劇場公開日 2023年11月3日

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「オゾンの復古調ミステリ映画ふたたび。ただし終盤の作風の転調と逸脱は個人的に残念かも。」私がやりました じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5オゾンの復古調ミステリ映画ふたたび。ただし終盤の作風の転調と逸脱は個人的に残念かも。

2023年11月24日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

一応面白かったは面白かったけど、
かなり、歪んだ映画ではあったような。

なんか、ヒッチコックのつもりで観ていたら、気づくといつのまにやらデ・パルマ映画にでもすり替わってた、みたいな(笑)。具体的には、デ・パルマの『ボディ・ダブル』に近い悪ノリの気配をちょっと感じた。

思いがけない転調のあと、妙に若干居心地の悪い「悪趣味」なテイストが支配的になって、なんとなく虚をつかれたというのが正直な印象。「収まりのいいところで終わる」とばかり信じ込んで安心していたら、オゾンに「お前はその程度の観客か」と鼻で笑われ、おちょくられたような……。
しょうじき『8人の女たち』みたいな、正攻法のミステリ映画を少し期待しすぎていたのかもしれない。

― ― ―

フランソワ・オゾンのミステリ映画といえば、それはもう『8人の女たち』である。
あれは掛け値なしの傑作だった。
僕のオールタイム本格ミステリ映画ベスト10にいれてもいいくらいだ。
(『サスペリアPART2』『探偵スルース』『情婦』『オリエント急行殺人事件』『薔薇の名前』『スタフ王の野蛮な狩り』『カル』『アイデンティティー』『ストーミー・ナイト』『8人の女たち』……でどうです? 今、でっちあげてみたw)
ダグラス・サークをバリバリに意識した、総天然色のミュージカル仕立て&復古調ミステリでありながら、現代的な毒と告発性にも富んだヴィヴィッドな内容は、まさに素晴らしいの一言だった。
大女優たちの夢の共演。ヒッチコッキアンらしい粋な演出。徹底したブラック・ジョーク。それでいて、女性たちの連帯を熱量をもって描く、骨太の社会派ドラマとしても成功している。
何より衝撃的だったのは、原作にロベール・トマという生粋の「本格ミステリ系劇作家」(あの傑作ミステリ演劇『罠』の脚本家!)の非映像化台本を見出してきて、今日び廃れ果てたと思われていた「閉ざされた雪の山荘」を舞台に、正真正銘のクローズドサークル・ミステリをかましてきたことだ。しかも、途中で館から外に出た人物が「とある事実」に気付いて立ちつくす、綾辻行人の『時計館の殺人』みたいなシーンまで出てきて、超感動。それと、作中で明かされる『なぜ犯人は雪の山荘という密室状況を作らねばならなかったのか』に関する謎解きがまた、実によく出来ていてね……。本格ミステリマニアにとっては、もうこたえられない作品なのだ。

それと比べると、今回の『私がやりました』は、少しゆるい気がする。
たしかに、「罪の奪い合い」をするというメインのアイディアは面白い。
搦め手のネタ感が、ちょっとパット・マガー(『被害者を捜せ!』『探偵を捜せ!』『目撃者を捜せ!』で知られる女流本格ミステリ作家)みたいで。
女性映画としても、狙いは明確だ(それにしても最近は、ミステリ映画やどんでん返し映画だと思って観に行ったら女性映画ってパターンが多いな。『ドント・ウォーリー・ダーリン』『ファイブデビルズ』『ザリガニの鳴くところ』『MEN』……)。
ただ、物語の「精度」とミステリとしての「一貫性」が、『8人の女たち』と比べると、いくぶん物足りない感じがする。いや、だいぶ物足りないかな?

