偶然と想像のレビュー・感想・評価
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日本映画の系譜じゃない監督
日本映画に「海外で大絶賛!」というキャッチコピーがあっても、具体性やプライズの内訳がないばあい、それはフォックスやワーナーやUIP(など)の海外映画部のアジア担当のバイヤーさんがとっても気に入ってくれた──ていどの話だと思われます。(憶測です。)
わが国で「海外で大絶賛!」を常用したのは、言うまでもなく日本をだいひょうする映画監督の園子温監督です。
ほんとは「担当さんがすごく気に入ってくれた!」ですが、それだとキャッチフレーズとして弱いため、かたっぱしから「海外で大絶賛!」と謳ってしまった、わけです。
その結果、まるで園子温がほんとに海外で大絶賛されているような錯覚を観衆に植え付けてしまった──のでした。
さいわい、このほど公開された海外進出第一弾のPrisoners of the Ghostland(2021)(の大コケ)によって「海外で大絶賛!」がマスコミの盛り報道だったことを自ら証明してくれましたが、今まで、絶賛されていないものを絶賛されていると持ち上げられ、ましてや、日本をだいひょうする映画監督に祭り上げられて、園監督もさぞかし迷惑していたことでしょう。
濱口竜介監督のドライブマイカーは海外で大絶賛されました。多数のプライズが根拠です。カンヌで脚本賞など4冠。アジア太平洋映画賞、シカゴiff、デンバーiff、ハリウッド批評家協会賞、ニューヨーク批評家協会賞。オスカーのレースにも入っていて、カイエデュシネマやインディーワイアも推しています。つまりほんとに海外で大絶賛されました。
ですが「ドライブマイカー!海外で大絶賛!」という謳いをあまり見ませんでした。
(憶測に過ぎませんが)濱口監督は映画をつくることも、映画を見てもらうことも、日本マーケットに限界を感じているのではないか──と思いました。
(TV出身者の映画・映画監督を除いて、)日本映画界は閉ざされた昭和ポルノ作家の宅老所です。古参がそれなら新進もみな裸の王様です。むしろどうやってロマンポルノを知り得たかわからない若い世代が先達とおなじロマンポルノをつくるのです。(such as:21世紀の女の子)。そんな古井戸で、世界を知らない蛙たちと競い合ったとて、なんのいみがあるでしょう。
寝ても覚めてもやドライブマイカーや本作も海外のマーケットから逆輸入的なマーケティングが為されたと感じました。海外のまともなアワードを獲ってしまえば、日本の権威的批評家が何と言おうと、疎外される心配がありません。
50年代を黄金期として70年。それだけ長い月日ならば、いくらなんでも日本映画から日本映画的でない人が出てきてもふしぎはありません。濱口竜介監督のウィキペディアに『ジョン・カサヴェテスの『ハズバンズ』から大きな影響を受けたことを公言している。』とありました。日本の映画監督にそんな人はいなかったと思います。
──
三篇のオムニバス映画。
話が面白い。画は日常だが、なんとなく非日常なおちがつく。
それも明解なおちではなく、倫理でも教訓でも不条理でもない、なんかふわりとした所へおちる。
寝ても覚めてもを見たとき、棒読みと棒演技が、東出昌大と唐田えりかの特性だと思っていた。ところがある。
この映画の渋川清彦を見て。ちがう。と思った。
渋川清彦が演じる教授は棒読みなだけでなく能面だった。
役者の演技が演技指導によっている。ことがこの映画でわかった。
となると演技がへたと世評のある東出昌大は、もしかしたら演技がうまいのかもしれない。わたしも誰かの演技について、うまいとかへたとか評定してしまうことがあるが──そもそもが、いいかげんな主観・見識にもとづいている、とは思っている。
たとえば木村拓哉は俳優キャリアのさいしょから今にいたるまで演技を云々される人だが、ドラマの主演として厖大なキャリアがある、だけでなく、演じてきたすべての役に「型破りなキャラクター」という共通点がある。
これは謂わば三船敏郎のような人物固有のダイナミズムで、したがって、木村拓哉がへた、という言い分は、三船敏郎がへた──の位相とすごく似ている。
三船敏郎が一貫して演じたのは「豪快なキャラクター」だった。よしんば三船敏郎がへただった──としてもキャラクターを確立している以上、へたを補ってあまりあるダイナミズムがあった。といえる。じっさいにあった。
