異人たちのレビュー・感想・評価
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ずっと孤独だった
…そこに名前がついただけ。"死"を寄せ付ける孤独感、喪失感、そして自分="クィア"【ゲイであること】を受け入れてもらえなかったことに傷つき苦しく、すごく寂しかったんだ。どうか、《しこり》を大きくしないで。だから、僕が君を死から遠ざけてやる。死神も近づけないほどに…。"静かすぎる"孤立したタワーマンションから、隠れた太陽からいずれ光となる。幾度となく出てくる窓ガラスに映る自分の顔=内面の崩壊や(アイデンティティークライシス的)自己探索。エスタブリッシング・ショットによるファーストカットが魔法みたいに素晴らしかったし、外に出たアダムがマンションを見上げるカットよかった。 孤独(や喪失)がいかに人を死に近づける・追いやるか?傷ついた魂が引かれ合う。人によっては冷酷な現実を突きつけられるような感覚にもなるかもしれないが少なくとも自分にとっては、本作中で描かれるような出逢いがなくても"僕"(=アンドリュー・ヘイ)がいるよと、だから生きることを諦めないでほしい。あるいは逆に、あなたが孤独や喪失=しこりを感じるとき、他にも同じように苦しんでいる人たちがいることを思い出してほしい。それらが巡り合い出会ったとき、誰かと分かち合えたとき、きっと一筋の光や希望に変わるから。ラストシーンは、死神が遠ざかっていくようにも、一緒に上がっていく(あるいは落ちていく?)ようにも見えた。それは両親にできなかったこと。誰もが"異人"な世界で、たくさんの独りぼっちに届いてほしい作品。 山田太一「異人たちとの夏」✕ アンドリュー・ヘイ監督 ✕ アンドリュー・スコット主演 = 大林宣彦監督版は見ていたけど、アンドリュー・ヘイらしい味付け・世界観とやさしくあたたかなタッチ・トーンで綴られるファンタジックなドラマは、時を超える魔法のようだった。よく書けた脚本と演出、そしてそれらに"身体"と魂を与える肝心の演技。"アンドリュー"コンビだけでなく大好きなポール・メスカルもまたとてもよかった、主演2人の力と確かな化学反応。ジェイミー・ベル、クレア・フォイ演じる両親役もいい。過去のトラウマや心残り・未練などが堰を切るようなどっと溢れ出しては、余韻が残る…。 勝手に関連作品『WEEKEND』『ロスト・イン・トランスレーション』
オリジナル未見
故 山田太一原作は未読📖´- 故 大林監督作品 異人たちとの夏 も未見 なので、比較はできませんがそれが また良かったのかもしれません。 なんとも摩訶不思議なファンタジーですが 幼い頃に亡くした両親との再開や 自身の成長を喜んでくれる両親の言葉の数々に 嗚咽寸前でした😭 孤独に慣れたアダムが両親の愛を知り、 人を愛することを知る。 ラスト、あのシーンに吃驚し回想シーンでまた泣けた😭
不思議なストーリー
オリジナルを知らずで、いろんなコメンテーターの方々のレビューがすごく良かったのでかなり期待して観ました ハードルが上がりすぎていたのか、思っていたようなストーリーじゃなくてちょっと残念な気もしました 親が子供を想う気持ちにとても感動のストーリーなのですが、そんなストーリーの中にドラックシーンがあって、それ必要なんかなと途中とても違和感だったけど、そこはラストでわかりました ロンドンのマンションに1人で住む主人公のアダム、でもオシャレなロンドンという感じは全くなく、どこにでもありそうなロケーション 孤独な人生を送ってきたアダムが、同じマンションに住むハリーとの恋と、子供の頃からずっと一緒に過ごす時間がなかった両親とわかり合えていくというストーリー 当時のいじめについてのお父さんとの会話がすごく心にきました そして親子3人でのレストランのシーン、涙がポロポロ止まりませんでした 親の願いは子供が幸せである事、本当にそうなのです 誰かを愛して、その誰かから愛されて、孤独じゃない人生を送る、それが本当に幸せな人生だと改めて思いました
台無し
山田太一原作のオリジナル「異人たちとの夏」の大ファンですので、迷う事なく鑑賞しました。
結果、とても残念な作品で悲しみを感じました。欧米向けの改変はある程度覚悟の上でしたが、これほど変えられてしまうとは。。。
