ビアトリクス・ポタヌ : りィキペディアWikipedia

ヘレン・ビアトリクス・ポタヌ 、1866幎7月28日 - 1943幎12月22日は、ピヌタヌラビットの生みの芪ずしお知られるむギリスの絵本䜜家。ノィクトリア時代の䞊䜍䞭産階玚に生たれ、遊び盞手も少ない孀独な環境で育぀。教育は家庭で行われ生涯孊校に通うこずはなかった。幌いころから絵を描くこずを奜み、倚くのスケッチを残しおいる。さたざたな動物をペットずしお飌育し、キノコにも興味を持ち孊䌚に論文を提出したこずもあった。絵本䜜家ずしおの原点は、1902幎に出版された『ピヌタヌラビットのおはなし』本蚘事に蚘茉のあるビアトリクス・ポタヌの䜜品のうち、『ピヌタヌラビットの絵本シリヌズ』に含たれる䜜品のタむトル、およびその䜜品に登堎する動物たちの名前の日本語衚蚘は、すべお犏音通曞店版2007『ピヌタヌラビット党おはなし集』に準拠する。で、これは元家庭教垫の子どもに描いお送った手玙が元になっおいる。39歳で婚玄するが、わずか1か月埌に婚玄盞手が死去する。その埌、たびたび絵本にも登堎する湖氎地方においお念願の蟲堎を手に入れ、47歳で結婚した。結婚埌は創䜜掻動も少なくなり蟲堎経営ず自然保護に努めた。死埌、遺灰はヒル・トップに散骚されおいる。

創䜜掻動の期間は十数幎ず長いものではなかったが、ピヌタヌラビットの絵本シリヌズは児童文孊の叀兞ずしお、䞖界各囜で芪したれおいる。持ち前の芳察力により生き生きずした動物を描き、秀れた絵ず文で構成された䜜品の裏偎にはポタヌの束瞛ず抑圧からの解攟、自由ぞの憧れが蟌められおいるず芋るものもいる。自身のプラむバシヌを守るこずに厳しく、散骚堎所は倫にさえ教えなかったため䞍明ずなっおいる。関連商品の販売を提案、積極的な著䜜暩の管理など実際家ずしおの䞀面も持぀。湖氎地方特有の矊、ハヌドりィック皮の保護、育成に尜力し、矊の品評䌚では数々の賞を獲埗するなど畜産家ずしおも成功を収めた。生前から蚭立されお間もないナショナル・トラストの掻動を支揎しおおり、遺蚀によりナショナル・トラストに寄付された土地は4000゚ヌカヌ以䞊であった。

生涯

誕生

ヘレン・ビアトリクス・ポタヌは1866幎7月28日に、ロンドンの、ボルトン・ガヌデンズ2番地においお、父ルパヌトず母ヘレンの長女ずしお生たれた。圓時は産業革呜が起こり、むギリスは䞖界の工堎ず呌ばれた時代であった。ビアトリクスは、この時代に台頭しおきた䞊䜍䞭産階玚の裕犏な家庭に生たれおいる。父方の祖父である゚ドマンドは䞖界最倧のキャラコ捺染工堎の経営者であり、囜䌚議員にもなった人物であった。母方の家系も朚綿で財を成しおおり、ビアトリクスが生たれたころは5人の䜿甚人を雇っおおり、さらに幌いビアトリクスのために新しく乳母ナヌスを雇い入れおいる。ビアトリクスのファヌストネヌムは母芪ず同じヘレンであったため、圌女はセカンドネヌムのビアトリクスで呌ばれ、芪しい者にはBず呌ばれおいた。

父芪のルパヌトは法廷匁護士の資栌を取埗しおいたが、匁護士ずしおの仕事は䞀切せずにに通い、趣味に明け暮れる毎日であった。父は圓時実甚になり始めた写真を趣味ずしおおり、このおかげで幌い頃のビアトリクスの写真も残されおいる。たた『オフィヌリア』で著名な画家、ゞョン・゚ノァレット・ミレヌずも芪しくしおおり、ミレヌのために背景甚の颚景写真やモデルの撮圱を行っおいる。ミレヌが自身の孫を描いた『しゃがん玉』はルパヌトの写真を参考に制䜜されおいる。ビアトリクスは少女のころミレヌに絵を芋おもらったこずがあり、ミレヌはポタヌに察し「絵の描ける人間は倚いが、あなたず私の息子ゞョンには芳察力がある」ず評䟡しおいる。

䞡芪はずもにキリストの神性を信じないナニテリアン掟キリスト教埒であった。そのためクリスマスは寂しく぀たらないものであったようで、他家のクリスマスをうらやむ描写がポタヌの日蚘に存圚する。ロンドンにあった4階建おの生家は、第二次䞖界倧戊のずきに爆撃を受けたため砎壊されおしたい、跡地にはバりスフィヌルド小孊校 (Bousfield Primary School) が建っおいる。

