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映画版のヘンリー六世はPart1とPart2の2部構成であるのに対してシェイクスピアの戯曲は3部構成であり、舞台で上演すると9時間近くかかる代物らしい。
当然映画版では物語の端折りや改変、登場人物の人数減らしや吸収合併などの処理が行われている。
Part1・Part2ともに監督はロイヤル・コート劇場の元芸術監督であるドミニク・クックが務めている。元芸術監督にありがちだが、やはりアップの映像が他の映画に比べると多い。
特に戦闘シーンのアップの多用は観客としては疲れるだけである。
本作Part1は原作戯曲の第1部と第2部の第3幕、グロスター公が死ぬまでといったところだろうか。
実は原作とかなり違うのでなかなか断定しづらい。
この改変自体はそれほど気にならないが、やはり問題は重要な役所である王妃マーガレットを黒人女優のソフィー・オコネドが演じていることである。
舞台演劇なら気にならないかもしれないが、今までもさんざん書いてきたが映画でのこの白人役に黒人を起用する演出は間抜けに映る。
しかも父親役は白人が演じている。せめて父親役も黒人にするべきではなかろうか。
本作において黒人は彼女しか登場しない。マーガレットは希代の悪女であり、オコネドの演技がうまいせいか意地悪で性格のいやらしい女に見えてしまう。
そのためこの役にだけ黒人を起用するのはかえって黒人を貶めていると言えなくもない。
どうせやるなら俳優全てを黒人でやればいいじゃないか!この中途半端さが一番情けなく思える。
結局は黒人も主要キャストで入れてやったぞ!という白人の上から目線を強く感じてしまう。
原作戯曲の第1部はヘンリー五世死後の英仏間の百年戦争の末期に当たり、延々戦争の話が繰り返される。
主役は戦場で活躍し続けた後に非業の最期を迎えるトールボット卿と言っても過言ではない。
映画版の本作では、第1部の戦争シーンを大幅に短縮して第2部につながる重要なシーンをつないでいく演出をとっているが、限られた時間の中でその判断は正しいと思える。
正直なところを言えば原作の戦争シーンは戯曲ということもあり無駄に長い会話が延々と繰り返され飽きる。
また本作ではフランス軍にジャンヌ・ダルクが登場するが、日本では最近放送された『神撃のバハムート』シリーズを筆頭にジャンヌ・ダルクという名前のキャラクターを登場させるなど、ほぼ好意的な印象しかない。
リュック・ベッソン監督作品の『ジャンヌ・ダルク』やロベール・ブレッソン監督作品の『ジャンヌ・ダルク裁判』、カール・テオドール・ドライヤー監督作品の『裁かるゝジャンヌ』など海外でも彼女に同情的な映画が多いが、シェイクスピアはさすがに敵国の英国人である。彼女の描き方に容赦がない。
原作では悪魔と契約し、命乞いをのために噓をついている。しかも最後はその悪魔からも見捨てられ英国諸卿に罵られながら死んでいく。英雄性は一切感じさせない死に様になっている。
本作でもジャンヌがトールボット卿にとどめを刺した後に死体を辱める発言をして仏国王太子(後に王)シャルルからたしなめられている。
そもそも史実ではトールボットとジャンヌの活躍時期は20年ほど異なる(ジャンヌが後になる)が、シェイクスピアが劇的効果を狙って戦わせる設定にしたらしい。
その他本作と原作との異なった点をあげるとすれば、フォルスタッフが原作では登場するところである。
本シリーズの前作『ヘンリー五世』においてフォルスタッフは死んでいるし、原作でもかなりチョイ役なので、本作で登場させなかったのは妥当である。
また原作ではヨーク公は完全に野心むき出しの性格な上にグロスター公を殺すことに賛同するほどずる賢い面も持ち合わせているが、本作ではグロスターの死をきかっけにヘンリー六世に敵対する旨を堂々宣言するような比較的高潔な人物に描かれている。
王女マーガレットと道ならぬ仲になるのは本作ではサマセット公になっているが、原作ではサフォーク公であり、むしろサマセット公にサフォーク公が吸収合併されたような印象である。
原作では2人の恋もほのめかす描写に止められているが、本作では大胆に情事シーンも描いている。
原作ではグロスター公が暗殺された後、ヘンリー六世がサマセットとサフォークをそろって国外追放にしてもその決定にマーガレットは逆らわず、むしろサフォークに決定に従うよう促しているが、本作ではマーガレットが決定を翻意するようヘンリーに迫り、その意見に従ってしまったことでヨーク公やウォリックが堂々と反旗を翻す宣言をする演出に変更されている。
恐らく原作のその後のエピソードを省く大胆な改変に思われる。
改変はそれなりに成功しているとはいえ本作だけを取り上げてみればやはり次回Part2が本命の映画である。(そもそも本作はイギリスではTVシリーズ)
そして原作にはなく本作の最後に追加されたシーンとして扉の向こうからリチャードが暗い影のままひょこひょこと登場する姿は本命登場を匂わせる出色の演出で同時に効果的な次回予告も兼ねている。
やはり本作は次回作を楽しむための導入のような映画という印象を受けた。