ロジャー・ムーア : ウィキペディア(Wikipedia)

サー・ロジャー・ジョージ・ムーアSir Roger George Moore KBE 、1927年10月14日 - 2017年5月23日)は、イギリスの俳優。1973年から1985年の間に、映画『007』シリーズで7作にわたってジェームズ・ボンドを演じた。

人物

ロンドンのストックウェルで警察官の息子として生まれる『007』ロジャー・ムーアさん死去 89歳 3代目ジェームス・ボンド - シネマトゥデイ、2017年5月23日 23時52分配信、同月24日閲覧。バッキンガムシャー、アマーシャムのドクター・シャロナーズ・グラマースクールに入学。1940年代に映画にエキストラ出演した後に軍隊に入隊し、第二次世界大戦中はイギリス軍の娯楽部隊に所属した。

除隊後に再び大部屋俳優になり、モデルやテレビのステージ・マネージャーなどの職業も経験した。1950年代に入ってアメリカに渡り、テレビドラマに出演する下積み生活が続いた。1954年、MGM映画『雨の朝巴里に死す』に出演、同年MGMの契約俳優となる。

1962年、テレビシリーズ『セイント 天国野郎』に主演してスターの地位を得る。1971年からの『ダンディ2 華麗な冒険』などのテレビシリーズでも活躍した。かつては英国文学界が生んだ世界的二大キャラクター、シャーロック・ホームズとジェームズ・ボンドを演じた唯一の俳優であったが、2023年に宝塚歌劇団の真風涼帆が史上二人目の俳優となった。

1973年には、ショーン・コネリーの後継者として『007 死ぬのは奴らだ』に主演したMoore, Roger & Hedison, David. The 007 Diaries: Filming Live and Let Die. The History Press, June 2018. 。同作の主題歌はポール・マッカートニー&ウイングズの「死ぬのは奴らだ」で、この曲もヒットした。以後、『黄金銃を持つ男』『私を愛したスパイ』『ムーンレイカー』『ユア・アイズ・オンリー』ほか、007シリーズ作品で1985年までジェームズ・ボンドを演じた。

俳優として活躍する一方、ユニセフ親善大使(オードリー・ヘプバーンに勧められたという)などボランティア活動にも精力的で、2003年にはナイトの称号を与えられた。同年にはブロードウェイの舞台で倒れ、病院に搬送される騒ぎもあった。

2007年にはハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに星を獲得した。式典には007の宿敵ジョーズを演じたリチャード・キールや、『007 死ぬのは奴らだ』で共演したデヴィッド・ヘディスン、女優ステファニー・パワーズらが出席したが、ムーアが星の前でひざまずいた後、立ち上がるのに人手を借りねばならない一幕もあった。2008年には初めての自伝 "My Word Is My Bond" を上梓、また仏芸術文化勲章の最高章であるコマンドゥールを授与された。

私生活では、4度の結婚をしている。2人目の妻である歌手のドロシー・スクワイアーとは1961年に破局したが、彼女がその後8年間離婚を拒んだため、ムーアと後述するルイザ・マッティオリとの間の子供のうち2人は、庶出子となった。ドロシーは1998年に死去したが、2009年になってムーアはドロシーが子供の頃住んでいた家に300ポンドのブルー・プラークを贈った。

3人目の妻である元女優のルイザ・マッティオリとの間には2男1女がおり、子供の中でジェフリーとデボラは俳優になった。1994年、ムーアがルイザに電話で二人の38年間の関係は終わったと告げ、1993年に患った前立腺癌のためリヴィエラで療養した。2002年に1億ポンド(スターリング・ポンド)の慰謝料でルイザとの離婚が成立すると、ムーアは74歳でクリスティナ・ソルトラップとモンテカルロで秘密裏に結婚式を挙げたが、このときムーアの子供は誰も出席しなかった。しかし、2007年のハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム殿堂入りの際には、妻クリスティナとムーアの3人の子供がそろって出席した。

2017年5月23日、がんにより89歳で死去。ムーアの家族が公式Twitterで掲載した声明では、ムーアはスイスで亡くなり、葬儀は故人の遺志によりモナコで密葬にて執り行われるという。

セイント 天国野郎

1962年に英国で製作、放映された人気TVシリーズ。ムーアの名声を確立した作品であり、当時、人気が低迷気味だった小説「サイモン・テンプラー」シリーズのカンフル剤になり、新刊や過去作の復刻を促した。

