パンチ佐藤 : ウィキペディア(Wikipedia)
パンチ佐藤(パンチさとう、本名:佐藤 和弘(さとう かずひろ)、1964年〈昭和39年〉12月3日 - )は、神奈川県出身のタレント、元プロ野球選手(外野手・内野手、右投左打)、野球解説者。愛称は「パンチ」。
来歴
プロ入り前
川崎市立西中原中学校同中学校と同じく中原区内の等々力陸上競技場を本拠地とするJリーグクラブ、川崎フロンターレから依頼され、同チームがJ2所属だった2003年の本拠地開幕戦(3月22日、第2節の湘南ベルマーレ戦)で始球式を行った。出典:川崎フロンターレ公式サイト「フロンターレ日記」2012年2月13日、「開幕戦始球式」。から武相高校同期の井口竜也は1982年のドラフトで横浜大洋ホエールズから6位指名を受けたが、入団せず日本鋼管に進んだ。へ進学。春季関東大会準々決勝に進むが、関東学園大附高に延長14回敗退。同年夏の甲子園県予選の準々決勝にて、のちにプロで同僚となる高田誠を擁した法政二高に延長10回サヨナラ負けを喫する。
亜細亜大学に進み、同野球部に入部、最終年にはキャプテンを務めた。東都大学野球リーグでは、1年上の3年生エース三原昇の好投もあり春季リーグにて優勝を経験。直後の全日本大学野球選手権大会決勝では、3年生エース西川佳明や秦真司捕手、島田茂、伊吹淳一(のち熊谷組)、若井基安ら強力打線の法大に延長11回惜敗、準優勝にとどまる。秋季リーグでは、4年生三原昇と3年生阿波野秀幸の両エースに、4年生古川慎一と鈴木慶裕、佐藤ら強力打線を擁しながら、駒大に次ぐ2位に終わる。最上級生となった秋季リーグでは、エース阿波野秀幸が9勝を挙げるが、またしても駒大に次ぐ2位に終わる。リーグ通算86試合出場、274打数82安打、打率.299、5本塁打、42打点。ベストナイン3回(一塁手)。大学の1年下には与田剛がいた。
卒業後は社会人野球の熊谷組に入社。俊足かつ強打の選手として知られ、の都市対抗では左翼手、三番打者として準決勝に進むが、NTT東海に敗退「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年。同年から2年続けて社会人ベストナイン(外野手)に選出された。の都市対抗では2回戦でヨークベニマルから、大会史上2人目のサイクル安打を記録している。
1989年のドラフト1位でオリックス・ブレーブスに入団。
オリックス時代
即戦力として期待され、1年目のは8月から故障のブーマー・ウェルズに代わり、一塁手として29試合に先発出場を果たす。
は左翼手として11試合に先発。同年11月3日開催のパ・リーグオールスター東西対抗(静岡県草薙総合運動場硬式野球場)では、指名打者の新井宏昌の代打として出場し6回裏に2点本塁打を記録、MVPを受賞している。1年目こそ即戦力として結果を残すが、翌年以降は不振や度重なる故障にみまわれた。また外野・一塁・指名打者のレギュラーが固定され出場機会が年々減少、には一軍での安打0本に終わる。
4月7日、新監督の仰木彬及び打撃コーチに新任した新井宏昌との共同発案により鈴木一朗と共に新たな登録名(パンチ)に変更朝日新聞東京本社版1994年4月8日付朝刊27面。心機一転し復活を目指すが、出場機会に恵まれず先発出場も果たせなかった。11月4日に引退を発表日めくりプロ野球、11月4日、1994年(平6)、お声かからず・・・“パンチ”佐藤和弘、5年で引退。
現役時代は男気あふれるキャラクターや「パンチ語録」で人気を博したが、好不調の波が激しく、守備面での送球難が弱点だった。フジテレビ「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」にて度々取り上げられ話題となり、任侠・男伊達の世界観を愛し、演歌好きでも知られた。かつてスーツの裏地に物々しい虎の刺繍をびっしり入れており、「いや、こういうのは女性の下着といっしょで自分で満足するもんですから」と語っている。
