異人たちのレビュー・感想・評価
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クィアの言葉を巡る見解の違い
主人公とその恋人の間にある、ゲイやクィアという言葉の解釈の違いを描いているのがとても興味深い。性的マイノリティは画一的ではないという当たり前のことがさらっと描かれている。クィアという言葉はかつては蔑称だったわけだが、あえてその蔑称を戦略的に用いることで権利獲得運動を展開した結果、現在では肯定的な意味合いで使われることが多くなっている。ただのおしゃれでファッショナブルな言葉として消費されていいものではない、という考えがここには表れているように思う。 本作が死んだ両親との対話を中心にしているため、映画はこうした世代間の意識差が浮き彫りになる構成になっている。そして、世代で考えも意識も違って、死者と生者であってもつながりは作れることを感動的に描いている。 後半、孤独死に対しても想いを馳せる内容があるのだが、イギリスで孤独死というと「おみおくりの作法」という映画を思い出す。孤独死した人の葬儀を行う仕事をしている男を描く作品だが、人とのつながりを回復させる物語として結構共通点がある。
4人の演者たちが奏でる温もりのアンサンブルに酔いしれる
実によくできた翻案である。山田太一の生んだ原作小説の本質が、英国の風景、文化、人々の物語として再構築されることで、より明確な光の筋となって我々の心に差し込んでくる。改めて気づかされる本作の魅力は、境界線のなさだ。ロンドン市街地から電車に揺られ、近郊の住宅街に建つ生家を訪れると、死んだはずの両親が「さあ、入りなよ」と出迎えてくれる。主人公もまた、いっさい驚きや躊躇いの表情を浮かべることなく、そこにスッと入り込んでいくーーー。亡くなって30年以上経つ両親と、かくも大人どうしの姿で再会し、掛け替えのない親友のように過ごすこのひととき。かつて口にできなかったこと、その時の胸の内を吐露しあう演者たちのアンサンブルが素晴らしく、セクシュアリティというテーマの絡め方も秀逸。無駄な要素を削ぎ落とした美しい映像、シンプルな移動、舞台設定、語り口が、忘れがたく温もりに満ちた幻想譚を見事な感度で成立させている。
孤立する主人公に訪れる衝撃的な幕切れ
山田太一の原作を大林宣彦監督が映画化した『異人たちとの夏』を、クィア映画の傑作『WEEKEND ウィークエンド』で知られるアンドリュー・ヘイがリメイク。すると、オリジナルの味わいがどう変化しているのか? 期待を胸に鑑賞した本作には、子供の頃に死別した両親との再会によって主人公が体験する、過ぎ去った時間への思い、できなかった告白、やがて訪れる、人は皆"異人"なのだという冷めた結論、等々、大林作品と共通する部分とそうではない部分が上手く配分されていた。 最も大きなアレンジは、主人公のアダムをロンドン郊外に住むゲイの脚本家に置き換えたこと。同世代(40代)の男たちの多くがさらに郊外に戸建住宅を構えて家族と暮らしているのに対して、アダムは高層マンションの1室で誰とも交わらずに暮らしている。隣人でゲイの青年、ハリー以外は。そうやって主人公の孤立感を意図的に際立たせることによって、密閉された空間と時間の中で起きるスピリチュアルな物語が微妙なリアリティを帯びてくるのだ。孤立、死、セクシュアリティ、ストレンジャーというワードが一つになるラストで、筆者は涙を堪えるのに苦労した。 愛した人はすでに側にいず、気がつくと、誰も真剣に愛せなくなった男に訪れる衝撃的な幕切れに、あなたは何を感じるだろうか?
