村松梢風 : ウィキペディア(Wikipedia)
村松 梢風(むらまつ しょうふう、本名:村松 義一〈むらまつ ぎいち〉、1889年〈明治22年〉9月21日 - 1961年〈昭和36年〉2月13日)は、日本の小説家。静岡県周智郡飯田村(現:森町)生まれ。作家、村松友視の祖父。
経歴・作風
祖父に利殖の才があったため、村一番の金持ちだったという。しかし、その金を梢風の父と梢風の代で殆ど放蕩し尽くしてしまった。静岡県立静岡中学校を経て『静中・静高同窓会会員名簿』平成15年度(125周年)版 47頁。慶應義塾大学部理財科に入学。しかし、父が亡くなったため中退、静岡に戻り教師となる。授業中に落語や百面相をやってみせたという。近隣の村の娘と結婚するが、翌年同文学科に再入学する。ところが、吉原などで遊蕩三昧を尽くしたため再び中退、幾つか職を転々とするがいずれもモノにはならなかった。この頃には実家から金を持ち出すこともできなくなり、毎朝早くに起きて道端に落ちている金を拾ったりしていた。後年、梢風は「結構落ちてるものでな」と語ったという。
梢風は文学に憧れてはいたものの、自分が文筆で身を立てるのは到底実現できないと思っていた。しかし1917年(大正6年)、処女作「琴姫物語」をダメ元で『中央公論』に応募したところ、滝田樗陰に認められデビュー。その後文筆活動に専念し、次々と作品を発表する。ただし、同誌の創作欄ではなく、説苑欄という中間小説或いは読み物を載せる欄に掲載され、梢風自らこれを「情話」と称した。梢風の号を用い始めるのもこの頃で、うらぶれた気持ちで街を歩いていると、木々の梢を冬の風が吹き抜けていくのを見て決めたという。ところが、当時新進の流行作家であった佐藤春夫が芥川龍之介らと謀って、梢風らに対する排斥運動を起こす。佐藤は樗陰に、「あのような下賤の輩に紙面を提供するなら、以後『中央公論』への執筆を停止する」と申し入れてきた。剛腹な樗陰も、有力作家たちに反対されては屈せざるを得なかった。梢風はこのことで後年まで佐藤春夫を恨み、佐藤が和解を申し出ても聞く耳持たなかったという。これを気の毒に思った樗陰が、新しく企画したのが「本朝画人伝」であった。
1923年(大正12年)には、上海に渡航し、その魅力にとりこになって滞在する。中国文化にふれるとともに、租界にあったヨーロッパのモダニズム文化にもふれる。彼が住んだアパートは、ロシア人が経営し、ロシア人のほかにドイツ人やフランス人が住んでいた。また、郭沫若、郁達夫、田漢、欧陽予倩ら、中国の若き知識人たちと知り合う。また、上海を舞台とした作品「魔都」を発表する。
以降もたびたび中国を訪問し、「支那通」として有名となる。
滝田樗陰の死後の、1926年(大正15年)には、個人雑誌『騒人』を創刊。1928年(昭和3年)には、郭沫若が亡命してきたため、匿い、市川に居住させる。ただし、同年に勃発した「済南事件」を梢風が支持したことから、ながらく続いてきた田漢との友情関係が決裂した。
その後、戦前は多くの時代小説等を執筆。戦後も多くの時代小説や伝記小説を執筆・連載した。 代表作として『近世名勝負物語』『正伝清水次郎長』『女経』などが知られる。実証的な手法に裏付けられた評伝作品に、卓越した腕をふるった作家として知られる。
また明治期の歌舞伎俳優・二代目尾上菊之助を描いた『残菊物語』は、戦前の溝口健二以降三度映画化され、舞台でもしばしば上演された代表作である。「男装の麗人」「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれた清朝王女の川島芳子を取材し、小説『男装の麗人』を発表した。しかし、小説で芳子のスパイ行為をことさら誇張して描いたため、戦後芳子が漢奸裁判にかけられた際に小説が証拠として扱われ、芳子を死刑に追い込んだという批判がある。梢風自身、戦後芳子の知人から「お前のせいで川島芳子は死んだ」となじられたという村松友視の「梢風のスタイル」(『作家の旅』平凡社)p.35によれば、水谷八重子 (初代)主演で東宝劇場のこけら落しとして上演された。有罪の決め手となったことの「後味の悪さは、戦後になってもしばらく梢風の躯の中に残っていたのではなかろうか」という。なお、梢風の原作で映画『燃える上海』、ドラマ『男装の麗人〜川島芳子の生涯〜』も製作された。。
現在では、主に『本朝画人伝』の作者として知られている。同作は、文献資料を漁るのはもとより、自分の足で直接取材した話が多いのが特色である。梢風は心から絵が好きで、川端康成が大金を投じて『十便十宜図』だか何かの絵を買った話を聞くと、「世の中で名画と定評ある絵は確かにいいさ。だからそういう絵を金を惜しまずに買う人は、絵好きには違いない。だがな、例えば二流の画家でも生涯に何作か、ひどく出来のいい絵が描けることがあるものだ。値は安くてもそういう絵にも、得も言えない良い所がある。自分で買えるそういう絵を見つけて楽しむのも絵好きなんだぞ」と語ったという。
家族
文筆一族で知られる。
- 長男・村松友吾は中央公論社編集者(早世)
- 次男・村松道平は脚本家
- 三男・村松喬は毎日新聞記者でのち作家、追悼録『梢風記』(中央公論事業出版、1970年)を編んだ。
- 四男・村松暎は慶大教授・中国文学者。
- 孫の一人は、作家村松友視(長男・友吾の実子だが、出産前に友吾が急病のため上海で客死したことから籍は梢風自身の五男として届けた)で、一族を回想した作品もある。
猫好きで、猫を十数匹も飼っており、「猫好きに関しては、大佛次郎と双璧」といわれた。晩年は妻と別居し、愛人と2人で鎌倉に住んでいた。その経緯は村松友視の『鎌倉のおばさん』に詳しい。
著作
- 旧・河出文庫 全3巻、増訂版・中央公論社(全5巻)、中公文庫(全8巻)で新版再刊
- 『日本金権史』自由国民社(近世名勝負物語11)1958年1月
- 近世名勝負物語
- 『名優船乗込・沢正風雲録』自由国民社(近世名勝負物語)1958年5月
村松梢風に相当する人物を演じた俳優
映像化作品
- 『秩父水滸伝』(1954年)
- 『秩父水滸伝 必殺剣』(1965年)
参考文献
- 村松暎 「解説」(『本朝画人伝』巻八、中央公論社〈中公文庫〉、1977年、所収)
関連項目
- 日本の小説家一覧
- 時代小説・歴史小説作家一覧
外部リンク
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