川っぺりムコリッタのレビュー・感想・評価
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ささやかな幸せ
…食べる
ことは生きるに繋がる
お金は無いけど
炊きたてのご飯 味噌汁 塩辛 漬物
を松山ケンイチが美味しそうに頬張る
ご馳走とは言えないが
…ささやかな食事
そして
一人ではないふたりで楽しそうに
…食べる
孤独死が叫ばれる昨今
生き別れた父に何の思い出も無いが
…故人を忍ぶ
どんな人だったのか
どんな生活をしていたのか
故人との想いをみつめながら
自分に合ったお別れ
ここでは沢山の生き物か出てきます
可愛い牛柄の子やぎ ナメクジ 猫 蜘蛛 セミ 金魚など
野菜もきゅうりトマトに茄子
特に採れたてのきゅうりの音が
美味しそうでとても贅沢
に思える
人も自然の中の生き物の一つ
死んで魂が何処にいくのか…
笑顔で過ごしていらっしゃいますか
と…吉岡さんがいい味だしてます
自然の風景にお寺の鐘の音に癒されて
ムロツヨシの図々しさに笑ったりして
元気になれる🎬です
沁みる
みんな何かしら抱えているのだけれども
しっかりご飯を食べ、1日1日をちゃんと生きようとしている
それだけで尊いですね。
死という重いテーマを扱っていても
あの軽快な音楽が自然と心強く、根拠はないけど
大丈夫だ〜 という気分にさせてくれました。
情緒あふれるもの
都会から離れた
懐かしい雰囲気
昔は近所同士で
よく助け合ってたよなぁ〜
イタズラしたら
オッちゃんやオバちゃんに
よく怒られたし
でも親が仕事で忙しいときは
ご飯食べて寝泊まりさせてもらって
野菜もらったり
漬物や煮物もお裾分けしたり
されたり…
なんか現代では無くなっちゃった
昔ながらの情緒を久々に感じたなぁ〜
大人になっても助け合えるってイイよね〜
ムロツヨシ、イイ役だったなぁ〜
色んな人がいてバランス取れてて
人は社会的にも心も
人に助けられて
または人を助けて生きてる
ただその時その時の方法が違うだけ
しかしお米が美味しそうやったなぁ〜(腹ヘリ)
へんてこりんで不思議な映画
全体的に平坦で緩い映画である。
坊さんが風船ガムを膨らませたり、墓石屋が子供と一緒に訪問販売したり、シリアスとコメディとスピリチュアルがごっちゃになった、かなりへんてこりんな映画である。
妙な空気感が変に心地よい不思議な映画でした。
おせっかいだけど図々しいムロツヨシの演技が良かった。
セリフで語らせちゃ冷めちゃいます。
荻上監督ファンにはハマるんだろうなぁ。
かもめ食堂は好きな作品なんだけど、本作はそこまで惹かれなかった。
好きな俳優さん、技量ある俳優さんだらけで、僕にとってはかなりご馳走作品だったけど、消化不良かな。
作品内に流れる空気感は好きなんです。だけど、なんだろうなー、全体的に散漫で芯が外れてる気がするんです。家族の話なのか?誰にもあるだろう脛の傷の癒やしの話なのか?死生観の話なのか?全部ぼんやりしてるし、さらに強引に結びつけてる気がするんです。
なんやかんやあって、ラストやラスト近くのシーンで、登場人物に心情や葛藤や癒しを全部セリフで語らせておさめようとしてる感じが、すごくガッカリでした。えー、それはなんかずるくない?って。さらに、そこまで言えるほどの関係性あったっけ?もっと観客側の思考に余白与えて欲しかったし。
あと、管理人役の満島さんの仏壇シーン、すごく邪魔。あれ、意味ある?ま、前半にフリはあるけどねー。
期待しすぎたのかも?ですが、本作は僕は合わなかったです。
