聖なる犯罪者のレビュー・感想・評価
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権威社会の顛末
事実に基づく物語だけに、結末が作為的でないところがこの作品の余韻として響き渡ってくる。
ダニエルが最終的に逮捕されたことで彼のした事実が公表され、この作品ができたと思うが、そこにあるのは「彼のしたことは間違いだったのか?」という問いかけだ。
事実に基づく作品ならではのこの問いかけは、神よりも「罪とは一体何か?」を問いかけているような気がしてならない。
警察がダニエルに神父の免許の確認や、少年院の神父の訪問、神父が恐れる司祭とかローマ法王庁とか、いわゆる「権威」が述べられているが、それと神と一体何の関係があるのだろう?
勝手気ままなことをしてるのは誰だろう?
ダニエルは神学校へ行くことを希望したが、「神学校は少年院に入ったことのある人物はいけない」と神父が答える。そもそも聖職者なるものがそんな規定を設けることなど考えられないと思うのは日本人だけだろうか? ここに一般社会における罪という概念の大きな落とし穴があるように思える。彼らにとって「罪を犯しそれを償った」としても、その罪人は未来永劫許されることはなく、罪人というレッテルを貼られるし、貼っている張本人たちが作った社会だ。
さて、
物語では、ダニエルは病気入院した司祭の代わりに期限付きで代役を任された。
ダニエルは少年院で感じたことを町民に伝えるが、そこには普遍的な生きた言葉があり、人々はそれを受け入れていく。
特に、少し前に交通事故で7人が死亡したことがこの街の大きな出来事となっていた。
しかし人々は事故の原因を運転していた人物一人の所為にして、献花台に彼の写真を飾ることを拒否し、また教会の墓地に埋葬することも許さなかった(通常よそ者と罪人はそのようにする習慣がある)。
運転手の妻宛てに、町民それぞれが彼らを罵るような言葉を書いた手紙を出し、自宅には落書き、彼女は外にも出られず鬱状態で生きている。
どこにでもありそうで一般的なことかもしれない。
そしてそのようにしたのは住民の意向であり、それを入院した司祭も受け入れている。
これが制作者が訴えている「キリスト教社会」の是非だろう。
ダニエルは行事の時に寄付を集めた。そしてこのお金で運転手の葬儀を行い遺骨を埋葬することを皆の前で宣言する。町長が「権威」を使いダニエルを脅迫する。言葉通りに放火するが、彼は意思を曲げない。
事故は運転手だけの所為ではない。動画には7人が大麻を吸って酒を飲むシーンが映っていた。
ダニエルはその映像を他者に見せるのを拒む女性の心境を鑑み、それ抜きで町民が運転手の妻に対してした所業を問う。
葬儀には苦情と黙殺、しかし当日それを決行する。
葬儀の参列にほんの数人の町民が参加したことは、彼の大きな功績だと思う。
ダニエルは神父という立場になったことで本当の調和がどこにあるのか探し出し、それを行うという本当の神父の仕事をしたのだ。
町長の持つ製材所が増資された。そこにいたのはかつて少年院の仲間。彼はダニエルを脅し、お金が取れないとわかると少年院に連絡してダニエルが偽神父になっていることを密告する。
あの神父が街にやってきてダニエルに暴行する。そしてこれを法王庁に上げれば私も罪に問われると言ってダニエルに口裏合わせの工作を強要する。
再び少年院へ戻ったダニエルは、彼を憎む男と決闘させられ、彼を半殺しにする。同時に仲間たちに外に放り出され、脱獄犯となるところでエンドロールになる。
神の名のもとにある狂った社会、世界。
神が問うていたのは、キリスト教社会がダニエルをどのように扱うのかだろう。彼を罪人とみなすなら、それにかかわったすべての人間は神の名のもとに許されることはない。
そのような製作者側の声が聞こえてくるようだ。
の作品から学ぶべき点はとても多く、凝り固まった人々の思考が一番怖いと思った。
成りすましには要注意❗️
主人公の眼に釘付け👀にされました。
少年院で過ごすダニエルは、聖職者に憧れているのか?神父様に自分は聖職者になれるかと聞いていますが、ハッキリ無理だと言われます。
仮釈放になったダニエルは、製材所に行く事になるが立ち寄った村で自分は司祭だと嘘を付き、村人達と交流を深めて行き‥
個人的には、ダニエルは少年院での神父がみんなを感情を吐かせるため叫び、教育していく様子は洗脳している様に映りました。ダニエルは、自分が見てきた真似事をして町の住人が変わって行く様子を見てただの
自己満足に映ってしまいました。
些細な嘘から始まってしまう出来事が、大きくなってしまうと、人は全員では無いかも知れませが恐怖心が湧いて来たり、後悔の気持ちが沸くはずだが、ダニエルは途中逃げ出そうとする場面もありますが、留まります。
ダニエルは、釈放された途端に酒に女と欲望丸出しで、この主人公まともに見え無かったなー!