オリジナルの魅力を見事に削ぎ落としたような仕上がりに、リメイクの目的は果たして何だったのか意味不明でした。
オリジナルのノスタルジックかつスリリングな秀逸な脚本は跡形も無くぶっ飛び、同性愛者の生きづらさがストーリーの根幹を成しており、真逆のラストにも唖然としてしまいました。
絶対にリメイクと名乗ってほしくない作品です。
大林版との比較で観る「異人」のお話
山田太一の小説「異人たちとの夏」を原作とした作品でした。原作小説は、1988年に大林宣彦監督が「異人たちとの夏」として映画化しており、本作の公開直前に大林版も鑑賞したので、同作との比較を通じてアンドリュー・ヘイ版の本作の感想を書いてみたいと思います。 まず大林版との大きな相違点は、1988年当時の東京を舞台にした大林版に対して、本作は現代のロンドンを舞台にしており、国の違い以上に時代状況の違いが作品にも反映されていました。また、主人公の中年男性が脚本家を生業としているところは共通していて、都会(東京とロンドン)のマンションに一人で住んでいるところも共通しているものの、大林版は妻と離婚した直後の状態だったのに対して、本作の主人公はゲイであることを隠して生きてきたという設定でした。ただ両者ともに都会で一人孤独に暮らしているという点は一致していて、これがこの作品群の重要な鍵であったと言っていいと思います。 さらに題名も異なっていて、本作には「夏」という言葉がなくなっています。これは原作や大林版が夏の東京を舞台にしていたものの、本作では夏のロンドンを舞台にしなかった、というか、季節感を強調していなかったことによるものだと思われます。別の見方をすると、ランニング姿で涼をとる文化がイギリスにはなかったということに尽きるということなのでしょう。 以上相違点を列挙しましたが、映画としての出来栄えは甲乙付け難く、特にロンドンの夜景をはじめ、映像は非常に綺麗で、アンドリュー・スコット扮する主人公アダムの孤独感とのコントラストが印象に残りました。また、大林版で疑問だった2つの点も、本作ではいずれも解消されていて、アンドリュー・ヘイ監督が私の声なき声を聞いてくれたのかと思ったほどでした。 具体的には同じマンションに住む恋人が自殺した下りについて、大林版では早々に発見されていて、恐らくは警察の捜査もあったと思われるにも関わらず、風間杜夫扮する主人公の原田が全く知らなかったことが極めて不自然でした。しかし本作では、主人公と恋人の初対面の直後という同じタイミングで恋人のハリーが自殺していたものの、直ぐには発見されず、しばらく経ってアダムが発見しており、矛盾が解消されていました。 もう一つ、これは大林版への疑問というよりもガッカリした点ですが、主人公の原田が、この世の人ならぬ”異人”である両親や恋人と接触を重ねるに連れて体調を崩して行き、最終盤ではホラーかと思うような特殊メイクを施しました。ところがこのメイクがイマイチで、怖いと言うよりも苦笑してしまう感じで、それまでの映画の雰囲気を損なっていたように感じました。その点本作では、主人公アダムの体調不良が強調されておらず、畢竟アンドリュー・スコットも特殊メイクを施されることはありませんでした。原作未読のため、最終盤のシーンが大林版のオリジナルなのか、原作を忠実に再現したものなのかは分かりませんが、2本の映画を比較すると、この点においては明らかに本作の方が上々の出来栄えになっていました。 両者のラストシーンも異なっていましたが、これは両者とも味わいがありました。アダムも異人になってしまったのかしらと思わせる本作の締めくくりも良かったですが、個人的には”夏”=”お盆”=”あの世の人との邂逅”という日本ならではの雰囲気を醸し出していた大林版にやや軍配が上がりました。まあこの辺は、文化的、宗教的な基盤が異なる国で制作されたので、致し方のないところかなと感じたところです。 最後に役者ですが、主人公のアンドリュー・スコットは、イギリスBBCのドラマ「SHERLOCK シャーロック」で、ホームズの宿敵・モリアーティー教授を演じていました。その際の薄気味悪く、ねちっこくも、どこかお洒落な演技が余りにも印象的で、本作を観ていてもモリアーティーが演じているように観えてしまいました。同作がNHKで放映された際は、村治学が吹き替えを担当していましたが、本作の吹き替え版を創るとして、村治学の声だったら笑っちゃうなと、勝手に想像したところです。 そんな訳で、同じ原作を持つ2本の作品を連続して堪能することが出来ました。そんな本作の評価は★4とします。