木村拓哉も、そういう種類=リアルな演技ではなくキャラクタライズが売りの俳優だと言える。三船敏郎が「豪快なキャラクター」を身上としていたなら、木村拓哉は「型破りなキャラクター」を身上としている。じっさい、どの映画/ドラマでも間違いなくその配役が為されていた。
そして役者がキャラクターそのものに魅力を持っているならば、演技がへたかうまいかで、役者の価値ははかれない。という話。である。
ところで、能面でやってくれ──は、わりとよく知られた小津安二郎の演技指導方法だと思う。俳優は、小津映画の佐分利信みたいに、あるいは本作の渋川清彦のように、演技指導によって、能面や棒になる。
ところが強いキャラクターをもった俳優は、演技指導どうりの役作りにおさまらない。それ以前に、演技指導によって映画をつくりあげたい監督は強いキャラクターを持った俳優を使わない。たとえば濱口監督は木村拓哉に能面でやってくれとは言わない。に違いないし、もし使うとすれば、能面でやらなくていい役回りを充てる。と思われる。
ただし、木村拓哉が能面で演じたらぜったいに面白い。で、言いたいのは──渋川清彦を教授にし、能面にして棒にしたのがとてもフレッシュだった、ということ。
わたしはかつてゴールデンスランバーのレビューにこう書いた。
『渋川清彦は、この映画やフィッシュストーリーで見せた演技でブレイクした、はずである。その持ち味が理解されていない──と思う。キャスティングされると、まず間違いなく、だらしない人間、ダメ男、チンピラとして使われる。いったいこの紋切り型の発想はなんなのか、というくらい、一本調子のキャスティングを被る(こうむる)。クレジットされていると、ほぼチンピラ役なのである。
この国の演出家は何を見ているんだろう。(後略)』
ほとんどの映画で渋川清彦はかならずダメ男の役になるのだが、その発想に日本映画の限界があった。と、わたしは思っている。中村義洋監督以外だれひとりそれを解っていなかったが、濱口監督はそのあたりを解っている──と感じられた。
三篇を通しても渋川清彦のキャラクターがいちばん強烈だった。
ただし映画はなんとなく庶民的ではない。
東京は映画の発展度で言うと、ドレッドノート級の田舎なのだが、そこに巣くっているお百姓*の自称評論家が、偶然と想像のような、会話の妙味やロメールやアレンやゴダールやサンス風の「洗練されたすれ違いの零れ話」の映画を絶賛したばあい、かならず権威がまとわりつく。言いたいことが伝わっているか解らないし、映画に罪はないが、そういう権威がまとわりつきやすい映画だとは思った。
(*わたしは田舎の百姓なので百姓が差別用語には成り得ません。)
「偶然」から始まるが、いくつかの「想像」から選んだ着地点には・・・・「必然」がある。
対話劇ですね。でも映画として映像化する効果も(部分的に)感じられます。
①魔法(よりもっと不確か)
二人きりになったオフィスに、忘れ物をした従業員が(偶然ではなく)戻ってきたのは必然であり、主人公の気持ちも固まってきた。
夕景の写真を撮ったのは、この町への惜別の気持ちでしょう。(私の想像)
②扉は開けたままで・・・・・パスします。
③もう一度
二人でエスカレータを行ったり来たりする映像が効果的です。
同窓会と言うのは、当時に戻ったあけっぴろげな気持ちと、それを傍観できる今の気持ちが同居しますよね。
帰り道に相方が自分の気持ちが話せたのは必然。最後の最後にやっと名前が思い出せたのは、年寄りのアルアルです(笑)
「偶然『を』想像」?
あまりピンと来なかった。
偶然から始まる物語を描きたいことしか伝わってこなかった…
まるで、「偶然『を』想像」して描いたような…
役者さんの芝居はみなスゴかったとは思うが、ストーリーとしてはなぜ2話だけあれほど悪意に満ちた着地なのか、その他の話がなんとなく良さげに着地しているのか、意味が分からなかった。
それこそが『偶然』だ、ということなのかも知らないが…
短編3本立て、今一つ自分にはあわなかった。
海外でたくさんの賞を取っている旬の監督の作品です。
冒頭に監督の挨拶がありますが、カメラに視線を合わせずオドオド喋るのですごく違和感ありました。
(俳優・女優が演じたらNG出すだろうと ちょっとモチベーション下がってしまった)
作品は3本立てです。
1本目 元カノ女優さん 存じ上げないのですが有名な方ですか?
