「その声は聞こえている」52ヘルツのクジラたち 近大さんの映画レビュー(感想・評価)
その声は聞こえている
タイトルの“52ヘルツのクジラ”とは、仲間のクジラには聞こえない高い声で鳴き、大海にたった独りぼっちのクジラの事。
その声は仲間を探す声なのか、悲しみの声なのか、声にならぬ声で助けを求める声なのか…?
その声は誰にも届かないのか…?
いや、聞こえる相手もいる。
自分と同じ境遇。大海のように広い世界で、たった独り…。
そんな中で出会った。貴瑚と一人の少年…。
東京から海辺の町に越してきた貴瑚。
かつて祖母が住んでいた古家を改修。テラスから臨める海が本当に美しい。
防波堤で海を眺めていた時、突然の雨と腹部に痛みが。
一人の少年が傘を差し出す。
無口なその少年。びしょ濡れになったので、せめてシャワーを。
服を脱がせた時、ハッとする。身体に痣。
少年はそのまま逃げ去ってしまう。
貴瑚は思う。私と同じだ…。
貴瑚も暗い過去が…。
知り合いから少年が母親から育児放棄と虐待を受けている事を知る。
その若い母親はとても親とは思えない辛辣な言葉で我が子を罵る。子供なんていらない…いや、いない。あいつのせいで私の人生が狂った。ゴキブリ、虫ケラ。母親は我が子を“ムシ”と呼ぶ…。
貴瑚は少年を預かる。
少年は言葉を話す事が出来ない。紙に文字を書いてやり取りを。
貴瑚が時折聞いている“ある声”が少年もお気に入りに。それは52ヘルツのクジラの声。少年は“52”と呼んで欲しいと。
昔、私もあなたと同じだった。
その時聞かせてくれた。教えてくれた。救ってくれた。
“あんさん”。
時折貴瑚の傍らに現れる“男性”。
貴瑚は尋ねる。どうして居なくなっちゃったの…?
3年前。
貴瑚は実家で朝から晩まで義父の介護。
母親からは虐待。義父の病状悪化で病院を訪れた時、医師の目の前で殴られる。罵られる。あんたが死ねば良かった! 事情はあるにしても、キチ○イ母。
街中をさ迷い、車に轢かれそうになった所を、男女二人組に助けられる。
偶然の再会。高校時代の友人・美晴と、彼女の塾講師・安吾。
二人に悩み、苦しみ、今の現状を打ち明ける。
二人の力と支えによって、現状を断ち切り、抜け出す。
義父を介護施設に入れ、実家を出る。引き留めようとする母親。
この時の安吾の言葉が響く。お母さんは本当に娘さんを殺そうとしたんですか…? 本気で首に手を掛けたんですか…?
我が子への愛や自由や人生を思うなら、本気ではない筈だ。
母親の元から解放された貴瑚だが、その心境は…。お母さんが好きだった、愛されたかった…。
そんな貴瑚の傍に寄り添い、支える安吾。
ある言葉を掛ける。“魂のつがい”。必ず、貴瑚を愛してくれる人が現れると…。
この時、貴瑚も見てる我々も思った筈だ。安吾、君じゃダメなの…?
2年前。
貴瑚は一人暮らしを始め、自立。仕事も。
時折会う安吾や美晴(とその彼氏)と飲み交わすお酒が美味しい。
ある時、職場でトラブルに巻き込まれ、怪我を。
上司が謝罪。専務の息子で、主税。
イケメンで御曹司。それからちょくちょく会食に誘われ、交際を申し込まれ、プロポーズ。億ションで同居も。
かつてからは信じられない玉の輿。人生逆転。彼が遂に巡り合った“魂のつがい”…?
が、映画を見てると薄々察するのだ…。
貴瑚と主税、安吾と美晴(とその彼氏)で会食。
貴瑚が“あんさん”と呼ぶ安吾が“男”だと知って、主税はトゲのある言動を…。
安吾は貴瑚に主税と別れた方がいいと進言する。いつか必ず、悲しませる…。
貴瑚は耳を貸さず、安吾のある秘密と共に、やがて悲劇が…。
1年前。
久し振りに安吾と再会した貴瑚だが、別れを進言する彼の話を聞こうともしない。
そんな時…、主税に婚約者がいる事を知る。親の取引先の令嬢で、親同士が決めた話。いつの時代だよ…と主税は言うが、貴瑚に“愛人になってくれ”というお前もお前だよ!
