エア
解説・あらすじ
2023年・第36回東京国際映画祭コンペティション部門出品。
2023年製作/151分/ロシア
原題または英題:Vozdukh
2023年・第36回東京国際映画祭コンペティション部門出品。
2023年製作/151分/ロシア
原題または英題:Vozdukh
空を見上げることが、罪になるとき
――映画『エア(空)』について
2023年のロシア映画『エア』。
邦題は「エア」だが、原題はただ「空」を意味する言葉だという。その単純さが、かえって不穏だった。
2023年という年。
ウクライナ侵攻という現実。
この作品のエンドロールには「すべてのロシア女性と製作者の家族、その他の人々に捧ぐ」といった趣旨の言葉が流れる。
それは戦死者への鎮魂なのか、それとも現在進行形の現実への祈りなのか。
意味深さは否応なく立ち上がるが、ひとまず私はそれを胸の隅に置いた。
映画は、容赦なく始まる。
ドイツ軍が狙ったトラックのコンボイ。
そこにいたのは兵士だけではない。逃げ惑う市民、泣き叫ぶ子どもたち、「ママ、ママ」と声を上げる小さな存在。
だがこの場面は、敵国の残虐さを告発するためのものではない。
戦争というものが、何を標的にし、何を必然的に巻き込むのか。
その結果がどれほど単純で、取り返しがつかないかを、一瞬で示すための光景だった。
物語自体はフィクションだ。
しかし、女性パイロット部隊が実在したことは歴史的事実である。
人員不足という現実の中で、女性が戦地に送り込まれた。
だが戦後の復興を考えれば、それはあまりに無謀な選択だったはずだ。
それでも、そうせざるを得なかった国の「打つ手のなさ」が、この映画の底流に流れている。
主人公はジェーニャのように見える。
だが見ているうちに、その認識は崩れていく。
この物語において主人公は、個人ではない。
女性パイロットたち全員が、等しく主人公であり、等しく消耗していく。
仲間の死は日常になる。
昨日まで隣にいた人間が、今日はもういない。
それでも出撃は続き、感情はすり減っていく。
何も感じなくなることだけが、生き延びる条件になっていく。
興味深いのは、彼女たちも、男性兵士たちも、戦場そのものより恋愛に強い関心を示すことだ。
私的な会話は盛り上がり、愛の話題が交わされる。
それは希望ではない。
正気を保つための、必死なごっこ遊びだ。
閉ざされた自由の中で、戦う意味すら与えられないまま軍人になるしかなかった若者たちの、最後の逃げ場だった。
「国」と「人」を天秤にかける会話も登場する。
だが命がコマのように捨てられていく現実の前で、その問いはすぐに意味を失う。
強迫観念だけが独り歩きし、是非を問う余地など残されていない。
赤ん坊だけでも助かるようにと、戦闘機に託す選択さえ、裏目に出る。
善意も判断も、戦争の中では容易に反転する。
四方八方すべてが絶望で、逃げ道はない。
ジェーニャがアレクセイに愛を求めたのも、恋というより限界の表れだったのだろう。
そして、そのアレクセイさえ心臓発作で死ぬ。
理由も英雄性もない死が、淡々と積み重なっていく。
出撃前に唱えられるマントラ。
やってくる「その日」。
それは、拒否権のないロシアンルーレットと同じだ。
ジェーニャの最期の言葉は「パパ、ママ」だった。
両親への反発と葛藤。
パイロットになることで否定したはずの存在が、死の瞬間に立ち返る場所になる。
自分が間違っていたのか、両親が正しかったのか。
その答えは、観客には与えられない。
彼女だけが体験として受け取った真実が、そこにあったのだろう。
最後にマーシャが生きていたことだけが、わずかな希望として提示される。
人々は空を見上げ、ピアノとオペラの声を聴く。
無垢で、何も知らないかのような空。
その美しさの下で、人間は殺し合っている。
戦争という人類の最悪の営みは、皮肉にも、他者を思いやる感情を露わにする。
最悪なものの裏側に、人が助け合って生きようとする根源が浮かび上がる。
神は、他人を殺すことも、自分を殺すことさえも、許容するのだろうか。
女性たちと、その家族、そして名もなき人々に捧げられたこの映画は、
彼らが静かに眠ることを祈るための作品なのかもしれない。
空は、今日も変わらず、そこにあるのだから。