題から“夏”が消え、日本的情感も失われた
2023年11月に死去した脚本家・山田太一が1987年に発表した長編小説「異人たちとの夏」の2度目の映画化。英訳された小説を読んだ英国人監督アンソニー・ミンゲラ(「イングリッシュ・ペイシェント」「コールド マウンテン」など)が映画化に動いたのが企画の始まりで、ミンゲラ監督が2008年に亡くなり紆余曲折を経て、同じく英国人のアンドリュー・ヘイ監督(「荒野にて」「さざなみ」)で映画化が実現した。米国の映画祭での初上映は昨年8月、完成した本作を生前の山田氏も観て、「温かく受け入れていただけた」とヘイ監督がインタビューで振り返っていた。 なお最初の映画化は、1988年の大林宣彦監督作「異人たちとの夏」。都会のマンションで一人暮らすシナリオライター業の主人公・原田(風間杜夫)が、生まれ育った浅草を訪れ、12歳の時に死別したはずの両親(片岡鶴太郎、秋吉久美子)とひと夏を過ごす。古い木造アパートの畳の間で、蒸し暑く汗ばむ午後、上着を脱いでランニングシャツ姿になり、ちゃぶ台を囲んで母が作ったアイスクリームを食べる。郷愁を誘う戦後昭和の家族の情景に、亡くなった先祖が数日間帰ってくるというお盆の言い伝えもファンタジックな物語要素に重ねられている。 一方でヘイ監督版の邦題は「異人たち」。舞台を現代のイギリスに移したことで、ノスタルジックな感興も今の英国人が1990年代頃の郊外に抱くそれに置き換えられている。題から夏が消えたように、蒸し暑い夏も、畳の部屋で過ごす下着姿の家族も当然のように描かれず、なんだか日本らしい情感が失われてしまったようでさびしくもある。 主人公と同じマンションの住人で、やがて深い仲になる相手が、女性から男性へ変更されたのも重要な改変点だ。ゲイを公表しているヘイ監督は、自身の体験を脚本に反映させた(シーンの一部は実際に幼少期を過ごした家で撮影されたという)。主人公アダム役に起用したアンドリュー・スコットもゲイをカミングアウトしている。昭和日本の郷愁が失われた代わりに、多様性とインクルーシヴといった現代的な要素が加わり、欧米での高評価につながっているようだ。 なお、大林監督版ではラスト近くに唐突なホラー転調があり、賛否が割れている。2019年の東京国際映画祭で上映された際の舞台あいさつで、長女の大林千茱萸(ちぐみ)が「最初に松竹から話をもらったのは(夏に観客をぞっとさせる)ゾンビ映画だった」と明かしていた。その後、山田太一の原作を市川森一の脚本で映画化することに決まったが、初期のホラー構想の名残りであの終盤になったのだそう。「異人たち」のプレス資料の中で、山田太一の長男で撮影監督の石坂拓郎と次女の長谷川佐江子がインタビューに応じ、父の執筆時の思い出や再映画化への経緯を語っているのだが、大林監督作についてまったく言及していない点が興味深い。大林監督・市川脚本の改変が山田家では不評だったのだろうか。
原作を知らずに出会いたかった
同性愛者である事を両親にも隠して暮らして来た男が、亡くなった筈の両親とふとした事で出会う物語です。山田太一さん原作で大林亘彦監督で映画化された『異人たちとの夏』のイギリス・リメイク作です。 物語の骨格は相似形なのですが、『異人たちとの夏』とは全く別の映画と考えるべき作品でした。本作では「自分のsexuality を認めて欲しかった」という、原作にはない監督自身の思いが物語を貫いており、それが切なく共鳴しました。僕は、ウェットでノスタルジックな大林作の方が好きなので、それだけに、前作を知らずに本作と出会いたかったな。もっと深く心に刺さったに違いありません。
ひとりは寂しい
とても不思議で切ない。優しくて温かいけど、ビター。 人生の中での後悔や苦しみを手放し、欲しかったものを少しだけもらえて、自分に向き合うことができたアダム。でも結局、救いはなかったように私は思いました。 詩的で美しくも残酷な物語。ひとりは寂しい。
ん~~!不思議な世界観。
なんとなく、見た映画。良かったのか!? よくわからない。 映像は美しい。山田太一さんの映画は見てません。 俳優さん、4人だけ!? 皆さん素敵。むつかしい設定を身近に感じさせて感動しました。 映像でしか表せないことやってくれたなあ 、という印象。 ただ全編に漂う、孤独、には反論あり。やはり経験してないことは受け入れられないのか。それでも、私はひとりとはおもえなくて。 若いときの両親に今会えたらいいなあ。いっぱい言ってないこと、聞いてないことあるから。 あ~やっぱり良い映画でした。
オリジナルは未見
私は男性で女性が大好きです。ゲイの監督が、原作に無いゲイ描写をテーマにして作り変えたけど事前にその事を知らなかったので、男同士の絡みのシーンはあまり見ていて楽しくはなかったです。エゴイストは予告編で男同士の絡みのシーンがあったので回避できました。評判は良い映画ですが、見るのは躊躇してしまいます。女の子の方がつるつるして小さくて可愛いじゃん?