クスッと笑えてじわじわ沁みる
プレミアム先行上映にて
身近な死、行き場の無い遺骨、縛られた過去とテーマは重いけど、独特な空気感と水彩画の様な映像が和らげていた。個性的な役者達の演技はクスッと笑えてジワジワ沁みました。
役者松山ケンイチ やっぱり良いなぁ
満島ひかり は色っぽいし、舞台挨拶での荻上後の ムロツヨシって話、主演2作観ていたから納得だった。
あと、ちょい役とか声だけ出演が豪華
見てのお楽しみ
白飯食べたくなります。
死と繋がって生きている
裏庭のガラス戸が映り込む度に、お隣さんの姿を期待しちゃいます。
風変わりな人々との掛け合いが笑えますが、テーマはガッツリ骨太。
ハイツムコリッタの住人はみんな「死」と繋がって生きている。
肉親の死に直面した人、死と共にある人、死を生業にする人、そして死を受けとめられずにいる人。
「死」から見えてくる親子の繋がりや日本のしきたりには、救われることもあれば苦しめられることもある。
もしそれらが足枷や呪縛になるのなら、他にもいろんな向き合い方があるし、いろんな生き方がある。
自分で選べるんだよ。自分で選んで良いんだよと言ってくれている気がしました。
イカの塩辛はグロテスクだけど美味しい。
常に逆説がセットで描かれます。
映画を観ながら「今回はオリジナル脚本じゃなくて原作モノの映画化なのか…」と感じたのですが、
実は企画が流れてしまった脚本を監督自身が小説にして、今回ついに映画化に至った作品だそうです!
どおりで今までの語り口との違いを感じたわけです。
監督は小説にすることで人物が深くなったとおっしゃってましたが、
確かに人物が深くなったことで、必要以上に人物の主観に寄りすぎない距離感が俯瞰の視点となって、物事の多面性がより伝わった気がしました。
生と死、親と子、日本文化、格差社会までが網羅されます。
そして、未だ彷徨い中の人物も描かれているところに、俯瞰の優しさを感じました。
舞台が、命の危険と隣り合わせの「川っぺり」なのも素晴らしいし、なんと言っても「イカの塩辛」の絡ませ方が凄い!
監督は最初と最後だけを決めて脚本を書き始めるそうで、なぜ「イカの塩辛」にしたのか自分でもわからないそうです。
無意識に筆が走るとか、イメージが降りてくるとか、そんな感覚なことをおっしゃってました。
いろんな出来事がリンクして、変化して新たな着地点におさまる。
小説っぽいと感じた一因に、この一つも無駄の無い計算された構成があったのですが、まさかこんな神がかった脚本だったとは!驚きでした。
以下、具体例なのでネタバレあり。
◾️逆説や対比
親との関係が希薄な主人公と対照的に描かれる親子。
顔も覚えていないのに親子の繋がりを感じるシーンがある一方で、
長い時間を共に過ごすことが虐待に繋がることもある。
親から受ける影響が良いことばかりとは限らない。
とくに暴力や言葉による虐待とは違う、無自覚な虐待は非常に厄介。
ランドセルがあったけど夏休み限定?だとしても炎天下にあのスーツは…
セリフの言い回しから、黒澤明監督の『どですかでん』と同じ結末になるのではないかとハラハラしながら見ましたが、電話が鳴るのを待っているだけではいけないと気づけて本当に良かった。
◾️常識や文化の否定ではない
死者と繋がり続けていたい人物が驚く行動に出ますが、それは暴走してしまいそうな自分をセーブする為。
弔いの儀式やしきたりには、残された者が死と向き合う側面もある。
でも、それが自分の心にしっくりこない時は?
