劇場公開日 2018年2月1日

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スリー・ビルボード : 映画評論・批評

2018年1月23日更新

2018年2月1日よりTOHOシネマズシャンテほかにてロードショー

悲劇と喜劇、悲哀と笑い。果てしない不毛さの中に現れる“愛でるべきもの”

一年のうちに一度か二度、ああ、この映画のことはこれからも繰り返し頭の中を駆け巡るだろうと思える作品に出会う。2018年はまだ1月だというのに「スリー・ビルボード」に出会ってしまった。年末にベスト10を選ぶ時に、早くもひと枠が埋まったようなものだ。

スリー・ビルボード」は、ミズーリ州エビングという架空の田舎町を舞台にした群像ドラマだ。中心となるのは、娘を何者かに殺された母親ミルドレッドと、住人たちから信頼の厚い警察署長のウェルビー、そして署長の部下で粗野な巡査ディクソン。娘を殺した犯人が捕まらないことに業を煮やしたミルドレッドが、町はずれにある三枚の古い看板に署長を非難する意見広告を出したことから、町全体を揺るがせる騒動が勃発する。

悲劇に見舞われた母親の切なる訴えと、事件の解決に消極的な警察との対立――という構図だが、脚本も手がけたマーティン・マクドナー監督は「世の中はそんな風に白黒つけられるものではない」と言わんばかりに観客の早合点をひとつひとつ裏切っていく。ぶつかるべき敵役かと思われたウェルビー署長は誠実な人格者だし、ミルドレッドのゴリ押しは無責任に波風を立てているだけにも思えてくる。

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途中で犯人捜しのミステリーに向かうかのように思えるが、それもスッと梯子を外されてしまう。最も憎まれ役であるはずのディクソンさえ、環境によって偏見と暴力性を育まれた弱き者でしかない。気がつけば、姿を見せない犯人以外に誰も悪人などいないのに、なぜいがみ合わなければいけないのかと不毛さばかりが浮かび上がる。

いや、この映画の凄さは、現実の世の中は、そしてわれわれ一人一人の人生など所詮不毛なのではないかという疑念を容赦なく追及しながら、そこにもまた、可笑しさや愛でるべきものがあるのではないかと思わせてくれること。正直、本作をジャンル分けすることは不可能だ。悲劇と喜劇、悲哀と笑いが常に背中合わせで、いつどちらの顔を見せるのかわからないという点で「スリー・ビルボード」は昨年の賞レースを賑わせた「マンチェスター・バイ・ザ・シー」と共通する視点を持っていると言える。

とりわけミルドレッドとディクソンは、日本人的な和を尊ぶ感性からすれば我が強すぎて空気を読まない問題人物だが、あらんかぎりの力で壁にぶつかっていく不器用で正直な生き様を見ているうちに、われわれ観客も共に全力で迷うべきだという確信さえ生まれてくるのである。

村山章

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