引退後
タレントとしてスポーツバラエティ番組をはじめ、身体能力を生かした番組のほか、ドラマなどにも積極的に出演している。
1995年はフジテレビ・ニッポン放送の野球解説者として、プロ野球中継に出演することもあった。
2005年9月、自宅駐車場に不審者(覚醒剤所持者)が侵入していたところを取り押さえ、地元・中原警察署から表彰を受けた。
2010年9月1日、所属事務所を小澤音楽事務所からスターヒルに移籍。
2013年4月1日、スターヒルを退社し独立。
2014年9月、翌年よりベースボール・チャレンジ・リーグに加入予定の武蔵ヒートベアーズの宣伝本部長に就任パンチ佐藤さん、新球団・武蔵HB宣伝本部長に 熊谷市長を表敬 - 埼玉新聞(47NEWS)2014年9月9日。2015年10月1日、契約満了により退任したパンチ佐藤 宣伝本部長 退任のお知らせ - 武蔵ヒートベアーズ(2015年10月1日)。
2015年、アスリートとメールなどで交流できる有料会員制SNSサービス『athlete club(アスリートクラブ)』を月額10万円の会員費で開始した。business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20150602/283804/
2015年、茨城県・笠間市を愛し、応援したい気持ちを持つ個人や団体が登録できる制度「笠間サポーターズ」の第一号として登録された。年に数回笠間市を訪れているパンチは、当該エピソードをブログにて記事にしている。
社会人・クラブチームでの現役復帰
にタレント・萩本欽一が監督を務める社会人野球チーム・茨城ゴールデンゴールズへの入団が決定するも、その直後に別のプロ野球経験者が入団。プロ経験者登録枠の関係と「古巣に恩返しがしたい」との思いから、1994年に休部した熊谷組野球部OBで結成したクラブチーム・熊球クラブに加入した(登録名義は佐藤和弘。をもって退団)。
現役時代の実績
強打の外野手として期待されたものの、入団初年の打率.331を頂点に成績は尻すぼみとなる入団した1990年はブーマー・ウェルズのけがによる離脱があり、村上信一と共に一塁手出場が多かった。土井監督時代は一塁手にケルビン・トーベ、外野手に高橋智などがレギュラーに定着し出場機会がなくなった。。1994年、新監督に仰木が就任し、既にニックネームとして定着していた「パンチ」を新たな登録名とした(3年目の若手外野手だった鈴木一朗も「イチロー」へ変更)。このアイディアは打撃コーチの新井宏昌が提案し、仰木が承認したもの。仰木らは、イチローを売り出すべく登録名変更を思い立ったが、当時まだ全国区ではないイチローが改名した場合、悪目立ちして萎縮することを懸念していた。そこで、既に知名度の高いパンチにも改名を勧め「一緒に目立ってくれ」と頼み込み、2人同時に変更となった。
新たな登録名で復活を目指すパンチは、手ごたえを感じつつあった1994年のシーズン終盤に仰木から直々に飲食へ誘われる。期待の言葉をかけられると思いきや、直接の引退勧告(戦力外通告)だった。「野球より芸能界の方が向いているのではないか」と仰木から戦力外を言い渡され、「どうしてですか? シーズン前には『期待している』って言ってくれたじゃないですか」と反論。仰木は「代打でなら使えるが、スタメンとして使うにはちょっと厳しいな。資産も多く持っているならいい、でも奥さんも子供もいる。お前はこのままプロ野球選手として食っていくよりも、芸能界でやっていった方がいいと思う」と諭した。「尊敬する仰木さん」にそこまで言われては仕方がないとあっさり納得し、「はい、分かりました。辞めます」と二つ返事で引退を決意した。
人物
プロ入り前
小学生時代のあだ名は“さとう”をもじった「ザット」。当時共働きだった両親の帰宅が遅く、団地の前で日暮れまで素振りをしたという。裕福ではなかったため、将来は軟式野球の県内強豪である川崎市水道局に就職するという安定的な公務員を目指していた。
