コット、はじまりの夏のレビュー・感想・評価
全138件中、1~20件目を表示
素朴な中に煌めきがある。思い返すだけで涙ぐんでしまう
言うなればこれは素朴な物語だ。大家族の家長はギャンブルにうつつを抜かし、人に対する態度も最低。彼自身、己に愛想が尽きて、もはや開き直っているようにも見える。そんな多難な家庭に育った物静かな少女コットが、母の出産までの間、親戚夫婦の世話になることに・・・。きっと多くの観客は親戚夫妻を目にする瞬間、外見にほとばしる優しさと慈愛に心底ホッとし、ここからは人間の正の部分に目を向けた温かいドラマが始まっていくのだと予感するはず。現に夫婦とコットは次第に打ち解けあい、少しの言葉や表情だけで多くのものを察しあえるほどの愛情で結ばれていく。その過程を美しく彩る風土。光の角度。和解のお菓子。ポストまでのダッシューーー。やがて明らかになる過去も含め、本作は登場人物の内面を決しておざなりにせず、繊細に大切に描写を重ね、観る者の胸にジワッと感情を染み渡らせていく力がある。心のこもった贈り物のような素晴らしい作品。
清冽なデビューを飾った主演キャサリン・クリンチは、シアーシャ・ローナンに続くアイルランドの超新星
本作については当サイトの新作評論コーナーに寄稿したので、こちらのレビューでは補足的なトピックをネタバレ込みでいくつか書くことをあらかじめご了承願いたい。
まずはコットを演じた映画初出演にして主演のキャサリン・クリンチ。2010年にダブリン郊外の村で生まれたが、評論でも触れたように母親は世界的に活躍した音楽グループ「ケルティック・ウーマン」の結成メンバー。本作が2022年2月のベルリン国際映画祭で子どもが主役の映画を対象にした部門のグランプリを獲得したほか、アイルランド国内のアカデミー賞では史上最年少の12歳で主演女優賞も受賞するなど、国内外で高く評価されている。アイルランド人女優のシアーシャ・ローナンも「つぐない」で13歳にしてアカデミー助演女優賞にノミネートされてから順調に国際的スターへの道を歩んだが、キャサリン・クリンチもローナンに続く存在になるのではと同国内外で期待されている。
評論の準備で本作の成り立ちについて調べるうち、アイルランドにおける言語の状況、たとえば第一公用語のアイルランド語よりも第二公用語の英語を日常的に話す国民のほうが多いといったことなども知った。アイルランド映画といえば「ザ・コミットメンツ」「ONCE ダブリンの街角で」「シングストリート 未来へのうた」など大好きな作品もたくさんあったのに、話されているのが英語だということを特に何とも思わなかったのは、今更ながら自分の想像力が足りなかったと反省した。そうした歴史的文化的背景があったからこそ、英語で書かれた原作小説をアイルランド語映画として再構成したコルム・バレード監督の挑戦が同国民に広く支持されたのだろう。
強く印象に残っているシーンとして、評で挙げたもの以外に、コットが全力で走る映像がスローモーションになるのもBGMと相まって感情の高まりを表現し、シンプルながら効果的な演出だと感心した。
そして、あの素晴らしいラストシーン。状況は原作小説を忠実に再現しており、コットの一人称語りの最後の一文はこう書かれている。
“Daddy,” I keep calling him, keep warning him. “Daddy.”
