イディオッツのレビュー・感想・評価
全10件を表示
良くも悪くも感情は揺さぶられた作品
「知的障害者を演じるというサークル活動とその終焉」を描く、アウトレイジも顔真っ青な「登場人物全員クズ」という珍しい映画。
題材が題材なだけに、内容は不快of不快。
その上雑なところも多く、「サークルを作った目的」「サークルの信念」「メンバー1人1人へのサークル活動を振り返るインタビューに至った経緯」など肝心っぽい部分はふわっとしてたり、描かれもしなかったり。。。
そんな中でも最大のツッコミポイントは、大義を掲げていそうな雰囲気で描かれていたサークルリーダー(サッカーのウーデゴー選手似)の「みんなでセックスしたい⭐︎」というパリピ発言以降、スピーディに繰り広げられた無修正乱交パーティ。
監督は「人を驚かせたい」「ドン引かせたい」という欲求を抱えていそうだが、それって路上でいきなりチ⚪︎コを出すストリーキングと同じ発想なのよ。
私を含め劇場にいた全員、その場で監督のチ⚪︎コを見せつけられたように思う。
まぁ誰かと一緒に観たら感想を語り合いたくなる映画ではあると思うので、そういうのを希望している方にはオススメです。
"愚か者"
未だに"ドグマ95"のルールが曖昧にまるでマンソン・ファミリーのヒッピーによるコミューンを形成している集団にも、トリアーの悪趣味は全開にあまり嫌悪感は抱かない登場人物に仮の姿はどちらなのか、共感や同情は出来ないにしろ活動方針にも理解は出来ない。
障害者を装うなら『ギルバート・グレイプ』でのディカプリオ並みの演技で振り切った方が、衝撃的な映像描写に演出を期待しながらラストを含めて無難に纏めた感は否めない、個の力より集団心理の強さ、赤信号みんなで歩けば怖くない的な!?
映画としてはおもしろいとは思わないが
知的障害者のフリをするコミュニティの中に集まる人達は現状の家族や職場を逃れたくて、現実逃避している人達ばかりで、そんな彼らが人の偽善をあばくとか言って知的障害者のマネをしているのだから、ものすごく不快だし、観るのがしんどい映画なのだが
多分主題は主人公のカレンが何故このコミューンに惹かれて彼女がコミューンの他の人間と何が違うのかとゆうことだと思う。
奇跡の海、ダンサー・イン・ザ ・ダークの2作は
軽度の知的障害や発達障害を持ったような女性に苦難を与え、そこに神聖さを見出している映画だと思うが
イディオッツは障害や女性の神聖視することやそこに無垢さを見いだすことを突き詰めていった総括の様な作品になっているのかなと。(公開日はダンサー…の方が後だけど制作はイディオッツの前なので)
映画としては面白くはないけど
前2作に対する、フォントリアー自らの問い詰めとゆうか批評みたいな目線があると思うと興味深い作品になっている気がする。
配信で鑑賞
トリアーの態度表明
今までラース・フォン・トリアーを誤認していた気がする。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』や『ハウス・ジャック・ビルド』だけを観ているとトリアーは単なる上質な露悪コメディ作家という印象しか受けないが、本作を通じて、彼が露悪のさらにその先、つまり露悪が無効になる虚無の地平へと視線を注いでいることがわかった。
本作では「市井の人々の欺瞞を暴く」という名目で知的障害者のフリをする健常者集団の姿が描かれる。高級レストランで、社会見学で、不動産の内見で、彼らは不意に暴れ出す。するとやにわに空間に緊張が走る。まるで電撃を浴びたように硬直する人々。それこそが、一見して正常そうに見える社会に開いた穴なのだ、とでも言わんばかりに暴れ続ける男女。
突飛な方法で社会を挑発し続ける彼らだったが、徐々にメタとベタの境界が揺らいでいく。知的障害者の真似をするうちに狂気の自家中毒に陥った男女は空虚な狂騒に溺れていく。「全員でセックスをしよう」とリーダーが提案したあの瞬間に組織の崩壊は既に決していた。もはや「欺瞞を暴く」という名目すら見失った乱交パーティーが彼らにもらたしたものはどこまでも中身のない空虚感だった。
トリアーという作家は一見して単なる露悪にしかなりえない表現を敢えて貫徹することで、その先にある虚無を描き出そうとしているのではないかと思う。もっといえば虚無を描き出すことにどのような意味があるのか、という点にまで射程を広げているような気がする。
以上から本作はトリアーの映画に対するアティテュードの恥ずかしいくらい明け透けな表明として解釈できる。トリアーは今まであんまり好きではなかったのだが、本作を観てもう少し深掘りしてみようと思えた。
それでも美しい瞬間が確かにあった。
歪んだ形で出会ってしまったのかもしれない
