コラム:佐々木俊尚 ドキュメンタリーの時代 - 第104回
2022年8月8日更新
第104回:我々の父親
なんとも驚くべき物語である。1970~80年代に、不妊治療の名医として知られていた医師が、実はひそかに自分自身の精子をつかって人工授精しており、結果として100人にも達するほどの子どもたちができていたというのである。
電話や録音の音声、裁判の法廷などは実際のものを使い、再現シーンには被害者本人とあわせて俳優も演じている。そのつなぎ目がまったくわからないほどに精巧に演出されており、実に迫真的な効果を出している。
ドキュメンタリー映画にしては珍しいほどのこの演出は、本作のプロデューサーがカルト的なホラー映画で有名なジェイソン・ブラムだと聞いてうなずけた。ブラムは以前、ホラー映画の意味について「怖いとか邪悪とかというだけじゃなく、興奮できアドレナリンを放出されるストーリーテリングが必要だ」と語っていたことがあるが、本作でもそのストーリーテリングが存分に発揮されている。
それにしても、もう半世紀も前になる事件がなぜ今ごろになってドキュメンタリー映画化されているのだろうか。なぜならこの事件が発覚したのは、最近になってのことだからである。そしてなぜ最近になって発覚したのかと言えば、家庭用のDNA検査キットが普及したからである。
23andMeというバイオ企業が開発したキットで、2007年に発売開始されて今や全世界で数千万人が使っているという人気商品。遺伝子病のリスクを調べたり、自分のルーツがどのようなものなのかを知ることもできる。たとえば「あなたのDNAは、日本人80%、中国人15%、モンゴル人5%」というような数値を示してくれるのだ。
そしてもうひとつ驚くべきは、同じDNA検査を受けている人たちのなかで、同じ遺伝子を受け継いでいる人も知ることができるという機能である。とくにアメリカでは養子縁組が多いため、23andMeの検査を受けたことで自分の異母きょうだいなどを見つけることができたというケースが起きてきているという。
本作では、被害者のひとりである女性ジャコバ・バラードさんが、精子提供によって自分が誕生したことを両親の話から知り「もしかするときょうだいが見つかるかも」とDNA検査を使ってみるところからストーリーが始まる。23andMeのウェブサイトで確認してみたところ、驚くべきことに見つかったきょうだいはひとりやふたりではなく、最終的に94人にも達した。しかも本作制作後にも発見は続いており、100人を超えていったい何人に達するのかさえわからないというのだ。
だんだんときょうだいの人数が増えていく恐怖は想像するにあまりあるが、この事件が引き起こす問題は精神的なものだけではない。
本作ではふたつの問題点が指摘されている。ひとつは、みずからの精子を使った医師が自己免疫性の疾患を持っていたことだ。この結果、子どもたちの多くが同じような疾患を受け継いでしまっている。
もうひとつの問題は、知らず知らずのうちに近親で関係を持ってしまうかもしれないという恐ろしいリスクである。医師はインディアナポリスという人口90万人弱の大都市で病院を構えていたが、被害者の多くは一部地域に集中しており、多くが半径40キロ以内の近さに住んでいるという。
事件が発覚してから被害者らは協力してGoogle Mapなどを使って自分の行動経路を共有するようになった。偶然にも同じガレージセールでワゴンセールしていたり、同じ通りに住んでいたり、同じソフトボールチームに互いの子どもたちがいるなど、接近遭遇しているケースがたくさん見つかったという。いま40代に達している彼らにとっての心配は、自分たちの子どもたち、つまり知らず知らずにいとこになっている子どもたちが関係を持ってしまわないかということだという。
なぜ医師は自分の精子を使って100人にもおよぶ子どもを作ってしまったのだろうか?
本人がその理由について口を開いておらず、罪に問われているわけでもない(医師は当局に対して嘘をついたという司法妨害の罪のみで起訴されている)ので、本当のところはわからない。
ただ本作では、医師が1960年代に少女をクルマではねて死なせ、それがきっかけで神への信仰心を強く持つようになったことが語られ、また白人至上主義のカルト集団「クイバーフル」と関係があったのではないかともほのめかされている。このカルトは白人人種を増やすことによって、他の人種を排除する活動をおこなっているのだという。
いっぽうで医師は周囲に尊敬され、キリスト教会の日曜学校の講師も務め、地元の人たちが医師の前で祈りを捧げることもあったという。それらの善意の行為がどのようにして事件につながったのかはまったくわからない。まだ黎明期だった不妊治療の時代に、医師にとっては彼なりの何らかの意味を持った行為だととらえていたのかもしれない。
しかしこれらの要素からは、何も見えてこない。ただ深々とした恐ろしい人間の闇がひろがっているのをまざまざと見つめるばかりである。
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■「我々の父親」2022年/アメリカ
監督:ルーシー・ジョーダン
Netflix映画「我々の父親」独占配信中
筆者紹介
佐々木俊尚(ささき・としなお)。1961年兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部政治学科中退。毎日新聞社社会部、月刊アスキー編集部を経て、2003年に独立。以降フリージャーナリストとして活動。2011年、著書「電子書籍の衝撃」で大川出版賞を受賞。近著に「Web3とメタバースは人間を自由にするか」(KADOKAWA)など。
Twitter:@sasakitoshinao