ここでのhimはコットを抱きかかえているショーンを指す。特筆すべきは、彼女が初めて(そして作中では唯一)ショーンを「ダディ」と呼んでいること。実の父親ダンが怒った表情で追いかけてきたことを(気をつけてと)警告する意図で、ショーンに「ダディ」と呼びかけたのだ。それまで、ショーンのことが次第に好きになりながらも何と呼べばいいのか、どういう距離感、関係性で接したらいいのかわからずにいたコットが、人生の大きな選択をしたことを端的に示す秀逸なラストだと思う。その後、めでたくキンセラ家の養子になるのか、あるいは実家に連れ戻されるのかは、原作と同様映画でも観客の想像に委ねられているが、それもまた長い余韻を残す要因になっているのだろう。
寡黙な少女の目を通して描く家族とは、親子とは
1981年の夏、アイルランドの田舎町。育児放棄した両親の下で育った内気な少女、コットが、母親の妊娠を機に親戚の家に預けられることになる。コットを出迎えたのは子供がいないキンセラ夫妻。妻のアイリーンはケイトの髪を慈しむように櫛でとかし、夫のショーンは不器用ながらもコットと打ち解けようとしているのがよく分かる。
静かな農場、井戸、乳搾りetc、一夏、キンセラ夫妻と穏やかな時を過ごすうち、コットは初めて家族の温かみを体全体で味わうことになる。コットを演じるキャサリン・クリンチが瑞々しくて、少女の世界に自然に引き込まれていく。
なぜ、キンセラ夫妻はそこまでコットを可愛がるのか?夫妻の秘密とケイトの両親との対比によって、ままならない家族の有り様が浮かび上がる。ほとんど言葉を喋らないコットがそれに気づき、言葉にならない言葉を心の中で呟く時、誰もが涙を流すことだろう。
繊細さが全編に詰まったような本作は、主にドキュメンタリー映画をメインに子供の視点で家族の絆を描いてきたアイルランド人の監督、コルム・バレード。セリフの大部分がアイルランド語なのは、監督の実家では英語とアイルランド語が使われていたせい。コットに合わせて映画全体が静かなせいか、アイルランド語の響きが観終わってしばらく耳から離れない。
愛のお話
現在にも通ずる、普遍的なテーマが描かれていたと思う。
コットの実の家族は、彼女を愛していないわけではなかった。だけど、子供は、それだけで健やかに成長するわけではないのだろう。
実際、実の家族による不誠実さやネグレクトは、コットの学習能力の発達を遅らせ、気力を失わせていた。
コットが預けられた先での生活は、実の家族との生活とは違っていた。彼らは、質素だけど堅実に働いていて、相手を思いやり、穏やかに生活していた。
コットは、身体を洗い、髪を丁寧にとかれ、心を労られた。お菓子をもらい、文字の読み方を教わり、足の速さをほめられた。
そんなふうに、愛は育まれるのではないかと思った。
まあまあだった
コットが最後まで一貫して誰にも心を開かず、笑顔を一切見せない。心を病んでいるのではないだろうか。見ていて苦しくなる。親戚の二人は彼女を引き取ることになるのだろうか。そうなって欲しい。
映画や物語としてはこれでいいのだろうけど、子どもには安心してリラックスできる環境であって欲しい。心を開いたコットはどんな様子なのだろう。実親の元では愛着障害が起こって、貧困でもあり、厳しい環境だ。
親ガチャ物語
「親ガチャ」最近で1番嫌な言葉
使いたくない言葉ナンバーワンなのに
分かりやすく使っちゃうあたし(嫌な人)
アイルランドの言語が英語じゃないんだね
え?と思っちゃった
最近英語が聞こえるようになってきて
映画を見る楽しみでもあったけど
…そんなことはどうでもいい
純粋に作品を味わった
子を亡くした夫婦の愛情深さをかみしめた
この家には秘密はないわ
とコットの精神が安定した頃
最大の秘密を知ってしまう
そこからの危うさが映画的に仕上がっている
あまりセリフのないコットがよく演技してて
農場や牛やルバーブの香りがした
静かで美しい物語
家族の中で孤独な少女が、一夏親戚の家に預けられ、自分の居場所を見付ける物語。すごく静かな映画。
アイルランドの美しい映像がとてもいいです。最後別れのシーンはグッときます。本当は親戚に引き取ってもらえたらよかったけど、現実的にそうもいきませんよね。。切ない。
でもきっとこの経験が少女の支えになってくれると思います。
良質な読書をして癒されたような気持ちになりました。
居場所
パンフレットにあったコルム・バレード監督のインタビューに、「ミツバチのささやき」(73)に触れている部分があって、さもありなんという気がしました。直接影響を受けたり、意識していたということではないそうですが、映像の質感や叙情的な雰囲気、そして大人になる前の少女の視点で描かれているところなどに相通ずるものが感じられました。「ミツバチのささやき」や「エル・スール」(82)のように、どのシーンも絵的に美しく、説明は最小限に留め、余白を想像にゆだねるカット割りがとても印象的でした。キャスティングもよかったですね。とりわけコット役のキャサリン・クリンチは、本作が映画デビューという等身大の初々しさが唯一無二の作品を生んだように思えました。似たような物語はたくさん観たことがあると思いますが、この絶妙なバランス感覚の心地よさは、なかなか出会えない貴重なものだと思います。オープニングの「え、何なの、この話は?」と引き込まれる感じから、エンディングの胸の奥に落ちてくる深い感動まで、本当に幸せな映画時間でした。ちなみに、パンフレットの仕上がりもとてもいいもので、作品をより深く知ることができました。
オフビートな一期一会。
「そんなにあったら、アイスクリーム6個くらい買えるわ」
「いいんだ。甘やかしに来てるんだから」
少女は現実を受け入れ、少女の周りも愛が枯渇していない事に気づき、少女は、強く生きる事を揺るぎなくする。まだ、始まったばかりだが、新たな一期一会が少女の未来にはきっと存在する。と感じた。
教育の必要性を「ハイジ」でデフォルメしている。鳥肌が立った。
傑作だと思う。
以下
ネタバレあり
秘密の花園を大いにリスペクトしている。
オフビートな一期一会だったが
自ら
ハグをする様になった。
正直眠かった...
