聖なる犯罪者のレビュー・感想・評価
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赦すことは忘れることではない
実話だという。
主人公は聖職者に憧れているものの聖人とはとても言えない普通の前科者。
主演俳優は少し老けていて19歳の少年には見えないが、何とも言えない冷血な目と、時に温かい眼をする。
一見善良な人にも残酷な部分があり、また一方で罪を重ねてばかりの人間にも信仰心があるのだ。
罪を償ったなら元囚人が神父になったっていい!
一度犯罪を犯したら就けない仕事があるのはおかしくないかい?
人生誰だって過ちは犯すものだ。一度犯したらそこで人生に大きな制限ができてしまうのは人生一度きりしかないのにもったいないではないか。
しかし、元囚人と一般人が平等に挑戦する機会が与えられるのもまた違うとも思う。
差別化する事は大事だが可能性をゼロにするのは違うのではないか。考えさせられる作品だった。ロンリネス。ありがとう。
人にはいろんな側面がある
少年院を出所した後、身分を偽って神父として働き始めた青年を描く。
酒とドラッグは辞めろと言われたのに出所してすぐさまクラブに行って酒飲んでドラッグやって女の子とセックスしてる姿に笑ってしまった。神父になりすますきっかけも、製材所の仕事を見て嫌になったからだし。聖職者としてはふさわしくない。
でも実際に神父として仕事を行ううちにそれらしい所作や表情になるから不思議。結局バレてしまいその町を出ることになるのだが、いろんな人の救いになっていたという終わり方は嫌いじゃない。
犯罪者でも聖職者として人を救うことができるし、普通の住人に見えた人たちが根拠のない言葉の暴力を投げかけていたということか。なかなか考えさせる内容だった。
ただし、終わり方が今一つだった。少年院であんな感じで火をつけて逃げ出すことができるのだろうか。わかりづらくてモヤモヤした。
神の名の下に…
『赦し』という概念は、世界のすべてを見ている神(中国の思想からの流れで言えば〝天〟と言い換えることもできると思います)のような超越的存在を意識しながら思索する習慣の乏しい日本人にはとても難しいテーマだと思います。
事件や事故の犠牲者の遺族という立場に置かれた者が、〝加害者〟と見做された人に対して、赦すとか赦せないとかを口にするのは、どこかに現実社会における優位的な人間関係(加害者=赦してもらう側の負い目、被害者遺族=赦してあげた側)を引きずってしまい、後味が悪い。ましてや、そこに認識とは違う真相があるかもしれないとなれば、尚更だ。
しかし、信仰心を背景に説得力のある『神の導き』(神の名の下の赦し)であれば、現実社会での人間関係から生じる感情を一旦離れて受け入れやすくなる。
もちろん、生身の人間である以上、何かのキッカケでまた、恨みや復讐心のような負の感情が湧いてくることもないとは言えないが、一度神の名の下で赦した自分のことを思い起こせば、相手との関係でなく、自身の心との対話にでき得る。神父への告解は、そんな揺れ動く自分の心の調整機能を果たしてくれる。
神父という属性(聖職者)を剥がされた人間(ダニエル)の言葉は、日本のような社会ではたちまち説得力を失うことになると思うが、教会という聖なる場所で発せられたダニエルの諸々の言葉は神のなせる術だったのだ、とミサの場にいた人たちの多くが思うことで説得力が失われずに済んだのだと私は思います。
無力だと祈ることすら無力じゃない
僕の好きなアーティスト「amazarashi」の『祈り』という曲に、こんな歌詞があります。
僕らは無力だと 暗闇に祈るのが 本当に無力とは信じないぜ
この曲自体は、東日本大震災を受けて作られた曲です。電力が不足し、津波で街が流され、僕たちにできることはないだろうかと考えたって、そんな力も持ち合わせていない。でも、何かしたいという気持ちはある。それだけでも救いがあるのではないかという歌詞です。この作品も実際のところ聖職者になりすましているわけで、スマホでやり方を検索したり、自分で見様見真似にやってみたり、従来の形とは違う己を啓発するような他者を批判するような言葉を並べたりもする、それでも救われている人は確実にいる、このなりすましは善なのか悪なのかと言われれば善のようにも思えるなあ…という不思議な余韻の残る作品でした。
「パラサイト 半地下の家族」を楽しんでみた者として、アカデミー賞を争ったこの作品にも興味を持ちました。監督の前作Netflix映画「ヘイター」は観ています。(https://eiga.com/movie/93752/review/02472561/) 前作と今作どちらもポップな露悪性を描くことに優れている監督だなと思いました。前作よりもセリフ量自体は減っているはずなんですが、光と暗闇の演出の使い分けや、カット割りのメリハリなどがすごく上手くて惹きつけられる魅力がある二作です。