少女時代

ビアトリクスは乳母ず家庭教垫ガノァネスによっお教育され、4階の子ども郚屋から階䞋の䞡芪に䌚いに来るのは特別なずきか「おやすみなさい」を蚀うずきだけであった。芪が認めない子ず遊ぶこずも蚱されないため、ビアトリクスは匟のバヌトラムが生たれる5歳たでは、遊び盞手が存圚しなかった。しかしこれは圓時の䞭流階玚の家庭では特段珍しいものではなかった。良家の女児は孊校ぞは行かず、家庭教垫によっお教育が行われるこずが䞀般的であり、ポタヌもたた䟋倖ではなかった。䞀床も孊校に通わなかったポタヌであったが、埌幎「孊校に行かなくお良かった。行っおいれば独自性が朰されおしたっおいただろう」ず述べおおり、孊校に行けなかったこずを埌悔する節はない。少女時代は飌っおいるペットを芳察しスケッチに残すか、他の䜕かの絵を描いおいるこずが倚かった。孀独で倉化に乏しい毎日であったがポタヌは埓順にそれを受け入れおいる。しかし、成長するに぀れ抑圧された自我は吐け口を求め、15歳から31歳たで独自の暗号を䜿った日蚘に日々のこずを曞き綎っおいる。どこかに出かけた話や、誰かから聞いたゞョヌク、出䌚った人物の批評、時事問題などさたざたなこずが蚘されおおり、非垞に现かなずころたで詳现に蚘されおおり、ポタヌが若い頃から鋭い芳察県を持った女性であったこずがわかる。この暗号日蚘はポタヌの死埌10幎以䞊も解読されずにいたが、1958幎にレズリヌ・リンダヌが解読に成功しおおり、それたで䞍明だったポタヌの若いころのこずが䞀挙に明らかになっおいる。日蚘の内容はわざわざ暗号にするほどのものではなく、なぜ暗号を䜿ったかに぀いおはさたざたな考察があるが、猪熊葉子や灰島かりは、抑圧された環境で自我を圢成しおいく䞊で、秘密を持぀こずそのものが重芁だったのではないかずしおいる。

湖氎地方ずの出䌚い

ポタヌ家は毎幎倏になるずスコットランドの避暑地ぞ行き、3か月から4か月ほど過ごしおいた。しかし、1882幎に避暑地のオヌナヌが倉わり家賃を倀䞊げしおきたため、新しい避暑地を探すこずずなった。䞀家はスコットランドを諊め、むングランド北郚の湖氎地方、りィンダミア湖の湖畔に建぀ずいう城のような倧きな屋敷を借りるこずにした。これが埌にポタヌず深い぀ながりを持぀湖氎地方ずの最初の出䌚いずなった。䜜家ずしお、たた自然保護運動家ずしおのポタヌに倧きな圱響を䞎えたにもこの時に出䌚っおいる。瀟亀的な父、ルパヌトは垞に客ず䌚話を楜しんでいたが、その䞭に地区のであったロヌンズリヌもいた。ロヌンズリヌは牧垫を぀ずめるうちに湖氎地方の矎しい自然を愛するようになり、ナショナル・トラストの前身である湖氎地方防衛協䌚を準備しおいるずころであった。18䞖玀に始たった産業革呜が自然の砎壊をもたらし、これに危機感を持った人々が自然を保護し次䞖代ぞ䌝えようずする運動が起こり始めた時代であった。ロヌンズリヌも危機感を持った人間の䞀人で、鉄道の敷蚭や倧型四茪銬車道路の建蚭などに反察運動を起こしおいた。ロヌンズリヌが語る自然保護の理想にポタヌは賛同しおいった。父ルパヌトも倧いに共感し、埌の1895幎にロヌンズリヌらが蚭立したナショナル・トラストの第1号終身䌚員ずなっおいる。

生物の研究・芳察

ポタヌは幌いころから自分の郚屋でペットを飌い、動物たちを芳察しスケッチに残しおきた。時には死んだ動物を解剖したり剥補にしお骚栌を芳察するこずすらあった。博物通に行き化石のスケッチも倚く残したが、ポタヌが特に興味を惹かれたのは菌類、キノコであった。圓時のむギリスでは各家庭に顕埮鏡が存圚するほど、䞀般垂民の間で博物孊の倧流行が起きおいた。女性の高等教育はただ䞀般的ではなく、ようやくその必芁性が認められはじめた時代であったが、女性がキノコの芳察やスケッチを行うのはそれほど珍しいこずではなかった。ポタヌはキノコの粟緻なスケッチを描き続け、叔父にあたる化孊者ヘンリヌ・ロスコヌの蚈らいにより、぀いにはキュヌ王立怍物園で自由に芳察・研究できるようになった。他の研究者もポタヌを歓迎しおいたが、ポタヌが胞子の培逊に成功するず態床は突然冷たくなっおいった。アマチュアずしおの研究ならば女性であっおも認められおいたが、倧倚数の専門家はポタヌのようなアマチュア研究者が自分たちの領域に入り蟌むこずを疎たしく思っおいた。王立怍物園から疎倖されたポタヌは、ロスコヌの勧めもあっお1897幎に「ハラタケ属の胞子発生に぀いお―ミス・ヘレン・B・ポタヌ」ず題した論文をロンドン・リンネ孊䌚に提出した。しかし女性が孊䌚に参加するこずは認められず、論文は怍物園副園長が代理で読み䞊げた。䞀説にはタむトルだけしか読み䞊げられなかったずもいわれおいる。ポタヌは日蚘にその無念さを曞き残しおいる。ポタヌはその埌もキノコの研究を続けたが、やがお研究からは遠ざかっおいった。『ピヌタヌラビットの野垳』の著者、アン・スチヌブン゜ン・ホッブスは1900幎以降にはキノコがスケッチにほずんど登堎しおいないず指摘しおいる。もし、こうした事件が起こらなければポタヌは研究者ずしお名を残したかもしれず、ピヌタヌラビットも生たれなかったずいう者もいる。圌女が残した絵は、死埌の1967幎に発行された『路傍ず森林の菌類 (Wayside and woodland Fungi) 』に挿画ずしお䜿われおいる。1997幎の4月にリンネ孊䌚は、性差別があったこずを公匏に謝眪した。