セリフが少なく、日々が流れていくように静かに穏やかに進んでいく...そして誘われる眠気...
櫛で丁寧に髪をとかしてもらうシーン、シェーンとの実の親子のような関わり、最後の走り出すシーンと抱擁、うるっと来るシーンはあった。
大人たちの、ありのままの姿が生々しくそのまま映っていて、それは子どもの視点からみるので少ししんどい所もあった。
全然内容を見ずに映画館にみにいって、「はじまりの夏」で季節的にもちょうどいいかななんて思っていたけど、スッキリ爽やかな感じの映画ではなかったかな〜
たった、数ヶ月
その数ヶ月に、夫婦は亡き人を思い出し、
コットは優しさを知る。
あの夫婦が絶妙で、
過剰に優しいわけでもなければ、
変にコットにしつけをするわけでもない。
ただ、それぞれがそれぞれのやり方で、
その人物と接したり、過ごしたりする。
その中で、互いの暗い部分が見えたりし、
暮らしの中で静かにそれを見つめ合う。
クッキーを思い出すだけでほかほかしてくるし、
ラストシーンはずるいずるいと思いつつも、
泣いてしまった。
疾走シーンに魅せられる
ギャンブルにうつつを抜かし、コットに辛くあたる父親。それを見て見ぬ振りの姉たち。学校でも先生から見放され友達もいない様子。一種の諦観を感じさせるコットの暗い目。映画は序盤から彼女の孤独と、なぜ寡黙にならざるを得なかったのか、その背景を丁寧に描き出す。それが親戚夫妻に預けられ境遇が一変するわけだが、必要以上の説明はしない。髪を梳き、熱い風呂に入れ、着替えを出してあげる。そうしたちょっとした行為からコットに注ぐ愛情の深さが感じられる。
最初戸惑っていたコットのその後の行動も然り。アイリンと共に井戸へ水を汲みに行く。その途中の青々とした草原。水面に映し出される二人の姿。ヴェンダースの「PERFECT DAYS」を彷彿させる美しい木漏れ日。これらの瑞々しい自然描写が、言葉以上に彼女の心の平穏を伝えてゆく。
一方、夫のショーン。最初無愛想だった彼が、さり気なくテーブルに置いたお菓子(食事のシーンが多いが、食卓のカットやこうした小道具の使い方は小津的)をきっかけに心を通わせ始める。二人して黙々と牛小屋を掃除したり、郵便箱までダッシュさせてタイムを計ったりする様は、実の親子のようで微笑ましい。特に「何も言わなくていい。沈黙は悪くない」という言葉は印象的。この言葉によってコットは人格を肯定され、初めて自分自身の“声”が持てたのだろう。だからこそ、ラストのあのひと言が強く観客の心に突き刺さるのである。
しかしながら、その後どうなるのかは我々の想像に委ねられる。余韻あるエンディングだ。また、コットを演じたキャサリン・クリンチが良い。透明感溢れる演技で、少女の覚醒と成長を表現していた。シンプルだが静謐な感動をもたらす作品だった。
どこか懐かしい記憶を呼び覚ます、愛おしい作品
ブルーグレーがかったようなアイルランドの広大な風景。
澄む空気に映し出される光がその時々を伝え、冒頭の生い茂る草の場面からふと息を吸いこみ鼻の奥で感じてみたくなる何かがある。
いつも自分の存在を消していたようなコットは、母の出産を理由に親戚に預けられることに。
それはショーンとアイリン夫妻の元で自然光のようにやさしく寄り添う家庭を知っていく特別な時間だった。
そこには陽気な友人たちとの交流、周りの人々を惜しみなく助ける姿、夫妻が支え合い哀しみを越え現実に向き合う様子があった。
そして、アイリンが柔和なゲール語とまなざしで教える〝自分を慈しむこと〟。
ショーンがどこか自分に似たコットの不器用さや寡黙さを対話で肯定し、行動で教えてくれたこと。
自分では選びようもない9歳のこどもの生活環境から初めての感情に触れた体験でコットには笑顔がうまれ、雨粒のきらめきに目を止め、ことりのさえずり、家畜の声に心躍り、川のせせらぎに安らげるようになるのだ。
ラスト、別れのシーンのコットの疾走と放つ〝daddy〟の2つの意味に胸がつまる。
変わらない日常を丁寧に過ごし、愛をもって接することを知った今までとは違うコットが確かにそこにいた。
片方だけではない。
両方を知ったコットは誰よりも強くやさしくなれる。
あの柔らかな響きなカウントを耳の奥にこだまさせてきっと彼女の人生は今始まる。
開かない扉の前に立つようなコットの憂い、夫妻に出会って愛を知り瑞々しくほころんでいく様子をキャサリン・クリンチがピュアな素質のままで魅せ、夫妻を演じる2人が苦悩を秘めながらも寛大な人間性で接する姿が温かくずっしりと心に沁み込む。
成長のなかで感じたことのある機微は人それぞれだ。
その記憶のかけらがじんわりとどこかに重なるときこんなふうに切なく胸が疼くのだろう。
80年代はじめのアイルランドの田舎町。 子だくさんの夫婦に、またひ...