ゲイ御用達のペットショップボーイズとか楽曲リラックスとか( 他にもあったかな?)流れていてどこを取ってもゲイの為の映画でしたね。
幼くして両親を亡くした主人公の脚本家の唯一の相談相手が両親の幽霊で、仕事の合間に何度も何度も両親と共に住んでいた廃家に電車で向かう時の何とも言えない表情が切ない。幽霊でもいいから会って話しをしたい人っているよね。
そして若い彼氏から、その両親に会いに行く事を咎められるんだけど両親を取るか、彼氏を取るかの選択を迫られるんだけど選べないでしょう?そんな事言われても。
何だかんだあって、ある日突然両親に会う事が出来なくなって彼氏を選ぶ人生を歩む事になる訳だけど、何となく彼氏の住んでいる部屋に行くと...、そこには彼氏の死体があって...、実は彼氏は既に死んでいて主人公が愛した人はまたしても幽霊だったという救いようの無い悲惨な話しなんだけど、ここで主人公はそれでも彼氏を愛し続けると言って終わる。ここで流れる曲がいい曲で歌詞も良かった筈なんだけど忘れちまったよ。( フランキーゴーズトゥハリウッドのパワーオブラブでした。モアイさんありがとうございます。)
このラストシーンで分かった事は、この作品でゲイをテーマにしたのは大正解だという事だ。男女の恋愛だったらここまで切ないシーンにはならなかった筈です。ゲイは身を助く。この言葉で締めさせて頂きます。ご清聴ありがとうございました。
人間の時間と通常の時間
オリジナルの「異人たちの夏」ははるか昔に観た。こんな話だった? タワーマンションにたったのふたりしか住んでいない。 この設定自体が奇妙な空間の出来事。 それも幼くして両親を交通事故で失ってひとりぼっち。 タワーマンションのもうひとりの同性愛者の愛人も、なぜか死の匂いがする。 「荒野にて」のアンドリュー・ヘイ監督だからこそ、この広漠とした世界観が描けるのかもしれない。 時間には、人間の時間と通常の時間が流れている。 通常の時間には生と死があるが、人間の時間は永遠だ。 両親も愛人も、人間の時間で永遠に生き続ける。そこが切々と描かれている作品。
期待外れでした。
大林監督の「異人たちとの夏」を映画館で観た者としては、少々期待外れの作品でした。 片岡鶴太郎さんと秋吉久美子さんの暖かな夫婦が心に残っています。 本編でも亡くなった両親に大人になってから出会うことで、少しづつ心が解けてゆくアダム。 しかし、その先にゲイ(この映画ではクァイ)のカミングアウトがあるとは。 心温まる映画を期待したのですが、テーマから違ってました。
パーソナルな思いが込められるも、夏が失われ…
山田太一原作×大林宣彦監督の1988年作『異人たちとの夏』。
山田太一にとって自分を重ねた特別の作品であり、大林監督の名作の一つ。
情緒と郷愁。ちょっぴりのホラー。心鷲掴みにされるほど感じる日本の夏。
キャストの名演も含め、絶品。大林監督の作品の中でも特に好きな一本。
気鋭アンドリュー・ヘイのメガホンで、英リメイク。
基本設定は概ね踏襲。
マンションで暮らすシナリオライター。幼い頃に両親を事故で亡くし、孤独の身。
ある時途中下車した下町で…ではなく、幼い頃住んでいた家へ。そこで死んだ筈の両親と再会し…。
オリジナルでもそうだが、両親は大人になった自分をそのまま迎え入れてくれる。久し振りに実家に帰ったかのように。
こういうタイムスリップものでは不思議な設定だが、それが堪らなく魅力でもある。
失われた時が失われていなかったら…?
