佐野稔 : ウィキペディア(Wikipedia)
佐野 稔(さの みのる、1955年6月3日 - )は、日本の元フィギュアスケート選手。日本大学鶴ヶ丘高等学校、日本大学卒業【羽生結弦へ…恩師の想い】佐野稔氏「日本のフィギュアスケートの歴史を全て書き換え、世界の歴史も書き換えた」 - サンケイスポーツ(2022年7月20日)2022年9月20日閲覧。。1976年インスブルックオリンピック男子シングル日本代表。1977年世界選手権3位。現在は明治神宮外苑アイススケート場ヘッドコーチ明治神宮外苑アイススケート場公式サイト - インストラクター紹介、日本フィギュアインストラクター協会理事長日本フィギュアスケーティングインストラクター協会公式サイト - 役員リスト。日本スケート連盟理事(平成24・25年度)。解説者としても活動している。
人物
座右の銘は「無我の境地」。実娘の佐野緑もプロスケーターで、ディズニー・オン・アイスの2005年度日本公演に出演している「ディズニー・オン・アイス」公演 日本女性3人が好演。弁護士の菰田優元日本弁護士連合会事務総長は長年の友人BSテレ東4KBSテレ東4K 2018年12月30日(日) 07時30分~08時00分テレビ東京。
経歴
1955年、山梨県東八代郡石和町(現在の笛吹市)に生まれる。4歳のときに精進湖で初めてスケート靴を履き、小学校に上がるころからは兄や姉とともに甲府の屋内スケート場に通うようになった「伝説のスケーター file.1 佐野稔」。小学1年生のとき、合宿に来ていた日本大学スケート部の練習を父に連れられて見学に行き、部のキャプテンであった都築章一郎に出会う。以来、競技を引退するまで都築に師事した日本のメダリストのコーチたち~都築章一郎編(1)日本のメダリストのコーチたち~都築章一郎編(3)。
アマチュア時代
中学生のころからは国際大会に派遣されるようになった。1972年から1976年まで全日本選手権男子シングルで5連覇男子シングルでは佐藤信夫の10連覇に次ぐ歴代2位の記録。当時は男子でも跳ぶ選手が少なかった3回転ルッツを武器に、1973年から1977年まで5年連続で世界選手権に出場。1975年の世界選手権では、大会の4日前に足を捻挫(後に検査で亀裂骨折とわかる)しながら10位に入り、インスブルックオリンピックの男子シングル出場枠を2つ確保した。日本大学鶴ヶ丘高等学校在学。
1976年、日本大学在学中の20歳のときに開催された1976年インスブルックオリンピックに出場他の出場者は日本代表は松村充、渡部絵美。男子シングルに出場したが9位となった。
1977年、世界選手権(東京開催)で男子シングル3位となり、日本人初の銅メダルを獲得日本の選手としては1989年大会における伊藤みどりの金メダル獲得、日本男子に限れば2007年大会における髙橋大輔の銀メダル獲得まで、長らく最高位の記録を保ち続けた(2002年大会では本田武史が銅メダルで並んでいる)。。『ブダペストの心』で滑ったフリーの評価は1位だった。この大会を最後に競技生活を引退し、プロスケーターに転向する。
プロ転向後
1978年、日本初のアイスショー「VIVA! ICE WORLD」(現「プリンスアイスワールド」)を開催。日本にアイスショーの魅力を広めることに情熱を注いだ。アイスショーでは渡部絵美とペアを組んでいた時期もある。また、同時期には、「アイスショーの宣伝」や「ショーマンとしての肥やし」になるという考えから歌手デビュー。テレビドラマやミュージカルにも出演した。
リンクの上で後方宙返りをする事でも有名。この後方宙返りは、アイスショー「目玉」となるインパクトのある技、それもショーの理想として自身が想い描いていた「スポーツ的な迫力」を象徴するような技が欲しいという思いから習得したという。フィギュアスケート解説者としても活躍し、かつてはフジテレビ系『』のスポーツキャスターも務めたことがある。また、JOCのフィギュアスケート強化コーチとして、長年に渡り若手育成に力を注いでいる。
主な戦績
大会/年 | 1970-71 | 1971-72 | 1972-73 | 1973-74 | 1974-75 | 1975-76 | 1976-77 | |
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オリンピック | 9 | |||||||
世界選手権 | 14 | 8 | 10 | 7 | 3 | |||
全日本選手権 | 3 | 2 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | |
スケートカナダ | 3 | 2 | ||||||
モスクワ国際 | 3 |
テレビ出演
- レギュラー番組
報道・情報番組
期間 | 番組名 | 役職 | 担当日 | ||
---|---|---|---|---|---|
1979年4月1日 | 1980年3月30日 | 独占 | スポーツ情報(日本テレビ) | 進行司会 | 日曜日 |
1980年4月5日 | 1985年3月30日 | (フジテレビ) | スポーツキャスター | 土曜日 | |
1980年5月12日 | 1980年7月1日 | (フジテレビ) | 月・水曜日 | ||
1980年7月7日 | 1982年3月9日 | 月・火曜日 | |||
1982年3月15日 | 1982年3月26日 | 月・火・金曜日 | |||
1982年4月1日 | 1984年9月28日 | 木・金曜日 |
バラエティ番組・ドラマ
- 『ハッスル夫婦』司会(1979年、TBSテレビ)
- ドラマ『ある日突然?!スパゲティ・ママの青春白書』(1980年9月25日 - 12月4日、テレビ朝日) 上杉正之 役
- ドラマ『池中玄太80キロ 第2シリーズ』 第4話「この眼で見たんだ!」(1981年4月25日、日本テレビ) 本人 役
- ドラマ『胸さわぐ苺たち』(1983年10月13日 - 1984年1月12日、TBSテレビ、毎週木曜日) フィギュアスケートコーチ 役
- フィギュアスケートを題材にした連続ドラマ。渡部絵美、ジャネット・リンが本人役でゲスト出演した。
CM
- MPG「酸素元気」
- ハウス食品「ジョリエール2」
- 妻・智恵子と出演。
他多数。
レコード・著書
- 佐野稔・渡辺しのぶ「君がいるから」/(B面 佐野稔「星空のバラード」)(1978年、東芝EMI TP-10368)
- 『氷上より愛をこめて 愛・夢・スケーター』 1982年4月、講談社
出典
参考文献
- 「伝説のスケーター file.1 佐野稔」『フィギュアスケートDays vol.1』DAI-X出版、2006年11月、pp.78-79
関連項目
- アイスリンク仙台
外部リンク
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2024/07/03 11:10 UTC (変更履歴)
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