コラム:若林ゆり 舞台.com - 第37回
2015年11月2日更新
第37回:北野武がタップの師匠、HIDEBOHのために温めていた企画が舞台に登場!
北野武監督の「座頭市」といえば、なんといっても圧巻だったのが終盤の農民たちによる下駄タップ群舞。これを振り付けし、踊り手としても見事な下駄さばきを見せていたのがタップダンサーのHIDEBOHだ。「座頭市」でのコラボから12年。北野とHIDEBOHが再び手を組んで作り上げられた舞台「海に響く軍靴」が幕を開ける。
これはもともと北野が「HIDEBOHありき」で、「座頭市」よりも前に映画の企画として発案したものだった。HIDEBOHが北野から聞いたのは、北野にタップのレッスンをするようになってしばらく経ったころだという。
「あるとき、武さんが『今度、タップの映画でやりたいと思っている話があるんだよ』とおっしゃったんです。『ラストシーンは決まってるんだ、最後、カメラがパンして空を映すとそこにタップの音が流れてさ』と。僕は武さんの映画で言うと『HANABI』みたいな感じかなとイメージしたんですけど。『わあー本当ですか、そんな映画なら早く撮ってほしいな』って言ったら『HIDEBOHが主役だよ』って。うれしかったですね」
HIDEBOHと北野は、不思議な縁でつながっている。HIDEBOHの両親は浅草の演芸場に出ていたタップ芸人で、ツービートのビートたけしとは芸人仲間だった。
「小さいころ僕もよく演芸場に親父や芸人さんたちを見に行ってましたから、顔を合わせたこともあったと思います。で、大人になってから『たけしの誰でもピカソ』に出させていただいたとき、『ケリー火口の息子なんですよ』って言ったら『へぇー』ってことになって。武さんは師匠の深見千三郎さんに『タップくらいできなきゃみっともないぞ、浅草芸人は』って言われていたというのが口癖でした。それで武さんやたけし軍団の方たちにタップを教えることになったんです。浅草は日本のボードビルの場だったからでしょうね」
「座頭市」でタッグを組むことになったことにも、北野の「浅草芸人」としての誇りが無関係ではなかったようだ。
「『座頭市』は武さんが浅草ロック座のママという方から『お前にしかできないよ』と企画を渡されたものなんですよ。武さんは『参っちゃったなあ』なんて言いながら引き受けざるを得なくて(笑)。それでいろいろ考えているうちに、『最後、農民たちがタップダンス始めたらひっくり返るだろ、みんな』って(笑)。僕としては『映画に出られるんだ、やったー』くらいの軽い気持ちで、その意味がよくわかっていなかった。それが、公開直前になって『仰天、タップだ』って新聞の一面にバーンと載って。タップダンスが日本映画の、しかも時代劇であれだけ大々的に取り上げられるなんて思ってもいませんでした」
さらに10数年の後、HIDEBOHが博品館劇場で「タップ・ジゴロ」というミュージカルの再演に主演していたときのこと。フラッと見に来た北野がHIDEBOHに「こういう舞台、いいよな。前に言ってたタップ映画の企画、舞台でやるのもありだなと思うんだけど、とりあえず舞台でやるか?」と言ったことから企画が再び動きだした。物語は戦時中、南太平洋の孤島に漂着した日本兵とアメリカ兵が、タップを通して友情を育むというもの。
「武さんが発案したときにモチーフになったのは、終戦後30年もルバング島で暮らしていた日本兵、小野田寛郎さんなんです。武さんは小野田さんにお会いになったことがあるそうで。以前、武さんに『カッコいい男とは?』って聞いたことがあるんですけど、そのとき『名もなく死んでいった兵士かな』というのが答えでしたから、兵士に対する特別な思いもあるんでしょう。いまは民主主義の世の中でみんなが自由に生きていて、僕らだって戦争を知らない。当時の兵士たちが当たり前に持っていたお国に対する絶対的な忠誠心なんかを完全には理解できないかもしれないけど、伝承しなければいけないという責任も感じています」
この作品の根底には北野武とHIDEBOHという2人の友情と敬意が流れているわけだが、実はもう1つ、友情のドラマが隠されている。それがHIDEBOHとは25年ほど前にニューヨークで出会ったというブロードウェイのタップダンサー、Tamangoとの物語だ。今度はTamangoに語ってもらおう。
「ここにあるのは友情以上のものだよ。これは偶然なんかじゃない。僕とHIDEBOHの間には、長い間の物語が育っているんだからね」
筆者紹介
若林ゆり(わかばやし・ゆり)。映画ジャーナリスト。タランティーノとはマブダチ。「ブラピ」の通称を発明した張本人でもある。「BRUTUS」「GINZA」「ぴあ」等で執筆中。
Twitter:@qtyuriwaka