じゃあどちらのほうが好きかといえば、僕は今作のほうが好きです。もともと宗教を描く映画というのは難しいと思っています。昨年公開の作品「星の子」も評価が難しいなと感じました。(https://eiga.com/movie/92245/review/02416543/)要は、信仰は否定されるものではないという前提があるんですよ。それは自分もよくわかってて。主観と客観で視点を定めるのが難しい。どうしても。
主人公のダニエルは、幼き頃に犯した犯罪がきっかけで少年院に収容されていて、冒頭から包丁のような剣のようなもので作業するシーンから始まり、その後いわゆる礼拝のシーンに続いていくんですけど、この動と静の使い分けから主人公がどっちに傾いているのか分からない作りになっている。いや、何かのきっかけで傾きなおす可能性もある危うさを放っている。掴みから素晴らしかったです。
その後、仮釈放のような形になるんですが。釈放の際に「絶対に酒や薬をやるな」と念押しされるんですが、すぐにやっちゃってるんですよ。うわ~やっぱ闇の人間なんだと思ったら、信仰心だけはどうやら本物のようで。この脆さこそ本作の魅力。
たまたま寄った礼拝堂で知り合った女性がきっかけで、偽りの聖職者として過ごしていきながら、この町が背負う悲しみを振り払う役割を担い出します。結末はネタバレになるので避けたいと思うんですけど、ダニエルは別に町が背負う悲しみ・出来事に対して別に向き合わなくても良いんですよね。言うならば部外者ですから。それでも真相を知りたいと一心不乱に行動することが、自己内省とリンクしていて興味深かったです。
舞台となるポーランドでは、こうした聖職者を偽るという現実が当たり前のようにあるとのことです。聖職者になる高学歴な人間より言葉や人柄に親しみを覚えやすいとか理由は様々にあるらしいんですが、結局「信じる」っていうのは当人でしかわからない価値基準のもと動いていて、もう客観性なんて奪われてしまうんだろうなと思いつつ、確実にその人たちの人生は好転していくところが、言葉を選ばず言えば不義理だなあとしみじみしました。キングコング西野さんの映画チケットを複数枚買って大借金を抱えても当人にとって幸せならしょうがないよなあとか、周りはみんながやめておけという相手と結婚する人とか、"宗教"という言葉を使わなくとも"信じる"という行為自体は普遍的に危うさを抱えているんだと改めて思いました。
主人公ダニエル演じる役者の眼力にとにかくやられます。非常にいい作品です。
偽りの町、偽りの聖職者
前科がある為司祭になれない19歳の少年が、身分を偽り司祭として活動する話。
少年院仮退院で働く製材所のある町の教会を訪れ、自分は司祭であると偽ってしまい、あれよあれよとその教会の司祭代理に祭り上げられ巻き起こっていく。
主人公が訪れる1年前の事故に纏わり、険悪なムードの漂う町で、住民の告解を受けたり、彼なりの説教を説いたり。
そして事故に付き纏う闇を正そうとしたり…身バレ直前の説教は痺れたなぁ。
確かに偽りの存在だし、決して敬虔な訳ではないけれど、彼の行動や思いは偽りではないし、「 誰も傷つけてはいない」と自負出来るもの。
宗教や信仰に纏わる話だし、決まりはあることなので正解ではないのだろうけど、本質は何だ?と問われるストーリーがとても良かった。
神との対話
司祭に憧れる主人公ダニエルが少年院を仮釈放され、ある村で司祭になりすまし、聖職者として村で起こる問題や傷を負った人々と向き合う物語。
前科者は司祭になれないと言われるが、ある偶然が重なり、司祭として活動することとなったダニエル。神学校を出ていない彼は最初は戸惑うも、持ち合わせた信仰心を頼りにミサや告解をどうにかやりきり、村人からの信頼を得ていく。
村では昨年、1人の中年男性と6人の若者の自動事故があり、悪者とされた中年男性の妻が村八分にされている。
犠牲者の妹、マルタの証言により、事故の真実を知ったダニエルは聖職者として村人たちの問題を解決しようと奮闘するが…。
ストーリーとしては、若者の遺族たちと、悪者とされた男性の妻の間の問題を解決しようとする姿と、偽った身分がバレてしまうかといった点を軸に物語が展開される。
司祭となっても酒やドラッグをやめないダニエルだが、教会にいるときや事故の遺族たちと関わるときだけは、立派な聖職者の顔に。
真実を知るかつての恩師。憤慨するも、村人たちからのダニエルへの想いを知ったとき、いったい何を思っただろうか。
ダニエルの行いは決して許されるものではない。
それでも、彼がこの村に残していったものは間違いなく大きい。
ダニエルの真実を知っても尚、去り際の彼にかけられた言葉…。
嘘と真実がテーマになっていると言っても良い作品だが、許されない嘘が大きな救いをもたらすこともあるということか。そして、ダニエル自身は赦されるのだろうか。
非常に深みのある作品だった。
一方で、ヒロインやその母親、村の有力者や遺族たち、少年院生達やそこの司祭…等々、多くの人物が登場するが、みんな要人と言える立ち位置だがあまり掘り下げられていない者も多く、ドラマとしてはもうひとつ響きが欲しい所。
ラストシーンも、自分にはちょっと理解できず。。あれはどういうことだろうか?