今回、原案となったのは、ジョルジュ・ベルとルイ・ヴェルヌイユが1934年に発表した戯曲『Mon Crime(私の犯罪)』で、『真実の告白(Confession)』(37、ウェズリー・ラグルス監督)および『Cross My Heart』(46、ジョン・ベリー監督)のタイトルで、2度もハリウッドで映画化されているらしい(どちらも「幻の映画」化していたとのこと)。
今回の映画化にあたっては、かなりフランソワ・オゾンのほうで内容に手を加えているようで、たとえば元ネタの戯曲でヒロインの職業は「作家」だし、女性映画、ジェンダー映画としての要素も、概ねオゾンの付け加えのようだ。
だから、どこまでが原作戯曲の問題で、どこからがオゾンの改変に由来するものかは正直よくわからない。ただ、とくに「ゆるい」と感じる「後半戦」は、概ねオゾンが改筆した部分に問題があるような気がする。

少なくとも前半は、それなりによくできていると思ったのだ。
全体にこぢんまりとしているし、若干平仄の合わないところもあるし、予審判事がアホすぎるから成立しているだけの話にも思えるけど、アイディア・ストーリーとしてはとてもいいところを突いているし、何よりテンポと狙いがはっきりしていてわかりやすい。

まず、アバンで「緞帳」があがる(いきなり、舞台劇を意識させる仕掛け)。
その後、突然「スイミング・プール」のアップから始まって、端からもう笑うしかない。
(フランソワ・オゾンが『8人の女たち』の「次」に撮ったのが『スイミング・プール』。合わせて、観たまんまビリー・ワイルダーの『サンセット大通り』のオープニングの、小粋なパロディになっている。)
プール際の邸宅から、何か言い争うような声がしたあと、飛び出してくる若いブロンドの女。(このシーンがあるせいで、一応「銃で撃った」という話は「嘘だ」という大前提で、客は安心して観られるつくりになっている。あと、ちゃんと門前でイザベル・ユペールらしき女とぶつかりそうになる。)
一方、アパルトマンでは、別の若いブルネットの女と、家賃を取り立てに来た大家さんとの丁々発止のやりとりが続く。(ドアを抜けるときにカメラが一緒に壁をすり抜けることで、この部屋が「セット」であることが強調され、本作の「舞台劇」としての印象が補強される。)
芝居がかった台詞。テンポと回転のいい会話の応酬。両者を均等に映すカメラ。
いかにも「舞台劇」らしい台本&演出だ。
そこに最初の女が帰って来て、二人がルームメイトであることがわかる。
金髪のほうはマドレーヌ。職業、女優。
ブルネットのほうはポーリーヌ。職業、弁護士。
さらには金髪のほうの愛人アンドレが登場。いろいろ様子がわかってくる。
マドレーヌとアンドレが、猛烈に書き割りくさい「窓」から「屋根」に出ておしゃべりする演出で、さらに「舞台劇」としてのイメージが観客に植え付けられる。

要するに、フランソワ・オゾンは演出を通じて、これが1930年代の「舞台劇」(およびそれをベースとした映画用台本)の映画化であり、復古調のノリと内容を「それをそれとして」受け止めるよう、執拗に観客に要請してくるのである。
逆に言えば、ふつうに観ていれば、われわれも自然に「古い舞台劇」の世界に巻き込まれ、いつしか多少のご都合主義や、科学捜査の気配皆無の適当な証拠調べ、ほとんど審理の体を成していない法廷でのやりとりなどを気にせず「気楽に受容」できるよう、感性を切り換えられている、ということになる。

