劇場公開日 2025年2月28日

「勝てなくても、戦う意味ーー圧政下での自由への闘争」TATAMI ノンタさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5勝てなくても、戦う意味ーー圧政下での自由への闘争

2025年3月2日
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観ている間ずっと息苦しさを感じる映画だった。
イランの国家権力は強大で、個人の自由は存在しない。そこに抗おうとする主人公が、どれほど無力で、どれほど選択肢を奪われているのか。
圧倒的な抑圧の中で彼女が取る行動は、決意の表れというより、もはや「生きるための本能的な選択」に見えた。

試合中、彼女は呼吸が苦しくなり、試合用のヒジャブを脱ぐ。呼吸が楽になり、再び動けるようになる。これが、象徴的なシーンだった。ヒジャブを外すことで彼女は初めて「息ができる」。
宗教の抑圧、国家の支配、その両方を象徴する布を取り去ったことで、彼女は一瞬だけ自由を感じることができる。だが、それはあくまで一時的なものでしかない。

体制は絶対的な存在として描かれた。国家はすべてを監視し、命令に従わない者は粛清される。
コーチは家族を守るために最初は体制側に従うが、主人公の闘志を目の当たりにし、彼女を支える側に回る。だが、その瞬間、彼は国家の復讐に遭い、容赦なく排除されそうになる。

この映画では、イランの政権側は絶対的な悪だ。そこに「体制側の言い分」や「葛藤」は一切描かれない。ただ、冷酷に、圧倒的な力をもって個人を押し潰していく。
そのため、観客としては、主人公が最後まで「戦うことしかできない」状況に共感しつつも、「どうにもならない無力感」に囚われることになる。

この映画は単純な「勝利の物語」にはならなかった。もし、彼女が体制に抗いながら勝利を掴んでいたら、それは西洋的な「自由の勝利」の物語になってしまうだろう。
でも、この映画は違った。彼女は戦ったが、勝てなかった。彼女がどれだけ努力しても、どれだけ強くなっても、国家の抑圧は揺るがない。
だが、それでも「戦うことには意味があった」。

この映画を観ていて、最近見た「聖なるイチジク」を思い出した。同じく神権政治の抑圧下でのイランの物語だ。あの映画で抑圧者の象徴として描かれる父親は、システムの中で生きることを強いられた犠牲者でもあった。だからこそ、観客は彼に対しても一定の理解を示すことができた。
「TATAMI」にはその余地がない。国家は悪、個人は犠牲者。ただそれだけの構図だった。その分、テーマは明快で、わかりやすいが、人間ドラマとしての奥行きは少し薄かったかもしれない。

この映画の価値は「個人が勝つ話ではない」というところにある。どれだけ戦っても勝てないかもしれない。それでも、戦わずに従うことは、生きている意味を失うことだ。
だから、彼女は最後まで戦い続けた。それが、この映画の持つ最大のメッセージなのだと思う。

ノンタ