2本目 舞台演劇っぽい発声でとても違和感感じる
大規模組織であのメールアドレス設定はありえないんじゃないですかね(話の根幹に影響します)
3本目 特殊な環境下での話ですが、今一つしっくりこない。
正直、今一つ自分にはあわなかった。
(貶すつもりはありません)
人生のタイミング
私はこの映画を素晴らしいと思った。
「その人じゃないとダメなのか。
なぜその人がいいのか。」
と常に考えている自分にとっては
とても共感する作品だった。
例えば今付き合っている恋人、
「その人がいいんだ。君じゃなきゃダメなんだ。」
なんて言葉は本当に存在するのかと考える。
別にその人じゃなくなっていいじゃないか?
別れて時間が経ったらまた別の人に巡り合って好きになって関係は作られていく。
こういったやるせないことが
世界には蔓延っていると思う。
第一話 魔法
最後のシーン、なんでも素直に言ってしまうメイコだが
想像力を働かせて自分の気持ちを全て飲み込んで譲った。
好奇心と優しさが混じった人だからこそ
関係を深くこじらせたのだろう。
三者みんなに共感した。
誰も悪くないよな、私はそう思った。
第二話 扉はあけたままで
何を言おうと瀬川は心という扉は常にオープンである。
それが常に扉を開けておいてくれと頼むシーンで表現されていたと思う。
これは大抵の人間が出来ることではない。
自分の弱みを隠してしまうものだ。
自分自身で直視することさえできない人が多いのだから。
曖昧な状態で生きることも並大抵の人間が出来ることではない。
言語化できない場所で生きる人を私は否定しない。
それを才能だといった瀬川に私も救われた。
第三話 もう一度
その人じゃなくてもいいんじゃない?
その人じゃないとダメなの!
という境目を行ったり来たりするお話。
夏子の心に空いた穴はその人でしかないと埋められなかったのか。
いや、そうじゃなくても埋められたのではないか。
人間は偶然を重ねて巡って生きていく。
この手放したくなかったというやるせない気持ちを
とても上手に表現していた作品だった。
人生、タイミングっていうのは常につきものだなと思う。
仮にこの映画があまり好きでなかった人も
数十年後に見たら好きになってるかもしれない。
あまり響かなかった人は、
きっと相手が傷つかないように
相手優先で生きている人だろう。
そういった人はもっと自分本体で
生きたてもいいかもしれない。
様々な出会いと経験によって
考えは変わっていくものである。
その偶然性を楽しみながら
濱口監督は生きているのだろうと感じた。
わー!😵新しい〜映画だ! 演劇✖︎映画だ!
凄いぞ。
この台本(脚本)は、世界言語に訳しやすい。
つまり、世界の人に、伝わる(理解できる、考えさせるも)!
だからか、映像に隙、無駄がない!簡素。
だから、演者に芝居っぽさがない。
などを、思いながら見ていたら
あっという間に、終わっちゃった😢
目をつぶって、もう一回
映画を聞いててみたい。だめ?
