流浪の月のレビュー・感想・評価
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社会は誰かを常に排除する
世の中は多様性を認めるようになったのだろうか。それとも、排斥される人間が変わっただけだろうか。群れて生きざるを得ない人間は、常に何らかの属性の人間を排除する。時代によって排除の対象が変わるだけかもしれない。この映画を見るとそういう気分になる。
虐待されていた少女をかくまった青年は世間からロリコン扱いされ、隠れて生きている。ロリコンやペドファイルと呼ばれるものは精神疾患だという研究がある。心の病の定義は常に変わる。かつては同性愛も病気だと主張されてきた。病気だろうが精神疾患だろうが、差別はされてはいけない。しかし、ロリコンは社会に認められない。何もしていなくても存在だけで悪とされる。
本作がロリコンを描いた映画と言えるかどうかわからない。だが、ロリコンを断罪したいという欲望を持った人はそう認定し、断罪するだろう。一方、彼を許したい人はロリコンではないと思いたがるだろう。断定していないからこそ、解釈には観客自身の歪んだ欲望が反映される。澄んだ池の水のように、観客自身を映し出す見事な構成。
【本屋大賞原作×李相日監督×「パラサイト 半地下の家族」撮影監督×演技派俳優たち】の化学反応の結果は?
本作は見る前の段階では期待感が非常に高かったです。
それは、【本屋大賞原作×李相日監督×「パラサイト 半地下の家族」撮影監督×演技派俳優たち】と、傑作になる要素が十分すぎるほどあったからです。
実際それぞれのシーンでは「画」になっていて、名作としての十分な雰囲気を醸し出しています。
広瀬すず、松坂桃李の演技も良く、これまでの印象から大きく変わった横浜流星の演技も良かったと思います。
ただ、改めて考えながら見ると、李相日監督作品にしては珍しく、監督自身が書く脚本にリアリティーの物足りなさを感じてしまいました。
・10歳の少女の更紗(さらさ)が、家に帰りたくなかった理由を警察に話せなかったのはどうしてなのか。これは映画では少女時代の比率が少ないからか、少なくとも映画だけでは伝わりにくいです。
(これは私見ですが、たとえ最初の方は言い出せなくても、あれだけ離れたくなかった文を助ける発想が生まれなかったのかは不自然な印象でした)
・週刊誌の件は、本人への裏トリ取材が無いと「訴訟リスク」が高いため今は記事にできません。
そのため週刊誌サイドは本人コメントを形式的にでも記事に反映させるのが必須で、少なくとも記事掲載後に勤務先から知らされる状況は起こり得ないのでリアリティーに欠ける展開に見えました。
・柄本明が良い味を出していた1階のアンティークショップのオーナーはどうなったのか。
落書きの被害はアンティークショップが大きく、彼の位置付けが不明瞭すぎて勿体無く感じました。
以上の点などが、もう少し深く練り込まれ整理され構築された脚本であれば、150分という上映時間に値する名作になったと思うと少し残念でしたが、役者の最大限の演技を引き出させる能力は健在だったので次回作に期待したいです。
本屋大賞受賞小説✖️ 李相日監督が描く、愛より切ない物語がしっとりと誕生
雨の夕方の公園で、びしょ濡れの10歳の更紗に傘をさしかけてくれたのは、19歳の大学生・文。帰りたがらない更紗の意を汲み、文は「うちに来る?」と声をかける。このようなふたりの出会いから、とかく犯罪的な想像をしてしまうが、ふたりで暮らしている2ヶ月間、更紗は自由な生活をおくることになる。明るく自由奔放な更紗と、何事も規則正しく地道に行う文は、まるで太陽と月のようだ。
しかし、世間では誘拐事件と扱われ、警察によって離れ離れに。
それから15年後、更紗と文は意図せず再会する。
ここからは想像を越える展開で、ふたりの葛藤やお互い言えなかった秘密に迫っていく。李相日監督作品『悪人』(2010年)や『怒り』(2016年)のように、劇中内での時間が経てば経つほど悶々としたボルテージが上がっていくため、うまく嵌ると時間を感じない作品になっている。
変なフィルターを通さずに真っ新な心で見れば、生きづらさのある中での究極の愛のようなものを見つけられるかもしれない。