たしかに、悪事も働いていません。
町の住人も救われた人もいる。が‥
やっぱりラストはそうなるねんなーと思ってしまいた。
聖職者を否定していませんが、自分の話を聞いてみんなが,感動したり、泣いたり、懺悔したりと自分が神の代理人であるかの様になれる仕事であるのは確かだと思っています。
そこに憧れを持つ事は否めないです!
☆☆☆★★ ほんの少しだけ。 どこか『ディア・ドクター』を少し思い...
☆☆☆★★
ほんの少しだけ。
どこか『ディア・ドクター』を少し思い出しました。
但し彼方ほど、一見してホノボノとした雰囲気からの現実を見せつける話では無く。絶えずピリピリとした感覚が蔓延している社会状況では有りました。
いわゆる 〝 成りすまし 〃 では有るのですが、初めて人の《死の尊厳》に触れた主人公。
それまでは、何処かに 〝 面白がり 〃 の面が強かっただけに。自らの魂の浄化に繋がったのか?以後は《聖職者としての意識》を胸に秘めての日々だった様に見受けられます。
その辺りの描写は、私の胸にも響いて来たのは正直なところ。
終盤では、信者の人達に【あってはならない自らの姿を晒し】「◯の◯◯◯を」と言われた一言が、自分の中ではクライマックスでした。
残念だったのは、主人公が過ごした前半での施設の描写。
大きな男との何か訳有りな描写が有り。いずれはこの男との【何らかの関わり】は必要な展開は読めてしまうだけに。最後に起こる展開には、「やっぱり!」とゆう思いと共に。(自分としては)興味が湧かない最後では有りました。
対象の観客層として、ある程度は若者をターゲットとしていそうな感覚の作品とは思うので。致し方ないのだろう?とは思いますが。
2021年1月24日 ヒューマントラストシネマ有楽町/シアター1
英題の意味は聖体祭
「聖なる犯罪者」などという邦題からして大きな間違いを犯している。罪深い作品かと。
まず、神が彼を赦すのかは赦すでしょう。
赦さないルールを作っているのは罪深い人間だということ。
ただ、彼の行いが聖者かというと、それは明らかに違い、自分が許されたいという、ただのエゴだという事。
聖職者たちは神の代弁者であり聖書の解釈者です。という事は、赦しを求めるものに救いを与える者となります。救いを与えるものが、はなから罪人であっては話にならない。たとえその道を赦されることがあったとしても、最後に彼がした行為そのものが、やはり聖職者にはなれない、ただのエゴという証。
町の人が受け入れたのは、そこの人たちが救いを赦しを求めていたからで、これはどこにでも起きる不運な事故のようなものだということ。自分勝手で嘘つきはどこにでもいるから。
ショッキングな実話からの着想だけれど、映画としてもお話になならないし、ただただ宗教を馬鹿にしているのでしょう。盲目的な信仰心は危険ですよってね。
真理や宗教は世界中でその解釈はまちまちな上、もともと神教と密接に生きる日本人には、その信者でもキリスト教のことを理解するのは難しい。だとしても、聖なる犯罪者などという言葉はふざけ過ぎだと思う。
この間違った邦題こそ、罪が深い問題です。
結局のところ人の信仰心は信じたいものを信じたいように信じてしまいがちで、何か問題があると全ては自分以外のもののせいにする。その弱さが悲しい。
聖職者とは?
少し怪しく感じながらも、ダニエルを神父として受け入れようとする村人達。もっともらしいことを言っているようであっても、神父ではないのだから人を騙していることに変わりはない。結局は素性はバレてしまって、その時の村人達の気持ちを思うと気の毒である。
罪を犯したとしても反省し、聖職者になったとしても構わないとは思うが、神学校にも通えないという決まりがあるのだから、そこは守るべきではないのか?
ダニエルはまた刑務所に戻るが、問題を起こしてしまう。これでは神父になどなれないよな。
100%の人間なんかいない たとえそれが聖職者でも と思う
出だしの主人公の雰囲気が不気味で且つ場所が少年院と言うこともあり気が進まなかった。
物語が進んでいくうちに偽司祭から出てくる言葉は村人の心を打ち信頼を勝ち取っていくのだが自分もその教会にいたら勇気づけられたんだろうと思う。
犯罪を犯したため聖職者にはなれないと言うが「罪を憎んで人を憎まず」というのはキリスト教の教えではなかったのか?