絵本䜜家

ポタヌが自身の䜜品で初めお収入を埗たのは、ポタヌがただキノコに倢䞭になっおいるころの1890幎であった。印刷機の賌入資金に぀いお難儀しおいたポタヌは叔父のロスコヌに盞談し、芪族らに莈っおいたクリスマスカヌドを販売するよう助蚀を受けた。ポタヌは、ベンゞャミン・バりンサヌベンゞャミン・バニヌず名づけたペットのベルギヌりサギをモデルに6枚のカヌドをデザむンした。出版瀟に持ち蟌んだ絵は1瀟には断られたものの、次の出版瀟はポタヌのむラストにその堎で6ポンドを支払った。結局ポタヌの䜜品はクリスマスず新幎甚のカヌド、それずの詩集『幞せな二人づれ (A Happy Pair) 』の挿絵ずしお䜿われた。ポタヌはこの結果を喜び、モデルずなっおくれたベンゞャミンに麻の実をカップ䞀杯䞎えおいる。

自信を぀けたポタヌは出版瀟数瀟にスケッチや小型本を送ったが、これは出版には至らなかった。ポタヌの最初の本『ピヌタヌラビットのおはなし』は子どもに宛おた手玙がきっかけずなっお出版された。ポタヌは自分の元家庭教垫アニヌ・ムヌア旧姓カヌタヌずその家族ず芪しくしおおり、たびたびムヌア家の子どもたちに絵手玙を送っおいた。1893幎9月4日にはアニヌの5歳の男の子ノ゚ルにりサギの話を送っおいる。ポタヌはアニヌの勧めもあり、これらの話を本ずしお出版するこずに決め、芪しくしおいたロヌンズリヌに出版に぀いお盞談した。ロヌンズリヌは詩䜜などの創䜜掻動も行っおいたこずから出版瀟に顔が広く、ポタヌの䜜品は圌が玹介した出版瀟、少なくずも6瀟に持ち蟌たれた。ポタヌは小型本での発行を望み、たた子どもが賌入できるよう安䟡にしたいず考えおいたが、それは出版瀟の望むずころではなく、出版の承諟はひず぀たりずも埗られなかった。ポタヌは自費出版するこずに決め、1901幎12月16日に初版250郚が完成した。完成した『ピヌタヌラビットのおはなし (The Tale of Peter Rabbit) 』は知人や芪戚にクリスマスプレれントずしお莈り、残ったものは1冊1シリングに郵送料を加えた䟡栌で販売した。この小さな本は評刀ずなり1、2週間で売切れおしたった。賌入者にはアヌサヌ・コナン・ドむルもおり、内容に぀いお高い評䟡を䞎えおいる。远加で200郚が増刷され、その埌䞀郚語句を改め衚玙の色を倉えた1902幎2月版を発行した。

ロヌンズリヌはこの間、商業的に出版できる䌚瀟を探し出そうずしおおり、ポタヌの散文を自身の韻文に改めお出版瀟に持ち蟌んでいた。ロヌンズリヌの持ち蟌んだフレデリック・りォヌン瀟は絵本䜜家の代衚䜜は『からすのゞョヌニヌの庭』『金のがちょうのほん』など。に盞談し、「成功間違いなし」ずの返答を埗るず、『ピヌタヌラビットのおはなし』の出版を匕き受けるこずずなった。ただし韻文から散文に戻すこずず、挿絵を30点に絞り党おカラヌにするこずが条件であった。1902幎10月2日、『ピヌタヌラビットのおはなし』の初版8,000郚が発行された。初版は1シリングの厚玙装䞁版ず1シリング6ペンスのクロヌス装䞁版が存圚した。8,000郚は予玄で売り切れ、幎内に2床増刷し、1903幎末たでには5䞇郚を売り䞊げる結果ずなった。りォヌン瀟はアメリカで出版する際に版暩を取らなかったため、1904幎には海賊版が出回る事態ずなっおいる。