許されないふたりを演じた松坂桃李と広瀬すず、緊張感の走る難しい役どころを演じた横浜流星と多部未華子、内田也哉子の融合は本作ならでは。
原作と映画では描き方も違うので、更紗と文しか知らない真実と宿命を劇場でも確かめる価値はあると思う。
月と水のコントラストが秀逸 広瀬すずと松坂桃李が奏でる静かな旋律に酔いしれる
本編150分と聞くと尻込みするかもしれないが、派手さのない「流浪の月」という作品にあって長さを全く感じないほどに作品世界に没入できるのは、やはり李相日という突出した能力を持つ映画監督だからこそ成せた業といって過言ではない。
そして李組の妥協する事なき作品への愛情を一身に浴びた広瀬すずと松坂桃李のパフォーマンスが素晴らしい。あくまでも個人的な見解だが、両名ともこれまでで一番の芝居といえる。
繊細な作品ゆえ、受け入れられない方もいるかもしれないが、月と水のコントラストも含めて、鑑賞後は余韻に浸り誰かと話をしたくなる、大人のための映画という貴重な側面も無視できない。
また、横浜流星と多部未華子の芝居も素晴らしかったと特筆しておく。
考えさせられる作品
自分の常識で物事は照らし合わせてしまうのが常で、更紗にたいして大多数は「可哀相な人」と断定してしまう。
物事を上辺だけでしか捉えられないと、そういった判断を簡単にしてしまう。
一つの情報だけで物事を捉えないで、様々な方向から考えなければならないと感じた。
プロセスは結果が大事だが、そこまでに至った過程もとても大切。
そこまでの生きてきた道筋を知ろうとする努力は、誰もがしなければならないと思った。
現実でも、一人ひとり違った人生を歩んできて、その時々で感じたことも違うのは当たり前。
そういった相手の気持ちになって考えて、接することが大切だとこの作品を見て気付かされた
『シュベールの日曜日』の様な純愛を望む
ストックホルムシンドロームでなけりゃ良いけどね。
『シュベールの日曜日』な純愛を望むよ。
松◯桃李さんは『蜜蜂と遠雷』の出ていたので知っている。中性的綺麗な顔をした物理的男性だと思う。老若男女から愛されるお顔立ちの俳優だと思う。
その彼がとんでもない犯罪者を演じてしまう。しかし、彼の行為は純愛を求める行為ではない。
僕の世代は、宮◯勤の連◯幼女◯拐殺人◯件がある。事件はロリ◯タ◯コンプレ◯クスとは言えないペド◯◯◯◯ではあるが。
宮崎◯の行為が純愛などと言える訳が無い。
つまり、それを承知してこの作品を作っているか、全く知らないで描いているかでこの作品の評価は違って来る。勿論、犯罪者が刑期を終えて社会復帰する事が主題であれば、婚約者の男の横暴を訴えている事になるが、話はどうまとめるのだろうか?だから、例えば松◯桃李さんの役を髭面の禿げちゃびんオヤジで置き換えればもっと現実的になったと思う。
多分『シュベールの日曜日』の純愛をテーマにしようとしているのだろうから。
でも、両性の合意取れる年齢に経っしていならなければ、相手の男がどんなに優しく良心的な男であっても、自分の生活圏に、周囲に黙って入れてはならない。
映画は男目線な純愛ではないストーリー展開になっちまってる。原作は多分、そうでは無いと思い、評価はしたい。
幼い少女が男と黙って一緒にいれば、どんな事があっても、第三者は偏見を持つ。そう言った社会である。明るい少女のキャラで描いているが、現実的ならば、それで病むくらいのトラウマに陥る。そんな犯罪歴はアメリカに星の数ほどある。
アメリカに限ったことでは無く、妄想の範疇を含めれば、犯罪者まがいの幼児◯愛者は沢山いる。だから、最後のネタバレはすべきで無い。ストーリーの趣旨が違って来る。それならば、寧ろのLGBTの話にするべきで、そうしないのは純愛を描きたかったからだと思う。性的なコンプレックスを据え置くと、全て性的な衝動になっちまう。
世の中は松坂桃◯ばかりではない。ハゲチャビンの髭面オヤジが純愛語って、信用してくれますか?しかし、歳を重ねるとそんな事は分かって来るものと最近分かるようになった。従って、僕からは恥じらいが消えた。
☆☆☆☆ 〝 モノも人も同じ。出逢って別れ、また出逢う 〟 原作読...