坊主頭だった社会人時代に、相手チームのボールを拾って渡したことがあった。すると明らかな年下選手から「ありがとうございます」ではなく軽薄な「サンキュー」という礼が返ってきた。それに憤慨し実年齢より上に見せるためパンチパーマをかけはじめたという。
武相高等学校の1学年先輩にタレントの出川哲朗(軟式野球部OB)がいる。
当初は大学進学を予定していなかったが、亜大から勧誘を受けていた野球部同期が高校卒業後も厳しい上下関係が続くことを嫌って社会人野球入りを決めたことで自身に話が回ってきたという。
大学4年時に監督から呼び出され「行きたくない会社はあるか」と聞かれた際に、「監督にお任せします」と答えるしかなく、熊谷組への進路を決められたという。入社後は野球中心の生活を送りながらも、毎月の給与支給や代表メンバーに選出された際の手当てに感激していた。
熊谷組時代の1988年、グリーンスタジアム神戸の完成記念試合(三菱重工神戸硬式野球部との練習試合)にて、同球場初の本塁打を放った。両社がスタジアムの工事を請け負っていたことによる対戦で、試合終了後には球場内のレストランで三菱重工神戸の選手と酒食を共にしたという『ベースボールマガジン』2020年7月号「パンチ佐藤が語るアーリー・オリックス監督論」pp.57 - 58。
現役時代
ドラフト指名時には熊谷組の寮で当時のオリックス上田利治監督からの電話に「会社の方と相談して決める事ですけれども…自分の心はひとつです」と応え、入団当時から話題をさらった(当該映像は2000年代中盤にリクルート「フロムエー」のCMで使用された。このとき受話器を佐藤へ渡したのは、電話番で当時高卒入社1年目の波留敏夫)。入団記者会見では契約金について「この1億円はプロで勝負させてもらう為のお金であり、手を出せないです」という発言で場内を驚かせた。また、セールスポイントについては「根性です」、どんな選手になりたいかとの問いには「グシャっとした当たりでもいいから塁に出られるバッターになりたい」と答えた。ちなみにドラフト前日のサッカーで足を骨折したため、指名後の記者会見では松葉杖をついて登場したプロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、252ページ。
入団後は守備走塁コーチの今津光男と二人三脚で有名だった。だが、今津コーチは単身赴任で合宿所在住だったことから、ただの「飲み友達」という話もあり、度々ネタにされていた。
ホークス戦(福岡ドーム)にて、守備で悪送球をした際の理由として「ついさっきまで稲荷寿司を素手で食べていて、手を拭かずに守備についた。油揚げの油が指についていた為、滑ってあんな送球をした」と弁解した。
1994年の阪神とのオープン戦にて代打出場した際、中田良弘から足にデッドボールを受け、その場にうつ伏せに倒れて起き上がれなくなった。仰木監督が慌ててベンチを飛び出した瞬間、パンチは急に立ち上がり全力疾走で一塁ベースに向かった。それがパンチの芸だと悟った仰木は大笑いしてベンチに戻っている。ちなみに同試合の仰木監督にはピンマイクが付けられ、代打のコールや仰木の笑い声が中継された。また審判に代打を告げる際、新登録名に慣れていない仰木は「佐藤」と告げ、直後に「パンチ」と言い直している。
現役最終年となる1994年のオリックス一軍外野陣は、イチロー、本西厚博、田口壮、高橋智、平塚克洋、柴原実と攻守のタイプが双方で激戦区だった。さらに一塁にはフランシスコ・キャブレラ、藤井康雄(外野手としても65試合出場)がいた。開幕当初のパンチは、代打の切り札として好スタートを切るが、不調に陥ったのちは出場機会が得られなかった(シーズン23試合出場、先発なし)。シーズン終盤のパンチは仰木へ移籍を志願し、在京セリーグ3球団を中心にトレードを模索。しかし話がまとまらず5年間の現役に幕を下ろすこととなる【11月4日】1994年(平6) お声かからず…“パンチ”佐藤和弘、5年で引退。現役最終打席は、同年最終戦となる10月9日の対近鉄戦(グリーンスタジアム神戸)で、代打出場してプロ唯一の三塁打を放っている。この時点で既に現役引退を決断しており、三塁へのヘッドスライディング後、しばらく顔を上げられなかった。