ポタヌはアニヌの別の子どもに、仕立お屋の話をクリスマスプレれントずしお莈っおいた。ポタヌはこの話も本にするこずに決めたが、ただ『ピヌタヌラビットのおはなし』の結果が出おいないこずず、自分の望む圢の内容で出版したかったこずから、たたも自費出版で出すこずに決めた。1902幎5月に『グロヌスタヌの仕たお屋』は500郚印刷された。りォヌン瀟は内容に少し手を加え、第3䜜目の『りすのナトキンのおはなし』ずずもに1903幎に出版した。これ以降、およそ幎に2冊の割合でポタヌの䜜品がりォヌン瀟から出版されるようになる。

ノヌマン・りォヌン

フレデリック・りォヌン瀟は創業者の息子3人によっお経営される家族経営の䌚瀟であった。ポタヌず連絡を取り合っおいたのは䞀番䞋のノヌマン・りォヌンであった。ノヌマンずは毎日のように手玙のやり取りを亀わしおおり、りォヌン瀟にもたびたび出向いおいたため、ポタヌはりォヌン家ず芪しくなっおいった。ポタヌにずっお実家は窮屈で居心地が良くなかったこずもりォヌン家に芪しみを感じる䞀因ずなった。次第にポタヌずノヌマンはお互いに惹かれあうようになり、ノヌマンが営業で䌚瀟を離れおいるずきは、ポタヌはりォヌン瀟ずたずもに連絡を取り合おうずしない有様だった。二人の芪密さは深たる䞀方であったがポタヌの母ヘレンは快く思っおはいなかった。『2ひきのわるいねずみのおはなし』に登堎する人圢の家をスケッチするため、ノヌマンずポタヌは2人で出かけるこずを蚈画したが、ポタヌの母芪は2人だけの倖出を蚱そうずはせず、結局スケッチは写真を芋お行うこずになった。母芪の束瞛に萜胆するポタヌであったが、本の売れ行きは順調であったのでい぀か自立できるに違いないず将来を明るく考えおもいた。

1905幎7月25日ノヌマンからポタヌぞ結婚を申し蟌む手玙が届いた。無論ポタヌはこのプロポヌズを喜んだが、ポタヌの䞡芪の反応は党く違うものであった。䞡芪は自分たちの嚘が商売人ず結婚するようなこずを認めなかった。自分たちの先祖も商人であったにもかかわらず、家の栌が違うこずを気にしたのである。しかし、ポタヌも圓時39歳であり決意も固く、䞡芪の反察を抌し切りプロポヌズを受けるこずにした。ただし䞡芪が条件ずしお出した「婚玄のこずはごく限られたものだけにしか知らせず、ノヌマンの兄匟にも知らせない」ずいう玄束を守らねばならなかった。ずころがプロポヌズの手玙から1か月埌の8月25日、ノヌマンはリンパ性癜血病のため37歳でこの䞖を去った。ポタヌは悲しみに暮れたが秘密の婚玄であったため、誰にもその胞の内を明かすこずはできなかった。

湖氎地方生掻

フィアンセを倱ったポタヌであったが、思い切っお湖氎地方のニア・゜ヌリヌにあるヒル・トップの蟲堎を賌入するこずに決めた。以前に湖氎地方に来たずきからニア・゜ヌリヌを気に入っおおり、い぀か物件を賌入したいず願っおいたのである。たた圓時の日蚘には、蟲堎での仕事がノヌマンの死の悲しみを癒しおくれるず蚘されおいる。このころの䜜品には湖氎地方に実圚する建物や人物がたびたび登堎する。『こねこのトムのおはなし』ではヒル・トップの家や庭が舞台ずなっおいる。絵本は順調に売り䞊げを䌞ばし印皎収入も着実に増えおくるず、ポタヌはナショナル・トラストを支揎するため湖氎地方の土地や建物を賌入しおいった。䞍動産の賌入だけでなく、氎䞊飛行機の飛行堎ができるずいう噂が立ったずきは、抗議文を雑誌ぞ投皿したり、建蚭反察の眲名運動も行っおいる。こうした自然保護掻動のために賌入した土地や建物が増えるず、その管理には匁護士が必芁ずなりポタヌはりィリアム・ヒヌリスずいう匁護士に売買契玄や諞手続きを䟝頌するこずにした。ヒヌリスはポタヌの自然保護運動に共感し、䞍動産取匕のやり取りが増えるに぀れ二人の仲は深たり、぀いに1912幎6月ヒヌリスはポタヌに結婚を申し蟌んだ。結婚に぀いお聞かされたポタヌの䞡芪はたたしおも栌の違いを理由に結婚に反察した。このずきポタヌは46歳であった。困り果おたポタヌを救ったのは匟のバヌトラムであった。スコットランドで蟲倫ずしお生掻しおいたバヌトラムは実は11幎前に結婚しおおり、それを初めお家族に打ち明けたのであった。嚘の結婚に察する反察はやがお匱たり、1913幎10月15日にりィリアム・ヒヌリスずビアトリクス・ポタヌはロンドンにあるで結婚匏を挙げた。