きっと見たままの画に意味はないのかな。もっと大きなメッセージが潜んでいそうです。
観るたびに色々な解釈が生まれそうな映画だった。
赦すことは愛、という言葉が身に染みる。
ダニエルは神父に憧れるあたり、根っからの悪人ではないみたい。
ひょんなことから村人の告解を聞けば、彼なりのアドバイスも出来ちゃうし…見どころがあるようで、でもどこまで信用できる?と半信半疑でスクリーンを見守る。
半ば過ぎはダニエルには神父が向いている!と感嘆の思いで眺めている。説教と行動が情熱的!
前科者は神父に就けないと誰が決めたのかな?聖書にあるのかな。
許すことは愛、というならダニエルを許せば彼は自力で更生したろう。
ダニエルは法律的には罪を償ったのに、社会的な制裁は終わらないんだね。天職に思えた神父にはなれない、この世の仕組みが疑問。
なにか救いはないのか…?
でもダニエルが再出所後に清く生きてくれれば、神父にならなくたって
意義のある人生だとは思う。
彼は、権力者ではなく助け手になりたい人だから。
ガツンとくるラスト
神父になりすましたダニエルは、7人もの犠牲者を出した交通事故の遺族の心を救っていくことになるが、遺族に寄り添っているときのダニエルと、激しい曲を聴きながら紫煙を吐き出すダニエルとのモードチェンジが激しい。
俗なダニエルは、どこにでもいそうなヤンチャな若者って感じだが、聖なるモードになるとカリスマ性を持った宗教家として村民の心を癒していく。
ストーリー上、いつかは嘘がバレる時がくる。それが破滅的なエンディングになるのか、救いのあるエンディングになるのか、中盤あたりから緊張感を保ちながら鑑賞していたが、二段構えで重量級のパンチがガツンときた。
感動するような作品ではないが、重い余韻に浸ることができた。
カトリックだから懺悔じゃなくて告解ですよ。
予告とは別な印象
かなり淡々とした作りで予告編のイメージとはかなり違いました。
途中で何度か睡魔が。
主人公の複雑な性格がなかなか理解出来ず、ラストまで微妙でした。
欲望に溺れてるのか、聖職者に憧れてるのかが分かりにくかったです。
オススメはしにくい
【若き"司祭"が、ある田舎町で行った事。聖と悪、憎しみと赦しの対比を冷徹な視点で描いた作品。淡い緑の色調をベースにした作品の世界観が、蠱惑的な作品でもある。】
■印象的なシーン
・ダニエルが、少年院を仮出所した際に立ちよった町で、偶然が重なり、憧れの司祭として、徐々に町の人達の信頼を得て行くシーン。ダニエルの”人から認められ、受け入れられて行く自己”に対し、喜びを隠し切れない表情。
ー 彼は、少年院でミサを司るトマシュ司祭の片腕であった。その司祭の服を戯れに着たダニエルが、その端正でソリッドな顔つき、知性を感じさせる”眼”により、若き聡明な司祭に見えてしまう・・。-
・町の道の脇に供えられた祭壇。若者6人の顔写真。興味を持ったダニエルが、司祭の娘マルタから聞いた、悲惨な自動車事故。若者達の親が、祈る姿。だが、祭壇には事故を起こした男の写真が、ない。
- ミステリアスに物語は進む。マルタがダニエルだけに密かに見せた、亡くなった兄からの事故の2時間前のラリった6人の若者達の姿。-
・事故を起こした男の妻は、村八分状態で、男は墓地への埋葬も、息子を失った司祭から、許されていない。
- キリスト教でなくても、埋葬を許されないというのは・・・・
町の人達の激しい怒りが分かる。-
・ダニエルは、マルタと男の妻の家を訪ね、町の人達からの激しい怒りを記した紙切れの束を預かる。ダニエルは"男を埋葬する"と町の人達に一方的に告げる。
- 始めは、現況から逃避するため、憧れの司祭になるためだったダニエルの善性が、発露するシーンである。
町の人達も戸惑いを隠せないが、ダニエルの
”立派な司祭としての数々の説教”
を聞いて来た過程で、彼を尊崇する念を抱いているので、反発できない。
そして、男の埋葬の日、祭壇の前に立っていた6人の若者の母親の一人が、参列にフラフラと参加する・・。
ダニエルの行為が、町の人の憎しみの心を少しだけ、解きほぐした瞬間である。-