長かった空白の時間を埋めるかのように、幾度も幾度も通う。
大人になっても子供にとっては親。親にとっては子供。
短い共に過ごした思い出、孤独だった悲しみ、今の悩み、再会出来た幸せ…。
語り、思いを打ち明けるも、その日々は永遠ではなかった…。
日本から英ロンドンに舞台変更になっても、この儚さは日英共通。いや、万国に通じるだろう。
しかし作品はオリジナル忠実ではない。その他の設定がかなり大胆脚色されている。
まず大きな違いは、主人公アダムの同性愛設定。
オリジナルでは、風間杜夫演じる主人公が同じマンションに住む名取裕子演じる女性と惹かれ合うが、本作ではバリーという男性に。
バリーからのアプローチを当初は躊躇していたが、やがて受け入れる。
両親との再会、バリーとの愛。孤独だった日々から一転、愛する人たちとの蜜月に満ち足りた幸せを感じていたが…。
オリジナルの名取裕子の強烈インパクトほどではないにせよ、バリーにもある秘密が…。
一応は設定を踏襲しているが…、そもそも何故に同性愛設定…?
バリーと愛を育むが、母親は動揺。父親は幼い頃から薄々感づいていた。
同性愛の主人公が両親に打ち明け…な同性愛題材のドラマみたいで、ここだけちょっと趣旨が変わっているような…?
監督アンドリュー・ヘイが自身を投影。
監督も同性愛者。まだ同性愛が寛容ではなかった1980年代。その時代に成長した同性愛男性。悩みや両親との関係…。
原作者の山田太一も主人公に自分を重ねた。
自身と自身の過去に向き合う。趣旨は違うが、共通するものはある。
それは原作者にも響いた。山田太一は新たな視点に納得し、本作の公開のメドが付いてから亡くなったという。
昨今の日本のTVドラマ界のようなオリジナルへのリスペクト皆無の悪質な改変だったら問題だが、そういった思いが込められ、原作者も納得したなら問題ナシ。
アンドリュー・ヘイのパーソナルな思いを込めた演出。
アンドリュー・スコット、ポール・メスカル、ジェイミー・ベル、クレア・フォイの複雑繊細な演技。
映像も美しい。
だけど個人的に残念な点が。
やはりオリジナルのお盆という日本の夏の雰囲気は特別だった。それが作品を格別なものにしていたと断言してもいい。
本作でも監督が幼少時に住んでいた家を使用したり、おそらくイギリス人が見ればノスタルジーかきむしられる場所や描写もあるのだろう。イギリス舞台でこんな事言うのは野暮だと分かっているが、それでもやはり、
作品を思うだけでこみ上げてくる。堪らないほどの郷愁。下町の雰囲気。両親との思い出。何処からかひぐらしの鳴き声も聞こえる。儚さと共に、夏も終わり…。
この日本特有の味や旨味が損なわれていたのが残念だった。
本作も秀作レベルで悪くなかったが、どーかしてもいいくらい心惹かれるオリジナルには及ばなかった。
主人公のセクシャリティ故に際立つ誰もが抱える孤独
大林宣彦監督が好きで映画「異人たちとの夏」好きだったんです。でも、物語の意味はわかってなかった。この作品の奥底に大林宣彦監督の頃からあったテーマにやっと気付けたのは、この主人公がゲイとなってリメイクされた「異人たち」でした。
主人公がゲイになった事をポリコレ改変に辟易してる人は腹を立てるかも知れないけど、俺はこの作品ではテーマを伝えるための効果的な脚色演出と思えます。
何故なら主人公とその出会った男は互いに好意を持った男性同性愛者同士であるのに、自称するセクシャリティが「ゲイ」と「クィア」で違うからです。男同士で好意があって同じ属性でも違う個性の他人なのだと、それは主人公を間違いなく愛してる両親でさえも受け入れられず時に傷付け合ってしまう他人なのだと思い知らされるからです。