どこの世界でも犯罪者はその罪を背負って一生生きていくのだろうけれど厳しい現実を見せられた気がする。
個人的にエンディングは納得いかなかった。
人間は生きている内に多かれ少なかれ嘘をついたり罪を犯すと思う。
教会のお偉いさんは許すことが愛ならもう少し温かい手を差し伸べられなかったのだろうか?残念。
悪いことしてもみそぎとか言う言葉で済ましている政治家の方がどうかと思うが・・・・ちゃいますか?
赦すことの難しさ
赦すことは忘れることでなく、愛すること。
私は根に持つタイプだから、忘れることも苦手。
ましてや愛するなんて…。
主人公の司祭としての行いや説教には愛があった。
彼の偽りを、刑務所で世話になった神父にここにいなかったことにしようと言われた時、彼は言う。
彼は存在を認めて愛して欲しかったのだ。
※でも、身分を偽ることは犯罪なので、仮釈放でそれを行なった主人公は真に更生できていたとは言えないと思った。
「敬虔さ」と「狂気性」
実話をベースにした話題作だけあり、時節柄にもかかわらずお客さんが多かったです。
ポーランド作品ということで、「社会的背景」がわからないこともありますが、映像やシナリオとともに主役の存在感が素晴らしかったです。
過去の罪を隠しながら、聖職者になりすましている、主役のバルトシュ・ビィエレニアさんの眼力による演技は独特で、「敬虔さ」と「狂気性」の危ういバランスを見事に演じていました。
すべてが表現されていないため「余韻」があり、鑑賞後の印象はそれぞれ違うかもしれません。
僕は「良い映画を観たなぁ」と思う一方で、「宗教観」や地域社会の「閉塞感」などに共感できる要素が少なく、感情に響く部分は少なかったようにも感じました。
しかし素晴らしい映画です🎬
人に《その資格》を与えるのは誰か
笑福亭鶴瓶の「ディア・ドクター」とプロットが重なる。
誰かが与えた資格=免状とか卒業証書ではなく、
「誰がなぜ彼をその任に立たせたのか」が、実はトマシュの献身の「肝」なのだと気付かされる物語。
・・・・・・・・・・・・
僕が小さい頃行っていた教会は、初代の牧師さんは郵便局長さんだったそうだ。
戦争で聖職者がみんな死んでしまったので、生き残った信者たちの中で話し合ってその郵便局長さんを牧師として立てたのだと。もちろんその手の学校は行っていない。
白黒の面長の写真がかかっていた。
・・・・・・・・・・・・
映画は、「資格」からは最も遠かった男と、神と、信者が四つに組んで語らっている。
その任に最もふさわしいのは誰なのか、そこを探り求める祈りは、その祈りの実りとしてその現場でしか成り立たない、一度限りのコミュニティを誕生させる。
神と村人とトマシュが決めるのだ。
どこぞの教団やバチカンや神学校がお墨付きを決めるのではない。
2000年前のナザレのイエスこそが、父無し子の田舎大工として、無資格者の親玉という罪名のゆえに、彼は十字架にかけられたのだがなぁ・・
皮肉なことに、誰にも求められていないのに名士の皮をかぶった輩が 逆に幅をきかせている。―それがこの世の中だ。
その人そのものではなく、一枚の紙切れが、名刺と学歴が、そして家柄と納税証明書が、その人を保証するというこの世間。
悪い政治家や医者や宗教家が庶民を食いものにして汚い腹を肥やしていても
しかし彼らは「正式な有資格者」なんだよね。
【2021.9.7.再鑑賞】
安っぽいハッピーな終幕でなくて、これは本物だと判る。
投げられた石の波紋は村に残った。
「他者を赦したとき、人はおのが隠していた自己の罪が赦されることを知るのだ」と、どの表情も語る。
リディアの内面の演じが、素晴らしかった。
教会に神はいない‼️なせなら、私が神だから‼️❓
私事で恐縮ですが、何十年も前から、夢枕にイエスが出てきて、お前が私の生まれ変わりとゆうのです。
イエスも私も、聖書を読んだことが無く、教義も知るよしも有りません。
ちなみに、教皇も大司教も少年を犯していますが、知識は豊富です。
余談が過ぎましたが、この映画の主人公は敬虔な信者です、ハメなれなければ、最後は良い神父で終わり、町も平和です。
たかが、二千年の宗教です。
私が神だから、それで良いでは無いですか❓
神も死ぬのです‼️
罪を背負って生きる者の希望と絶望
設定自体はコメディにもなりうるような単純な嘘と勘違いの話だが、鮮烈な暴力描写とブルーを基調とする冷たく研ぎ澄まされた映像が緊張感とスリルを増幅させる。
聖者の資格すらない前科者のダニエルが、まさに"生身の人間司祭"として、固く閉ざされた人々の心を揺さぶり対立や断絶をも解き崩していく姿は、危なっかしくもあるがどこか爽快でもある。
実際にこういう事件が珍しくないという背景には、えてしてその偽神父のパーソナリティーや言葉が、資格者である厳粛な神父のそれよりもストレートに人々の心に響くという一面もある気がする。
しかし一方でこの男が本当に善人に生まれ変わったかどうかは分からない。いや、善か悪かを判断すること自体が無意味にすら思える。
過去の罪はもはや一生消すことのできない烙印なのか。
事件の加害者と被害者、聖職者と犯罪者、支配と従属、交わることのない者たちに刻み込まれた傷と揺れ動く感情。
見終わった後、色々と考えさせられる作品だが、単純に映画として面白かった!