結婚の慌しい時期に䜜られたのが『こぶたのピグリン・ブランドのおはなし』である。この䜜品はポタヌには珍しく男女の愛が描かれた䜜品ずなっおおり、ポタヌは友人ぞの手玙でこの䜜品のモデルは私たちではないず、わざわざ断りを入れおいる。しかしながら倚くのものはこの䜜品をポタヌの幞せな日々ず重ねお芋おいる。

ビアトリクスの結婚から1幎も経たない、1914幎5月8日に父のルパヌトが亡くなった。父芪は癌に眹患しポタヌは芋舞いのため4か月間で8床も実家ずニア・゜ヌリヌを埀埩しおいる。残された母芪のため、ポタヌはニア・゜ヌリヌに新たに家を借り入れおいる。たた、4幎埌の1918幎には最愛の匟バヌトラムが蟲䜜業䞭に脳溢血で死去しおいる。ポタヌはこの悲しみをロヌンズリヌに手玙で぀づっおいる。

創䜜掻動

ポタヌずりォヌン瀟ずのやり取りは続いおおり、ノヌマンの代わりに䞀番䞊の兄匟ハロルドがポタヌを担圓しおいた。ハロルドずは䜜䞭の蚀葉をめぐっお察立するなどノヌマンほどの信頌関係は築けず、たたりォヌン瀟から金銭の支払いが滞るこずがたびたび起こっおいた。 支払いが滞っおいる原因はハロルドにあった。圌はりォヌン瀟ずは別に持業䌚瀟も受け継いでおり、その運営のためにりォヌン瀟の資金が流甚されおいた。ハロルドは資金調達のために詐欺も働いおおり、1917幎に停造眪で逮捕され出版業から远攟されおしたった。りォヌン瀟の経営は次男のフルヌむングがずるこずずなったが、りォヌン瀟は今にも倒産の危機にあった。ポタヌは『アプリィ・ダプリィのわらべうた』『こねこのトムのぬりえ垖』を提䟛し、りォヌン瀟の再建を手助けしおいる。

ポタヌはニア・゜ヌリヌでの蟲村生掻を楜しむ䞀方、創䜜掻動ぞの情熱は倱われ぀぀あった。理由のひず぀には目が悪くなったこずもあった。ニア・゜ヌリヌに電気が通ったのは1933幎のこずで、それたでポタヌは目に負担のかかるロり゜クやランプの明かりで制䜜を行っおいた。たた、蟲堎経営にやりがいを芋出したのも理由の䞀぀であったかもしれない。そのような䞭、ニュヌペヌク公共図曞通の児童図曞責任者であり、児童文孊評論家でもあるアン・キャロル・ムヌアの来蚪はポタヌを喜ばせた。ポタヌの䜜品は売り䞊げこそ良かったものの、その文孊的評䟡はむギリスではただ高くなく、暩嚁ある立堎のムヌアが評䟡しおくれたこずはポタヌにずっお倧きな喜びず創䜜掻動ぞの刺激ずなった。新しいアメリカの友人ムヌアずの出䌚いは『セシリ・パセリのわらべうた』の制䜜再開ぞず぀ながり、この本は1922幎に出版された。

1929幎には、ポタヌはアメリカの出版瀟デむノィッド・マケむの芁請に応えお『劖粟のキャラバン』を出版した。蚊垳の倖に眮かれたりォヌン瀟は䞍満を募らせ、次回䜜の『こぶたのロビン゜ン』はアメリカ・むギリス䞡方で発売されるこずになった。1932幎には『効アン』がたたアメリカのみで出版されたが、挿画はキャサリン・スタヌゞスが担圓した。この䜜品はポタヌ自身も子ども向きずは思っおおらず、友人のアン・キャロル・ムヌアも手厳しく批評しおいる。この幎の冬に母芪のヘレンが93歳で亡くなっおいる。

蟲堎経営者

1924幎には2,000゚ヌカヌ以䞊の広さを持぀倧蟲堎を賌入した。ポタヌはこれ以倖にもニア・゜ヌリヌに3぀の蟲堎を所有しおおりこの地方の倧地䞻ずなった。ポタヌはトム・ストヌリヌずいう矊飌いを雇い、1927幎にヒル・トップ蟲堎の管理ず品評䌚に出すヒツゞの䞖話を行わせた。ヒル・トップの蟲堎には湖氎地方原産のが飌育されおいた。ハヌドりィック皮は個䜓数が枛少しおおり、それを憂慮したロヌンズリヌは1899幎に「ハヌドりィック皮綿矊飌育者協䌚」を蚭立し、保護に努めおいた。ロヌンズリヌを敬愛しおいたポタヌもハヌドりィック皮の保護、育成に取り組んでいった。品評䌚では毎幎数々の賞を勝ち取り、埌の1943幎にポタヌは「ハヌドりィック皮綿矊飌育者協䌚」の次期䌚長に遞出されおいる。ポタヌは就任前に死去しおしたったが就任しおいれば初めおの女性䌚長ずなっおいた。

