「映画「異人たち」のネタバレ考察・映画感想文」異人たち 稲浦悠馬 いなうらゆうまさんの映画レビュー(感想・評価)
映画「異人たち」のネタバレ考察・映画感想文
・物語
とある男がいる。名前はアダム。
彼に対してある日、別の男が部屋まで来て誘いをかける。名前はハリー。
ハリーは「一緒に君の部屋で過ごさないか」とアダムを誘うがアダムはそれを断る。
だがまた再会の機会があり、アダムとハリーはだんだんと近づき恋人同士になるのだった。
これはまた別の話だが、アダムはとある夫妻を訪ねる。アダムと同年齢ぐらいの夫婦だ。
アダムを見て夫妻は「あの子だ!」と言う。一体どういうことだろうか。
アダムとハリーの件があった後だけに、もしかしてこの夫妻の夫もしくは妻の方がアダムとロマンス的な関係を持つのではないかと思わせるのだが、そうなりそうな雰囲気だけを漂わせて、実際にはそうはならない。
話を聞くうちに段々とアダムはこの夫妻の子供であるということが明らかになる。見かけ的には夫妻はアダムと同じ年齢ぐらきに見えたのですぐには分からなかった。最初は昔近くに住んでいた近所の人かと思った。だが親と子だった。
アダムは自分が芸であることを母と父に打ち明ける。母はそれに戸惑いを隠せずに偏見の言葉を投げつける。父は最後にはアダムを受け入れて、子に対しての過去のおこないも懺悔する。
アダムは自分がゲイであることによってか、子供の頃から周りにいじめを受け、まだその激しい痛みがトラウマとして残っているのだった。それに対してアダムの父は見てみぬふりを決め込んでしまった。その昔からのわだかまりについて父子で話し合い、ある部分、融解する。
こうしてアダムと父母は久しぶりに再会した。なぜ離れ離れになってしまったかの真相は明らかでない。何らかの事情があったようだ。
そしてアダムはその日、父と母と同じベットで眠る。だが同時に悲しい夢を見る。いつの間にか隣には恋人のハリーがおり、だが逆側を振り向くと隣にいたはずの母はいない。そしてまた振り向くとハリーがいない。
唐突に大事なものが失われ、この世界でひとりぼっちになるような悪夢から目覚める。一体何が現実で何が夢なのだろう。アダムが訪ねた父母の記憶はどこまでが現実だったのだろうか。
アダムは現実の世界でハリーと一緒に父母の家を訪ねる。だがそこには誰もいない。ドアを激しく打ち付ける。だがそれもまたアダムの見た夢であり、アダムは何度も現実に目覚めて行く。
そしてアダムは気づく。彼の父母は彼が幼い頃に既に交通事故で亡くなっていることを。アダムは自分の幻覚の中で父母と再会し、打ち解けあったのだった。彼と彼の両親が同じぐらいの年齢に見えたのも納得が行く。彼は彼が幼い頃の、若い頃の両親と幻覚の中で再会していたのだ。
さらにだ。彼が恋人であるハリーの部屋を訪ねると、彼はおそらく薬物の過剰摂取で死んでいた。いたたまれない。打撃の後に打撃。なんて救われない物語だろうか。
実は彼はハリーと恋人にさえなっていない。ハリーが孤独感に耐えきれずアダムの部屋の前を訪れた後、ハリーは自ら命を絶ったのだった。それもアダムが彼の誘いを断ったがために。
唯一の救いの綱であるはずのハリーとの関係でさえ壊れた。というよりも本当は始まってさえいなかった。
彼ら二人はまた夢の中で抱き合い、そのまま光の中に吸い込まれ、夜空の星と同化するのだった。
・感想
このように非常に悲しい物語だった。
誰でもいちどは夜に目が覚めて、本当に愛すべきものを失ってしまったような、そんな孤独でたまらない気持ちを味わったことがあるんじゃないだろうか。これはそんな感覚を描いた映画だと思う。
「ボーはおそれている」のようにせん妄が起き続け、どこまでが夢で現実が分からない。
エンドクレジットを観ると原作が日本の小説で驚いた。しかも調べたところかなり古そうな小説だ。これはぜひ読んでみたい。
・久しぶりの映画館
しばらく毎日のように映画館に通っていたが、ここ1週間ほどは行けていなかった。1週間ぶりでも自分にとっては久しぶりだ。
こうして久々に映画館に来るとやっぱり良い。毎日通い詰めだと良さが見えなくなりがちだけれど、映画館というものの良さを再確認した。
映画そのものの内容も大事だけれど、それ以上に「映画館で過ごす」という体験自体が好きだ。仕事が終わってただ家に帰るのではなく、映画館に寄れば、もうひとつ人生を生きることができる。
アマプラとか配信で映画を観るのも決して悪くはないのだが、あの映画館の大きなスクリーンが恋しくなる。あとは部屋で完全に一人でいるのは孤独だ。それよりも公共の場所であるシアターの方が良い。「文化的な営みをしている」という感じがする。
たぶん映画鑑賞によって情緒だって育まれる気がする。映画鑑賞をしないと情緒が育まれない。つまり僕から映画館を取り去ったらもう非人間である。
人間性よ。