主演バルトシュ・ビィエレニアのインパクトのある目と表情の演技は、天使と悪魔の両面性を見事に体現していて忘れがたい。
ラストで彼の目に映った自らの未来は何だったのか。
罪を犯し背負って生きる者の希望と絶望。
「人生はいつでもやり直せる」なんて明るく言い放てる人間の薄っぺらさよ。
世界によって通じる言葉が違う
主人公は感情豊かで、ときには司祭をやってもそれを務める人間性は持っている。
しかし、社会システムにはあまり馴染まない。
街で立派に信頼される司祭はできても、コミュニケーションのルールが異なる少年院に行って、そこのルールでコミュニケートすれば犯罪になってしまう。
果たして本当の自分とは? 相手を受け入れるということは?
ダニエル(バルトシュ・ビィエレニア)のギョロ目と貧弱な体つき、しかしそれが真摯に自分に向き合おうとする姿に見えてくる不思議。2018年の『COLD WAR あの歌、2つの心』に続くポーランド映画の秀作。不毛な土地の排他的なカメラ視点が魅力である。
ポーランドでは熱心なカトリック信者が多く、憧れと尊敬を抱くため、市民が司祭になりすますことが少なからずあるらしい。司祭に身分を確認することは失礼にあたるため、偽装が見破られることも少ないという。
そんないくつもの偽装事件の実話を練り合わせた脚本とのことだが、本作の主演俳優は適役だ。
表面上の人格と偽の身分。自覚がなかったとしても自分自身を「信じる」ことで相手を信じさせてしまう単純さとあやうさ。
ネット時代のSNS上で、仮面をまとった自分が素晴らしい評価を得られることと重ねられるだろう。
果たして本当の自分とは? 相手を受け入れるということは?
いくら装っても本心をさらけ出してしまえばみな同様だといいたげなラストではあるが、ラリッた眼球のような人間の業をみせつけられた思いだ。
ちょっとこのレーティングはもったいないような…、と口惜しい一作。
R18というレーティングに怖々としながら鑑賞。確かに目を背けたくなるような場面もなくはなかったけど、正直このレーティングにする必要があったのかな?と思ってしまいました。『クライマックス』(2018)レベルの描写ならまだしも。このレーティングのために鑑賞を躊躇する人がいたとしたら、ちょっともったいない内容でした。
全体的なあらすじは、予告編から受ける印象からそれ程かけ離れているようには思いませんでした。その一方、ややエキセントリックな(偽)神父につい引き込まれ、彼を受け容れていく純朴な村人達…、というありきたりな展開をするようで実は…、という流れが面白く、中盤以降はダニエルの信仰心の行方と共に、この村の底知れなさへの好奇心が募ったり。
カメラをまっすぐ見据えるバルトシュ・ビィエレニアの鋭い視線と彼の身体的なパフォーマンスが印象的ですが、実は本作では、非常に「言葉」そのものの重みを強調しています。最初はぎこちなく、大仰な宗教的表現を操っていたダニエルが、やがて自分自身の言葉に鼓舞され、力強く信仰の重要性を訴えるようになっていく過程が素晴らしいです。
脚本家のインタビューで知ったのですが、本作は実在の事件を基にしているものの、実はポーランドでは同種の事件は毎年のように起きているとのこと。これが本作最大の驚き、というか、ポーランドの人純朴すぎ!
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