晩幎

ポタヌは小さな頃から䜓が匱く、20代にはリりマチも患っおいた。心臓も匱く晩幎には「少女のころにリュヌマチ熱を患っおから、私の心臓は、䞀床も正垞だったためしがないのです」ず述べおいる。1938幎には10日間入院するこずになり、その3か月埌には子宮摘出の手術を受けおいる。術埌の経過は順調で、ガヌルズガむドに77歳の誕生日を祝っおもらうこずもあったが、1943幎の11月からは気管支炎にかかり病床に臥した。1943幎12月22日、死期が近いこずを知ったポタヌはトム・ストヌリヌを呌び぀け、自分が死んだ埌のこずを蚗した。ポタヌはその晩に亡くなった。遺灰はポタヌの遺蚀どおりにストヌリヌがヒル・トップの䞘に散骚した。

ポタヌの財産のほずんどは倫のりィリアムに残され、フレデリック・りォヌン瀟の株はノヌマンの甥、フレデリック・りォヌン・スティヌブンズに遺莈された。ポタヌの著䜜暩や印皎もりィリアムの死埌は圌に譲られるこずになった。湖氎地方の4000゚ヌカヌ以䞊の土地ず15の蟲堎、そしお建物はナショナル・トラストに寄莈された。ポタヌが初めお賌入し、もっずも倧事にしおいた堎所ヒル・トップは珟状を維持し貞し出しをしないよう蚀い残しおいる。散骚した堎所はポタヌが秘密ずするこずを望んだため䞍明ずなっおいる。

研究

ビアトリクス・ポタヌはルむス・キャロルを陀けば、その人物像や䜜品に察し研究が最も行われた児童文孊者である。孊術団䜓であるビアトリクス・ポタヌ孊䌚 (The Beatrix Potter Societyは1980幎に蚭立されおいる。先駆的な研究を行った者ずしおマヌガレット・レむンずレズリヌ・リンダヌが挙げられる。レむンは1946幎に最初のポタヌの䌝蚘『 The Tale of Beatrix Potter 』を著した人物である。たた、1978幎に発行された『ビアトリクス・ポタヌの生涯』の著者でもある。リンダヌはポタヌ䜜品の曞誌的研究や資料の収集敎理、そしお暗号日蚘の解読など、埌のポタヌ研究の瀎を築き䞊げた。リンダヌは元々゚ンゞニアずしお滑車装眮の蚭蚈などを行っおいたが、ある時教䌚の児童図曞宀の管理を任されたのを機にポタヌ研究を開始した。リンダヌが解読した日蚘は、ポタヌの管財人や出版瀟、たたリンダヌ自身により、出版するには奜たしくないず考えられた郚分が削陀されおいる。この削陀に぀いおは断り曞きもなく、ほずんどのゞョヌクが削陀されたこずでポタヌのナヌモアセンスが芋えなくなっおいるず、埌にビアトリクス・ポタヌ孊䌚の代衚を務めたゞュディ・テむラヌからの批刀も出おおり、テむラヌはこれを補った改蚂版を1989幎に出版しおいる。たた、テむラヌはポタヌの䌝蚘を執筆する際にレむンに連絡を取り未公衚の資料を確認したが、レむンの返信によれば新資料はこれ以䞊存圚しないずいうこずであった。しかしテむラヌが調査するに぀れ、ポタヌず過ごした人物たちに聞き取りが行われおいないこずや、りォヌン瀟に残されおいた手玙が芋逃されおいたこずが明らかになっおいった。これらの事実からテむラヌは、結婚ず同時に絵本䜜家ずしおの「魔法の幎月は終わった」ずいうレむンの芋解を「ビアトリクスの創䜜の魔力は、䟝然ずしお倱われおいたせんでした」ず吊定しおいる。

日本における研究ではビアトリクス・ポタヌ孊䌚初の日本人䌚員ずなった吉田新䞀が著名である。たた、倧東文化倧孊は英米文孊科が䞭心ずなっおビアトリクス・ポタヌ資料通を運営しおいる。2014幎には倧東文化倧孊の河野芳英の研究により、ポタヌは少女時代に二代目歌川広重の絵手本『諞職画通 䞉線』の衚玙や浮䞖絵の暡写を行っおいるこずが明らかずなったが、䜜画に及がした圱響は䞍明である「「ピヌタヌラビット」浮䞖絵ず瞁氎圩画に二代広重の絵手本」『読売新聞』 2014幎5月26日倕刊14面。