後ろから蹴りたい気持ちに蓋をするのではなく、自分の中に蹴りたい気持ちがあることを認めたうえでアイスで発散。
割烹着って“家庭的”のコスプレだと思っていましたが、確かにミシンの糸屑が服につくのは防いでくれるかも。
自分にしっくりくる部分は取り入れる。
※ちなみに私は動物的だと感じるの好きです。自分だって動物のくせに偉そうにしている人間の化けの皮が剥がれたようで愉快。
よだれと温かい感情が溢れ出る映画
ミニマルライフを心がける人はもちろん、(誤解を恐れず言うが)生きる意義を見い出せず死にたいと思っている人にこそ観てほしい映画。劇中にも登場する「いのちの電話」と同じく…かそれ以上に救いになると思う。映画、物語の力とはこういうときにこそ真価を発揮する。
でも決して「踏ん張れ」とか「生きろ」と北風のように鼓舞するのではなく、“生”よりも“死”を描くことによって優しく寄り添い「生の実感」をじんわりと起こさせてくれる。
人が死ぬ作品がうける世の中で、敢えて死んだ人や死後の世界をテーマにしたと自称天邪鬼の監督が言っていた。
最初から最後まで心地よいペースでのどかに進み、要所要所で劇場が笑いに包まれる緩急が上手い。
それを引き立たせているのがムロツヨシの存在。彼の作り出す空気感はさすがで一気に場を温める。登場するとまた何かやってくれるのではないかと観客が待ち構え、期待通りに笑いを生み出してくれる。
そして荻上監督の真骨頂である食事のシーンはシズル感がたまらない。ただそれは単純に食べものを映えさせるということではなく、それを囲む人たちの関わりで表現する。
美味しいとは何を食べるかよりも、誰と食べるかだし、どんな状況で食べるかが重要。お腹が減っている状態でありつけるただの一杯の白いご飯の至福さと言ったら。一汁一菜でご飯に合うお供があるだけで幸せ。これだけで日本に生まれて良かったと感じさせられる。そして畑で体を動かし汗を流して野菜を育てて、それを採れたてで食べることの贅沢さよ。
この映画を観た後は(塩辛…はある場面から好みが分かれそうだが苦笑)ご飯にお供を乗せたものを頬張り、きゅうり一本を丸かじりしたくなること必至だろう。
生きるうえで本当に大切なもの・こととは何かを改めて考えさせてくれる。
ただ生きて、誰かのために毎日働き、それで得たもので食べて暮らしていける。その普通がいかに尊いか。
それだけで幸せなのに人は満たされると次の欲求が生まれてしまうもの。マズローの五段階欲求で最低限の生理的と安全が保たれると、社会的な人のつながりを求め、そうするとどうしてもその中で認められたいという承認欲求が生まれ、その地位を得られると自己実現への高みを目指してしまう。
でも満たされた現代において高尚な快楽を求めるのも、せっかく生きている醍醐味として否定できるものではない。
行き過ぎた資本主義の貨幣経済に対しては思うところがあるが、とにかくいつ死ぬか分からない限りある人生どう楽しみ尽くすのかを前向きに考えていたいものである。
また人の死生観についても語り合いたくなる作品。
植物や動物は死んだらそのまま微生物に分解され土に戻っていく。ペットなどの動物もそのまま埋葬するのになぜ人間は生態系の循環から切り離し、わざわざ無駄なエネルギーを使って火葬するのか。体や骨をそのまま遺棄したら犯罪になるのに、海に散骨などよく聞くが粉状にして撒けば罪にならないというのが法律だと初めて知った。
お金と時間と場所を使うお葬式もお墓も何の意味があるのか。(仏や霊を信じるか信じないかはあなた次第だが)故人の供養というが残った人の慰めのためなのであろう。
目だけしか出てこない江口のりこや声だけの薬師丸ひろ子など贅沢でもったいないほどのキャスティング。それほどまでに関わりたくなる荻上監督作品の魅力か。
試写会のティーチインで初めて拝見し話を聴いたが、まさに映画のようなハートウォーミングでユーモラスな方で一気に好きになった。
最後に、牛乳や塩辛の壺など伏線が絶妙。
昭和の夏の思いで
真夏の昭和時代を醸し出す楽しいコメディ作品でした。タイトルから想像できないほどに「骨」がクローズアップされる展開は、シリアスさとコメディさを混ぜ合わせたい、強い監督の思いが感じられる演出だと思います。家族で笑いながら楽しみたい映画ですね。
不思議な魅力
個性的な登場人物にクスッとしたり、美味しそうなご飯に癒されたり。オーラ強そうな有名俳優ばかりなのに、とっても自然で静か。サラーっと川のように流れるストーリーが怖い&美しく、ちょっと可笑しい。。全体的に穏やかな雰囲気なのに、常に死の影がつきまとう不思議な作品でした。ムコリッタというのが仏教用語なのにも納得ですね。
(吉岡さんのキャラ、アキカウリスマキ作品に出てきそう!)