☆☆☆☆
〝 モノも人も同じ。出逢って別れ、また出逢う 〟
原作読了済み。
正直に言うと、この監督はかなり苦手な人でした。
以前に撮った『悪人』は、私が原作と映画化に於ける比較をレビューをする…キッカケになった作品でした。
但しその際の『悪人』を観た時に、(長尺になってしまうのを恐れたのでしょう)原作部分での《肝》にあたる箇所を描かなかった為か?どうしても出来上がった作品には歪な部分が多々あったのは否めなかったと思っています。
それだけに、観る前にはかなり心配な面があったのですが。出来上がった作品を観て、それは間違いであった事実を知る事となりました。
これは傑作ですね!
原作を読んでいたからこそ、上映が始まって1分程経った辺りで「こ、こ、これは!」と、凄いモノが観れるかも知れない…との予感に胸がドキドキと高鳴りだしたのです。
予め言っておきますが。本屋大賞を受賞した原作を、私は世評程には凄く良く出来た小説だとは思ってはいない…と、宣言しておきます。
勿論、駄作だと言っている訳では無く、良く書かれてはいるとは思いますが。前半部分での更紗が過去を振り返る描写に、少しモタつきを読みながら覚え、なかなか内容にスンナリと入って行けなかったのです。
原作では、そんな大きくなった更紗と、文が偶然にも再会を果たす迄が全体の1/3辺りになります。
でも、そこからは一気呵成にページをめくって行ってしまいます。この似た者同士な境遇の2人の運命に目が離せなくなって行きました。
そんな前半部分を一体どう描くのか?
ところが!本編では、この2人が再会を果たすのは、まだ始まって僅か数分なのです。
「えっ?マジか!」
驚いたのは言うまでもありません。
2人が再会してから、その原作に於ける前半部分の過去の描写を、映像化に於いて〝 出逢って別れ、また出逢う 〟…とゆうモチーフを基に。更紗の苦悩として《大好きだった文への想い》を、溢れさせる描写が以降ふんだんに描かれていました。
以降映画本編は、ほぼ原作を踏襲して進んでいます。
しかしながら、そこはやはり尺の都合でしよう。原作での様々な2人の絡みから、周りやネット・マスコミ・世間が、好奇の目を向けて行く辺りは、最小限の省略にとどめてストーリーを展開させていました。
その辺りの賛否は、観た人によって色々な意見があるかも知れません。
その辺りの【否】として。とにもかくにも、2人は出逢ってしまい。更紗の異変に気付いた亮が、嫉妬にかられた事から。更紗と文の2人は、坂道を転げ落ちる様にネットであり周囲の人達から蔑まれて行きますが。その際に、更紗が唯一心を許せる同僚だった安西であり。文の恋人の谷の描写は大幅にカットされている為。原作を読んでいない人には、多少都合の良い人物像…と思われてしまうのでは?とも感じました。
そんな安西と谷ですが。原作では安西は、更紗の相談相手であり。亮のDVから助けてもくれ、その代わりに…と、何度も娘の梨花を預け。それが最後には、2人にとっての過去と現在との【月と鏡】の関連性に繋がり。悲劇性はより増幅されてしまうのです。
一方で、文の恋人だと思っている谷。
彼女は(原作だと)更紗の事を、文に付き纏う《ストーカー》だと思い込み。諌める為に交番へ連れて行ったり、(年上である事から)更紗を何かと子供扱いします。
その事が、映像化でのオリジナル要素として、最後の最後に凄い展開を見せるのですが。それは映画本編のラスト40分辺りから展開されるパートで明らかにされるのです。
安西と谷のキャラクターは、2人の運命を握る人物像として展開上では重要な2人なのですが。
それぞれ、安西はそのビッチ的な性格。谷は病気により胸を失っている設定ゆえか、ある程度は観に来たお客さんを意識しての配慮なのか?あまり目立たない存在になっている。
主演の2人、広瀬すずと松坂桃李のコンビは本当に素晴らしかった。
会う人毎に「芯の強い人」と言われる更紗。