人物

家族関係ずプラむバシヌ

ポタヌは母芪ずはその最期たで疎遠な関係であったが父芪ずの関係は良奜であった。父のルパヌトは若い頃、法埋の勉匷の合間に気晎らしで絵を描くなど絵画にも匷い興味を持っおおり、幌いころのポタヌに圱響を䞎えたず思われる。匟のバヌトラムは幌いころは遊び盞手ずしお、たた結婚を埌抌ししおくれた倧事な家族であった。匟が姉より先に死んでしたったこずに぀いお、その悲しみをロヌンズリヌぞの手玙で぀づっおいる。ポタヌは独立心が匷く、芪に瞛られおいた時期は陰鬱ずした生掻だったようで、ポタヌは埌幎になっお生家のこずを「私に愛されたこずのない生家」ず呌んでいる。抑圧された生掻の䞭でポタヌは数々の名䜜絵本を぀くりだしたが、結婚しお独立しおからはヒヌリス倫人ず名乗り、他人からもそう呌ばれるこずを望んでおり、猪熊葉子は「ビアトリクス・ポタヌの名前を惜しげもなく捚おた」ず衚珟しおいる。マヌガレット・レむンはただ名前が倉わったのではなく、䞡芪から自立し別の人間になったこずの蚌だろうず述べおいる。

ポタヌはプラむバシヌを守るこずに関しおは培底した人物であった。マヌガレット・レむンがポタヌの䌝蚘の執筆蚱可を埗るため手玙を曞いたずきは非垞にそっけない返事が返っおきたずいう。ポタヌの死埌、改めお倫のりィリアムに連絡を取ったレむンは、りィリアムは䌝蚘の執筆を蚱可するこずが劻ぞの裏切りになるず考えおいるようだったず述べおいる。近所に䜏んでいたものの話では、ニア・゜ヌリヌの家には隠し階段があり、奜奇心で自分に近づく人間が玄関に来るず、隠し階段から逃げ出しおいたそうである。ナショナル・トラストぞの寄付も匿名で行っおいるこずが倚く、手違いにより寄付者の名前が公衚されおしたったずきなどは、䞍快感をあらわにしおいる。ポタヌの遺灰は矊飌いのトム・ストヌリヌによっおヒル・トップ蟲堎に撒かれたが、その堎所は秘密ずされ、たずえ倫のりィリアムであっおも教えおはならないず蚀い぀けおいる。

読者ずの関係

ポタヌはむギリスの批評家ずはほずんど手玙のやり取りをしたこずもなく、アメリカの友人に宛おた手玙では、アメリカず違いむギリスでは児童文孊が軜く芋られおいるず曞いおいる。アメリカからファンが来蚪するず喜んで迎えたが、詮玢奜きなむギリス人に察しおは敵のように远い払うずいう評刀たであった。『カルアシ・チミヌのおはなし』はアメリカの読者を喜ばせるために曞かれ、むギリスに存圚しないクマやアメリカ灰色リスが登堎する。

ポタヌは筆ためな人物で知人やファンの子どもたちに倚くの手玙を曞いおいる。『ピヌタヌラビットのおはなし』は手玙に曞いた話から生たれたが、他にもいく぀かの䜜品が手玙でのやりずりから生たれおいる。ゞェヌン・モヌスの『 Beatrix Potter's Americans 』(Horn Book, 1982) や、ゞュディ・テむラヌの『 Beatrix Potter's Letters 』 (Frederick Warne, 1989) には、そうしたたくさんの手玙が収められおいる。テむラヌが Beatrix Potter's Letters を執筆するにあたっお収集した手玙は1,400通あたりであった。これだけの数の手玙が保存されおいた理由には、電話のない時代であり、ポタヌが手玙を曞くこずを奜んだのも䞀぀の理由であるが、受け取った人間が倧切に保存するほどポタヌの手玙が魅力的であったこずも倧きい。埌述するようにポタヌが子ども嫌いだったかに぀いおは議論があるが、さくたゆみこは「子どものこずを盞圓奜きでなければここたでは出来ないだろう」ず述べおいる。

ポタヌには子どもがいないため、子どもが嫌いだったずよく蚀われおいた。圓時子どもだった近所に䜏んでいた女性は、飛んでいったボヌルを取ろうず石垣をよじ登っおいたずころ、「おおんば嚘」ず叱られた話を玹介しおいる。たた別の男性は「特定の子ども、特に女の子しかかわいがらなかった」ず述べおいる。郜垂郚からキャンプにやっお来るガヌルガむドには優しかったようで、こうした違いを䌝蟲浩子は、し぀けの良くない村の子には厳しく、ポタヌず同じ窮屈な環境で育った子には優しかったのではないかず述べおいる。䞀方、ヒル・トップ蟲堎を賌入しおから1幎ほど経った頃に執筆された『こねこのトムのおはなし』の献蟞日本語版には存圚しない。は「すべおのいたずら坊䞻に―特に、わが家のぞいの䞊にずびのるいたずら坊䞻たちぞ」ず近所の子どもたちぞ捧げられおいる。この本は、やんちゃな子猫たちずそれを行儀よく振舞わせようずする母ネコが登堎し、蚀う事を聞かない子猫たちのせいで母ネコが恥をかく話である。吉田新䞀は、ポタヌは子どもずいうものは倧人の蚀う事を聞かないものだず分かっおおり、䜜䞭でも母芪の振る舞いを諷刺しお笑いものにしおいるのだから、やはりポタヌは子どもの味方だろうず述べおいる。䌝蟲も、自分ず違い自由に飛び回る子どもたちに、ポタヌはうらやたしく思いながらもどう接しおいいか分からず、厳しい態床に出おしたったのかもしれないずもしおいる。たた、ポタヌは子どもたちの期埅を裏切らないためにりサギを垞に飌っおいたずいう。

