ハンター(2011) : 映画評論・批評
2012年1月24日更新
2012年2月4日より丸の内ルーブルほかにてロードショー
ハンターの心の変化や周囲との関係性を言葉に頼ることなく映像で表現
オーストラリア映画「ハンター」でまず印象に残るのは、省略の効果を意識した表現だ。ある企業の仕事を請け負い、最後のタスマニアタイガーを仕留めようとする主人公マーティン。彼はこれまでどんな人生を歩み、なぜ人との関わりを避けようとするのか。それから、彼がベースキャンプにする民家に母親や姉と暮らすバイク。なぜこの少年はまったく言葉を発しないのか。この映画の世界は、なにもかも説明してしまうのではなく、観客の想像に委ねることで大きく広がっていく。
マーティンは何らかのスペシャリストではあっても、ハンターとはいえない。あるいは、かつては腕利きのハンターだったことがあるのかもしれないが、いまは違う。彼は人間界と同じように、自然や動物との間に見えない壁を作っている。だから、おそらく独力ではタイガーを見つけ出すことができない。
そこで重要になるのがバイクの存在だ。マーティンは彼が描く絵を通して、単にタイガーの居場所を突き止めるだけではない。その絵は、行方不明になった少年の父親と自然や動物との関係を示唆してもいる。マーティンは、バイク、もはやこの世にない少年の父親、消えゆくタイガーとの生死を超えた繋がりのなかで、自然との本源的な関係を取り戻していく。そしてハンターとなり、最後のタイガーと真摯に向き合う。
主人公のそんな変化や目覚めを、言葉に頼ることなく映像で描き出しているところに、この映画の奥深さがある。
(大場正明)