主人公が生きていていいんだと安堵し嗚咽するシーンでは、思わずもらい泣きしました。
※前半のみ詳しくネタバレしています。後半ネタバレなし
映画『川っぺりムコリッタ』試写会レビュー
本作のタイトルになった「ムコリッタ」という妙ちくりんな言葉、皆さんはご存知でしたでしょうか。漢字で書くと「牟呼栗多」と表記する仏教の時間の単位のひとつなのです。
では「ムコリッタ」の時間の長さはどのくらい長いのでしょうか。仏教の「大毘婆沙論」や「倶舎論」では、「1昼夜」(24時間)が30×「牟呼栗多」といわれています。ということは、「1昼夜」を30で割ると48分となります。これが「ムコリッタ」の長さです。
この「牟呼栗多」には、境目のときという意味も含まれています。物事が変わる節目の時間として48分というのは充分な時間です。
昼から夜にかわるとき。空が夕焼け色に染まっているとき。ひとが生まれて死んでゆくとき。それらの境目のときを抽象的に表した言葉が牟呼栗多なのです。
ちなみに1刹那は、牟呼栗多の21万6千分の1となる約0.013秒となります。1刹那の中にも生滅があり、すべての物はこれを繰り返していると仏教では考えます。
物語は、孤独な青年・山田たけし(松山ケンイチ)が、就職のためにイカの塩辛を作っている北陸の小さな工場を訪れるところから始まります。そして社長の沢田(緒形直人)の紹介で、川沿いの小さな町の川っぺりに建つ「ハイツムコリッタ」の住人の仲間入りをすることになったのです。
職場では、パートの中島(江口のりこ)が丁寧に山田に仕事を教えようとしてきます。けれども、山田はもう誰とも関わらず、目立たずひっそりと暮らしていきたい、どうせ自分なんていてもいなくても同じなんだからと思っていました。
物心ついた頃には父はいなくて、唯一の家族だった母には高2のときに捨てられていたのです。
お風呂上りにパンツ一丁で、寛いでいたら、玄関をノックする音がします。出てみると伸び切った髪に無精ひげの男が立っています。「無理です。無理。」山田は誰とも関わらず一人で生きていく決意をしたばかりでした。
給料日まであと2日、財布の中にあるのは数円。どこにも行かずに、ひたすら空腹に耐えて寝ていたら、あの無精ひげの男島田(ムロツヨシ)がやってきて、庭で取れたキュウリとトマトを差し出すのです。それが仇となって、山田の静かな日々は一変します。給料日に買った米を炊いていると、島田はどかどかと部屋に入ってきて、飯を食わせろから始まり、風呂を貸せと要求するようになったのです。さらには島田が狭い庭に作った畑まで手伝わされることになってしまいました。そのあとは島田は当たり前のように山田の部屋で風呂に入り、ご飯を食べていきます。
ある日山田の元に富山市役所から、孤独死した父の遺骨を引き取りに来てほしいという内容の手紙が届きます。年少時に家族を置いて出ていった父の記憶すらなくしていた山田は引き取りを迷います。
山田はこの前の手紙のことを島田に相談してみました。
島田に「山ちゃんの父親がどんな人だったとしても、いなかったことにしちゃダメだ。」と言われ、山田は遺骨を引き取りに行くことにしました。
ムコリッタには島田のほかに、203号室には大家の美しい女性・南さん(満島ひかり)とその娘のカヨコ、201号室には墓石の訪問販売をしている溝口さん(吉岡秀隆)といういつも黒スーツを着た父と息子の洋一が住んでいました。
そんな201号室からすき焼きのニオイがしてきます。図々しい島田はいつものようにどかどかと部屋に入っていき、胸ポケットから「マイ箸」を取り出してすき焼きを食べ始めました。山田は慌てて箸を取りに戻って同じように参戦!そこへニオイを嗅ぎつけた南さん親子もやってきました。