・ダニエルのかつての少年院仲間が、”告解”に来て、彼に告げた事。
そして、ダニエルが教会のミサに集まった町の人達の前で、イエスの像を仰ぎ見、司祭の服を脱ぎ、入れ墨が掘られた上半身 ー【真実の姿】ー を曝すシーン。
そして、教会を後にする彼に対し、病に倒れた本来の司祭の妻が、掛けた言葉。
- 既に立派な司祭になっていた彼にとって、過去の自らが行った事を考えると、司祭である事は、”自分自身にとって”許されざることなのであろう、とあの行為を私は解釈した。ー
・少年院に戻されたダニエルが、且つて殺してしまった弟の兄ボーヌスとの、血みどろの決闘のシーン。
血だらけの顔を上げ、ぎらついた目で周囲を見るダニエルの顔付は、もはや町で尊崇の念を抱かれていた司祭の顔ではなかった・・。
<彼にとって、偽司祭として、町の人々の憎しみを解きほぐす道を歩んだ方が良かったのか、それとも、きちんと罪を償うため、少年院に戻った方が良かったのか・・。
観る人にとって、解釈は別れるであろう・・。
ダニエルを演じた、バルトシュ・ビィエレニアは初めて見たが、彼の”眼”による存在感とこの映画全体に漂う、独特の淡い緑の色調と見事な作品構成は、暫く忘れられそうもない。>
【赦しとは】
終始、ダニエルの眼光と向き合うことになる。
「赦すとは忘れることではない。
赦すとは愛することだ。」
カトリックの赦しを、つまり、愛することだと理解できなくとも、赦しとは忘れることではないだろうとは思う。
では、赦しとは何だろうか。
この映画は、実際にあった事件にインスパイアされた作品とのことだが、少年院を仮釈放になったダニエルが司祭として傷付いた村人を癒やそうとするストーリーをフレームワークに、赦しとは何かを考えさせるものだと思う。
交通事故で子供を失い、同時に亡くなった運転手はおろか、その妻さえも赦すことが出来ない村人。
忘れようと努めても、怒りや悲しみを忘れることは出来ず、そこには赦しもあるはずがない。
「ここに(村に、そして、教会に)、いなかったことにしろ」と迫られるダニエル。
「(決闘で相手をぶちのめした後)ここに、いなかったことにしろ」と迫られるダニエル。
「いなかったこと」は、忘れることと同義ではないのか。
いなかったことにして、赦されるわけではないはずだ。
信仰とは、ある意味、矛盾かもしれない。
仮に神が赦しても、社会は赦さないかもしれないのだ。
仮に社会が赦すことがあっても、それは、その人が忘れ去られるということかもしれないのだ。
「赦すことは忘れることではない。
赦すことは愛することだ。」
神は、結論を示すが、道筋は示さない。
ダニエルが序盤に言う「(神に)評価するのではなく、理解して欲しいのだ」とは、重要なポイントだ。
僕達も、社会も、本当に赦そうと思うのであれば、実は理解しなくてはならないのではないのか。
教会のミサで、列席するように促された運転手の妻は、理解してもらって、赦されたのだ。
神が赦すとは、そういうことなのだ。
そう、人々が理解し、赦すということなのだ。
僕達が道筋を見つけないとダメなのだ。
その努力をすることが実は信仰なのではないのか。
忘れることや、「ここに、いなかったことにする」ことで赦されるわけではないのだ。
思考を要求する重厚なストーリーだ。
聖人か悪魔か…
少年院から仮出所した青年が、偽りの身分を騙って町の司祭として住人達と意外な信頼関係を構築していくという、実話系の物語。
住人達から村八分にされている女性の気持ちに寄り添うなど人格者の一面を見せながらも、一度火が付けば酒・ドラッグに手を出して狂ったように目を血走らせる…
常に目に不穏な空気を漂わせるダニエルは不気味だった。
ラストで見せるあの狂気の表情が、彼の未来をどう暗示しているのかを推し量るのは、中々に難しい終わり方だった。
輪廻
生きることを苦行と定義するならば、生まれ変わって生きることも苦行、まさに輪廻とは苦しみの無限ループである。
本作品の主人公ダニエル君は生きながらにして輪廻を味わう。
そう、殺人をする人間は、また殺人をするに帰する。
結局、人は救われないのか?
