コラム:メイキング・オブ・クラウドファンディング - 第16回
2018年12月28日更新
「ひかりの歌」 杉田協士監督が奏で続ける、映画の歌
2019年1月12日より渋谷・ユーロスペースほかにて全国順次公開される「ひかりの歌」は、杉田協士監督の実に7年ぶりの新作長編映画です。歌人の枡野浩一さんと共に主催した『光の短歌コンテスト』で、全国から集まった1200首の中から選出された4首の短歌をもとに、全4章からなる劇映画として完成しました。そのユニークな成り立ちでも注目を集めている映画「ひかりの歌」は、現在Motion Galleryで劇場公開に向けたクラウドファンディング(https://eiga.com/official/motion-gallery/#hikarinouta)を行っています。
寡作の印象がある杉田監督ですが、実は表現や映画制作に携わっている期間はとても長く、様々な経験と愉快なエピソードをたくさん持っている映画人でもあります。映画を志した経緯、「ひかりの歌」の制作秘話、映画作りの方法論、映画への思いについて、杉田監督作品の常連俳優であり「ひかりの歌」にも出演している金子岳憲さんと、本作の配給協力と宣伝を担当している髭野純さんを交えてお話を伺いました。
■盟友との出会い
大高:金子さんは杉田監督の前作「ひとつの歌」で主演をされていましたよね。今回の「ひかりの歌」では第3章「始発待つ光のなかでピーナツは未来の車みたいなかたち」に出演していて、自然な演技がとても印象的でした。まずは杉田監督と金子さんの出会いについて教えてください。
金子:僕が大学生の頃、武蔵小金井に古い3階建ての雑居ビルがあって、そこの2階のフロアを1年間貸してもらえることになったんです。じゃあそこでなんかやろうということになって、何人か声を掛けたうちの1人が協士(杉田監督)だったんです。僕の大学には演劇科があって、そこの人たちの関係で知り合いました。
杉田監督:私は大学で劇作家の如月小春さんの授業を受けていて、如月さんに誘われて三軒茶屋の世田谷パブリックシアターに行ったんです。そこでは中学生と一緒に演劇を作るプログラムをやっていて、如月さんが授業を持っているいくつかの大学から、演劇系、教育系、美術系の学生が集まってスタッフを務めていました。その時に、演劇の大学から来ていて、いまも俳優として活躍している南波圭と吉田亮から、これが終わったら武蔵小金井で面白そうなことをやると聞いて、興味があったから、自分も行っていいか聞いたんです。初めてその建物の2階のフロアに入った時、タケ(金子岳憲)と、いまは劇団ハイバイの主宰として活動している岩井くん(岩井秀人)があぐらをかいて座ってたんですね。視界に入った瞬間のことを、今でもよく覚えていて。タケも岩井くんも、初めて会う私にすごく優しくて、すぐに世間話をするような感じで受け入れてくれたんです。例えば、「こいつは一体どういう奴なんだろう?」とか探られるようなことがなかったんですね。
金子:僕は昔から、人のことを最初からがっつり信用してしまうんです(笑)。悪い人は基本的にはいないと思っています。
杉田監督:それで1年間くらい、一緒に演劇を作ったり映画を作ったりして遊んでいました。
■映画への道
杉田監督:私は大学では教育学科だったんですけど、コンテンポラリーダンスの振付家の伊藤郁女が1年後輩で、同じ映画の授業を取っていたんです。先生は映画監督の篠崎誠さんで。ちょうど郁女はダンスカンパニーを立ち上げようとしていて、私はその制作と映像担当として入って、ニューヨークに一緒に売り込みにいきました。高円寺でやった初演の舞台を映したものをVHSに何十本もダビングして、企画書は私がなんとか英語で書いて、マンハッタン中の小劇場を2週間くらい2人で回りました。別行動をしていたある日に、郁女が、すごく優しいおじいちゃんがいて、面白がってくれたこと、その1年後くらいに3日間の公演をやってもいいと伝えられたことを報告してくれて。実はそれがジョナス・メカスだったんです。
大高:すごいですね! たまたま劇場のディレクターがジョナス・メカスだったってことですか?
杉田監督:そうです。アンソロジー・フィルム・アーカイヴスという劇場でした。でもその年に9.11があって、その劇場はニューヨーク市立だったので、1年間の予算が復興資金に回り、公演は実現できませんでした。ジョナス・メカスからはとても丁寧な手紙が来て、応援してくれていることが書かれていました。その頃、私は映画をやりたいという気持ちが徐々に強まっていて、郁女と話し合って、ダンスカンパニーの制作は辞めて、映画の道に進むことにしたんです。そのあとに映画美学校に入りました。タケと出会ったのはその頃でもあります。
大高:そんな経緯があったんですね。
杉田監督:映画美学校は初等科と高等科で1年ずつあって、私は初等科の1年間だけ通いました。学校以上に、手伝いに行っていた商業映画の現場が好きだったんです。北野武さんの自伝小説『浅草キッド』を篠崎監督が映画化した作品で、毎朝6時半ぐらいに浅草に通っていました。雑用係みたいに仕事をしていたら、そのうちスタッフの皆さんが名前を覚えてくれたんです。その時に出会った皆さんが、本当に素敵な方たちで、「こういう場所に自分はいたい」と思いました。それで30歳くらいまで、商業映画の現場に制作部から入ったあと、主には演出部のスタッフとして働きました。
大高:演出部ではなく制作部から入っていく監督って、珍しいですね(笑)。
杉田監督:そうなんですかね。最初は制作部の見習いとして、熊切和嘉監督の現場にいました。その後は演出部で黒沢清監督、青山真治監督、熊澤尚人監督とか、本当に色々な監督の作品に参加しました。監督だけじゃなくて、照明部、録音部、衣裳部、ヘアメイク部など、皆さんの仕事を見ているだけで、本当に楽しいんですよ。自主映画を作っている人たちのなかには、もしかしたらですが、「映画に対する愛情は商業映画の人たちには負けない」と思っている人もいるかもしれませんが、そんなことないんです。現場のスタッフは、自分たちの作品をどうやって良くしようかということをずっと考えているんです。その日の撮影が終わって飲みに行っても、反省会にずっとなっていたり、いろんな部署の人たちが集まって、「あのシーンのあれ、お前どうだったんだ」とか「監督は、本当はこういうことを思っていたんじゃないか?」みたいなことを話し合い続けて、たまに、ちょっとした掴み合いになっちゃうようなこともありました。
金子:すげぇ。
杉田監督:30歳ぐらいまではそういう仕事していたから、もうタケとはほとんど会わなくなっていましたね。「エキストラが集まらなくてどうしよう」みたいな時に、思い出したように連絡するくらいで(笑)。塩田明彦監督の「カナリア」や熊澤尚人監督の「虹の女神」に出てくれました。
金子:「カナリア」では新興宗教の信者の役で、坊主刈りにして現場に行きました。そうしたら日差しが強くて頭頂部に水ぶくれができちゃって、撮影が終わってから頭にアロエとかキュウリを貼りました。
大高:マジですか!