古今東西の共通の真理
いつもの映画館で封切初日に仕事を2時間早退
最近このパターンが多い
ドライブマイカーに続くスクリーン鑑賞
3話のオムニバスですごく見易い
オラのバイオリズムに合う
3話とも1対1の会話で成り立つという
役者の技量を求める内容
現代的なトピックも織り込まれているが
会話から登場人物の気持ちの変化が起こるのは
古今東西の共通の真理のような気がして
興味深い
①は小悪魔にしてやられた 男ってバカだ
ひょっとして②も③もこのパターンかと身構えたが
そうでなくてよかった
バカヤロー私おこってます!!になってしまうところだ
②はコントそのもの
録音データの存在を知らされた教授の
何てことだ…というセリフからの展開
③は仙台が舞台で単純に嬉しい
エスカレーターは仕事帰りにほぼ毎日利用している
道路を挟んだ逆側の方だが
河井青葉と片岡礼子を混同してしまう
この監督の映画 極めてノーマルな美人がよく出てくる
寝ても覚めてもの主人公とかドライブの妻役もそうだった
監督の好みなのだろうか
間違いなくオラの好みではある
おそらく今年最後の映画館 いいモノ観た
終了後は街中華屋でセルフ忘年会
19時くらいだったが客はオラだけ
生ビール2杯とギョーザとニラ玉
2軒目のはなまるうどんで〆
久々のかけうどんとコロッケといなり寿司で満足
フラフラ歩いていたら 街に人はそこそこ出ていて嬉しい
年末だもの 飲め呑め
駅にたどり着き
いつもと逆側のエスカレーターを昇って帰った
③の主人公は昇った後左に向かったが
新幹線に乗るなら真っ直ぐなんだが…などと思いつつ
帰路キロにつく
オラは誰ともすれ違わなかった
あまり映画になっていなかった気がする。面白い部分は勿論あったけど、...
あまり映画になっていなかった気がする。面白い部分は勿論あったけど、それは話が面白いわけであって映画として面白いわけではないというか。難しい。
プラトニック
偶然」と「想像」をテーマにした繋がりのない3話のオムニバス。
魔法(よりきっと不確か)
友人から話された最近気になる男が自分の元彼で、という話。
いやいやいやいや、怖いは!キモいは!面倒臭いは!と突っ込みたくなる女と、中途半端さを見せ始める男と…「想像」で良かったw ☆3.0
扉は開けたままで
教授に落第させられたことを逆恨みする大学生のセフレが、彼の仕込みでハニートラップを仕掛ける話。
扉の件を含め、これはある意味「プレイ」ですねwそういう趣味はないけれど、わかりますwwバスの件も嫌いじゃなかったけれど、その前の方が良かった。 ☆3.5
もう一度
町で偶然出会った高校の頃の同級生2人の、あの頃の理想と今のギャップと思い出話と。
ウイルスの件は必要ですか?というのと、会話の流れで家に着く前から判ってしまったのは勿体なかったけれど、それでも笑いに持っていってくれたし、若者の様な盛り上がりをみせる2人とその内容に温かい気持ちになった。 ☆3.0
3話ともまるで違うシチュエーションにまるで違う展開だけど、どれも会話劇の様相だし、味付けは結構似ている感じだし、どれもマジメな話しと思わせつつのコメディでしっかり笑わせてくれるし、それでいてちょっと痛かったり優しさを感じたり。
全話とも面白かった。
【”偶然”と”創造”というキーワードを三つの短編に異なるスタイルで織り込んだ見事な作品集。濱口監督の”日常”を描いた捻りの効いたオリジナル脚本のレベルの高さにも驚かされる作品である。】
ー 今作は、三話から成り立っているが内容的な繋がりはない。
だが、”偶然”と”創造”というキーワードを盛り込んだ脚本のレベルの高さには、三話とも驚かされる。
2時間1分が、あっと言う間に過ぎる作品である。
■第一話 「魔法」(よりもっと不確か)
・三角関係をモチーフにしている。
仕事で関係があり、親友でもあるメイコ(古川琴音)とツグミ(玄理)が、仕事終わりに夜のタクシーの中で交わされるツグミが気になっている男性カズオ(中島歩)との何気ない”会話”が、秀逸である。
そして、メイコはツグミが下りた後、タクシー運転手に声を掛ける。
”今、来た道を戻って下さい。”
メイコはあるビルに入って行き、事務所に残っていたある男に絡み始める。
そして、見ている側は、その男がメイコが2年前に振ったカズオである事が”会話”の中で分かる。
