少しでも軽くしてあげれば、共に重荷を背負ってあげれば少しは軽くなるだろうし、気持ちも楽になれるはずだ。そんな重荷をより多くの人が皆で分かち合って背負えばそのぶん世の中のみんなが楽に生きていけるだろう。
主人公のチェンは兄の意志を受け継いで教師になったものの、自分自身の子供の頃のつらい記憶に縛られていてなかなか生徒たちに心を開けないでいた。それは愛する妻に対しても同じだった。
ある日生徒が書いたと思われる遺書を見つけたことから彼はそれを書いた生徒を探し出そうとする。それは彼の悲しい記憶をたどる旅でもあった。その遺書に書かれていた同じ文言をかつて書いた人物を知っていたからだった。それは日記に書かれた文言だった。
「私はどうでもいい存在だ」それはこの世のすべてに絶望し、そして自分自身に絶望した人間から絞り出された文言だった。
あの時書かれた日記。あれから何年後かの今になり再び甦る記憶。日記をめくりその記憶をたどることは自分自身の忌まわしき過去と向き合うことだった。否が応でも自分自身の封印した過去、過去の自分自身と向き合うことだった。
遺書を見つけたのをきっかけに自分の人生の過去をたどりそこで甦ったのは彼の兄の存在。彼には一つ上の兄がいた。十二歳でこの世を去った兄。なぜそんな幼い子供が自ら命を絶たねばならなかったのか。
それは彼の家庭に原因があった。そしてチェン自身もその原因の一つだった。その事実に向き合いたくないがために記憶を封印したのだった。家族全員がその事実を記憶から消し去った。
しかしこの遺書によりいやがうえにも過去と対峙せざるを得なくなった。そして自分自身の人生とも。
あの時、兄の気持ちに寄り添えなかった自分、彼の気持ちを聞いてやれなかった、彼の重荷を共に背負ってあげられなかった。罪悪感に駆られて封印した思いが蘇る。チェン自身がそのつらい記憶が重荷となりそれを一人で背負いこんでいた。
自分自身がその重荷を人に預けることができないのにどうして苦しんでいる生徒たちの重荷を共に背負うことができるだろうか。
彼の悲しい記憶をたどることであの頃の兄と再会してチェンは気づけたのかもしれない。そして彼は愛する妻に自分の過去を告白する。彼はやっと自分一人で背負ってきた重荷を妻に預けることができた。
チェンは学級を終える生徒たちに自分の身の上を話す。今まで他人には話さなかった自分の生い立ちを。そして言う。つらいことがあれば話してほしい。重荷を共に背負って行こうと。
香港は日本以上の資本主義社会で子供たちは生まれた時から競争にさらされてるそうだ。幼稚園でも宿題が出るというくらい。
小学校は日本と同じ義務教育だが留年がある学校もあるという。未成年者の自殺率は高い。
先日亡くなったホセ・ムヒカ氏が残した日本の子供たちへのメッセージが思い出された。「子供たちよ、君たちは今人生で一番幸せな時間にいる。経済的価値のある人材になるための勉強ばかりをして早く大人になろうと急がないで。遊んで、遊んで、子供でいる幸せを味わっておくれ。子供たちよ、精一杯遊びなさい。」
チェンの父親が子供の頃にこう言ってくれる大人たちがいたなら、こんな悲しいことは起きなかっただろうに。
本作はまったく前情報を入れずに鑑賞したので後半に思いもよらぬ仕掛けがなされていて驚かされた。
ストーリーテリング力は大したもんだと思う。その展開を見せられて劇場は鼻をすする音の大合唱になっていた。
ただ扱っている題材が題材なだけに素直に上手いとは言い切れない自分がいた。確かに見せ方はうまい、でも感心していいもんだろうかという気持ちが自分の中にあり周りの観客よりかは冷静だった。なんせ子供の自殺を扱う作品でうまい話だとは言いづらいものがある。でもいい作品なのは間違いない。映像、音楽共に素晴らしかった。
あまり注目されておらず行きつけの劇場もロングランにはなりそうもない。宣伝へたくそなのかな。多くの人に見てもらいたい作品。