「余分な意味をもたせた結果、原作で意図されている「異界」を表現することが十分ではない。」異人たち あんちゃんさんの映画レビュー(感想・評価)
余分な意味をもたせた結果、原作で意図されている「異界」を表現することが十分ではない。
大林宣彦の映画は未見。私が観たことのある山田太一原作の「異人たちの夏」は舞台である。2009年シアタークリエ。主役は椎名桔平だった。
まず、PROライターのレビューの中に「日本の夏の情緒が失われている」という内容の指摘があったがこれは的はずれ。そもそも原作小説自体が都市生活者の怪奇譚でありあまり日本的情緒は関係ない。原作の季節は確かに夏だが夏以外でもこの話は成立する。「父と暮せば」あたりと印象が混同されているのではないか。2009年舞台も都市的スタイルの現代劇のニュアンスであったと記憶している。
ロンドンに舞台を置き換えた本作の流れは自然であり原作をかなり忠実になぞっていると感じた。
ただ如何せん両親との出会いや、ハリーと愛し合うことに、アダムにとっての意味をもたせすぎていないか?日本公開にあたっての宣伝惹句は「現代人の孤独、家族の絆、そして全てを乗り越える愛」というものである。これはいくらなんでも酷いが、映画自体もかなりその方向に引っ張られている。つまり父母にしても、ハリーにしても、アダムの孤独を癒やすために登場していると役割が固定されているのである。
理由がよく分からないままに、異時間・異空間の者どもが生々しく現れる。この話は本来、そういった異界と接触してしまう男の物語である。本作では主人公が異人たちに愛着をもつ一方で同時に感じているであろう恐れや違和感といったものがうまく描けていない。異界がうまく表現できていないのである。
「違」は「異」に通じる。原作でのポイントの一つに両親の年齢がある。異人である彼らは30歳代である。12歳で両親をなくした主人公は今や48歳であり両親よりはるかに年上という奇妙な現象が起きている。映画では主役のアンドリュー・スコットの見た目が若すぎるためこの違和感が表現できていない。
また、原作では映画のハリーにあたる登場人物はケイという女性になるのだが、彼女は胸にケロイドがあり執拗に隠そうとする。ここに強烈な違和感があるのだが映画では全くカットされている。このためハリーは現界(うつつ)の人間として全く疑いもなく登場する。だから最後のシーンの意味が通らない。
映画としてはまあまあ良く出来てはいると思うけどね。
あんちゃんさん、コメントありがとうございました。電車での移動がパートの切り替えに使用されているのですが、それにより両親が復活したのか自身がタイムスリップしたのか曖昧になりました。
当方のレビュータイトルはもちろんご指摘の映画の引用ですが、列車を利用してうまく行っていなかった、LGBTQを打ち明けなければならない両親の住む異界に旅することの重さを表してみました。