広瀬すずはまさに更紗そのものだった。
同時に、彼女の若い頃を演じた子役の女の子も素晴らしかった。
松坂桃李は、その見た目からしてもう圧巻の極み。
【幼女趣味のど変態】
世間で言われ蔑まれた辛い日々。
だが本当の彼は、人には言えない病気を抱えていた。
谷に言われて告白する文。
「僕は少女が好きなんだ!」
でも本当は全然違う。
映画のラスト40分は、そんな文から発せられる苦悩の叫びが、映画オリジナルと言えるくらいに爆発している。
男の子として生を受けたものの、「どうして自分は女の子にはなれないのか?」
女の子になりたいのに、どうしても周りには男の子として見られてしまう。
それゆえ〝 男の子になろうとするが、思えば思うほど女の子にはなれないし、そもそも女性を愛する事が出来ない 〟
「母さん…僕は出来損ないなの?」
それを感じながら生きて来た、その悲しさ。
谷に放った言葉の真の意味には、自分を蔑む世間に対する精一杯の怒りが伴っていたのだった。
それを、全身全霊を持ってスクリーンから殺気を帯びながら放つ松坂桃李は素晴らしかった。
映画本編での出番は少ない谷役の多部未華子。
彼女は、確かに先程述べた様に出番は少ない。
でも、最後に彼女の存在自体がこの作品では世間が蔑む【ロリコン変態野郎】の代弁者となっていた。
「少女趣味だから私を抱かなかったのね!」
この時の多部未華子がまた凄かった!
泣き崩れ、怒りに打ち震えなぎら叫ぶその顔の何という醜悪か!
この際のあの醜悪な顔のアップこそ、製作側が狙った〝 世間の偏見と差別による醜悪な姿 〟そのものだった気がする。
最後にもう1人。亮役の横浜流星。
原作以上にDV男を演じており。そのクソっぷりこそは、この作品での最大に見所と言えるかもしれなかった。
原作の最後に描かれる《2人+或る人物》のその後。
映像化では、あくまでも社会から蔑まれた【現在】の2人が辿り着いた、行き場のない閉鎖感で映画は締め括られている。
それにより、原作でほんの少しだけ示されていた(2人にとっての)ハッピーエンディングではなかった。寧ろバッドエンディングと言って良いのだと思う。
しかしながら、この映像化によるエンディングには。原作よりも深い2人の信頼性であり、お互いの境遇を慈しみ会う共有性に溢れ。原作を読んだ時以上の余韻を味合わせてくれるラストシーンでした。
一見すると、月は夜の帳に明るい光を放つ。
夜=裏の顔との存在として。
だけど、決して月は自ら光を放つ事などない。
寧ろ月は存在を主張する事などない。
月は本来、自ら光を放たない為に昼間にも存在しているものの、なかなか気付かれる事もない。
月は地球に引かれ続けながら絶えず寄り添い存在し続ける。
2022年5月14日 TOHOシネマズ西新井/スクリーン4
※ なお、原作に重要な要素として登場するタランティーノの『トゥルー・ロマンス』は、一切出て来ず。逆に、数本の今敏作品がヒューチャーされており。(おそらくは)そこが監督自身による、原作との1番の違いとしての拘りの1つなのだろう…とゆうのが分かる。
秘密を抱える
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少女時代のすずは父が死に、母が恋人を作って失踪したか何かで、
オバの家に引き取られたが、中学生の息子が深夜に体をさわりに来る。
それがイヤで家を出て、雨に濡れてた所を桃李に救われ、一緒に住む。
桃李は幼い女の子が好きだったが、性的なことは何もしなかった。
やがてこれが誘拐事件として社会で騒がれ、桃李は逮捕される。
すずは上記中学生のことがどうしても言えず、よって桃李を救えず。
そしてすずが大人になり、偶然入った喫茶店の店長が桃李だった。
すずは流星と婚約前提で同棲してたが、桃李に心を奪われる。
幼い頃のトラウマで、肉体関係が嫌いで、普通の恋愛ができなくなってた。
やがて桃李にも恋人がいることを知るが、それはそれで喜んだ。
