劇場公開日 2024年1月26日

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カラフルな魔女 角野栄子の物語が生まれる暮らし : インタビュー

2024年1月31日更新

人生そのものが映画のよう 戦争体験、ブラジル移民生活…「魔女の宅急便角野栄子さんの知られざるキャリア

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1989年スタジオジブリ制作で宮﨑駿監督がアニメーション映画化し、世界的にも大ヒットした「魔女の宅急便」の原作者であり、2018年には国際アンデルセン賞・作家賞を受賞した3人目の日本人作家、角野栄子さんに密着したEテレのドキュメンタリー番組をもとにした映画版「カラフルな魔女 角野栄子の物語が生まれる暮らし」が公開された。

13歳になり、修行のために知らない街で独り立ちする魔女の少女キキと相棒の黒猫ジジの冒険、食いしん坊の小さなおばけたち、そして子どもや動物を主人公にした数々の物語に、多くの人々が世代を超えてドキドキ、ワクワクさせられたことだろう。まるで魔法のように、夢がいっぱいの物語を生み出してきた角野さん。

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大きくなったら〇〇になりたい、こんなことができたらな――幼い時分、平和な時代に生きる誰もが当たり前に、自分の未来を空想するものだろう。しかし、そんな無邪気な子ども時代を戦争に奪われ、戦後24歳で結婚、ブラジルへ移民、帰国後出産を経て35歳で作家デビューと波乱万丈な人生を歩みながらも、持ち前の好奇心とポジティブな精神で逆境をクリエイティブに昇華させ、89歳の現在ものびのびと創作活動を続ける角野さんに話を聞いた。

▼海の見える街での暮らし

――映画は、海が近い鎌倉での生活、いちご色のご自宅、創作風景、おいしそうな時短メニューなど、角野先生の日常をちょっとのぞき見するような、ワクワクする構成です。もともと鎌倉にご縁があったのですか?

2001年から住んでいます。特に縁があったわけではないのですが、年を取ったら、住まいや仕事場は都心からちょっと遠くてもいいかなと思ったんです。それで海の近い鎌倉が良さそうだなあって。以前は山の方に仕事場を持っていたのですが、山って夜中は真っ暗になるのでそれがちょっと怖くなってしまって。そして海の方に来たら、やっぱり私の性に合うなって思いました。今、鎌倉のメインストリートは観光客ですごい人ですが、小さな道を通って歩くのには、面白いところなんですよ。

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▼ブラジルでの暮らしと思い出

――出産後、30代半ばで作家デビューされました。この映画でも紹介されますがデビュー作の「ルイジンニョ少年 ブラジルをたずねて」(1970)は、ブラジルでの生活を基になさったそうですね。現地でのエピソードを教えてください。

今の時代の女性は、大学を出て就職して、結婚してお子さんができても仕事は辞めませんよね。私たちの頃は結婚すると辞めるのは当たり前みたいな感じでしたね。私の場合は結婚で辞めたというよりはブラジル行きが決まって仕事を辞めたのですが。

戦争が終わって兵隊さんだった人たちが帰ってきて、爆発的に日本の人口が増えました。でも、今ほど国として裕福ではなかったから、国民が外国に行って働くことを国が奨励したんです。そういう時代だったんですね。北アメリカやヨーロッパには行けなくて、ブラジルなど南米の3カ国くらいで募集がありました。

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渡航の話を持ち掛けてくださった方がいて、夫婦で行くことを決めました。私たちのように、外国を見てみたいという気持ちでブラジルに渡った方々も多かったと思います。渡ったのが1959年で、ちょうど今の首都のブラジリア(1950~60年代に建築家ルシオ・コスタ、オスカー・ニーマイヤーの設計により建設された計画都市)を作っていた時代。60年に首都がリオ・デ・ジャネイロから遷都したので、それも見られるかなという期待がありました。

ニーマイヤーがちょうどニューヨークの国連ビルを設計していた頃です。首都を新しく作っちゃうっていう考えがとても面白いな、と思ったんです。当時ブラジリアには2度行きました。街はほぼできていましたけど、まだ工事中のところもがあって、ブラジリアの脇には、建設の人たちの街ができていました。木造の簡素な住宅が並んでいてで、自由都市と名付けられていましたね。ブラジリアにはホテルが1件あったのですがとても値段が高かったので、自由都市の宿に泊まりました。新しい街ができていくのを目の当たりにするのは、非常に面白い経験でしたね。