どんなに愛していても好き合ってもどうせ傷付けあってしまう他人だと言う事を、主人公が男性同性愛者であるが故に男と女は違うからなんて言い訳も出来ずに思い知らされました。
そして映画を最後まで観て思ったのはどうせ人はみんな独りだし孤独は付いて回るけど、なら自分の孤独や寂しさに過去のトラウマを乗り越えたり生き残った自分を他人と繋がりにどう生かし生きていくのかが、誰かと迎えるハッピーエンドじゃなくても自分が誰かを愛する事が出来るハッピーコンティニューなんじゃないかと思える終わり方でした。
エンディング曲の和訳つけて欲しかったな〜
The power of love あの曲がこの映画で主人公が何を経てどこへ向かったかわかる気がする
誰かを愛する気持ちには
天から授かった不思議な力が宿っていて
この魂の犯した罪をきれいに洗い流してくれる
それは何かを強く求める気持ちが燃え上がったもの
その激しい炎で
余計なものを拭い去り,人間を清めてくれる
だから他のものに惑わされず
「愛すること」を目印に
人生を歩んでいけばいい
フードを被った悪者から守り
吸血鬼も近づけないようにする
追い詰められてしまった時も
心配しなくていい
すぐにそこに駆けつけて
何があっても味方になるから
妬みの気持ちを持ってしまうと,結局傷つくことになる
だからそんなものに囚われず
光の輝き,咲き誇る花,真珠や美しい少女のように
見るだけで人を幸せにしてくれる,そういう人間になればいい
誰かを愛するその気持ちが
まるでエネルギーのように
今も身体へ流れ込んでくる
誰かを愛する気持ちには
天から授かった不思議な力が宿っていて
この魂の犯した罪をきれいに洗い流してくれる
それは何かを強く求める気持ちが燃え上がったもの
その激しい炎で
余計なものを拭い去り,人間を清めてくれる
だから他のものに惑わされず
「愛すること」を目印に
人生を歩んでいけばいい
これから2人で胸を張れる人間になろう
固く抱き合った恋人達は
誰にも手出しできない神聖なもの
誰かを愛すると
傷つくこともあるけれど,同時に喜びももたらしてくれる
その気持ちは純粋なもの
この世で大切なのはこれだけだ
本当に大切に思ってる
だから他のものに惑わされず
「愛すること」を目印に
人生を歩んでいけばいい
クレア・フォイさまさま
クレア・フォイのナチュラルな芝居は、 その多彩さと深みで観客を圧倒する。 冷静な女王陛下を演じるときの寡黙さ、 ひとこと多い世話焼きオカンの親しみやすさまで、 目のやり場、小さなしぐさ、一挙手一投足、 彼女の演技はどの役でも自然で真に迫るものである。 そのオールラウンダーぶりだけでも十分に楽しめる本作は、 異人とオカンの行ったり来たりを、存分に堪能できる作品である。 ちがう言い方をすれば、 クレア・フォイのブリッジの説得力が無ければラストも、 作品全体も成立していたか、、、 怪しい。 本作はフェリーニや黒澤のような世界中の巨匠が晩年に手掛ける、 子供時代の思い出と夢が交差するような作品に似た趣がある。 当時は、まさか山田太一まで! そんな思いで鑑賞した記憶がある。 更に本作は、クィア作品としての一面も持っている。 自分に起こっている目の前の事を一歩引いて見ることで、 新たな視点を得ることができる。 更に10歩、100歩、一年、十年、二十年引いて、 その中で見えてくるものは、、、、 星の位置からなら、 他者の視線を恐れずに進む勇気も与えてくれる。 FGTH懐かしい
少し混乱したけど感動した