しかし流星が嫉妬して、桃李を元犯罪者としてネットにさらす。
それを知ったすずが怒り、キレた流星にボコボコにされる。
そして何とか逃げ出したすずを桃李がまた救う。
すずは桃李のマンションの隣の部屋に引っ越して来る。
ところがマスコミがかぎつけ、桃李は世間から心無い嫌がらせを受ける。
こうして桃李は恋人とも破局、流星は流星で自殺をはかる。
すずは同僚の旅行中にその娘を預かり、そのまま音信不通になったりもする。
桃李は警察から怪しまれ、出頭を命じられたり、とにかく色々起こる。
人生に絶望した桃李はすずに自らの秘密を明かす。
よく分からんかったが、後でネット調べると桃李は病気だったらしい。
それは第二次性徴が起こらないという病気みたい。
桃李は誤解され犯罪者になってでも、それを知られたくなかったのだった。
桃李が好きなすずはそれも受け入れ、共に一生寄り添う方向で落ち着く。
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桃李もすずも、色んなトラウマを抱えてるから、どこか不器用。
でも2人とも素直でまっすぐな人で、応援したくなる。
でも世間は気持ち悪いとか色々面倒くさいことを言う。
最後は一つの「自分達らしさ」に到達し、ある意味ハッピーエンド。
もっと酷い終わり方を予想してたから、嬉しかったわ。
それにしても広瀬すずってすごい女優になって来たな。
感情を抑圧して生きてる人が感情を爆発させるシーンは必見。
思わず涙が止まらなくなっちゃったよ。
松坂桃李と広瀬すずの演技が良かった。 この二人は純粋にお互いを精神...
松坂桃李と広瀬すずの演技が良かった。
この二人は純粋にお互いを精神的に支え合っていた。大人同士なら犯罪にならないけど。大人になってからも周囲の見え方が二人を阻む。周囲の目って怖いなってくらい。二人が純粋なだけに周りが違和感にしか思えなくなる。
横浜流星の役は痛かったな。そんな役を挑むところは好感が持てます。
終始暗いですが、最後に二人の未来に希望があって良かったです。
もどかしいところがある
10歳の更紗が雨降る公園で家に帰れないでいると、19歳の文が家に誘う。更紗は家に帰らず文と2か月同居するが、彼は誘拐犯として逮捕されてしまう。15年後、更紗は元被害児童ということを受け入れている亮と同棲していた。そんな時、文と思いがけず再会する。
子供の更紗が、もっと正直な供述をしてもよかったのでは、と少しもどかしい思いになりました。一方、終盤の文の告白には納得。幼いころに父を亡くした更紗は、文に父性を求めていたと思います。しかし心身とも大人になれない文とは、いづれ。
これ程、詩的に静寂で感情が狂おしい作品に出会った事はないかも~
長いGWも過ぎて、仕事始めのツライ1週間も無事乗り越えたw
ご褒美に 今日は「流浪の月」を見に行ったよ。
いや~ 前から楽しみにしていたんだけども、
期待通りの作品仕上がりで 私的には満足満足!!!
さすが、李相日 監督。素晴らしい 波動の流れを
全編に組み広げ描き上げ、感情の一寸の途切れも無く
繋がりを繊細に表現し編み上げています。
これはちょっと驚いたかな。予想外に出来が良かったです。
この前見た ”悪人”の類の流れを強く感じたが、
でも別物で こちらの方がラストの持つ画力の波動形成は
高いと感じました。
特に、展開に組み入れている音楽が素晴らしく
絵の流れと合わせて
波動を増し秀逸さを感じましたね。
上映時間:150分
原作:凪良ゆうさん
監督・脚本:李相日さん
音楽:原摩利彦さん
(MC)
家内更紗:広瀬すずさん
家内更紗(幼少期):白鳥玉季さん
佐伯文:松坂桃李さん
中瀬亮:横浜流星さん
谷あゆみ:多部未華子さん
主人公の文は自らの性障害をロリコンと思われ、
周囲の人々や母親からも見放されて行く。
孤独に生きるしかない自身の前に、
同じ境遇を感じる更紗に偶然に出会い
