イディオッツ

劇場公開日:

解説

知的障害者を演じることで社会を挑発するグループを描いた問題作。監督・脚本・撮影は「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のラース・フォン・トリアー。これは彼が運営するプロジェクトドグマ95の第2作。音楽はキム・クリステンセン。編集はモリー・ステーンスゴー。出演はボディル・ヨアンセン、イェンス・アルビヌス、アンヌ・ルイーセ・ハシング、トレルス・リュビュー、ニコライ・リー・コースほか。

1998年製作/117分/デンマーク
原題:The Idiots
配給:スローラーナー
劇場公開日:2001年3月23日

ストーリー

人々の偽善を、自ら知的障害者のふりをするというやり方で暴こうとするストファー(イェンス・アルビヌス)を中心としたグループ、イディオッツ。カレン(ボディル・ヨアンセン)は立ち寄ったレストランで、口からよだれを垂らし突然泣き叫ぶ彼らに偶然出会う。それが演技だと分かり最初は怒りをあらわにするカレンだったが、次第に彼らに惹かれ、ストファーの叔父の持ち物である一軒家で共同生活を送るグループと行動を共にするようになっていった。そして、やがてカレンも、知的障害者の演技を始めるようになる。そんなある時、福祉事務所の対応に腹を立てたストファーが錯乱する。メンバーは必死に彼をなだめ、次の日、ストファーの誕生日を祝うためにパーティーを開いた。羽目を外し、乱交セックスを始めるメンバーたち。その中で一番若いジェッペ(ニコライ・リー・コース)とジョセフィーン(ルイーズ・ミエリッツ)は互いに愛し合っていることを確かめるが、翌朝、ジョセフィーンの父親が彼女を自宅へ引き戻しにくるのだった。ストファーは、グループの結束を形にして示そうと、自分が最も愛する人の前で知的障害者になるという、究極のテストを行なうことを提案した。そのテストからは次々と脱落者が出て、ついにカレンの番になった。彼女は立会人のスザンヌ(アンヌ・ルイーセ・ハシング)と共に自宅に戻り、愛する家族の前で知的障害者の演技を始めるのだった。

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(C)Lars von Trier

映画レビュー

3.0良くも悪くも感情は揺さぶられた作品

2024年2月13日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:映画館

笑える

怖い

難しい

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パラノイア大塚

3.5"愚か者"

2023年12月8日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:VOD

怖い

興奮

未だに"ドグマ95"のルールが曖昧にまるでマンソン・ファミリーのヒッピーによるコミューンを形成している集団にも、トリアーの悪趣味は全開にあまり嫌悪感は抱かない登場人物に仮の姿はどちらなのか、共感や同情は出来ないにしろ活動方針にも理解は出来ない。

障害者を装うなら『ギルバート・グレイプ』でのディカプリオ並みの演技で振り切った方が、衝撃的な映像描写に演出を期待しながらラストを含めて無難に纏めた感は否めない、個の力より集団心理の強さ、赤信号みんなで歩けば怖くない的な!?

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万年 東一

3.0映画としてはおもしろいとは思わないが

2023年11月10日
iPhoneアプリから投稿

知的障害者のフリをするコミュニティの中に集まる人達は現状の家族や職場を逃れたくて、現実逃避している人達ばかりで、そんな彼らが人の偽善をあばくとか言って知的障害者のマネをしているのだから、ものすごく不快だし、観るのがしんどい映画なのだが
多分主題は主人公のカレンが何故このコミューンに惹かれて彼女がコミューンの他の人間と何が違うのかとゆうことだと思う。

奇跡の海、ダンサー・イン・ザ ・ダークの2作は
軽度の知的障害や発達障害を持ったような女性に苦難を与え、そこに神聖さを見出している映画だと思うが
イディオッツは障害や女性の神聖視することやそこに無垢さを見いだすことを突き詰めていった総括の様な作品になっているのかなと。(公開日はダンサー…の方が後だけど制作はイディオッツの前なので)
映画としては面白くはないけど
前2作に対する、フォントリアー自らの問い詰めとゆうか批評みたいな目線があると思うと興味深い作品になっている気がする。

配信で鑑賞

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madu

4.0トリアーの態度表明

2023年10月22日
iPhoneアプリから投稿

今までラース・フォン・トリアーを誤認していた気がする。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』や『ハウス・ジャック・ビルド』だけを観ているとトリアーは単なる上質な露悪コメディ作家という印象しか受けないが、本作を通じて、彼が露悪のさらにその先、つまり露悪が無効になる虚無の地平へと視線を注いでいることがわかった。

本作では「市井の人々の欺瞞を暴く」という名目で知的障害者のフリをする健常者集団の姿が描かれる。高級レストランで、社会見学で、不動産の内見で、彼らは不意に暴れ出す。するとやにわに空間に緊張が走る。まるで電撃を浴びたように硬直する人々。それこそが、一見して正常そうに見える社会に開いた穴なのだ、とでも言わんばかりに暴れ続ける男女。

突飛な方法で社会を挑発し続ける彼らだったが、徐々にメタとベタの境界が揺らいでいく。知的障害者の真似をするうちに狂気の自家中毒に陥った男女は空虚な狂騒に溺れていく。「全員でセックスをしよう」とリーダーが提案したあの瞬間に組織の崩壊は既に決していた。もはや「欺瞞を暴く」という名目すら見失った乱交パーティーが彼らにもらたしたものはどこまでも中身のない空虚感だった。

トリアーという作家は一見して単なる露悪にしかなりえない表現を敢えて貫徹することで、その先にある虚無を描き出そうとしているのではないかと思う。もっといえば虚無を描き出すことにどのような意味があるのか、という点にまで射程を広げているような気がする。

以上から本作はトリアーの映画に対するアティテュードの恥ずかしいくらい明け透けな表明として解釈できる。トリアーは今まであんまり好きではなかったのだが、本作を観てもう少し深掘りしてみようと思えた。

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