このあとお話しは、2年も前になくなっていたハイツの住人だった岡本さんと山田が遭遇。岡本さんが好きだった花壇のお花の話を聞かされます。「この紫色が生まれて消える間に、誰かが生まれて誰かが死んでゆくんだ。」と。
岡本さんのオバケと遭遇してしまった山田は、夜は怖くて眠れなくなり、父の骨壺にも怖さを感じて、遺骨を捨てようと思って川へ行くけれど、思い直します。
ハイツの住人たちからの助言を得て、山田は次第に父と向き合うように変わっていくのでした。
本作は、人と人のつながりが希薄な社会で、人はどうやって幸せを感じることができるのかという、根本に立ち返って実感することができる温かい物語です。
生きることの楽しさが、荻上監督が得意とする食や美術、会話を通して表現され、きっと観る者たちに幸せの意味を問かけてくることでしょう。荻上ワールドおなじみの「おいしい食」と共にある、「ささやかなシアワセ」の瞬間をユーモアいっぱいに描く、誰かとご飯を食べたくなる作品となりました。
試写会に登壇した荻上監督は、「食べる」という生きることに繋がる行為とともに、「弔い」という死と向き合う行為も描かれる。生と死は生活の中に当たり前に存在しているということを描きたかったと話されました。「おいしい食」とは「死」に対する「生」として描いてきたそうなのです。
「カモメ食堂」からずっと「おいしい食」の裏側には、そんな死生観を監督が持ち続けてきたことには驚きました。だからこそ、刹那として生きている間の繰り返すごはんは、たとえ白米とみそ汁とイカの塩辛だけの質素なものであっても、至高の幸せな時間として本作では描かれているわけです。
詐欺に関わり逮捕されて出所したばかりの山田は、できるだけ人と関わらず生きたいと思っていました。しかし図々しくて、落ちこぼれで、人間らしいアパートの住人たちに囲まれ、山田は少しずつ「ささやかなシアワセ」に気づいていきます。
ひとりぼっちだった世界で、生と死の狭間を明るく生きる住人たちと出会い、友達でも家族でもない人たちと接するうちに、孤独だった人間が、孤独ではなくなっていく様相を、松山ケンイチが静かな演技で演じきるところは素晴らしいです。山田が自分が生きていていいんだと安堵し嗚咽するシーンでは、思わずもらい泣きしました。加えて、お金が底を着いて数日間絶食するシーンでは、松山は実際に絶食したそうです。どうりで島田が差し出すキュウリを上手そうにかじるところは真に迫っていました。あれは演技ではなかったのですね。
そして図々しい人間を演じさせたら天下無双のムロツヨシ!でも単なるいやなヤツなら簡単なのに、次第に島田が心の温かいいいやつに見えていくのは、ムロツヨシならではの絶妙な演技だからこそなのでしょう。
ところで本作では原作と比べてこの世的な「ささやかなシアワセ」に重点が置かれていて、原作で強調されている「あっち側とこっち側の境目」の描写ははっきり描かれなくなりました。川っぺりというのも川のほとりのブルーシートの小屋に住むホームレスたち生死の境目のことだったのです。それが冒頭の「川が氾濫すれば…」の言葉につながっているわけですが、本作ではホームレスの存在が希薄になってしまいました。
また本作では、随所に死んだらどうなるのか?投げかけるシーンが散りばめられています。特に劇中の葬儀シーンは傑作で、ひと目みれば、黒澤監督の『夢』第8話「水車のある村」からパクっていることは明白です。あくまでリスペクトとして、パクリことを認めた荻上監督です。そこまで描きたいのならね次回作ではもっとズバリ死んだらどうなるかという直球勝負をしてほしいと思いました。仏教をかじっているものとしては、何とももどかしい刹那の描き方なのです。
・公開 2022年9月16日
・上映時間 120分
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