アンドリュー・スコットで星一つおまけ
日本版は遠い昔に鑑賞記憶あり ラストのネタバレも知っていたことが鑑賞を少し妨げたかも シックスセンス的な伏線が無いかと見ていたので 都会で孤独に暮らす男が、子供の頃になくした両親に出会い、心を取り戻していく物語 いくつかのドラマなどで注目していたアンドリュー・スコットが期待通りの演技、そこは満足 だけど同性であろうと異性であろうと濃厚すぎるラブシーンがちょっとノイズになってしまう・・・ 監督的には必要だったのだろうけど
残念ながら…
いい話なのかなぁ〜… なによりも、愛情に飢えていたとはいえ何十年も一人で生きてきて、両親の幽霊に会ったらあんな風にいきなり甘えちゃうもんなんだろうか、ってのが一番飲み込めない。両親の気持ちも考えず、ゲイの恋人連れてってさ… そりゃあね、何十年もの愛情の空白を埋めて、自分のことを性的指向も含めて認めてほしい、って気持ちは分かるよ。でもさ、親なんて生きてたって分かり変えないことの方が多いんだと思うよ。そんなもんだよ、悪いけど… そういう甘ったれた感じが、どうしても理解できなかった。残念ながら…
2世帯マンション
ロンドンで独り暮らしをする脚本家の男が、12歳になる前に交通事故で亡くなった両親と再開するファンタジー…? オリジナルを知らずに観賞したけれど、情報後出しで進んでいくから、あらすじ紹介を読んでいないと、誰?夢?どういうこと?となる序盤。 そしてあらすじ紹介を読んだ情報だけで観賞したけれど、同性愛者にしてメンヘラな主人公の恋愛物語がメイン…というか殆どそればっか。 一応両親に言えなかった自分のこととか思いとかそんなものもあったけれど、自分の苦手なヤツだった。
孤独ゆえの幻
大林宣彦監督の《異人たちとの夏》は鑑賞済み。《異人たちとの夏》の主人公(風間杜夫)はアダムほど孤独ではなかったと思います。彼は中年になり、それなりに歩んできた人生に迷いが生じてきて《生》を渇望し生まれ変わりたいという思いがある故のあの話だったのかな?と思いました。
しかし、本作の主人公アダムは両親を亡くしてからずっと孤独で親しい関係になった人間がいないかのようでした。アダムが両親と再会するきっかけになった出来事は、はっきりと描かれていませんが、ハリーとの出会いだったことには間違いないと思います。アダムはゲイを悪として封印してきましたが、誰かに自分のアイデンティティを認めて貰いたかった。誰かを愛したかった。
アダムはハリーと恋愛をしていたのか、一夜限りの関係だったのか、それともただの同じアパートに住む住人だけだったのか。ハリーとの楽しいひとときも全てがアダムが孤独ゆえに見た幻だったとも取れます。
いずれにしてもアダムの人生に関わる人間が両親以外存在していなかったというそんな人生が切なかったです。大林作品は異人と主人公の関係性を強調してましたが、本作はアダムの孤独を異人が強調しているようで、なんだか悲しい余韻が残りました。ハリーもきっとアダムと同じで孤独だったのだと思います。
山田太一さんも異人になってしまいましたが、こうやって作品が愛され次世代に受け継がれていくこと、異人の思いや気配を感じるとることができるのが素晴らしいですし喜ばしかったです。
この映画は、心を癒すものではなく、心の闇に引き込まれた、病者の内的世界を描いている
日本版は知らないが、この映画は、郷愁的な色彩と性愛物語を、あの世との交錯で彩った物語と解釈したい人も多いだろう。
しかし、これは孤独ゆえに現実との接点を失い、精神病の世界に逃避し引き込まれた、精神病者の内的世界を描いた作品である。最後に、両親との別れで深い闇から脱しても、それは現実の他者との交流につながらず、依然として現実に存在しない相手とつながり、自己完結した病的世界が続いている。
本来は、他者と交わることで、現実世界の扉が開かれるはずだが、主人公は内的マスターベーションの世界にとどまり続け、精神病の闇から脱することを拒んでいる。