最初は、怒気をはらんだ言葉が飛び交うが、徐々にカズオが未だメイコに未練を持っている事が分かってくる。
ショットは変わり、ツグミとメイコが喫茶店で話していると、窓越しにカズオが現れる・・。
- この後の、同一シチュエーションの二つのシーンの見せ方が、絶妙に巧いのである。-
■第二話 「扉は開けたままで」
・セフレの男子大学生に依頼され(彼は芥川賞を受賞した教授の単位が取れず恨んでいる。)にハニートラップを巧妙に仕掛けようとする女子大生奈緒(森郁月)と、教授との”会話劇”。
教授の書いた本の、可なりエロティックな文章を読む奈緒の姿。
見ている側も、ドキドキしてしまう程の緊迫感である。
それを聴いていた教授の言葉
”そんなに綺麗な声で、読んで貰えて嬉しい・・。”
その言葉を聞き、”ハニートラップを仕掛けていた・・。”と哀し気に告白する奈緒。
教授は”その録音をEメールで送ってくれないか・・、”と頼み、”あるお願い”を教授にした奈緒は自宅に帰り、録音データを教授に送るが・・。
- ”何が偶然だったのか”が明らかになるシニカルなラストシーンが印象的な作品。-
■第三話 「もう一度」
・高校の同窓会に出席するために、東京から仙台にやってきた夏子(占部房子)と仙台駅のペデストリアンデッキのエスカレーターですれ違った女性(河合青葉)。
20年振りの偶然なる再会を喜ぶ二人であったが、女性の自宅を訪れた夏子達は”意外な事実”が判明し、愕然とする。
だが、二人は”意外な事実”が分かったからこそ、言える心の重荷をお互いに吐露し、解放され、抱き合う。
ー 偶然と思い込みによる想像が、二人の女性の心の重みを解き放つ。二人がペデストリアンデッキの上で抱き合う姿をロングショットで写し取ったラストシーンが良い。-
<三話とも、構成と脚本のレベルの高さに驚く。
何気ない日常の中に起きる”偶然”と”勝手な想像”を愛と裏切り、悔恨と再出発などをモチーフに描き出している作品集。
資料によると、濱口監督は、同種の短編をあと4本製作する予定だそうである。
期待して待ちたい。
それにしても、濱口監督の脚本の高さは、長編だけでなく短編でも発揮されるのだな、と思った見事な短編集でもある。>
<2021年12月18日 刈谷日劇にて鑑賞>
人生の(映画の)細部に奇跡は宿っている
現代社会で起こりうる魔法とは何か?
この作品を観て私が連想したのはポールオースターだった
ただポールオースターの偶然による奇跡はもっと宗教的でエモーショナルで感情的であるのに対し、濱口監督の偶然による奇跡はもっと庶民的で直感的、そして肉体的なものである。
私は1話冒頭を観て今回はドライブマイカーと違い軽い感じなのかな?となんとなく思っていたが大間違いだった。
ドライブマイカーよりもより作家性が強い、そしてながら観できる画面の気持ちよさ!(笑)でもながら観するとほんとにいいところを素通りします。この短編集は五感を研ぎ澄まさないと気付かない奇跡が所々で起こっている。
あーすごい。
決して難しい映画ではありません。
ただリラックスして真剣に感じる必要がある。考えなくても良いんです。むしろ考えない方がいい。
ちょっと具体的な感想を。
第一話
ラストの部分。
まず芽衣子は自分が和明の元カノなのを隠していたことを唐突に二人の前で話す。その声音は非常に演技じみており、棒読みでその話しの途中で突然(偶然?)金属音のような音がリズミカルに鳴り始める。つぐみはショックで店を出る。和明はそれを追いかける。顔を覆う芽衣子。突然ズームするカメラ。芽衣子が顔を上げると涙は出ていない。
芽衣子の前にはまたつぐみと和明がいる。
明るい感じで私は邪魔だからと店を出る芽衣子。
芽衣子は近くの工事現場を通りかかる。工事の「音」がする。さっきの金属音が工事現場の音だとわかり、観客は「音」がこの作品の現実なのだと知る。芽衣子は工事現場をスマホで写真に撮る。同じ現実の「音」が空想でも鳴っていたことにより不気味な(意地悪な)余韻を残す。とてもチャーミングで大好きなシーン。
そして私の個人的な解釈を言わせてもらいますと、お店の中のあのシーンはそれ自体が空想なのではないかと考えている。
あのお店には芽衣子しかいなかった。
あの偶然が空想であるということ。