この映画は寓話的というか、作品中の「現実」と「空想」との境目がよくわからないようになっているので、最後の方でちょっと混乱した。というか展開するだろうと思っていた物語が「え、そこで終わる?何が起きた?」みたいなモヤモヤが残るけど、振り返って考えると、たぶん見ている間に感じる印象こそが映画の伝えたかったことなのだろう(と思うしかない笑)。 どんな印象を受けたかというと、孤独感とか、それが癒されるとか、親子関係での悲しみとか、救いとか、内省とか、色々あった。親子関係の部分は非常によくわかったというか、実際の親子関係はどうにもならないんだけど、自分がどう向き合って受け止めるかが大事だなと感じた。自分の親も亡くなっているので、見ていて泣いてしまった。 空想的な要素が強いのでボンヤリ見ることをオススメする(笑)。
思ったよりもずっとよかったですが、ラストがちょっと…
山田太一の小説が原作。かつて日本で映画化もされた作品の再映画化です。
山田太一は戦後の平凡な日本人の心情、有り様をあまりにも正確に捉え、描写する、稀代の作家であったため、山田太一作品を本当に理解し、楽しめるのは、山田太一と同じ昭和・平成を生きた日本人だけだと思っています。もちろん山田太一作品には普遍的なものも確かに存在し、時代が変わっても変わらぬ人の有り様をその作品に見つけることはできると思うのですが、それでもやはり日本人でなければ分からないと思うのです。
とまぁ少し排他的な考え方かもしれませんが、これはもう日本人の特権だと思っていますので、今回イギリスで再映画化と聞いた時から期待はしていませんでした。(たとえ日本での再映画化であっても彼の域に達している作家はいないと思うので、やはり期待できないのですが)
とはいえ、U-NEXTの未使用分ポイント期限が迫っているし、やっぱり気になってはいましたので、それならもう見に行こうというセコイ理由から劇場へ足を運んだのです。
結果、元々期待していなかったせいもあり、思いのほかよかったです。
同性愛者として人を愛する事に対する恐れ、SEXが死のリスクを伴うという恐怖、時代は変わり同性愛者への世間の風当たりも変わったし、それを理解しようとはするが、過去のトラウマからどうしても抜けられないという切実さ。
そしてそんな自身の性的指向によりイジメにあい、自室で泣く息子に気づいていながら見て見ぬフリをしてしまった父親の告白。
私自身は異性愛者ですがこれらは何とも胸に迫るものがあります。
そしてこの映画で印象深いのは、家族揃ってクリスマスツリーの飾り付けをするシーンです。ここで主人公の母親がテレビ?から流れてくるペットショップボーイズの[オールウェイズオンマイマインド]に合わせて唄いだし、それがそのまま息子へのメッセージになっているという演出。個人的にはこういうの大好きです。映画のために書き下ろされた曲ではなく既存の曲を使うっていうのがいいんですよね。
自分の様に何も創作できない人間は既存の創作物を引用する事ぐらいしか表現方法がありませんが、そういう表現をプロも用いるというのが嬉しいのかもしれません。
山田太一作品では他に「岸辺のアルバム」で自分の家族の内情がボロボロである事を知った国広富之が、半狂乱気味に「とてもがまんができなかったよ」と[函館の女]を唄いながら帰ってくるシーンも印象的でした。
これらは本来の歌詞の意味からは少しズレたシチュエーションで唄われるのですが、それでもちゃんとマッチしているのがいいのです。
もう一つの印象的なシーンは、両親と三人でレストランへ食事に行くシーン。これは大林宣彦版にもある鉄板シーンですが、やっぱりいいんです。
何かを成し遂げただとか、成功したとかでなく、ただ無事に大人になって生きているってだけで、親は子供のことを何より誇りに思ってくれるという限りない愛情。本当に世の親達は全員そうであって欲しい!