二人は共に 心の拠り所を求め合いながら
暮らし始める。しかし 世間の目が二人を許さない。
やがて警察に見つかり そして罰を受け
それぞれの人生を歩む事になるのだが。
十数年後、偶然の出会いが、
二人の今やっと熟した生活が
少しずつ 月の満ち欠けの如く 暗闇に落ちていく。
月の形は人生そのもの。
満ちたり欠けたり。見上げた夜空に
雲の流れの隙間から ほんのりと現す月・・・
2人はそれを見て、今の境遇と
きっとこの先の運命を感じていたのだろうか。
最後に二人が見上げた月は 消えかけ前の細い三日月だった。
ラストに訪れる、松坂さんの衝撃の場面
渾身の演技に きっと心打たれるでしょう。
※ここは スクリ-ン前方を両目見開いて感じて下さい。
広瀬すずさん、松坂さん とても良く頑張った。
表情も素晴らしく、前に出ていて良いですね。
次回作も 期待しております。
そんな二人の行く末を、
是非 劇場でご覧ください。
「心配」とは利己的なもの
ただただ役者の演技力に圧巻された。表情、目線、息遣い全てが人物像を表しているようで、その人の感情や場面解釈において、いい意味で観客任せの映画だった。
人間誰しも、自分にとって、社会にとっての「異物」に嫌悪感を抱くものだろう。そこから理解しようとするか、排除しようとするかは関係性や期待度によって変わるだろうが。
だが、その言葉は真実を全て映し出せるものなのか。
「異物」の認識がどう影響するか。
「異物」認定された人の内情とは。
そのような点にスポットを当てたストーリーだと思った。
DVなど痛みにまつわるものであれば誰しもが後先考えず、駆けつけて心配する。
一方で性的嗜好や発育に対しては「正しいと思われるもの」を基準として、目を逸らしたり、拒絶してしまう。
周りがどう思おうが、本人が劣等感を抱いてしまえば誰にも相談できず、「外には出ていけないもの」として意識してしまう。
だが、エンタメや噂話ではそのようなネタを笑いものとして盛り上がるのだから、この文化は到底無くならないだろうと思う。
きっかけは、どうあっても…。
二人の関係性が良好なら、本来、それは他人様がいらぬ世話を焼く次元のお話ではないと思うのですけれども。
ふつうに「誘拐」といえば、身代金目的やわいせつ目的で、相手方(被拐取者)を無理やり連れてくることがイメージされると思うのですが。
しかし、特に相手方が未成年だったりすると、可哀想に思って連れて来たり、家の中などに連れ込まなくても、相応の長い時間に渡って連れ回したりすると、警察などの捜査機関の眼から見れば、それも立派な「誘拐」になってしまうことから(そうは思ってはいない当事者にしてみれば)訳が分からなくなってしまうという次第になるようです。
ものの本によると、「略取・誘拐の罪は、人の自由を侵害する犯罪の一種であるが、その本質(保護法益)について、被拐取者(略取又は誘拐される者)の自由に重点を置くか、被拐取者が未成年者であるために監護者がある場合には保護監督権に重点を置くかによって見解が分かれている。判例や通説的立場は、一面においては被拐取者の自由が保護法益であるが、他面では被拐取者が未成年者や精神病者であるために親権者などの保護監督者がある場合には、この親権者などの保護監督権(監護権)もまた保護法益と考える」(斎藤誠二著「刑法各論」八千代出版、1990年)とされているので、捜査機関の眼から見ると、上記のようなことになる訳です。
誰しも、保護者に身代金を要求する目的だったり、体を触ったり、その他(まだまだ「子供」の評論子には詳しく分かりかねますが)いろいろと「いけないこと」をするために自分を拉致してきた人に好意を寄せることは、ふつうには、あまりないだろうと思うのですが。
しかし、お互いに何となく惹かれ合って、それで結果として、ずっと行動を共にして来たりすると、とくに相手が未成年者だったりした場合、本作のようなことは、起こり得ないとは断言できないだろうなぁと思います。実際問題として。