この映画は、一見、ノスタルジックで、男同士の性愛物語のように見えるが、そこには、現実に絶望し、内面世界の闇に溺れた、病的で孤独な精神病の世界が広がっている。
何かに"苛まれてきた"異人たちの奇妙な物語
今年観た映画の中で一番涙してしまった映画。
脚本家でゲイである主人公が自分の生まれ育った家に行くと、そこには何故か幼い頃に死んだはずの両親がいて、何十年か越しの会話を交わし、伝えることのできなかった思いを互いに伝えるという話。
また、主人公と同じマンションに住む謎の青年とも恋愛関係になり、そちらも同時並行で親睦を深めていくという寸法。
設定や疑問のすべてが回収されることはなかったが、家族で過ごすファミリーレストランのシーンは脳裏に焼きついて離れない。
何かに"苛まれてきた"この異人たちの奇妙な物語を映画館で鑑賞することができて、本当に良かった。
また鑑賞したいと思う名作。
ものすごく悲しいファンタジー
山田太一の原作や邦画版には触れずに本作を鑑賞しました。 アンドリュー・スコット演じる主人公アダムの何とも切なく悲しいファンタジー作品。 アダムの両親はどうやらアダムが12歳のときに事故で亡くなっているらしいのですが、 その割には両親は生きているじゃないか!?という見せ方。 でも、物語が進むに連れ、やはり亡くなっているのだということがわかります。 ただ、アダムが両親にゲイであることをカミングアウトし、受け入れてもらえるまでに相当の時間がかかったりと 亡くなった両親と過ごしながら、子どもの頃に突然訪れた別れ〜現在に至るまでの時間を 愛情で埋めていくような、そんな描き方をしています。 その両親との別れのシーン(ファンタジーですが)が実にグッときます。 そしてアダムの彼氏であるポール・メスカル演じるハリー。 すごく仲良くなってお互い欠かすことのできない存在になっていくな〜と思って観ていたら なんとハリーも亡くなっていたということがわかります。 それがわかっても、亡くなったハリーとのコミュニケーションがとれるアダムとの 最後のシーンが実に心に沁みます。 なんて悲しい・寂しい主人公なんだ!!と思いながらも、 実に心に沁み入る作品で、私は何とも言えない温かい気持ちになれました。 冒頭の夜景〜朝焼けになっていくシーンが実に美しいです。
親の願いはただ子どもが幸せであってくれること。
暗い。ただただ暗い。 主人公がゲイの設定になってるのはなるほど頷けるけど、まさかゲイのおじさんたちのセックス見せられるとは思ってなかった。 息子にゲイであることを告げられた時の母親の反応が正直なところなんだろうな。 相手が男でなく母親役のクレア・フォイみたいなきれいな女の人だったら、また面白かっただろう。 風間杜夫は華があったんだな。
山田太一さん原作の「日本版」との違いにとても戸惑いました。
ラストに“異人たちとの夏より“の字幕スーパーが出ました。 鑑賞後の気持ちに戸惑うばかりでした。 この映画を一言で言えば、 《ゲイに生まれた悩みを、死んだ両親に会って、カミングアウトして 慰めて貰う》 というのはちょっとキツイ言い方ですね。 ただ山田太一さんの、美しくも儚く、 《亡くなった両親との再び訪れる奇跡の邂逅を、 《至福の喜びと切なさで描いた「異人たちとの夏」》 …………この違い!! 「異人たち」は、アンドリュー・ヘイ監督の 実体験を色濃く滲ませた作品との事ですが、 そこにはホモセクシャルに生まれた男性の、 苦悩を描かれた作品でした。 例えば、日本映画の「エゴイスト」では、 鈴木亮平の役もゲイに生まれた自分の葛藤と父親への自責に 深く傷つき苦しむ役でしたが、 死んだ宮沢氷魚の母親にその愛を置き換えて、ありったけに尽くす、 その心根の美しさが胸を打ったのです。 アンドリュー・ヘイ監督には、 広い視野で自己を見つめる視点がもうほんの少し少し あっても良かった、 そんな気がしました。 私は女性ですし、ノーマルなセクシャリティの人間なので、 だからゲイに生まれた苦しみ、孤独、切なさ、寂しさに、対して 鈍感で思いやりが薄いのかも知れません。 まぁ正直に言えば、あまり若くも美しくもない男性2人の ラブシーンに、ちょっと引いてしまった、のも本心です。 大好きなジェミー・ベルも見せ場のない役で勿体なかったです。 お母さん役のクレア・フォイは息子のホモセクシャルを告白されて 戸惑う母親を等身大で演じて、良かったと思います。 オリジナルを知らずに見たほうが、 きっとこの映画の真価が分かるのでは・・・ と心から思いました。 追記 あるレビュアーの方より、ゲイであることへの理解が足りないのでは、 とのご指摘がありました。 山田太一さんは生前に本作品をご覧になって、 「温かく受け入れていただきました」との教えも頂きました。 ゲイの方への失礼を深くお詫びします。
