コラム:メイキング・オブ・クラウドファンディング - 第3回
2015年9月25日更新
「はじまりの記憶 杉本博司」で劇場デビューを飾った中村佑子監督。国際的にも話題となった前作に引き続きアートをテーマに制作されたドキュメンタリー映画「あえかなる部屋 内藤礼と、光たち」は、クラウドファンディングにより、ポストプロダクション費用、英語字幕版制作費約200万円を調達、完成にこぎつけました。
本作は、第47回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本館にて展示された《地上にひとつの場所を》で注目を集めたアーティスト・内藤礼の存在と作品に迫った作品で、9月19日(土)よりシアター・イメージフォーラムにて公開中です。なぜ、この作品を制作するに至ったのかについて、本作の中村佑子監督、助監督の大西隼さんに伺いました。
“内藤礼“が画面から消えたとき、「映画」の方向が固まった
大高:まずは映画の完成と公開、おめでとうございます。中村監督は、前作に引き続きアーティストをテーマにした作品を撮られたわけですが、どういった経緯で本作は生まれてきたのでしょうか。
中村:「はじまりの記憶 杉本博司」を完成させたときは、次の作品もまたアートで行こう…、とは全く思っていなかったんです。けれども、もともと私自身が内藤礼さんの世界への強い想いがあったんですね。彼女の「世界によってみられた夢」という本を読み込んでいたのと、直島にある「きんざ」は、涙が止まらなかったくらい好きな作品でした。でもそれは、とても個人的な作品との関係性でした。そして豊島美術館《母型》に出会います。映画の中では「息ができた」という表現をしましたが、自分の存在の開放のようなものを感じましたし、《母型》自身に、個人と作品との関係を超えた、ある拡がりを感じました。内藤さんがその眼で世界をどう見ているのか、内藤さんの作品の先にあるものは、いったい何なのかを知りたくなったんです。知りたいと撮りたいは私の中ではイコールなので、思い立ったときすぐに連絡をしましたが、お会いできたのは半年後のクリスマスの日でした。
大高:半年も掛ったのですね。すごい。
中村:内藤さんはほぼ全てのことをシャットアウトして制作だけに没入していく方なんです。ちょうど作品の制作にかかっていた時期だったので、お待ちしました。そして内藤さんは、制作中の作品はほとんど見せない。豊島美術館でも制作中、作品の全貌を知ることができるのは限られた数名だったそうです。
大高:そういう意味では制作過程を見せず,ほとんど映像に登場しない内藤さんをカメラの前に登場してもらう、というのはそもそもチャレンジだったのでは。
中村:はじめて内藤さんにお会いした時から、普通のドキュメンタリーとして構成するのは難しいと予感していました。カメラという反射する鏡を介在して、対象に聞けることがあり、見えるものがあると、日頃私は思っていますが、内藤さんに対しても、そのように進めていきたいと思っていました。けれども、実際に撮影に入ると、カメラを通して自分の姿を映されることが、内藤さんが作品をつくる行為と全く相反するものである、という本質的な問題につきあたりました。その葛藤の結果、撮影の半ばで内藤さんは出演を辞退されることになります。
大高:それでも映画製作を続けたのですか?
中村:はい、そこから内藤さんを客観的に描くドキュメンタリーではなく、彼女の作品世界から私が受け取ったことを軸に、もっと別の世界を立ち上げる作品への転換を決めたんです。それに伴い、スタッフをきちんとフィクション映画用に組もうと決め、カメラマンの佐々木靖之さんや音響の黄永昌さん、助監督に声をかけ、一緒に作品を作ることになったんです。
大西:内藤さんを映せなくなりそうだ、という話を中村さんから聞いたとき、むしろ私自身は作品としては可能性が広がったと思いました。それは「不在」を描く、というチャレンジですから。
中村:佐々木さんに声をかけたのは、「不気味なものの肌に触れる」(2013年/ 監督;濱口竜介)を見て、佐々木さんのカメラは、この現実の中にいるのではなく、世界の外に立って俯瞰して撮っている感じがしたからです。はじめてお会いしたとき、そうお話したのを憶えています。なにをどのように撮ろうかと迷った場合、そのものの存在の屹立、立ち上がっていくさまを見てみたい、とよく佐々木さんと話をしました。そういうある意味哲学的な世界観を共有できるチームでした。
「わかりやすさ」と正反対の位置に
大高:「あえかなる部屋 内藤礼と、光たち」はドキュメンタリーとフィクションが融合した作品に見えます。観る人によって多様な受け取り方があったと思うのですが、いままでどのような感想がありましたか?
中村:前半はドキュメンタリー、後半はフィクションで分裂している、と言われることもあります。内藤礼さんのことをもっと知りたいという方は前半だけで良かったと、逆に内藤さんのことをあまり知らない方からは後半部分を評価されたりもしています。確かにドキュメンタリーともフィクションともつかない作品なのですが。ただ、自分は映像は一つの思考の道具なんだと思っていて、それはいわゆる「わかりやすさ」とは正反対の場所にあるんですよね。そもそもなにかを理解することなんて本当は幻想なので、理解の不可能性に迫っているというか。
だから、この映画を観て、「よくわからないなあ」と思いながらも何かが残り、その後、その「感覚」をご自分の体験と結びつけて言葉にしてくださる方が多く、それがなにより嬉しかったです。非常に印象に残ったのが、映画を見た1カ月後や2ヶ月後にメールをくださった方がいたこと。「感想を言葉にするのにすごく時間がかかって、時々思い出してはずっと考え続けて」と書かれていました。すごく嬉しかったですね。私自身、記憶に残る映画というのは、どこか自分の体験と結びつけられたり、思考を喚起し刺激するようなものでした。だから感得するのに非常に時間がかかります。
大高:今回の作品は、ある意味いまの時代に対するメッセージ性は強いなと思っていて、いまの社会の不穏な空気と対峙しているという点では、中村監督の師匠の塚本晋也監督「野火」にも通じるものがあると感じました。
わかりやすいアイコンがあったり、正解というのがない。もやもやとしたところに対して「近づいて行く」ことは、いまの僕らの世代が社会を考えるときに本当に重要なことだと思うんです。
すごく分かり易いアイコンと共に良いか悪いかシンプルに判断する意識の集合体が作られていて、それが情勢によって右や左に振れたりする。そんな意識の集合体が、不穏な空気の元凶なのではないか?はたしてこれでいいのか? と作品から問いかけられているような気がしました。
中村:私自身もそのように時代を認識しているので、すごく嬉しい感想です。なにかを決めつけるというのは、他者からみても、自分自身にとっても負けだと思っています。どれだけ思考が強靱で、いろんな要素の中で思考して、進んでいけるのかが重要なんです。その部分をどれだけ映像の豊かさとして描けるか、そこにどれだけの熱量をかけて可能性を追求できるか、そういう映像と関わっていきたいと考えています。
大西:アートでも小説でもあらゆる表現はそうだと思うんですけれども、作家のエゴごりごりの映画はすごくつまらないと思うんですよね。この作品は「私は」、という言葉ではじまる映画なのですが、中村さんはその際どいところを鋭くついているんです。
僕は編集がある程度まとまったタイミングで何度か見せてもらっていたのですが、作品が中村さんっぽくなる、つまり自分語りにならないように、気をつけていましたね。それでは観る人と製作者の間に溝ができてしまう。「私」が「私たち」になっていかない。