子供を持つことは愚か、誰かと家庭を築く可能性もほぼついえた私の様な子供を持つ、私の親もきっとまた、ただ生きているだけの私でも誇りに思ってくれている!と、そう思いたい!!(確認する勇気はありませんが)
と、舞台がイギリスになった時点で既に、日本人観客にとっては大林版をこえることはないと思っていた映画ですが、思いのほか見入ってしまう場面がありました。
ただ、だからこそラストはいただけません。元の作品では主人公は異人たちとの交流を経て生きるということに向き合う決意をします。ところが今回の映画のラストから自分が受けた印象は、生きるという事に背を向けた主人公が異人と旅立つというものでした。
このラストは制作者の一番リアリティのある心情なのかも知れませんが、これではレストランで両親が『ただ生きているだけで誇らしい』と言ってくれた言葉がまるっきり無意味になるじゃないですか!?そりゃ時に親の言葉って人生の枷になりますけど、これ程子供に都合のいい、ありがたい言葉がありますか?そういう人からもらった言葉を無碍にする人はそりゃ孤独になりますって!そのことに同性愛者・異性愛者なんて関係ありませんよ!
「恥じて生きるより熱く死ね!」ってのは[男たちの挽歌]のキャチコピーですが、孤独に寂しく生きるぐらいならようやく見つけた愛を抱きしめて不寛容な世間から離れる方が幸せ!っていうのも映画のオチとしてありだと思います。ただね、曲がりなりにも山田太一作品でそれやって欲しくないんですよ。
確かに山田太一作品にも悲劇的な結末はあります。目の前に横たわる問題に対して無力感だけが残る物語もあります。ほんの少し身をよじって人生にあらがうが、結局元に戻ってしまう人々の物語があります。ですがそれでも続いていく人生を、この社会の中で生きていく凡庸な私たちの姿を描き続けたのが山田太一だと思うのです。
是非「想い出づくり。」を見てください。「早春スケッチブック」を見てください。「ふぞろいの林檎たち」を見てください。「丘の上の向日葵」を見てください。「ありふれた奇跡」を見てください。
何者でもない私達の、そのなんてことのない人生に、ほんの少しひたしみを感じさせてくれるハズです。
この映画を観て前向きな気持ちになれた人がいるならそれで大いに結構なのです。むしろ自分がこの映画のラストをあまりにネガティブに捉え過ぎているだけかもしれません。自分はあくまでも山田太一の小説が原作だからこの作品に興味を持ちました。なので作品を観賞する姿勢がどうしても山田太一作品としてどうか?になってしまいます。そういう観点から観るとどうしてもこの映画のラストは残念に見えてしまうのです。
軽いホラー
主人公がいつも寝れなくて怖い、xxxで怖いと言い続けるのが怖かったです。 ある意味主人公達の寂しさなのかな? ストーリーで救われる感じはあまりありませんでした。理解ある周囲に囲まれて幸せだなとは思いました。
山田太一氏の原作及び大林宣彦監督の「異人たちとの夏」を知っている人...
山田太一氏の原作及び大林宣彦監督の「異人たちとの夏」を知っている人がこの映画を観たときどのような感想を持つだろう。監督なりの理解と解釈、現代における新たな設定を設けているが、単なる両親を霊物のようにされているのは残念に感じた。そもそも様々な解釈ができる原作であり、頑張ったで賞かな。
孤独
結局、私たちは生きているうちは分かり合えないのかもしれない。死者が癒す孤独な魂。 異人たちの夏とは異なるラスト。あの夏の、浅草のアパート、お父さんのタンクトップ、パタパタと世話を焼くお母さんが懐かしいなあ ロンドン版は、懐かしさよりも和解や癒し、アダムの孤独が前に出ていた。父母との出来事も夢であるかのような描写があって、やや現実的。 途中から別物としてとても良い映画だと思いながらみた。小さいころのアダムを抱きしめてあげるのはいいね。もっと時間があればって思うだろうけど、でもわかってるよ。大丈夫。 ラストは孤独な魂が溶けて星になって、案外希望を感じさせた。たくさんの星の輝き。 浅草の喧騒から一本入って迷い込むのが良いんだよなとか、あのすき焼き屋の中居さんも良いよなあ、両親か薄くなってくところ泣けたなあ、なんていろいろ比べてはしまった。 山田太一ドラマでドラッグ?!クラブ?!と意表をつかれた。ふぞろいの林檎たちでもそんなシーンあったような気もするけど。 あのロンドンのアパートはだいぶ立派だけどなんで人住んでないんだろ。環七のマンションはさびれた風だった。
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