会社内に貴瑚と主税の関係が書かれた怪文書。婚約は解消、会社は取引先を失い、主税は父親から激怒されクビ…。
自業自得のくせに、本性を現す。貴瑚にDVを…。
億ションから出る事も許されない。やっと辛い過去から抜け出して幸せを手に入れたと思ったのに、また…。かつてと変わらない。
怪文書を出したのは安吾と判明。
主税は安吾に復讐を。安吾の母親を呼び、今の安吾と会わせる。
驚き合う二人…。
これがきっかけで…。
後日、安吾のアパートを訪ねた貴瑚。安吾の母親とも会う。
そこで二人が目にしたのは…
浴槽で自殺した安吾。
母親との再会。ある秘密。“彼”を悩ませ苦しませていたもの…。
“彼”ではなかった。安吾の本名は、杏子。
女性から男性になったトランスジェンダーだった…。
安吾が貴瑚に“魂のつがい”として切り出せなかったのは、それだからだろう。
自分は貴瑚を幸せにしてやる事は出来ない。何故なら、自分は…。
貴瑚は安吾が好きだった。しかしそれは恋愛感情ではなく、自分を救ってくれた恩人として。尊敬すらしている。
そこに嫉妬剥き出しのクズ男が割り入り、悲劇の連鎖が…。
貴瑚は主税に別れを。包丁を手に。主税に向けるのかと思いきや、自分の腹部に…。
貴瑚の冒頭の腹部の痛みや傷痕はこれ。
相手を思いやり、思い過ぎる余り、その思いがぎこちなく、届かぬ時がある。
貴瑚と安吾の関係がまさにそれだった。
では、どうすれば良かったのか…?
女性/男性として、思いを受け入れれば良かったのか…?
その区別自体が愚か。
女性でも男性でもどっちでもいい。関係ない。
誰かが誰かに手を差し伸べる。尊き人間愛。
あんさんが52ヘルツの声で鳴いていた私を救ってくれた。
そんなあんさんも52ヘルツのクジラだったんだね…。
甘えてばかりで、支えて貰ってばかりで、時には耳を貸さないで反発して、あんさんの苦悩に全く気付いてやれず…。
遺書も私の事を思ってくれて…。(それをコンロで焼く鬼畜主税!)
本当にごめんね、あんさん…。会いたいよ…。
映画賞を総ナメにした『湯を沸かすほどの熱い愛』、まだ未見だが昨年のこれまた大評判だった『市子』、そして本作と、不幸と悲劇が続く杉咲花。しかし言うまでもない、それが出来るのも演技力があるから。今にも壊れてしまいそうな序盤の弱々しい不安定さ、涙と嗚咽、自立、少年に手を差し伸べる包容力…同世代屈指の演技力で魅せる圧巻の見せ場の連続。
志尊淳もまた難しい役柄を見事にこなした。トランスジェンダーであるが故に誰にも打ち明けられない苦悩…。あるシーンの絶叫嗚咽…。しかし見終わって心に残るのは、その優しさと温かさ。
小野花梨も好助演。時々言動が荒いが、それも親友を心底心配するから。
宮沢氷魚もクズ男を熱演するが、第二の『流浪の月』の横浜流星にはなれなかったかな…。ちとミスキャスト感が…。彼はやはり複雑で繊細な役が似合う。
西野七瀬は意外や毒親がハマっていた。余貴美子、倍賞美津子らベテランが支える中、オーディションで選ばれた桑名桃李が印象を残す。
不幸な生い立ち。言葉を発する事が出来ず、虚ろな眼差し、佇まい…。少しずつ貴瑚に心を開いていく…。早くも年末映画賞の新人賞の注目株。
介護、虐待、DV…見ていて辛くなるほどの社会問題。性的マイノリティーの苦悩…。
シリアスと緊迫感と、それを経ての感動と温かさ。成島出監督が手堅く。
一部、感動ポルノと言われている。
一部、ご都合主義も目立つ。ステレオタイプのような不幸の背景や序盤の安吾による救出、ラストシーンに登場するクジラ…。一応希望の兆しが見えるハッピーエンドだが、課題や問題はこれから。いい話で終わりにして途中投げ出しの感も…。
でもそれらを踏まえても、素直に感動出来た良作であった事に偽りはない。
大切な大切なあの人が私を救ってくれた。
今度は私が。
受けた優しさ、温かさを。
あの人がそうしてくれたように。
あんこからきなこへ、愛しに。
それぞれがそれぞれの“魂のつがい”。
大海にたった独りの52ヘルツの声のクジラ。
独りじゃない。
その声は聞こえているよ。
私に。あなたに。
近大さん、コメントありがとうございます。情報過多は映画を見る人にとって迷惑以上ですね。エンドロールで確認しませんでしたが、この映画はビール会社がスポンサーにはいってるのかなと思いました。ただ映る以上だったので嫌だなあと思いました