(「いいパパをゲットするまで」とは言いつつ、結局は行方不明になってしまった安西の子供の面倒を見ていたことが「誘拐」というのは、いくらなんでも無茶だとは思いますけれども、評論子は。最初に、保護者(親権者)である安西からの明確な委託がある訳ですから。)
その意味では、本作の「私が愛した人は、(私を誘拐した)誘拐犯でした」というキャッチフレーズは、まるまるは嘘ではないのですが、当事者の二人の心情にしてみれば、「誘拐した」「誘拐された」という意識は、どちらにも、しかもハナからなかったように思うので、評論子的には、いささか羊頭狗肉の感が否めないところです。
いずれにしても、他者(世間一般)からは偏見を持って見られがちな恋愛…というのか、語弊を恐れずに端的に言ってしまえば、他者(世間)からは理解されない恋愛関係の二人は、いつか出会うであろう理解者に巡り合う「その日」まで、満ちては欠ける月のように延々と世間を「流浪」しなければならない―。
その「痛さ」が、胸に迫る一本で、終わって切ない一本でもあったと思います。評論子は。
充分に佳作と評することができると思います。
<映画のことば>
自分を好きになってくれる人と、恋もしてみた。そういう人なら、本当のことを分かってくれると思って。
でも、やっぱり人って、見たいようにしか見てくれないのかもね。
<映画のことば>
「生きていても、どうせ、いいことないし…」
「でも、僕は生きていたから更紗にまた会えた」
ちりばめられた沢山の問題
更紗は更紗だけのものだ。
人は見たいようにしか見ない。
印象的なセリフです。
世間から見たら誘拐犯。
あの頃の少女からしたら救いの手。
世間から見たらロリコン=気持ち悪いのレッテル。
彼からしたらここまでも悩んできた辛い思い出。
母親からハズレとされて、見てもらえてなかった事から
初めて自分をしっかり見てくれたのが少女だったから、
そこにいつのまにか惹かれて恋心が生まれたんじゃないかとと思いましたが、シンプルにロリコンだっただけじゃないかと言う人もいるかもしれません。
見る人によって受け取り方は変わる作品なのかなと。
本当に心配している人もいるんだよと言ってくれた店長の仕事先に、彼女を本当に心配してくれてる人なんていたんでしょうか?
なにもないと証言しても通らない世界で
週刊誌に好き勝手書かれて、また再び誘拐犯扱い。
沖縄に旅行に行った職場の女の人も、すごく仲良くしているように見えたけど、実際は子どもより自分の恋愛が優先で、連絡も取れなくなり帰ってこず。
小さい子にロリコンってなに?と聞かれたふみくんは
【小さい子しか好きになれない人のことだよ】と。
『じゃあふみくんのことじゃないね、サラサちゃんのこと好きだもんね』
【そうだね】
という会話も印象的ですが、
冒頭で、ふみくんの家にいるとき幼少期のさらさちゃんに
『ロリコンってつらいの?』と質問され
【それよりも辛いことが人生にはある】
みたいな会話をしていたのですが
あの会話は、ふみがさらさちゃんにロリコンを打ち明けていたのか、どういう経緯であの会話になったのかわかりません。
普段全然笑わないふみが唯一すごく嬉しそうに笑ってたのは、預かった女の子と遊んでいる時でした。
スポットが2人に行きがちですが
噂好きの職場の人、少女の母親、ふみの母親、
さらさの彼氏など、色んなところに沢山の
人の愚かさや、悩みや、問題が詰まった作品だなと思いました。
ふみの彼女もすごくかわいそうな結果となってしまって
できない理由は自分がロリコンだから、大人もできるかなと思って試しただけと、彼女を突き放すために
酷い言い方をしてましたね。
半分本音と半分嘘の演技力がすごかったです。
ふみの病気ってどんな病気だったのか
あとで検索しようと思いました。
裸になった時にこの役のために体つくりをしたのかな?
