コラム:ニューヨークEXPRESS - 第31回
2023年10月31日更新
ニューヨークで注目されている映画とは? 現地在住のライター・細木信宏が、スタッフやキャストのインタビュー、イベント取材を通じて、日本未公開作品や良質な独立系映画を紹介していきます。
1990年、アメリカ音楽業界だけでなく、世界中を震撼させた出来事が起きた。当時、世界中を席巻していた「Milli Vanilli(ミリ・ヴァニリ)」(ファブリス・モーヴァンとロブ・ピトゥラスによるダンスユニット)が、グラミー賞受賞後、リップシンク(口パク)をしていたことが発覚。同賞をはく奪された唯一のアーティストになってしまったのだ。
今回は、そんな世間を騒がせたダンスユニット「Milli Vanilli」を描いたドキュメンタリー映画「Milli Vanilli」を紹介。メンバーのひとりだったファブリス・モーヴァンとルーク・コレム監督に単独インタビューをすることができた。2人の口から語られたのは、メディアで扱われていたものとは全く異なる“真相”だった。
「Milli Vanilli」のグラミー賞はく奪。コレム監督が、この事件に触れたのは、8、9歳の頃だった。
コレム監督「当時の僕は、グラミー賞を見ていなかった。でも、Milli Vanilliのことは知っていて、のちに彼らの音楽も聴いていた。あの事件の舞台裏のエピソードは、テレビで何度も何度も放送されていて、いつも頭の片隅にあったんだ」
映画業界に進んだコレム監督は“いつか音楽ドキュメンタリーを作りたい”と思っていた。その矢先、こんなことが起こった。
コレム監督「偶然、ニューヨークのモス(ライブイベントの行われる会場)で、ファブリスが自分の話をしているビデオを見つけたんだ。彼はマイクの前にいて、当時何が起こったのかを観客と分かち合いながら話し、最後には素晴らしい歌声を披露していたんだ。その時、僕は『ちょっと待ってよ!』と思ったんだ。『あのグラミー賞のはく奪事件は、彼らが口パクでしか歌えなかったからじゃなかったっけ?』と。では、この映像でファブリスが歌えているのであれば、なぜ“口パクをする”という決断を下したのか。そこから僕は、その考えから抜け出せない状況に陥り、やがて彼らの音楽プロデューサー、フランク・ファリアンに辿り着いた。そして、このフランク・ファリアンこそが、同じようにプロデュースした他のディスコ・バンド『ボニーM』にも口パクをさせていたことを知ることになった。それから、もし僕自身がMilli Vanilliだったら、どうしていただろうかと考えたんだ。やがて、Milli Vanilliに関しては、新聞の見出し、あるいはダブロイド紙の表面的なレベルでしか知らないことに気付かされた」
デビュー前のモーヴァンは、ピトゥラスと共にヨーロッパで暮らしていた。そんな彼らがデュオを組むことになった経緯とは?
モーヴァン「当時、僕らが住んでいたミュンヘンには、黒人が少なかった。僕らが出会った時は、お互いが競争心を抱いていて、外から見ると敵同士のように見えていたかもしれない。それがいつしか親友になり、ジョークを言い合って、いつも笑うようになっていた」
モーヴァンとピトゥラスは、お互いがこれまで“ひとりぼっちだった”ことに気付かされたそう。それぞれが家庭環境で苦労を強いられていたのだ。そんな2人が団結したことで、それぞれにパワーを与えあったようだ。
モーヴァン「ロブも私と同じように音楽を愛し、ダンスを愛する人だった。彼と座って話し合ったことで、同じ夢や願望を持っていることに気づき、音楽業界に入ることが、我々の本当の目標になった。ソングライターになることが、本当に目標だったんだ」
そんな2人は、幸運なことに大物プロデューサー、フランク・ファーリアンと出会うことになった。
