ペルシアン・バージョン 娘が好きになれないワケ

解説

2023年・第36回東京国際映画祭コンペティション部門出品(映画祭上映時タイトル「ペルシアン・バージョン」)。

2023年製作/107分/アメリカ
原題:The Persian Version

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(C)Yiget Eken. Courtesy of Sony Pictures Classics

映画レビュー

3.5楽しみたい女の子

2024年6月7日
PCから投稿

テーマソングのようにシンディローパーのGirls Just Want To Have Funが使われている。ボリウッドのように踊り出すシーンもあった。

「朝帰りすると母がいつになったらまともになるの?って説教するの、でもね女の子はただ楽しみたいのよ、そういうものなのよ」というような歌詞。
モータウンとレゲエのミックス──という楽曲の風合い、間奏にはいる泡沫がはじけるような音、ばかっぽさと明るさとがさつさとカラフルさを前面に押し出してくる風変わりな女の子シンディローパーの甲高い歌声。YouTube再生回数13.6億回(2024)。おそらく80年代に洋楽をかじった人なら誰もが衝撃とともに聴いた曲だと思う。

Girls Just Want To Have Funはイランから渡ってきた移民二世のレイラ(Layla Mohammadi)の気持ちを代弁するように使われているものの、それはシンディローパーが歌うアメリカの女の子の立脚点とは違う。
レイラには普通の女の子の気分もあるが、異邦人の気分もある。往々にしてアメリカでは中東人とりわけペルシャ(イラン人)はテロリストと同一視される。言うなれば敵国へやってきた移民であり、そんな人種がアメリカの自由な気風に馴染んで「楽しみたいだけなのよ」というのも身の程おこがましい。

結局異分子である自分をアイデンティファイできないことに加えて母との葛藤が彼女の苛立ちに拍車をかける。そんな、なんともいえないイラン二世の立脚点と出生の秘密を描くのが映画The Persian Versionの骨子。
タイトルはペルシャ語圏の人がアメリカのテレビ/映画プログラムを見るときに探すであろう「ペルシャ語版」の意味。

イランからアメリカへ移民してきた家族をもつ女性監督Maryam Keshavarzの自伝的映画──とのことで、2023年のサンダンスで観客賞をとったそうだ。

シンディローパーのGirls Just Want To Have Funが使われているのは監督が80年代を生きた同世代人としてシンディローパーが苦労人であることを知っているから──というのもあるだろう。

現代へ至って80年代が解き明かされるとモンスターヒットの秘話が叙説される。つまり例えばフレディマーキュリーの悲哀のように、当時見ていた偶像の実人生には困苦があった──ということが時を隔てて解るわけである。
あの当時、シンディローパーは頭の足りないような出で立ちと振り付けで出てきてGirls Just Want To Have Funを歌ったが、シンディローパーは別に「女の子はただ楽しみたいのよ」という主張をしたかったのではなくミュージシャンのキャリアをつなげるヒットチャンスを模索して、ばかっぽいキャラクターを演じていたに過ぎない。

すなわち「女の子はただ楽しみたいのよ」と単純なものを追い求めているかのような表向きの姿を見せながら、内部には将来への不安と焦燥を抱えていた──という意味においてGirls Just Want To Have Funが使われているわけである。それは主人公の気分そのものだった。

さらにレイラは同性愛者でもあるが子供も産んでいる。LGBTQと移民秘話が、文化衝突と世代間ギャップを呈してSaving Face(2004)にも似ているし、あるいはミナリ(2021)のようでもある。今思いつけないが、類似点ある映画を更に挙げられそうな、どこか普遍性を感じる移民の話だった。

ところで登場人物らはクルド人でもある。今(2024)日本でも話題の移民問題だがクルド人とは(今ぐぐってきたに過ぎない知識だが)人種というか民族主義のようなもので国境を超えて繋がりがあり、クルド人はトルコにもイラクにもシリアにもイランにもロシアにも、日本を含むその他様々な国々にも広く分布している、のだそうだ。

The Persian Versionにはイランのクルド人である母と伴にアメリカにやってきて商売を頑張って根をはった──という来歴が描かれている。とすれば、やがて日本のクルド人もさまざまな困難に遭いながらも日本で頑張って根をはった──という移民目線の歴史がつくられるのかもしれない。すなわち当然だが、移民の目線と、そこに元から住んでいる国民の目線は違う。

またイラン人どうしでも感覚は違う。イランという国は聖地には蜘蛛が巣を張る(2022)のような映画で解るとおり、あるいはヒジャブデモの発端となった2022年の女性急死事件があったような女性蔑視の国柄である。
したがって自由を求める同国人には、経済的に可能ならアメリカへ亡命するという選択肢があり、じっさいに本作の母役Niousha Noorもテヘラン生まれながらアメリカで活躍する女優なのだそうだ。
そうやってアメリカへ行った人と同国にとどまる人には感情の乖離があるだろう。つまり母国を捨てた──というような。

ただ映画はそのように深刻であったりポリティカルなところは避けてアメリカナイズドなコメディに仕立ててある。エキゾチックなのは顔立ちぐらいで、洗練されたアメリカのコメディとして見ることができた。
とはいえ主人公レイラの生い立ちには因縁があり、母が時々見せる冷淡さの理由が解き明かされるルーツ遡行にはアスガル・ファルハーディーやジャファル・パナヒあるいはヌリ・ビルゲ・ジェイランような感じもあった。
個人的に土作りの家の土間に直座りして受け皿付きの小さな透明のグラスで紅茶(らしきもの)を飲む絵にはクルド人の田舎の気配を感じるものがある。

もうひとつ感じるのは濃い人種の女性はきれい──ということ。イラン男性はともすれば髭の濃さがむさくるしく見えることがあるが、イラン女性の濃さはきれいさとイコールになりやすい。
とりわけ聖地には蜘蛛が巣を張るのZar Amir Ebrahimiや、ここに出ているNiousha NoorやLayla Mohammadiはペルシャ女性の濃さ=きれいさを体現している女性だと思った。
これは同じく濃い人種インドやラテン各国などにもいえる。濃さはきれいさとつながりやすい。薄ければきれいではない──とは言わないが日本人のなかでも弥生人タイプよりは縄文人タイプのほうがきれいが解りやすい気がする。

IMdb6.2、RottenTomatoes84%と93%。

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津次郎