トマシュ司祭(神父)の働き!
少年院に服役中のダニエルは将来司祭になりたくて、少年院の司祭に相談した。答えは罪を犯し服役したののは司祭になれないと言われた。ローマカソリックではまだこれが現実なのか?ホーランドのローマカソリックがこうなのか?驚いたけど、私にはわからない。
賛否両論はあるだろうけど、以下はあくまでも私感だ。
服役中に更生のため神の話を聞かせてるわけだから、司祭になりたがる少年も出てきて当たり前だ。
主人公、ダニエルは出所後、木工所を紹介されバスに乗って出かけるが、木工所の工員が働いてる姿を見た途端、工場に入る気をなくしたようだ。そして、小高い場所に座り込む。そこで、教会の鐘の音を聞く。この設定が上手だねえ。ふといって見たくなるのはよく理解できる。
この村で、すぐ、少年院から木工所というステレオタイプが出来上がっているようで、(少年院でを安く使って良いことをしている経営者に後で会うが)ある女性にすぐ悟られる。かっこつけて、司祭だと祭服をみせる。
年配の司教代理(Vicar )も村人も ダニエル(トマシュ/トーマス司祭)を疑っているようであるが、まず、仕事を与える。告白の部屋で、信者の告白に初めて耳を傾けて、誰もが罪人であることを話す。そして、告白しただけでは物事は解決しないとアドバイスをする。
年配の司教代理(Vicar )が休養を取るためトーマス司祭に全てを任せて去る。
ミサでも彼は美しい声で賛美歌を聖歌を見ないで歌い、注目を浴びる.
村ではある女性の夫が飲酒運転(?)乗客を何人か道連れにして死んでしまったという事件が起きていた。その女性は村八分になり、夫の葬式も司教代理(Vicar )が許可せず出してもらえなかった。乗客で死んでしまった娘や息子たちを嘆き悲しみ立ち上がれない家族にトーマス司祭は自分の心の中にしまってあることを全部出すような弔い方をする。ある家族は『あなたが恋しいよ』といい、ある父親は『アバズレ娘』と。でも、トーマスは『死んだ娘さんはあばずれで恥ずかしいと思っていないんだよ』と的をえた発言をする。
ある日には、『許すことは忘れることではない。また、何もなかったように振舞うことでもない。許すことは愛である。人を愛しなさいその人に罪があっても。』年配の司教代理(Vicar )が去ってから信者は増えていく。または『あの人はこうだああだと、判断しないで、理解しなさい』と。
わああ、、、説教が上手で人の心を打つんだなあ。泣けるなあ。若者を理解しようとするし、事故で村八分になった女性の夫の葬式をする。(村の共同墓地に骨を埋める)また、その反面トーマス司祭は少年のように、若者たちと戯けたりする。トーマス司祭が来てから、歌は歌えないと言った女性まで、歌が歌えるようになった。彼によって、この村が一つの共同体のように動いていくのがわかる。
しかし、村が徐々に共同体のように変わっていっているが、トーマス牧師にはいつもくらい影があるし、それが、少年院時代の人で、木工所で働いていた青年の裏切りで、トーマス司祭は少年院の司祭に少年院にまたおくりこまれる。
最後のミサといって人を集めた日を最後にして。最後のミサでトーマス司祭は皆の前で祭服を脱ぎ裸になる。彼の体には釘で刺したように刺青が施してある。人々は呆気に取られるが、このシーンはペテロの裏切りにより、キリストが十字架にかかったようなシーンに思える。キリストは皆の前で、裸にされ釘で十字架に打たれるから。皆の前で、自分は罪人だと言っているトーマス司祭と被って考えてしまう。
新しい司祭を教会は迎えるが、ミサを聞く人はほとんどいない。でも、そこに、村八分になった女性が入ってくる。そして、一番憎んでいて歌が人前で歌えるようになった女性の母親が村八分の女性を招き入れる。ここで初めて共同体が一つになって人々が救われた。トーマス司祭の努力のお陰だ。
トーマス司祭を正当化してはいない。でも、
ブラックジャックに手術をしてもらうか。高齢だけど大学で医学免許をとった外科医にしてもらう?どっちがいい?