まだ道路もできてないのに、建設を始めてしまった建物が立っていって……ブラジルは計画性よりもとにかくやっちゃおう!っていうところがありますよね(笑)。まあ、途中から道はできたんですけど、最初は資材を飛行機で運んでいたそうですから、ものすごくお金がかかったでしょう。しかもジェット機がない時代ですから、プロペラ機で。私たちは日本から船でブラジルに渡り、帰りはカナダからプロペラ機で帰国しました。

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――ブラジルでの生活、そして当時少年だったルイジンニョさんとの出会いが、角野先生の作家としてのキャリアを築くきっかけとなりました。先生の人生そのものが映画のようですね。

みなさんそうおっしゃいますけど、見たがり屋、知りたがり屋なのでこうなった気がします(笑)。自らドラマティックに動いたわけではないのですが、自分の心のままに動いたには違いありません。あと、時代に押されたということもありますね。戦争があって解放されて……そういう時代を生きたことは大きかったと思います。

――小学生時代は戦時中だったそうですね。少女時代から作家になりたい、など将来の夢をもっていたのでしょうか?

疎開をしていたので、住んでいる場所が焼け野原になった……という経験はしていませんが、将来のことはまったく考えられなかったですね。まず、食べるものがないんですから。今日どうしよう、明日はどうしよう、って親たちはそれで奔走して、子どもたちだって手伝わなくちゃいけないのです。当時「日本は勝つ」とみんな信じていました。今振り返ると、洗脳というのは恐ろしいことだなと思います。

戦後に東京に戻って中学校に編入したので、思春期に差し掛かって。ちょうどその頃の年齢に合うようなアメリカの音楽、ジャズや映画や本がいっぱい日本に入ってきたんです。そういった文化にまず夢中になりました。占領下だったので三番町(千代田区)の学校の近くに、米軍の高級将校のお家があって、窓から覗くともうすごい生活なわけですよ。

一方こちらは、まだ防空壕から学校に通っている子や、畳がないのでゴザを敷いて暮らしている人もいました。お弁当も粗末なものしか持っていけないから、電車が混むから揺れると弁当箱の端に寄って、量が半分ぐらいになっちゃう。そんな暮らし、今からは想像できませんよね。

そんな時代で、アメリカから入ってきた音楽や本に魅了されて、まずは英語をできるようになりたいっていう気持ちが強くて、私は大学の英文科に入学しました。子どもの頃は、戦争で本があまりなくて、それほど読めなかったんです。気がついたら、もう大人の本を読む年代になっていて、大学ではサマセット・モームなどを読みましたね。ですから、児童文学はほとんど読んでいないんです。

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▼作家デビュー前の知られざるキャリア

――戦争の影響で児童文学を読む機会を失った角野先生が、日本を代表する児童文学作家として活躍し、世界中の子どもたちを夢中にさせていることが感慨深いです。先生の作品を読むと、日本ではなく、どこか行ったことのない国へ旅をしているような気分になります。

最初に書いた本を、児童書の出版社から出したのがきっかけですが、児童文学は私の資質に合っていたと思います。外国での暮らしを経験しましたし、海外には随分行ったので、情景などは反映されているかもしれませんが、独特なのは文体じゃないかしら。若い頃から日本文学よりも翻訳作品を読んできた影響が大きいと思います。主人公がくっきりしていて、あたりの雰囲気ではなく、きちっと物を言う。そういう文体に慣れていましたから。日本の物語は空気感までものすごく説明しますよね。それはそれで素晴らしいのですけど、私のは少し違った文体だったかもしれませんね。

――出産後に本格的な執筆活動を始められましたが、過去にはお勤めの経験もあったそうですね。

昔は一般的に子どもが生まれたら、母親が育てるっていう社会通念みたいなものがあったし、当時は保育所も区でひとつくらいしかなくて、これから仕事をしたいから子どもを預けるっていう考えは社会全体になかったし、またそういう体制もありませんでした。

大学卒業後は紀伊國屋書店出版部に勤めていて、その後結婚。ブラジルから帰国して何年かしてから出産したのですが、娘が生まれる前の2、3年、東宝でアルバイトをしていたんです。外国に紹介する映画の資料の要約を英語に翻訳する仕事でした。新東宝という会社の作品を外国に出そうというタイミングでした。毎日、試写室で1日10本くらい見ましたね。タイトルや内容はもう覚えていませんが。