製作は特撮人形劇『サンダーバード』で知られるITCのルー・グレード卿で、主人公サイモン・テンプラー役には後に『プリズナーNo.6』の製作・監督・主演でも知られることになるパトリック・マクグーハンとムーアが候補になり、ムーアが役を射止める。この二人は初代ボンドの有力候補にもなっており、また、3代目ボンドとしても名前が挙がった。

ムーア本人はテンプラー役はショーン・コネリーと競り合いの末、勝ち取った役で、コネリーはやむなく、ボンド役になったとの発言をユーモアたっぷりに語っている(この話はムーア独特の一種のジョークで、事実関係は確認できない)。ムーアは本作で監督・脚本家デビューもしている。

本作にはオナー・ブラックマンシャーリー・イートン、ユーニス・ゲイソン、ロイス・マクスウェル、など、007シリーズ縁の俳優もゲスト出演している。少年時代のピアース・ブロスナンにとってコネリー=ボンドは憧れの対象であったが、年に一度のボンド以上に週に一度会えるムーア=テンプラーは最高のヒーローだったと語っている。

3代目ジェームズ・ボンド

1973年に『007 ダイヤモンドは永遠に』で1作のみの限定復帰をしたショーン・コネリー(初代)の後を受け、3代目ジェームズ・ボンド役に抜擢され世界的に有名になった。2代目のジョージ・レーゼンビーが大幅若返りであったのに対し、コネリーよりも3歳年長の後任者であったが、キネマ旬報社の『世界映画作品・記録全集1975年版』には、「同世代ながら、より体のキレがいいムーアを起用」と紹介されている。エレガントでユーモラス且つコミカルなキャラクターであり、タバコの代わりに葉巻を愛用する設定となった。ファンは勿論、スタッフや共演者にも愛され、1985年の『007 美しき獲物たち』まで足掛け13年、シリーズ7作品に連続で主演した(現在まで、ボンド俳優の中で最多の出演本数イーオン・プロダクションズ製作の「007」シリーズに限る。「ジェームズ・ボンドを演じた回数」でいえばショーン・コネリー(イーオン・プロダクションズ制作6作品+番外編『ネバーセイ・ネバーアゲイン』)と同じである。)。

絶対に覆すことができないと思われた、「007ジェームズ・ボンド=ショーン・コネリー」の先入観を変更させることに苦労した。タフでワイルドなコネリーと正反対の路線を目指したため、しばしば原作のイメージを逸脱し、「ムーアのボンド」を追求した。「コネリーとムーア」は、ボンド俳優の二大巨頭であり、後任の俳優たちは、なかなかこのイメージを上回ることができなかった。5代目のピアース・ブロスナンも「(前任者4人の内)ショーンとロジャーは意識しないわけにはいかなかった」と語っている。

歴代最初の黒髪ではない(栗毛色)ボンドであるボンドデビュー作『死ぬのは奴らだ』のフォトセッションの時だけ黒く染めている。また、クイーンズイングリッシュを喋るボンドも彼が初めてであるコネリーはスコットランド訛り、レーゼンビーはオーストラリア訛り。

ボンド役については、原作者イアン・フレミングがムーアを推薦しており、ムーアが『セイント 天国野郎』で活躍していた頃、ショーン・コネリー降板後の2代目ボンド俳優に決定していたが、撮影が延期になり、『セイント 天国野郎』との兼ね合いでスケジュール調整がつかず、その時点ではジョージ・レーゼンビーが2代目ボンドに抜擢された。レーゼンビーの降板後、後任として、1971年に再びムーアにボンド役の誘いがあったが、今度は『ダンディ2』の撮影が決まってしまい、出演できず、3代目はアメリカ人俳優のジョン・ギャビンに決まる。しかし、ギャビンの起用に疑問を抱いたユナイテッド・アーティスツのデヴィッド・ピッカー社長がコネリーの再登板を要求、コネリー側の条件を全面的に承諾することで一本限りの初代ボンドの復活となった。ギャビンの3代目は幻となる。1973年、結局、『ダンディ2』は人気を得られず終了、スケジュールの空いたところに一作目から数えて実に4度目のオファーで3代目のムーア・ボンドの誕生となった(5代目ボンドとして活躍したピアース・ブロスナンのボンド役決定までにも似たような経緯がある)。2代目のレーゼンビー同様、コネリーの後任である。ムーア自身はフレミングとは面識がなく、彼の推薦という話は配役を正当化させるためのイーオン・プロダクションズの宣伝ではないかと推察している。