店の中や店を出て、工事現場の音がしたあの「音」だけが現実であると。
それであれば辻褄は合う気がするんですよね。
追記
昨日2回目を観て気づいたのは、カフェのシーンで2人に告白する時の芽衣子の表情が、和明のことが好きと言いながらまるで"目の前に誰もいないような"顔をしていることで、これが彼女が自分を客観視しているのか、それとも本当に2人がいないのかわからない点。ただそのあとぐみちゃんと和明の間の魔法は私と和明のための魔法だったというシーンは2人を明確に観ており、本当に繊細な演技だなということ。
その前のオフィスのシーンでも、和明が芽衣子の隣に座って話す時に「欠陥品は芽衣子だけじゃないよ」というが、その目線からまるでそこに芽衣子がいないように感じられる部分があり、この2人の距離感というか、壁のようなものが手にとるように感じられて素晴らしいなと。
観れば観るほど発見がある。
この最後のカフェのシーンは芽衣子の孤独が感じられて、とても悲しいシーンに感じられる(そんな人は私だけかもしれないけど)。
第二話
佐々木に唆されて瀬川を陥れるために研究室に入る奈緒。表情は固く、前の佐々木とのシーンに比べると明らかに話し方に違和感がある。ひどい棒読みであり、喋り方にムラがあり、何かを読んでいるようだ(佐々木とたくさん"練習"したんだなとわかる笑)。しかもユーモラスなのが、この緊張でガチガチの奈緒が瀬川の目の前でセクシーな女を演じながらさらに棒読みで本の中のえろシーンを読むという...しかもその"緊張したおかしな"声の響きに対して瀬川がいたく感動し、録音をほしいという。たしかに奈緒が一生懸命(そして演技が下手!あくまでも奈緒が下手なのであって森郁月が下手ではないのがすごいんです。下手な人の演技なんです)だから、えろシーン読んでるのに不思議なイノセントを感じるんだよね。濱口監督は森郁月から小学3年生ぐらいの女の子を引っ張り出したのでは無いかと。これに対して奈緒はその声でオ○ニーしてください、それならさしあげますという(これはひどい誤解ですね。何も理解してない笑)。瀬川は驚いた顔をしつつオ○ニーすることを約束します。森郁月が緊張しながら演技するいい女を演じる演技が下手な素人女を演じる(ややこしい)ことが面白く、奇妙な緊迫感がある。瀬川の奈緒に対する「変な人だなあと思いました」という素直な感想に思わず笑ってしまった。奈緒のふるまいは明らかにおかしいし、ほんとに奈緒がおかしな女(ある種イノセントな存在)になってて、本質的な風変わりな人が空間を綺麗に歪めてる感じがほんとに美しいなと。
第三話
この話はとてもポールオースター的である。
2人の人間がそれぞれに勘違いして奇跡が起こる。
たぶん一番わかりやすく展開がエモーショナルだ。
偶然って物語にとって一番の敵だと言われている。話が嘘くさくなるからね。
でもこの物語には嘘臭さがない。
声のトーン、歩く速さ、なにもかもが自然なのだ。役者の動きに合わせてカメラが置かれている。役者を動かしてない。役者が動いている。とんでもないことである。
そしてインターネットがなくなったらブルーレイが復活する。流動体から個体に変化する、いにしえに戻っていく社会を描いている。
人間はつながりを失い、名前を失い、個を失うけど(結婚したら姓も変わる、演技をすれば簡単に他者になれる、)そこで大切なものが演技の細部で表される。感動します。きっと心のどこかでこの物語を私は求めていた。でも形にならなかったものが目の前で展開されている。インターネットのない世界は、きっとインターネットによって失われた秘密や、嘘や、「偶然」を取り戻すための演出なのでしょう。しかも作為的には感じられません。すごい。
このように、濱口映画の俳優の声、表情、仕草は明らかに現実に起こったことそのものであり、現実をそのまま切り取ったドキュメンタリーよりもなぜかホンモノなのである。(その意味でこの前観たリトルガールとは対局である。あの作品は現実を題材に非現実を映し出した。サシャはカメラを常に意識しているし、"させている"ー )。
この現象はなんて言うんだろう。名前がついてない。たぶん。この監督の作品にはカメラが消える瞬間がある。
あの場面のあの声、あの動きが現実のあの人やあの人だったりするのである。しかもそれが(おそらく)海外でもはっきり伝わる。言語を超えている。