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▼宮﨑駿監督とのエピソード、角野先生の創作過程

――角野先生と新東宝映画という知られざる接点に驚きました(笑)。その後のスタジオジブリでの「魔女の宅急便」の世界的ヒット。角野先生は映画と縁がありますね。宮﨑駿監督とのエピソードを教えてください。

魔女の宅急便」のアニメ映画化のお話をいただいたときに、私は宮﨑さんのことを知らなかったのですが、娘が「絶対作ってもらいなさい」って言うんです。彼女が当時高校生くらいで「風の谷のナウシカ」など見ていたようで。だから決まりました。

あの頃、宮﨑さんは鈴木さんとふたりで可愛い自動車に乗ってうちにいらしたんです。宮﨑さんはたくさんお話をするような方ではなかったですね。最初に鈴木さんから「宮﨑さんは原作を変える人です」と言われたので、私はいくつか条件を出して変えないようにしてくださいって申し上げたんです(笑)。

当時の吉祥寺のスタジオに行った時は3人ぐらいしか人がいなかったのですが、映画化の仕事が始まったら50人ぐらいの方が揃って、こうやってみんなで作るんだな、アニメーションってすごい世界だとわかりました。出来上がった映画を見た感想になるかもしれませんが、宮﨑さんってまず絵から始まる人なんですよね。だから展開が面白いのね。もちろん本をたくさんお読みになっていて知識をたくさんお持ちだと思いますけど、形がお好きなんだなと。飛行機や船とかね。

▼角野先生の創作のお話

――先生の創作過程についてお伺いしたいです。想像力豊かなお話の数々は、どのようにアイディアが浮かぶのでしょうか?

私はあまり意識していませんが、読者の方々は私の本を読んで情景が浮かぶっておっしゃるんです。私もまず物語を書くときに、いたずら描きのような絵を描いてから始めるんです。目の前に絵があって、それを文章に直す……そういう風に進むことはありますね。小さい時から絵を描くのが好きだったんです。父がくれたわら半紙に描いたり、外へ行ったら蝋石で道に落書きしたりしていましたね。

――そういった意味でも、児童文学は画家やイラストレーターとのコラボレーションになるので、先生のイメージする情景を絵に落とし込めるわけですね。

そういうことですね。最初の頃は私もどういう絵描きさんが私に合っているのかわからなかったから、出版社の紹介で仕事をしていましたが、この頃は新しい方と一緒に仕事をしています。新しい方と組むのは、一体どういう絵ができてくるかが楽しみです。キャリアの浅い方は柔軟な人が多いですよね。いっしょに色々と考えて工夫するのが、面白いと思っています。

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――執筆中、一心不乱にパソコンに向かわれていた姿が印象的でした。インターネットはよく利用されますか?

文章はパソコンで書いています。コンピュータやインターネットは年齢の割には使うと言われていますね(笑)。ワードとメールと、ちょっとお買い物をするくらいですが。手で原稿を書いていた時に、姿勢の問題で体を悪くしたことがあったので、パソコンの方が両手を使えていいですね。

――今の日本は平和ですが、様々な社会問題から未来に希望が持ちづらくなっている雰囲気があります。若い世代にメッセージをお願いします。

自分で、自分の人生をこういう形と決めつけてしまったらつまらないけれど、思想統制もほぼない国ですし、やろうと思えばなんでもやれる国。なにかをやってみようと思えばできるはず。人生は一度ですから、冒険しようと思えばできるのに、自主規制のような形で縮こまってしまうのはつまらないと思います。

ただ、ネットでなんでも調べられる時代になったからか、ボキャブラリーや表現力が少なくなって、自分の言葉が持てなくなるのは寂しいなと思います。自分の言葉を持つことが大事です。今の若い方はあまり外国に行きたがらないようですが、グローバル化された社会では、自分のことを表現できる言葉を持っている人が生き残れると、私はブラジルで学びました。自分のことをちゃんと言えないと就職もできませんでしたし。

情報は今までのものであって、未来のものじゃない。だから、使い古された情報だけで満足していいの?って思います。古いものを下地にして、更に気持ちのいい未来を作っていってほしいですね。

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