引退後
韓国への関心を深め、週に1度テコンドー道場へ通い、かなりのペースで韓国料理を口にする。反面、午後8時以降は一切食事をしないという体調管理を貫いている。
上田・仰木への尊敬と土井正三との確執
パンチは上田利治と仰木彬に心酔する一方で、土井正三(上田と仰木の間のオリックス監督。またブルーウェーブ初代監督)に対する尊敬の念は抱けなかった。引退後に出演した『プロ野球ニュース』にて、歴代監督への感謝を述べる際「プロへの扉を開いてくれた上田監督、芸能界への扉を開いてくれた仰木監督、…途中何かありましたけども」と、土井への謝意は残さなかった。また、自著では「土井監督」ではなく「D」とイニシャル(敬称なし)で記載している(『プロ野球・独断毒舌改造論』数か所、『プロ野球・独断毒舌改造論』の124ページ)。
土井は後年のインタビューにて、読売ジャイアンツの選手・コーチ時代(主にV9時代)の経験や厚遇を引き合いに出す一方で、自身とベテラン(阪急時代からの主力選手だった佐藤義則・松永浩美)以外のオリックス選手を知らない状態で監督を受諾したと明かしている。パンチは土井の監督時代を「球団も監督も何をやりたいのか分からない3年間で、みんな(ナイン)が上田の監督時代の采配と比べながら、土井の指示に仕方なく従っていた。オリックスがブレーブスからブルーウェーブになった途端、全部のネジがゆるんでしまった感じだった」と述懐している。
上田・仰木は明るい性格の選手が好きだったという。パンチの引退後初の仕事は、奇しくも日本ハム監督に就任した上田へのインタビューだった。上田はその席で「パンチ、何で現役やめちゃうの?もったいない!もったいない!」と引退を惜しむ発言を繰り返し、パンチは終始恐縮している。
タレント転身後の講演会や雑誌の対談などで、1993年6月12日(土井監督時代)にイチローが対近鉄戦(長岡市悠久山野球場)で野茂から打った一軍公式戦初本塁打を引き合いに出し、自身はその翌日に土井から二軍降格を命じられたとしきりに語っているhttps://www.news-postseven.com/archives/20160326_394392.html?DETAIL。実際は、直近7試合に連続で起用されながら(6試合でスタメン)、打率.200(20打数4安打)、出塁率.238、長打率.250と芳しくない結果のため降格に至っている【パンチ佐藤】イチロー選手から仰木監督まで…裏話炸裂!。
エピソード
入団時に背番号を45番にした理由は、尊敬する武相高校の先輩である東門明が早稲田大学で着けていた背番号9にちなんでいる(4+5で9)。入団直後は9番を希望していたが、先輩だった本西厚博が付けていたため、「本西さんから貰うわけにはいかない」として上記の方法をとっている。
現役最終年の背番号90は、”45の2倍”と”9”のダブルミーニングである(出典:竹書房刊「まんがパロ野球ニュース」のパンチの連載コーナー)。
現役引退時、イチローからユニフォームをくださいと言われたパンチは交換を提案したという。結局自身の背番号90とイチローの背番号51のユニフォームを交換し現在も所有している。当該エピソードはゲスト出演したプロ野球関連のあらゆるYouTubeチャンネルにて語っている(イチロー側の所有状況は不明)。
当時のグリーンスタジアム神戸における打席での登場曲は、DJ KIMURA選曲によるアップテンポな楽曲で統一されていたが、パンチのみ演歌だった。
詳細情報
年度別打撃成績
| オリックス | 42 | 142 | 133 | 20 | 44 | 12 | 0 | 1 | 59 | 8 | 3 | 1 | 3 | 0 | 6 | 0 | 0 | 12 | 1 | .331 | .360 | .444 | .803 | |