80年代はじめのアイルランドの田舎町。
子だくさんの夫婦に、またひとり子どもが生まれる。
年長の少女コット(キャサリン・クリンチ)は物静かで、父親からは邪険に扱われている。
母親が出産を控えた夏休み、コットはさらに田舎で暮らす伯父伯母夫婦のもとに預けられることになった・・・
というところからはじまる物語で、はじめはコットも伯父伯母夫婦も慣れない仲だったが、伯母はなにかにつけてコットの居場所を与えてくれるようになる。
というの、夫婦には息子がいたのだが、事故で失くしてしまったからだった・・・
物静かな少女コットのひと夏の出来事が、フィルム撮りの柔らかい手触りの映像で綴られていきます。
水汲みや郵便物の確認などの些細な家事がコットの居場所を与える・・・
家族なのだから、ちょっとした家事やなんかを子どもたちもやった方がいいよね。
ま、大人の眼の行き届いている範囲で、ということになるのかもしれませんが。
で、思い出したのは、自分ちののこと。
店舗兼住居で両親は商売をやっていたのだが、わたしの下に3つ違いの妹がいて、その2年後に弟が生まれた。
商売をしていると、家事・育児は大変で、弟が生まれたばかりの頃かもう少し後かは忘れたが、わたしの妹は田舎で暮らす母の姉のもとに預けられた。
伯母のもとには同じ年頃の姉妹がいたので映画とは異なるのだが、妹の田舎の伯母のもとでの生活もコットと同じようなものだったのかしらん。
と、そんなことを思い出した次第。
映画は、瑞々しい映像で綴られる何気ない日常の物語。
全編、アイルランドの言葉がしゃべられており、ラジオなどからは英語が流れるあたりが興味深い。
「THE QUIET GIRL」という原題に『はじまりの夏』とつけた日本タイトルは秀逸。
ラストショットにつながるポスターデザインも秀逸。
救いがない
ほぼ注目していなかったが、隙間時間にぴったり入ったので観賞。
ヨーロッパ映画祭系は苦手なのでかなり不安だったが、まあまあだった。
ラストシーンでは涙も出た・・・・が、背筋を冷たいモノも走った。
あの追いかけてくる姿はターミネーターよりよほど戦慄させられる。
あのラストでは本当に救いがない。
心地よい疼痛が残るのは好きだが、これは胸が張り裂けんばかりだ。
こういうのがゲージツなのかな。
映画を観に行ってこういう気分になるのは私は御免被りたい。
ベースは嫌いじゃない。
ちょっとだけ西の魔女が死んだを想起させられた。
だが、バックグラウンドが深く掘り下げられず、もやもやした感が残った。
また、全体的に陰鬱な上に生理的に受け付けないやつも散見され、
エンターテイメントとは言えないと感じ私にはちょっと厳しかった。
こういう映画の割に(だから?)平日にもかからず観賞者多数。
最初から最後まで物音はほぼなく、
当然エンドロール終了まで席を立つ方はいなかった。
久しぶりに静謐で映画館にいること自体を楽しめた。
終わり方が凄い。
妻に「これたぶん好きなやつ」と勧められてみた。
さすがの眼力。
少々荒れた家の自閉症ぎみ四女が、5人目が生まれるから夏休み中親戚の家に行かされ、、、あらたな家族を見つける話。エンディングもなかなか気持ち良い「振り逃げ」だった。
あの時のDadyはどっちの意味だったんだろう?そんなことを映画館の帰り道に考えて楽しかった、、たぶん監督の思う壺だ。少ないコミュニケーションでお互いに求めあい、補完し合う関係がミニマルで美しい。
まあ血が繋がってるだけで家族とはいへ別人、別人生だから。自分の足を引っ張る様になれば切り捨ててよしと私は思うのであります。
こんなシンプルな話を最高に美しいアイルランドの映像と景色、そして初めて聞くゲール語の会話でぜひ。
全138件中、1~20件目を表示