悲しみの淵でしか落ち合えなかったのかもしれない
それでもコミュニティを作り出し、
そこでならうまく生きていけると
そこでなら少なくとも幸せだと感じる瞬間はあったはずだ。
いくら道徳的に誤っているとはいえども、
それでもイディオッツたちがこうして出会えて良かったなと
そう思える瞬間が確かにあって、
そういう顔をしている彼らが確かに存在したのである
人が何に救済を求めるかは自由だ
cygne
スィニュと発音するフランス語、『白鳥』である カミーユ・サン=サーンスの 「動物の謝肉祭」の 13 番目で最後から 2 番目の楽章とのwiki情報 今作では劇判とスタッフロールで流れる曲である 本来ならばチェロなのだが、テルミンでもない、なにかの楽器にて演奏されているので、一寸した違和感も持ち味なのだろう ちなみに解釈があるようで、白鳥は生涯の最後の瞬間まで沈黙し、その瞬間にすべての鳥の鳴き声の中で最も美しい歌を歌うという信念になぞらえての信念は、口のきけない人間であるというものらしい そういう意味では今作のラストに主人公の女性が実家に帰った折り、家族でケーキを食べた際、まるで身体障碍者の食べ方を模し、夫に殴られるというシーンに当てはめた曲なのかも知れないと勘ぐるのは、勝手な妄想である
色々とルールを設けて映画を撮る運動の一作であるらしい今作は、さすがラース・フォン・トリアーらしい狂気染みたストーリーテリングである まるでドキュメンタリーのようであり、またインタビュー風景も差込まれつつ、異様な集団の実験的思考による団体生活ならではの、奇妙な生活を描く内容である
それは現在では絶対に許されることではないポリコレに反するアイデアだと言っても過言ではない 身体障碍者、精神障碍者等を演じ、社会に対しての悪ふざけを敢行する奇天烈なグループに、子供を亡くしたばかりの女が、その子の葬式から逃げだし、現実逃避で彷徨った際のレストランで知り合ったところから話を展開していく
兎に角ハチャメチャで危なっかしいリーダーの男や、行動を共にする仲間達男女のえげつなさには頭がクラクラしてくる 健常者にも障碍者にも大変失礼で冒涜極まりないこの一連の行動は、一体何の目的で愚行を繰広げているのかという疑問しか湧かないが、しかし折り返し位から本質というか理由がうっすらと滲み出てくる
"イディオッツ"(愚者)を演じることで自分の中の弱さや思い上がりをリセットしたい、安定を求めたい一つのエチュードなのであろう 但ししかしやがて、その予定調和(あくまで常識的にやり過ごそうとする相手のシチュエーションや行動パターン)に飽きたグループは、本物の障碍者達、又は反社的輩との交わりを通じてどんどん心をすり減らす リーダーの誕生日に希望で乱交が行なわれる突拍子さも、さすが北欧らしい狂気を演出で、キチンと本番さえ行なわれているボカシ無しの"ヌップリ"の画作りに戦慄さえ感じ、そしてその究極は、以前居たコミュニティに於いてのその立ち振る舞いの演技ができるかに移行していく
窮屈な以前の場所から逃げてきた連中達からすれば、わざわざ戻って、自尊心を自らへし折る行為をしたいと思う者はおず、逆に父親に連れ戻される少女もいる程に疲弊してしまうのだ そんな中で一連のグループの様子をずっと窺っていた主人公が、コメント冒頭での挑戦である
人間の薄っぺらい正義感や、化けの皮を剥ぐ、又は自分自体も剥がされる、倫理観をブルドーザーで抉るようなコンセプトであったが、そのハラスメントなんてぶっ飛ばすような強烈な展開の数々に、制作陣の映画作りの半端無い個性と暴力を存分に浴びた内容であった 50年かかさずにワックスがけをした床をいとも簡単に汚す、その敬意に果敢と壊す、そのデストロイヤー振りと、精神年齢を疑うような行為、そしてそうなるざるを得ない程疲弊したそれぞれ本来のコミュニティ、そうなってしまった社会 この"イディオッツ"達の実験は、まさにアメリカのフラワーチルドレンそのものなのかもしれない
ふう
障害者を演じて、社会を挑発するのは理解できるのですが、作品としては楽しめなかったです。飽きてしまったというべきなのか。
なんかミシミシとしてくる人間の嫌な感じは、さすがトリアーらしいというかなんというか。
なんじゃこりゃ
面白いかどうかではなく、純粋にこれは映画なのかという戸惑いを受けてしまった。ミニマリズムを徹底していることもあり今でいうモキュメンタリーに近いものを感じたけど、ほんとによくわからなかった。理解を超越している。
そして全てが明らかになった後の結末で僕はこの女はおかしいと思ってしまったのだけれど、そうやってひとと違う視点から人間を捉える能力がTrier監督が天才だとか変態だとか言われる所以なのだろう。
全10件を表示