3代目襲名以前の1964年にイギリスのTVショーのミニコントでボンドに扮しており、ムーアが初代ボンドの候補であったこと、待望論があったことを証明している。コネリーとの差別化を図るため、ドライ・マティーニを注文しない(口にしたことはある)、タバコではなく、(本人の好みである)葉巻を嗜むなどの工夫をしている。ボンドを演じる際、コネリーの真似をしないよう気をつけていたが、特徴的なコネリーの声真似は得意である。また、歴代ボンドで唯一アストンマーティンに乗っていない(『キャノンボール』ではDB5を運転している)。

歴代ボンド全員と交流がある(デヴィッド・ニーヴン、ピーター・セラーズも含む)。特にショーン・コネリーとは英国出身の同年代の渡米組ということもあり、「無名時代からの友人」で、お互い有名キャラクターを演じるために1962年に帰国したことなどもあり、「親交が深い」。

ムーアはシリーズのプロデューサーである、アルバート・R・ブロッコリハリー・サルツマンとの関係が絶望的に悪化しているコネリーとは対照的に非常に良好なため、シリーズの特番のインタビューは勿論、パーソナリティや時にはボンドに扮して登場することもある。

ブロッコリ、サルツマン、コネリーたちと親交が深いが、彼らがそれぞれ仲が良くないことも熟知しており、この点に関して腐心した。コネリーがまだボンドだった時代に3人のテーブルに同席したことがあり、気が気でなかったという。コネリーに次いで"サー"の称号が与えられたボンド俳優である。

その他にも『セイント 天国野郎』の主人公「サイモン・テンプラー(=ムーアというイメージが今でも欧米にはある)」、『ピンク・パンサー』シリーズのジャック・クルーゾー警部(奇しくもこちらも初代からバトンを受けた3代目)等の人気キャラクターも演じている。

1983年6月、シリーズ13作「オクトパシー」公開に先駆けて来日した際、「笑っていいとも!」にボンドガールのモード・アダムスと出演。終始ジョーク連発して会場内を爆笑させた。コーナー終了時にはタモリと一緒に「友達の輪」を披露。「ワキガ止めスプレーを使ってるから大丈夫」などと、会場を爆笑させていた。

「007」シリーズ以外にも数々のアクション映画に主演したムーアだが、意外にも自他共に認める運動音痴だという(唯一得意だった競技は水泳)。彼が演じた007はシリーズ中でもかなり派手なアクションを取り入れた作品が多い傾向があったが、スタント・パーソンによる撮影を多用したとの評もあるアクションを嫌い本人が希望したという説もある。20周年を記念したドキュメンタリーでも本人が冗談めかしくそのようなコメントをしている。。特に彼の最後のボンド作品となった『007 美しき獲物たち』ではすでに50代後半であり(これは2017年現在、同シリーズ最年長記録である)、ほとんどのアクションシーンではスタント・パーソンを使っている(また、同作ではかなり顔の皺が目立っている)。ムーアが『美しき獲物たち』を最後にボンド役を降りた理由は、冗談めかしに「これ以上やったら殺される」ということであった。しかし、実際に撮影に参加した多くのスタントマンたちによれば、ムーアは世間が思っているほどスタントに消極的ではなく、むしろ、ティモシー・ダルトンの方がスタント・パーソンに任せきりだったと語っているともいう。ムーア自身はスタント・パーソンに頼ってばかりいることを揶揄した記者の質問に対して、冗談めかして「ラブシーンは全部スタントマンが演じている」と嘯いてもいる。実際、ラブシーンのほうが代役に任せたいほど苦手だったという説もある。また、こういった「ムーア一流のユーモア溢れる受け答え」を記者はむしろ、好意をもって対応したことからも、ムーアの人柄が滲み出ている。また、「アクション映画は楽だ。覚えるセリフは少ないし、危険なシーンは代役がいる」と普通の俳優が言ったら問題視される発言も、「多くの人を笑いに包み込む」ことができるパーソナリティの持ち主だった。