杉田監督:その節は本当にごめんね。
■自主映画だからこその、きらめきを撮りたかった
金子:映画に関わることは、その時が初めてぐらいだったと思います。エキストラって、本番中は声を出さずに、口パクをするんだって初めて知りましたね。
大高:それを経て、どういうタイミングで一緒に映画を作ることになったんですか?
杉田監督:現場の仕事をしつつも、実は20代の時に「河の恋人」という映画を作っていたんです。タケは、主人公の亡くなった父親役で出てもらいました。それが最初です。最後、幽霊のように登場するんですが、そのシーンは雨を降らす予定で、そのときに幽霊って濡れるんだろうか? という問題が起きて、結局主人公の高校生役の表桐子さんだけずぶ濡れになって、タケには雨を降らせませんでした。
金子:気持ちは一緒にずぶ濡れになりたかったんだけどね。協士はなぜか桐子ちゃんと一緒に濡れてたね。
大高:そうだったんですね。
髭野:「河の恋人」は今回のクラウドファンディングのリターン特典にもなっていて、動画配信されます。
杉田監督:「河の恋人」はかなり気合いを入れて作ったのに、PFFの一次選考で落ちたんです。その当時は映画の仕事じゃなくて、NHKの2時間ドキュメンタリー番組のADをやっていました。ちょうど気分が落ち込んでいる時に落選の知らせが届いたから、気持ちのやり場がなくて、会社の屋上のベンチに座って、まだ新しかった六本木ヒルズをずっと見上げていました。勝手にPFFに自分をかけていたので、つらかったですね(笑)。
金子:映画の主人公みたいだね。
杉田監督:そうだね(笑)。その時の私の心の支えは、boidの樋口泰人さんのネット上での日記でした。「これがまさかぴあの1次選考で落ちるとは!」みたいな、ありがたいレビューを書いてくれていて、それをずっと励みにしていました。そんななか、俳優の杉山ひこひこさんが「河の恋人」を観て気に入ってくれて、池袋シネマ・ロサの当時の支配人だった勝村俊之さんに紹介してくれて、DVDを渡せたんです。
大高:勝村さんって、今のシネマ・ロサの編成をやっている方ですよね。
杉田監督:そうです。そうしたら、次の日くらいに、すぐに勝村さんから連絡があって、劇場に呼んでくれました。「河の恋人」をロサで上映してもいいっておっしゃってくれたんです。でも「新人がいきなり1本だけ上映しても、すぐに忘れられちゃうから、今からもう1本作って、2本同時公開にしよう」とも言われたんです。私としては、え、もう1本? でした(笑)。それで作ったのがタケ主演の「ひとつの歌」です。元々は、制作会社も見つかって、商業映画として企画を進めていたんですが、1年かけて頓挫して、自主映画として再出発させました。
金子:僕が演じた役は、元々は別の俳優さんにオファーをしてたみたいですよ。
杉田監督:商業映画の企画のときはね(笑)。自主映画として撮るならタケだと思ったんです。あとは、商業映画じゃ絶対に作らないものにするしかなくて。同じような作品なら、予算のちがいが目に見えてわかる作品になってしまって、勝負にならないですよね。誰かにはすごく怒られてもいいから、たとえば私が尊敬している映画人の誰かが「この映画いいよ」と言ってくれるような、一般の人の記憶にも残るような、私自身もとことん面白くなれる、そんな作品にしようと。それで、持っていた脚本は一度捨てて、メモ書き以外ほとんど何も書いてないような脚本にしました。私はずっと商業映画の現場にいたので、映画の作り方は身に染みていたんですが、今までできなかったことに挑戦する気持ちでした。自主映画だからこそ生み出せる、きらめきのようなものがあったら、それを目指そうと。現場のスタッフは4、5人という少人数にして、街に溶け込むような感じで作りました。撮った映像は17時間くらいで、そこから100分の作品として完成させた「ひとつの歌」を、シネマ・ロサが試写会として上映してくれて、それがきっかけで東京国際映画祭への出品が決まり、最後はboidの樋口さんが配給を引き受けてくれることになったんです。もう一歩でだめになってしまいそうなところで、助けてくれる人たちがいるから、私は成り立っています。