余分な意味をもたせた結果、原作で意図されている「異界」を表現することが十分ではない。
大林宣彦の映画は未見。私が観たことのある山田太一原作の「異人たちの夏」は舞台である。2009年シアタークリエ。主役は椎名桔平だった。 まず、PROライターのレビューの中に「日本の夏の情緒が失われている」という内容の指摘があったがこれは的はずれ。そもそも原作小説自体が都市生活者の怪奇譚でありあまり日本的情緒は関係ない。原作の季節は確かに夏だが夏以外でもこの話は成立する。「父と暮せば」あたりと印象が混同されているのではないか。2009年舞台も都市的スタイルの現代劇のニュアンスであったと記憶している。 ロンドンに舞台を置き換えた本作の流れは自然であり原作をかなり忠実になぞっていると感じた。 ただ如何せん両親との出会いや、ハリーと愛し合うことに、アダムにとっての意味をもたせすぎていないか?日本公開にあたっての宣伝惹句は「現代人の孤独、家族の絆、そして全てを乗り越える愛」というものである。これはいくらなんでも酷いが、映画自体もかなりその方向に引っ張られている。つまり父母にしても、ハリーにしても、アダムの孤独を癒やすために登場していると役割が固定されているのである。 理由がよく分からないままに、異時間・異空間の者どもが生々しく現れる。この話は本来、そういった異界と接触してしまう男の物語である。本作では主人公が異人たちに愛着をもつ一方で同時に感じているであろう恐れや違和感といったものがうまく描けていない。異界がうまく表現できていないのである。 「違」は「異」に通じる。原作でのポイントの一つに両親の年齢がある。異人である彼らは30歳代である。12歳で両親をなくした主人公は今や48歳であり両親よりはるかに年上という奇妙な現象が起きている。映画では主役のアンドリュー・スコットの見た目が若すぎるためこの違和感が表現できていない。 また、原作では映画のハリーにあたる登場人物はケイという女性になるのだが、彼女は胸にケロイドがあり執拗に隠そうとする。ここに強烈な違和感があるのだが映画では全くカットされている。このためハリーは現界(うつつ)の人間として全く疑いもなく登場する。だから最後のシーンの意味が通らない。 映画としてはまあまあ良く出来てはいると思うけどね。
表現方法が違えば良かったのだが
原作:山田太一「異人たちとの夏(1987)」。同名日本映画1988年製作、英語題"The Discarnates"。今作の邦題「異人たち」、原題"All of Us Strangers"。
原作名では異人とは何か想像できない。でも映画の the discarnates だと霊的なもの示唆している。だから今作もR15+であるからホラー要素が多いと想像して鑑賞に行った。
しかし全く違った。
恐ろしく違った。
只々嫌悪感を強く感じるしかない違和感を感じた。
ネタバレあり
マンションに住む男性といわゆる LGBTQ+ のQとG のその単語が発せられ、そういった関係になる。しかも直接的な描写が、しかもとても長く何度も描写される。本来の映画の本質は別の所にあるのだが、メインの表現方法はこれである。「"R15+"ですからそれ以上の人は見てもいいです」、と言われても、私はこれに対する耐性はない。LGBTQ+の人たちを理解する事と、その行為を見せられる事はまるで違う。始めから知っていたらこの映画は決して見ない、見たくない。
前半では特に両親が他界しているとの描写も無く、実家に行き両親と再会した。設定が全く違うのか、あまり詳しく説明しないで話を進める手法なのか。
もっとネタバレ