| 46 | 72 | 65 | 5 | 15 | 3 | 0 | 2 | 24 | 12 | 0 | 1 | 1 | 2 | 4 | 1 | 0 | 8 | 0 | .231 | .268 | .369 | .637 | ||
| 35 | 43 | 37 | 2 | 6 | 0 | 0 | 0 | 6 | 4 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 0 | 1 | 2 | 1 | .162 | .233 | .162 | .395 | ||
| 3 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | ||
| 23 | 22 | 22 | 2 | 6 | 0 | 1 | 0 | 8 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .273 | .273 | .364 | .636 | ||
| 通算:5年 | 149 | 282 | 260 | 29 | 71 | 15 | 1 | 3 | 97 | 26 | 3 | 2 | 4 | 4 | 13 | 1 | 1 | 24 | 2 | .273 | .306 | .373 | .679 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
記録
- 初出場:1990年4月8日、対ロッテオリオンズ1回戦(阪急西宮球場)、8回裏に小川博文の代打で出場
- 初打席:同上、8回裏に村田兆治の前に三振
- 初安打・初打点:1990年4月11日、対福岡ダイエーホークス2回戦(グリーンスタジアム神戸)、7回裏に熊野輝光の代打・高橋智の代打として出場、井上祐二から右前適時打
- 初先発出場:1990年8月23日、対日本ハムファイターズ21回戦(阪急西宮球場)、7番・一塁手として先発出場
- 初本塁打:1990年10月5日、対ロッテオリオンズ25回戦(川崎球場)、7回表に井辺康二から右越ソロ
背番号
- 45 (1990年 - 1993年)
- 90 (1994年)
登録名
- 佐藤 和弘(さとう かずひろ、1990年 - 1994年4月6日)
- パンチ(1994年4月7日 - 11月4日)
関連情報
出演
テレビ
- BASEBALL SPECIAL〜野球道〜(フジテレビ。同局のプロ野球中継の現行タイトル。1995年に解説者として出演)
- プロ野球ニュース(1995年4月 - 1997年3月、フジテレビ)
- めざましどようび(フジテレビ)
- 恋する陪審員(フジテレビ)
- ぶらり途中下車の旅 『都営バス・王78系統』編(1997年、日本テレビ)
- 所的蛇足講座(福岡放送)
- クロノス(フジテレビ)
- めざましテレビ公認 わがまま!気まま!旅気分(BSフジ FNS各局制作)
- 最多出演のテレビ静岡を筆頭に、フジテレビ、福島テレビ、長野放送、石川テレビ、岡山放送の制作回に出演した。
- ハピふる!(2008年9月まで、フジテレビ)
- 住まい自分流 〜DIY入門〜(2008年4月 - 2009年3月、NHK教育)
- パンチ佐藤の国際スポーツ警察負けたら逮捕じゃ!(テレビ神奈川)
- 住まい自分流アルファ(2009年4月 - 、NHK教育テレビ)
- きらめきいっぱいさいたま市(2009年4月 - 2011年3月、テレビ埼玉)
- 食爛漫!味づくし 感動の旅(パワーテレビジョン)
- スポルたん!LIVE(仙台放送、準レギュラー)
- ひるまにあん(テレビ朝日系列東北6局東日本放送(本部局)・青森朝日放送・岩手朝日テレビ・秋田朝日放送・山形テレビ・福島放送ブロックネット、準レギュラー)
- ジャンクSPORTS(フジテレビ)
- 食探訪記 パンチ佐藤の美味いぞニッポン!(Twellv)