モーヴァン「(彼との出会いは)僕らにとっては一生に一度のチャンスだと思っていたんだけど、すぐに夢が悪夢へと変わってしまった。僕たちには若さしかなかった。僕たちにはミュージシャンとしての経験がなく、契約にサインした時は、自分たちを守ってくれるマネージメントや弁護士もいなかった。『今、これにサインをするな』と忠告してくれたり、あるいはサインをした後でも、プロデューサーとアーティストの関係を監視する人物がいなかったんだ。普通は誰かが間に入るわけだが、誰もいなかった。だから、フランクは僕たちを操り、なんでも鵜呑みにさせることができた。その後、成功を収めた時、僕たちはその中にあえて留まってしまった。実は最初のシングルを出したら、もう辞めようと思っていたんだけど、(5000万ドルもの契約があったため)そうはならなかった。そして、非常に成功してしまった。そんな人生における成功を味わったからこそ、私たちはそこに留まってしまったんだ……」
最初のデビュー曲でフランクにハメられた。2人は、1曲だけ口パクするだけで、その他の曲は歌わせてもらえると思っていたが、その後も歌う機会を得ることはなかった。この口パクから抜け出すためには、フランクと契約していた5000万ドルというレーベルとの違約金を払なければならなかったが、その費用を捻出することはできなかった。
本作には、 90年代の希少な映像が多く使われている。その使用権について、コレム監督はこう答える。
コレム監督「僕らにはアーカイブ・チームが存在したんだ。彼らは、インターネットだけでなく、制作会社やニュースステーションなど、思いつく限りあらゆる情報源をあたって、映像を探してくれた。可能な限り(俳優を雇っての)再現映像を少なくしたかった。彼らの旅路をありのままに(観客に)感じてもらいたかったからだ。そのためには、貴重な映像を見つけるしかなかった。また、フランク・ファリアンのアシスタントであるイングリッドにインタビューを試みた際、彼女はある箱を持ってきてくれたんだ」
その箱の中には“驚くべき物”が入っていたそうだ。
コレム監督「そこに入っていたのは、誰も見たことのない(ロブやファブリスの)写真。幸運だった。MTVのコンサート映像もだ。だから、誰も見たことのない素晴らしい映像があったし、彼らのコンサートに行ってハンディカムで撮影した人たちにも、僕らは声をかけた。(それらの映像は)観客の中にいるような気分にさせてくれたり、バックステージにいるような気分にさせてくれたり……そういったものは、この映画を作る上では、とても重要な要素だったよ」
大物プロデューサーのファーリアンから口パクを強要させられ、グラミー賞はく奪という前代未聞の事件を巻き起こし、音楽界から追放された「Milli Vanilli」。ピトゥラスは既に亡くなってしまった。では、モーヴァンはファーリアンのことを許しているようだが、それは一体なぜなのか。
モーヴァン「彼は僕たちを利用しただけでなく、若さをも利用した。彼は僕たちを搾取し続けようとした。(でも今は)あの時の出来事を感情的に理解し、自尊心を取り戻したことで、自分自身を許すこと(=口パクを続けてしまったこと)ができただけではなく、フランクのことも許すことができた。それは難しいことだったが、その決断をしたことで、(過去を)断ち切ることができた。そうしなければ、ずっとこのことが頭の中を駆け巡っているからね。フランクを許したことで、気持ちも軽くなったんだ」
一方で、モーヴァンは、共に時間を過ごしてきたピィトラスの死に関しては、フランクに腹を立てていたそう。
モーヴァン「ボーカルプロデューサーが、僕らと共にチームを組み、僕らのボーカルを試し、今日のようなビジネスのやり方をしていたら……ロブと共に初期を回想できたら、どんなに良かったか……。フランクは僕らのボーカルを試すことさえもしなかった。フランクは、チームの一員としてではなく、僕らをアクセサリーのように扱い、僕らのボーカルのレベルを上げるようなこともしていない。フランクは『ボニーM』で成功したシステムをもう一度再現しようとしていたんだ。知らない人もいると思うが、フランクはディスコバンド『ボニーM』のボビー・ファレルとも、我々と同じことをやっていた。フランクは、ボビーと同じことをやり、(口パクの代わりに歌う人物も含め)みんなにお金を払っていた。フランクが全てを画策し、みんなを引き離し、本当にすべてを計画していた。僕にしかできない怒り方や反感があった……。だからこそ、そんなフランクを許すことこそが、僕が唯一できることだった」