その意味では、イザベル・ユペール演じる元大女優オデットが出て来てからも、古いコメディ映画を観ているような様式美と、徹底して作り込まれたやりすぎの舞台演技と、どこからどう見ても明白な『サンセット大通り』のパロディ展開は健在であり、われわれは愉快に「古雅なミステリ映画の世界」を引き続き楽しむことができる。
オデットのキャラ自体、パンフではサラ・ベルナールを念頭に置いているとあるけれど、基本それは「衣装」の話で、どちらかといえば思い切りグロリア・スワンソンを意識しているのでは?(サラ・ベルナールは最初に映画に出た1900年の時点ですでに56歳で、「往年の映画スター」では全くない)
現在のジョニー・デップをさらに太らせたうえで5分刈りにしたような性豪プロデューサー、モンフェランの見た目も、『サンセット大通り』に出てくるグロリア・スワンソンの執事役エーリッヒ・フォン・シュトロハイムを若干意識しているような。なんといっても、オデット自身が「彼はもともと私の運転手だったのよ」と宣言するわけですから(笑)。
若いマドレーヌが自らの野望実現のために、大女優オデットの復帰を後押しするブレイン役を買って出る流れだとか、大女優が疑いもなくそこに乗っかってくるところとか、ラストで劇場内演劇が作品を侵食して観客席と地続きになるメタ的展開とか、総じて後半戦が『サンセット大通り』を強烈に意識した作りになっているのは明白だろう。
これに、花婿の父親に策略を練って自分を認めさせるような内容の、何らかの旧いロマンティック・コメディの要素を掛け合わせてあるといった感じではないか? パンフによれば、オゾンはスタッフに、エルンスト・ルビッチの『極楽特急』やサッシャ・ギドリなどを観ておくよう勧めていたらしい。
そういえば、裁判シーンの調子はずれな戯作調が、去年シネマヴェーラで観たサッシャ・ギドリの『毒薬』(51)によく似てるなあと思いながら観ていたのだが、パンフでオゾンがカメラマンに参考にするように言ってたと書いてあって「おおやっぱりな!」と。
ガストン・ルルー原作の『黄色の部屋』(30)を観たときも思ったけど、なんかフランスの古い裁判って『逆転裁判』みたいというか、傍聴している民衆にとっての見世物感が強いんだよね。まあ、あんな弁護士とか検事とかの口八丁手八丁だけで、容易に裁判結果が左右されてたら、ホントは超マズいと思うんだけど(笑)。

というわけで、なんだかんだで終盤にさしかかるまでは楽しく観られてたわけだ。
ところが、途中で調子がなんとなく狂っちゃうんだよね。
具体的には、なんかあのマドレーヌが「●●を放り出しにする」シーンと、
「主役ふたりがレズっぽくイチャイチャお風呂に入ってる」シーンから。
唐突に作品のテイストが、品の無いバッド・テイスト風味に切り替わる。
急に「シニカルで攻撃的な」、現代劇仕様のノリに「侵食」される。
だって「古き良きコメディ映画」では、●●なんか絶対出てこないし、あんなビアン風味剥き出しの挑発的なお風呂シーンなんかやるわけない。
いきなりあそこから、今まで保っていた映画の「コード」が切り替わった。
そんな感じだ。

そこまで、一応は突拍子はなくとも「辻褄」は合わせてあった物語が、途端にバタバタし始めるのも、ひっかかるところだ。
それぞれのやっている行動や思惑が、なんだかうまくかみ合っていない感じがあるのだ。
オデールと予審判事のやりとり、いなせな土建屋の巻きこみ方、タイヤ会社社長の巻きこみ方、タイヤ会社社長とオデールのやりとり。すべてが「行き当たりばったり」で「成り行きまかせ」。作中人物の行動としても、脚本としても、明確な意図や一貫性がイマイチ見当たらない。
たとえるなら、ヘ長調で展開してきた楽曲が、急に無調もしくは多調になったような。そんな猛烈な違和感。

しかも、それが意図的というか、オゾン自身が「それでOK」と考えている節がある。はなから「ちゃんと終わらせようとしていない」。むしろ「最後はめちゃくちゃにして、調子っぱずれのコメディとしてドタバタで終わらせよう」と「わざと」やってる。
そこの「悪ノリ」に、個人的にどうもアジャストできなかった……。そういうことだ。

― ― ―

本作の「女性映画」としての要素については、個人的にあまり興味がないうえに、議論できるほどの知識も持ち合わせていないのだが、本作が「まっとうな女性映画」だというのも、それはそれでちょっと違うような気もする。
たしかにこの映画は「バイタリティーあふれる二人のシスターフッドもの」だし、家父長制が支配する男性至上社会に対する痛烈なアンチテーゼにもなっている(登場する男性キャラはどうしようもない連中ばかり)。
ただ、本作のベースはあくまで「悪女もの」なわけで、彼女たちが主張する「女性の自由」や「参政権獲得」も、ある種の「方便」として出てきている側面も強い。そして、監督自身も、思いつきで大きく出ている二人の言動を、若干「斜に構えた」視点で半笑いで観ている感じもある。オゾンはその実、声高な女権活動家みたいな手合いもまた、内心けっこうバカにしているのでは?
その意味で、本作におけるオゾンの分身というのは、実は味方のようでいてやたら鋭い質問を連発してくる、あの若き新聞記者なのではないかとも思ったり。

じゃい