- とうほく元気です!TV(2012年4月7日 - 、テレビ朝日系列東北6局ブロックネット)
- 一度は行きたい!にっぽん露天風呂の旅(パワーテレビジョン制作)
- パンチ佐藤のニッポン元気ふれあい旅(2013年2月 - 、スカイ・A sports+)
- 福岡夢実現バラエティー 頑張るキミに花束を!(福岡放送)
- パンチ佐藤の初売りダイナマイト(2011年12月 - 、東日本放送) - 毎年年末の宮城県限定の特番
ドラマ
- 山村美紗サスペンス「名探偵キャサリン」シリーズ(TBSテレビ)
- フォトグラファー桜井美由紀 「夜の虹」(TBSテレビ)
- 金田一耕助の傑作推理 幽霊座(TBSテレビ)
- 「新・ミナミの帝王」新田会長役(関西テレビ)
- ドンウォリー! 第10話(1998年、フジテレビ) - 高校の先生
- ドラゴン青年団(毎日放送) - 本人役
- ヨメ代行はじめました。(関西テレビ) - 常連客
- 牙狼-GARO- 〜闇を照らす者〜(テレビ東京) - ロックな運転手
- 侵略!ガルパンダZ(2016年、TOKYO MX・サンテレビ) - 犯弛監督 役
- ももの唄(2025年9月15日 - 29日、TOKYO MX) - 遠藤肇 役
映画
- 男はつらいよ 寅次郎紅の花(1995年、監督:山田洋次)- 自転車の男(ノンクレジット)
- スーパースキャンダル(1996年、監督:岡村俊一) - ポンチ加藤
- ドリーム・スタジアム(1997年、監督:大森一樹)- バッティングセンターのチンピラ
- ガラスのヒール レースクイーンの女神たち The Movie(2006年、監督:川村浩之) - 伊藤刑事
- それでもヤクザはやってくる(2007年、監督:高瀬将嗣) - 金沢
- デメキング(2009年、監督:寺内康太郎) - 高校教師
- ハードライフ 紫の青春 恋と喧嘩と特攻服(2010年制作、2011年春公開)- 高橋邦夫(主人公・高橋すえこの父)
- 夕の江の街に(2012年6月2日公開、監督:星野義幸) - タムラ
- グッモーエビアン!(2012年12月15日公開)
- ダイヤモンド(オールインエンタテインメント、2013年8月3日公開) - 大上
- サイコギャンブラー破滅的遊戯(2014年4月23日、監督:山本淳一) - 久住
Vシネマ
- 筋モンリーグ 野球篇(2006年) - 元 水龍会組員 佐藤吉孝
CM
- ジャスコ 全館バーゲン(1992年)
- 日清食品 日清Spa王(1995年) - 工藤静香と共演。
- アース製薬(2003年)
- 車内(クルマ)のニオイとり
- おそとでノーマット
- リクルート「フロム・エー」(2003年)
- ミスター通商(2006年)
- NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン「fripSide×angela/The end of escape」(2016年)
- 田清魚店(岩手県限定・2018年)
ラジオ
- ニッポン放送ショウアップナイター(1995年、ニッポン放送)
- 世の中面白研究所(2008年3月 - 、NHKラジオ第1放送) - 研究員として不定期出演
- パンチ佐藤のガッツで行こうぜ!(2017年12月 - 2018年12月、FMたちかわ)
- 瑠美とパンチのほろ酔い酒場(2019年1月 - 、FMたちかわ) - 山口瑠美と共演
Youtubeチャンネル
著書
- 『パンチ佐藤の迷語録人生』(サンマーク出版, 1992年4月)ISBN 4763190334
- 『プロ野球・独断毒舌改造論』(ラインブックス, 1995年5月)ISBN 4847012348
関連項目
- 神奈川県出身の人物一覧
- 亜細亜大学の人物一覧
- オリックス・バファローズの選手一覧
外部リンク
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