現在のモーヴァンは、自身の名前、そして“自分の声”でパフォーマンスを披露している。「Minni Vanilli」にまつわるエピソードを人々にどのようにとらえて欲しいのだろうか。
モーヴァン「僕が覆したいのは、人々が僕らのことを批判的な言葉で呼んでいたという事実だ。だからこそ、僕らをスターではなく、人間として見て欲しい。ルーク監督は、観客たちに映画を通して、僕らの立場を当てはめさせてくれている。僕たちがどんな人間であったのかという“人間的な側面”がドキュメンタリーに立ち現われ、グラミー賞はく奪以降、どれほど苦しみ、どれだけ闘ってきたのかを知ることができると思う」
モーヴァン「(デビュー後、口パクを強いられても)僕らは『歌わないぞ』とはならなかった。そうじゃなかったんだ。もう逃げることや、飛び出すこともできなかった僕たちは、フランクを強くプッシュしたが、彼はロイターに『彼らはレコードでは歌っていない』と明かしてしまった。でもそれは、僕らがそうさせたせいでもあると思う。なぜなら、僕らはフランクがアメリカやドイツなどの、通常のレコードレーベルのように、歌わせてくれないとわかっていたからだ。もし、当時の僕らが、ちゃんと自分達の声で歌っていたら、より大きなストーリーになっていたと思う。だから、人々にはロブのことをひとりの人間として見て欲しいんだ」
さらに、モーヴァンは「いろいろなことが入り込んできてしまった。ドラッグやアルコールが入り込んできたのは、(グラミー賞はく奪後の)痛みに対処するため。あるいは、レコードで歌えないという事実に対処するためだった」とも教えてくれた。
今日でもダンスパフォーマンスの激しいグループの中には、“口パク”に頼らざるを得ないグループもあるだろう。なぜ「Milli Vanilli」は、あれほど過熱した議論を生んだのだろうか。
コレム監督「それはMilli Vanilliが、極めて偏った大成功を収めたからだ。当時、1000万枚のレコード、3000万枚のアルバムを売り上げ、彼らはマイケル・ジャクソンと同じくらいの人気を博していた。さらに、彼らは3曲のナンバーワンヒットを放ち、当時、最大のキングメイカー、クライブ・デイビスによる世界最高の音楽レーベルにも属していた。そんな彼らがグラミー賞を受賞し、そのうえ、YouTubeやオートチューン(アメリカ合衆国のアンタレス・オーディオ・テクノロジーズ 社が開発、販売する、楽器・ボーカル用音程補正用ソフトウェア)、ソーシャルメディア以前だったからこそ、ポップミュージックを純粋なエンターテインメントとして見ていたとも思うんだ。それに、音楽業界の人たちも深刻になりすぎていて、いつも何か腹に一物を抱えていたんだと思う。だからこそ、人々は、彼らを見せしめにしたかったのかもしれない。もし今、あの事件が起きていたら、全く違う話になっていたと思うんだ」
なぜそう思うのだろうか?
コレム監督「おそらく人々は、その事実を知ると『ああ、そうなんだ。それなら、彼らに実際に歌わせてみて、それをYouTubeにあげてみたらどうだ?』と言うと思う。それに、2人のヨーロッパ人がアメリカにいたことも大きかった。黒人であること、彼らが着ていたものや、リズミカルなラップをすること、すべてが新しく、すべてが違っていた。1980年代後半、物事がとにかく奇妙だった時代でさえ、彼らのすべてがとても魅力的に感じられた。彼らは目立っていた。だから、彼らがあっという間にトップに上り詰めたとき、それに伴う憎しみも大きかったと思うんだ」
筆者紹介
細木信宏(ほそき・のぶひろ)。アメリカで映画を学ぶことを決意し渡米。フィルムスクールを卒業した後、テレビ東京ニューヨーク支社の番組「モーニングサテライト」のアシスタントとして働く。だが映画への想いが諦めきれず、アメリカ国内のプレス枠で現地の人々と共に15年間取材をしながら、日本の映画サイトに記事を寄稿している。またアメリカの友人とともに、英語の映画サイト「Cinema Daily US」を立ち上げた。
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