まるで物理法則のように"あの人"の声が再現されたりすること。まるで魔法である。しかもそれが言葉そのものではないことにも留意したい。あくまでも大きさ、強さ、速さ。形。声帯。肉体。量の問題なのだ。なにか一般化のようなことが行われているようではあるのだが..よくわからない。
それは物体の運動なのである。それはあなたに大昔に魔法は科学だったことを思い出させる。それは錬金術のようなもの。
役者の話す声が、話し方が、仕草が
自分の母や彼女や
過去に自分に意地悪をしてきた女の子だったりする(笑)
2話「扉は開けたままで」の終盤で唐突にキスをしたあとに意味ありげに元カレを睨みつける森郁月の表情を、顔を、仕草を、私はたしかに過去に見た。そしてそのことに私は癒された(そんな自分が本当に嫌だと思う)。
そんな映画は他にはない。
偶然ってあるよな、と思わせる映画です
ちょっと笑っちゃうような偶然なのですが、こんな偶然って自分にもあったよなあ、と思って見ていました。
ちょっとした偶然から展開していくのですが、この先どうなるのかなあ、というところで終わっているので、文字どおり「偶然と想像」です。
その意味では映画らしい映画です。
朗読のようと言うか、棒読みのようと言うか、そんな台詞が続きます。これは演出だろうと思っているのですが、逆効果のような気がします。ちょっともったいない。
濱口竜介作品の世界をより明瞭にするオムニバス、言葉選びのセンスに驚く
いくつもの偶然と広がる想像。言葉通りとも行かない、多角的な見方とその展開に呆気を取られる。3話それぞれ面白く、フランス映画のような品の良さと、邦画だからこその会話劇に仕上がっているのが印象的だった。
まずは各話見ていく。1話の『魔法(よりもっと不確か)』は、キャストの相性もあるが、1番好きかも。友達の新たな恋人候補が実は2年前に別れた元カレで、居ても立っても居られず…。リズムに刻まれた言葉の重さと、裏打ちされるように構築される必然へのフラグ。想像を形にした独特のアプローチも絶妙で、緻密さと大人びた台詞回しに酔いしれる。作品の中では最もポップな気がする。
2話の『扉は開けたままで』もまた、独特なオーラが新たな体験を呼び起こす不思議な作品。大学生の専業主婦が、留年したセフレに頼み込まれ、復讐をするが…。玄理のきれいな声と、アンドロイドの様に受け答えする渋川清彦の会話に悶々とした空気を覚える。人間の変態な部分が顔を出し、想像つかない世界へ誘う。言葉の文がくすぐったい。
3話の『もう一度』も独特なSF味を帯びた現実の話。コンピューターウイルスによって連絡が出来にくくなった時代、確かな距離を見失った二人に起こる偶然とは…。こちらは少し平たくも分かりやすい作品であるが、優しさを感じる。
オムニバスとは言え、その空気に混じり気はなく、監督の一貫した雰囲気と、時折顔を出す言葉選びに驚く。それが実に人間の滑稽な部分を引き出しており、驚きと発見をくれる。重厚で味わい深い世界観が、マイルドかつオーソドックスに見せてくれる。
まだ『ドライブ・マイ・カー』に続き、濱口竜介作品2作目の為、その本質を理解した訳ではないが、海外で評価される理由と、洋画好きが唸る理由が分かる。こうしてミニシアターでかけてくれる所も含め、芸術家の域にいるのだと思う。凄く新鮮で愉しい映画体験だった。
タイトルなし
「偶然」と「想像」という共通のテーマをもつ
3つの物語
登場人物が交わす会話
朗読劇を観ているような感覚になった
第一話「魔法(よりきっと不確か)」
第二話「扉は開けたままで」
第三話「もう一度」
…
「偶然」からのよめない展開
「言葉は受け手の経験と響き会う」
この言葉が心に残りました
偶然は怖い?
2021年11月29日
映画 #偶然と想像 (2021年)鑑賞
3話からなるオムニバス映画で、どの作品も偶然からの展開が面白かった
朗読のようなセリフ回しは、言葉へのこだわりと会話の掛け合いを大事にしてるんでしょう
感情を出さない分表情に注目しますね
試写会 @fansvoicejp さんありがとうございました
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