主人公は幼い頃から自身がGであると認識していたが、その事でイジメにあっても父親に打ち明けられず両親は他界し、本人も中年になってしまった。過去に出来なかった事を今父親に理解してもらい、両親の愛を感じたかったのだと思う。マンションの男性との出会いで自身の心に蘇り、今回の話になったのだろうと思う。All of us 私たち皆が Strangers 異人たち。しかし両親だけで無く、マンションの男性もStranger。
トータルのストーリーは決して悪いとは思わないが、いかんせん強すぎるGの描写は受け入れ難い。
思い出の回収。
12歳になる前に両親を交通事故で亡くした脚本家でゲイな40歳アダムの話。
子供の頃の思い出の物を自宅部屋の奥から取り出し…、両親と過ごした家を思い出す、その地へ足を運び当時住んでた家に行くと12歳前の頃の記憶のままの両親が家に…、同時期に同じマンションに住む同じく同性が好きなハリーと出会い幸せな日々だと思ったが…。
不慮の事故で大事な家族を亡くすって悲しいけど現実でもありで、そんな時残された方の思い、気持ちって悪い夢であってほしい、寝て起きたら本人は生きているんではないかと都合よく考えてしまったりと…、本作はそんな11歳の頃に両親を亡くしたアダムが両親と再会できる素敵な話。
11歳で止まってしまった両親との思い出、空白29年分の思い出は作れないけれど、過去にあった話から最近の近況話で過ごす時間は何か素敵で、観てて自然と涙が込み上げてきた。
ハリーを両親に会わせようと連れてった真っ暗な家のシーンはちょっと怖かったかな(笑)
短い期間だったけど家族で過ごすシーンはとても素敵でした。
【大都会の中で孤独で深い喪失感を抱え生きる男。だが、男を深く愛した”モノ”達は時を超え男に生きる目的を与えるのである。今作は、人が心の片隅に抱える孤独感、喪失感を静的トーンで描いた映画でもある。】
ー アダム(アンドリュー・スコット)は12歳の時に両親を路面凍結による交通事故で亡くして以来、深い喪失感と孤独を抱えながらロンドンのマンションで映画脚本家として暮らしている。
ある日、アダムは幼少期に過ごした且つての実家で、30年前に他界した両親(父:ジェイミー・ベル、母:クレアフォイ)と再会する。
それ以降、足しげく実家に通うようになったアダムは、平行して同じマンションで出会った男、ハリー(ポール・メスカル)と親密な関係を深めて行く。ー
◆感想
・オリジナルから改編した幾つかの部分で、上手いな、と思ったのはアダムを同性愛者に設定した点であると思う。
ー 母から、””良い人は居ないの?”と尋ねられ、”僕は女性を愛せないんだ。”と答えると驚く母。
年代的なモノであろうが、母は心配の余り色々と聞いてくるが、アダムは”大丈夫だよ。そんな時代じゃない”と答えるのである。HIVによる性感染を心配する母。両親が生きた時代と現在との対比を上手く描いている。-
・両親と会ううちにアダムの幼少期が明らかになる過程の描き方。
学校で苛められていても両親に言えなかった事が、大人になったアダムは父親に言えるのである。
そして、父親は”それはひどいな。”と呟き困った顔をするのである。
ー アダムと両親の30年間の空白が、会話を通じて徐々に埋められて行くのである。ー
■アダムと両親の最後のレストランでの食事シーンは可なり沁みる。アダムはレストランでファミリーセットを頼むが、両親は徐々に彼の事が見えなくなって来る。
手を差し出した母の手を握るアダムの表情が切ない。
・ハリーの存在も重要である。
”このマンションに住んでいるのは僕達二人だけみたいだよ。”と言いながらアダムとハリーは親密になって行く。
ー だが、ある日、アダムはハリーは既に死んでいる事を知る。それを察したハリーは”あんな姿は見せたくなかったな・・。”と呟く。
つまりは、アダムはマンションにたった一人で暮らしていたのだ。だが、ハリーはそんなアダムと、親密になり、自身を大切にしてくれたアダムを大切にするのである。-
<今作の原題は「オール・オブ・アス・ストレンジャーズ」である。
アダムを含め、自分の生きる世界にどこか違和感を覚えている全ての人間が異人と言う意味であろうか。
今作は、男が心の片隅に抱える孤独感、喪失感を、男を深く愛した”モノ”達が静的トーンで癒し、生きる目的を与える様を描いた映画なのである。>
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