主な出演作品

映画

公開年邦題原題役名備考
1954 雨の朝巴里に死すThe Last Time I Saw Paris ポール
1955 わが愛は終りなしInterrupted Melody シリル・ローレンス
1959 奇蹟The Miracle マイケル・スチュアート
1961 セブンセントの決闘Gold of the Seven Saints ショーン・ギャット
サビーヌの掠奪Il ratto delle sabine ロムルス(Romulus)
1969 大逆転Crossplot ゲイリー・フェン
1970 悪魔の虚像/ドッペルゲンガーThe Man Who Haunted Himself ハロルド
1973 007 死ぬのは奴らだLive and Let Die ジェームズ・ボンド
1974 ゴールドGold ロッド・スレイター
007 黄金銃を持つ男The Man with the Golden Gun ジェームズ・ボンド
1975 ラッキー・タッチは恋の戦略That Lucky Touch マイケル・スコット
1976 ロジャー・ムーア in シシリアン・クロス 闇の仕掛人を消せGli esecutori ユリシーズ
ロジャー・ムーア/冒険野郎Shout at the Devil セバスティアン・オールドスミス
ロジャー・ムーア シャーロック・ホームズ・イン・ニューヨークSherlock Holmes in New York シャーロック・ホームズ テレビ映画
1977 007/私を愛したスパイThe Spy Who Loved Me ジェームズ・ボンド
1978 ワイルド・ギースThe Wild Geese ショーン・フリン中尉
1979 北海ハイジャックNorth Sea Hijack フォルクス
オフサイド7Escape to Athena メイヤー・オットー・ヘヒト
007 ムーンレイカーMoonraker ジェームズ・ボンド
1980 シーウルフThe Sea Wolves キャビン・スチュワート大尉
サンデー・ラバーズSunday Lovers ハリー・リンドン
キャノンボールThe Cannonball Run シーモア・ゴールドファーブ・Jr
1981 007/ユア・アイズ・オンリーFor Your Eyes Only ジェームズ・ボンド
1983 007/オクトパシーOctopussy ジェームズ・ボンド
ピンク・パンサー5 クルーゾーは二度死ぬCurse of the Pink Panther クルーゾー ターク・スラスト二世名義
1984 露骨な顔The Naked Face ジャド・スティーヴンス
1985 007/美しき獲物たちA View to a Kill ジェームズ・ボンド
1990 サマー・シュプールFeuer, Eis & Dynamit ジョージ・ウィンザー卿
ダブルチェイス 俺たちは007じゃないBullseye! ジョン・ベビストック卿(Sir John Bevistock)
1994 不死身の男The Man Who Wouldn't Die トーマス・グレイス テレビ映画
1996 クエストThe Quest エドガー・ドブス卿
1997 スパイス・ザ・ムービーSpice World チーフ
2002 バナナ★トリップBoat Trip ロイド・フェイバーシャム
2010 キャッツ & ドッグス 地球最大の肉球大戦争Cats & Dogs: The Revenge of Kitty Galore タブ・レーゼンビー 声の出演
2013 アンコンパーティブルIncompatibles ルイ・メーム 仏映画

テレビシリーズ

放映年邦題原題役名備考
1958-1959 ''Ivanhoe サー・ウィルフレッド・オブ・アイバンホー 39エピソード
1959-1960 ''The Alaskans シルキー・ハリス 37エピソード
1959-1961 マーベリック''Maverick ボー・マーベリック 16エピソード
1962-1969 セイント 天国野郎The Saint サイモン・テンプラー 118エピソード
1971-1972 ダンディ2 華麗な冒険The Persuaders! ブレット・シンクレア 24エピソード
2002 エイリアスAlias エドワード・プール 1エピソード
2011''A Princess for Christmas Duke Edward of Castlebury テレビ映画

日本語吹き替え

007シリーズで吹替を担当して以来、広川太一郎が専属(フィックス)として大半の作品を担当した。

広川が専属になるまでは、佐々木功や近藤洋介、若山弦蔵などが担当することもあった。

来日時の主なテレビ出演

  • 森田一義アワー 笑っていいとも!(フジテレビ)
  • 夜のヒットスタジオ(フジテレビ)
  • ニュースステーション(テレビ朝日)

著書

  • ロジャー・ムーア著『BOND on BOND』(2012年、スペースシャワーネットワーク)

参照

関連項目

外部リンク

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