股間部分がおかしいくらい小さくて
その病気が原因で彼女とできなかったんだと
思うのですが、その病気の詳細がわからず。
後から調べて、なるほどなとなりました。
その病気が人に知られることを恐れていたんですね。
ロリコンと言うより、子どもならそういうことも
関係なく、人と人で一緒にいられるからシンプルに子供が好きということあるのかもしれません。
だから楽しそうに遊んでいたのかなと。
すごくガリガリで、肌も荒れてて、目の中も真っ黒で
演技はすぎて、引き込まれます。
横浜流星さんも、目つきの変わり方など
すごい演技力でした。
動くたびに怖いってなりました。
ナイフで刺しに行くのかと思ってハラハラしましたが
自殺をはかってましたね、彼がどれほど追い込まれてたかなんて、こちらにはわかりません。
人は知らないところで知らない悩みを沢山抱えてて
繊細で儚くてもろいけど、一つの光さえ見つければ強くなれるなぁって思いました。
10歳と19歳は犯罪で
25歳と34歳は犯罪じゃない。
分別がつく年齢かそうじゃないかなのか。
なんだか不思議な感覚になります。
原作を読まなければわからないことが
たくさんありそうです。
ラストの唇ケチャップを拭うシーンも
あれだけ見たら、え?ちょっとロリコン?ってなるかと思いきや、小説では
性的興味が沸くのかどうか確かめるためにしたが
特になにも感じなかった、と書かれているそうです。
自分の感情がどういうものなのか確かめていたのですね。
きっと単純に性的な気持ち抜きの好きが、
出てきていたのかもしれません。
この先の2人にどうか幸せになりますように。
そんな作品でした。
あと、広瀬すずさんと、幼少期役の女の子が
とてつもなくそっくりですごかったです。
今の邦画にはとがった映画も必要なのかもしれない
李監督作品は怒りに続いて2作目。気合を入れて観ないといけないのはわかっていたので観るか迷ったが広瀬すずが前作に続いての主演だったので観ることにした。わかっていたが観るのがつらいシーンが多かったが、誰もが持ってる痛みやつらさを表現したとても良い映画だったと思う。リアリティの表現はこの監督の素晴らしい部分だしこれを表現できる俳優は間違いなく演技の幅を広げる事ができる。事実広瀬すずの演技は以前に比べるとはるかに素晴らしくなっており同年代では負けなしだと思う。いい演技は観客を映画の中に連れて行ってくれる。つらいシーンが多いとがった映画も今の邦画には必要なのかもしれない。
事件立件の判断は
松坂桃李はもちろんだが、広瀬すずの終始感情を抑えた演技、対照的に感情剥き出しの横浜流星の演技どちらも良かった。
世間的には
児童連れ去り犯の文、
エリート会社員の亮、
幼い頃に事件に巻き込まれた更紗、
三人とも母親との関係で本人が望む満足な愛情を得ずに成長した。
文(松坂桃李)は、変わり者と見放される。
なぜあの小屋で住まわされるのか。忌み嫌われているからか。(母親役疑問)
更紗(広瀬すず)は、父親と死に別れ母親にも出て行かれ伯母の家で厄介者扱い。
亮(横浜流星)、母が男と家出、父や祖父母に育てられ、母には捨てられた、という意識が強い。
そして元嫁(母親)を嫌う祖父母たちの刷り込みか、
女性を下に見るように育てられた。
そのせいか玄関ドアも更紗に開けさせる。
児童連れ去りの罪については、どこから罪となるのだろう、か疑問に思う。
親の承諾なしに違う場所に連れて行けば罪が成立するのか?
被害者?となった児童の証言はどこまで信じてくれるのか。ストックホルム症候群で信用性0なのだろうか。.
この時点で大事にもならず事件にもならなければ二人の人生は違っただろうに、と思ってしまうのである。
二人とも善人であるのに。
公にされなかったが、従兄弟に性的虐待を受けていて厄介者扱いされる居場所の無い家と
優しく制約の無い生活を与えてくれる見ず知らずの男の家と
どちらを選ぶか?
辛い境遇で幼いながらも
人を見抜けるようになった更紗。
更紗が住みたいと思う場所と法律や世間一般が住むべきと考える場所が違い、結果児童の更紗が住みたい場所に住めない。
更紗が亮とつき合わなければ良かったのだろうか。もっと屈託の無い男性なら明るく過ごせて文を見かけても過去のことと忘れることができたのか。
それとも、やはり、文と更紗は出会うべくして出会ったのか?
ただ、二人が上手く一緒にいれるには時間が必要だったのか?
梨花についての事は、警察に説明できると思うのだが。ここまで人の話を聞けない組織なのだろうか疑問。
またどこかに流れて行けばいいよ。 だね。
ハッピーエンドなのかどうか
レンタル110
公開当時は出演者の顔ぶれを見ただけで敬遠してしまった一作
ん 監督は李相日だし原作は本屋大賞と
これは観ておくべきかと思い直した
横浜流星いい
松坂桃李は蘇るだか野獣の松田優作を彷彿とさせる
多部未華子はミスキャストかと
むしろ広瀬すずの方の役かと思った
よく見る映画youtubeでハッピーエンドなのかどうかで言い合っていた
オラは断然ハッピーエンドだと思った
いつもはピントが外れていると感じる映画プロデューサーと珍しく一致
原作を読んで理解を深めたい良作だ
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