司祭の免許がないからと言って、人の心をうち感動させるミサができないとはいえない。また、司祭は免許はあるが、教会に人がこないというのは(実は)よく見かける。人がいても、ただ来ているだけの人もいる。問題はなんなんだ?
私はトーマス司祭の働きに感動する。教会はこのような青年にチャンスをあげるべきだと思う。少年院で神に支えたいとおもったなんて、ラッキーだと思った方がいい。まず、刑があると聖職につけないというのは取りやめてほしい。人間みんな罪人なんだよ。それがキリストの教えじゃん。どこかの教会で働きながら、司祭になるための学校に行かせてあげてほしい。こういうのはプロテスタントの教会で聞いたことがあるし、私の宗派にもある。だから、私の宗派の牧師は以前はヤクザだったりする。こういう人ほと、牧師や司祭になって苦しい人の気持ちがわかる人になるんだよ。若いものの目を潰さないでほしい。
『信仰』はポーランドだけじゃなく、現代のグローバル、ギグ社会との間に大きなギャップを生んでしまった。この歪みをうめるためにも、『私たちは罪人』だという言葉が生きてくると思う。
強烈で素晴らしい映画。この監督 ヤン・コマサJan Komasaの才能あっぱれ!
主役(バルトシュ・ビィエレニアBartosz Bielenia )の二重の人格の演技が上手。
ここで拍手を送る。ありがとう。
観客の1人として答えは見つからず…
ポーランド映画際2020にて鑑賞。上映前に現地の映画評論家の解説があり、実際に起きた出来事の着想を加えた作品だという。また、この作品は近年のポーランド国内では最も影響を与えた作品だという。
予告でうたってる通り主人公のトマシュが少年院から退所したばかりの少年がとある田舎町の神父として偽りながら生活し、そして町に携わる話。
トマシュは服役中に礼拝などを通して神父になる事を夢見る。しかし前科持ちは神父になれない事を神父から告げられ出所後、心の葛藤と戦う。
そんな中ある田舎町の教会を訪れた際、冗談半分で神父であると嘘をついたのだが、それを周囲が信じてしまい、そして偶然にも町の神父が休息を取りたかったこともあり半ば強引な形で神父として生きる事となる。
最初は戸惑うものの神父として生き甲斐を感じ、そして自分の考えなどを持ち、教えを与えるようにもなる。
そこで町が抱えてる事故の問題に首を突っ込みすぎて町民から反感を買い、そして少年院仲間に見つかり足元を見られゆすられる。
最終的にはその少年院出の仲間に売られてトマシュも少年院に戻り、また以前の暴力に生きる姿で作品は終わる。
僕は無宗教の為、宗教についてものすごく知識があったり強い考えがあるわけではない。
それでもこの作品はとても見入る事ができ、自分自身の中であれこれ考えたり、自問自答しながら見ることができる作品であった。
結論としては自分なりの確固たる答えは見つからない。
もちろん前科持ちとはいえど、刑期を全うして出てきたわけだからチャンスがあってもいい。
また彼の言葉に救われた人も作中内にはいくらかいた。
これは彼が前科持ちという事を知っていればおそらく同じ言葉や状況でも捉え方は変わるのかもしれない。
それはとても都合の良い神の言葉である。
とはいえ、免許も持っておらず神父になるにあたって勉強をしてきたわけでもなく知識もない。
偽りの中生きており、常に偽りを持ち続けてる中で助けを求める人々に教えを与えるのはやはり違うのものであろう。
トマシュがやってきた事自体は決して許されるべき事ではないのは事実であろう。
前科持ちでも神父になるチャンスは与えるべきかどうかがこの作品の一つのターニングポイントなんだと思うが
、無宗教の自分にとってはやはりその点に確固たる答えは見つける事はできなかった。
答えは見つからなかったがトマシュの神父への希望と現実の苦しみなどが存分に描かれとても見入る事ができ、色々自問自答しながら見ることはとても貴重な体験となった。
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