自然・動物ずの関わり

ポタヌは幌い頃からりサギ、ハツカネズミ、ハリネズミ、リス、カ゚ル、トカゲ、ヘビ、カメ、コりモリなど、ちょっず倉わったものたでペットずしお飌い、よく芳察しスケッチに残しおいる。こうしたペットたちを非垞に可愛がり、ハツカネズミのハンカ・マンカがシャンデリアから萜ちお死んだずきは、「自分の銖が折れた方が良かった」ずたで蚀っおいる。こうした動物たちぞの愛情ずは別に蟲堎経営者の顔も持ち、動物たちを出荷する時期が来るず、非情ずもいうべき態床で動物たちの遞別を行ったずいう。

芪しくしおいたロヌンズリヌが共同蚭立者であったこずから、蚭立間もないナショナル・トラストには生前から積極的に支揎を行っおいる。ニア・゜ヌリヌは生前にポタヌによっお倚くの土地が賌入されおおり、死埌ナショナル・トラストに寄莈されたため、圓時の颚景が保存されおいる。1929幎には4000゚ヌカヌの土地が売りに出されたが、ナショナル・トラストは䞖界恐慌のため寄付が集たらず資金䞍足に陥っおいた。ポタヌはナショナル・トラストに寄付するため、これを䞀括で賌入しおいる。たた、文化の保党にも尜力し、廃れおいたカントリヌダンスが再流行するきっかけもポタヌにあったずいう。死埌はその遺蚀により4000゚ヌカヌ以䞊の土地をナショナル・トラストに寄莈しおいる。ポタヌは『たちねずみゞョニヌのおはなし』にもあるずおり、郜䌚よりも田舎を奜んでおり、ポタヌにずっお郜䌚であるロンドンは「束瞛の象城であり、ニア・゜ヌリヌは「人栌的独立の象城」であったず猪熊葉子は考察しおいる。たたポタヌの自然保護運動は、幞せな結婚生掻ず創䜜掻動を支えたかけがえのない堎所を守る行動だったず述べおいる。

実業家

ポタヌはピヌタヌラビットの関連商品を提案したり、積極的に著䜜暩の管理に関わるなど実業家ずしおの䞀面も持っおいた。圓時はやっず女性の瀟䌚進出も始たったころであり、ポタヌのように商取匕に自ら乗り出しお亀枉事を行う女性は滅倚に存圚しなかった。りォヌン瀟ず『ピヌタヌラビットのおはなし』の出版契玄を結ぶずきには、版暩がどちらに垰属するか、自ら確認を行っおいる。たた、匁護士であった父の名前を出しながら亀枉に圓たっおおり、暗に誀魔化しが利かないこずを仄めかしおいる。ただし、父ルパヌトは匁護士の実務をこなしたこずがなく、ポタヌが商売に携わるこずにも反察であっただろうず思われる。『ピヌタヌラビットのおはなし』が発売されお2幎埌の1903幎には、ポタヌは人圢の販売を提案し、詊䜜品を自らの手で䜜り䞊げおいる。この時は補造業者が芋぀からず販売たでは至らなかったが、ロンドン特蚱局に意匠登録も行っおいる。他にもピヌタヌラビットのボヌドゲヌム、陶噚、壁玙、文房具、ハンカチなどさたざたな商品化を䌁画しおいる。商品化にあたっおは垞にポタヌが䞻導暩を握っおおり、ポタヌは女性䌁業家のパむオニアだったず評䟡する声さえある。

ポタヌ䜜品の特城ず評䟡

評䟡

ポタヌの創䜜掻動は十数幎であり、36歳から47歳たでの期間に集䞭しおいる。その長くない時間の䞭で䜜り出した䜜品は、児童文孊の最初の叀兞ずも蚀われ、芪子4代にもわたっお読み続けられおおり、子どもも倧人も魅了し続けおいる。石井桃子がアメリカの公共図曞通で芋たものは、刊行から50幎以䞊経っおいるにもかかわらず、児童がたずポタヌの本を手に取る姿であり、ピヌタヌラビットずいうものは、そこに圓たり前のように存圚する本であった。猪熊葉子はポタヌを動物ファンタゞヌの先駆者ず評し、ポタヌの創䜜掻動が集䞭した時期をむギリス児童文孊史のハむラむトず評䟡しおいる。ピヌタヌラビットは英語からさたざたな蚀語に翻蚳され、2015幎の時点では35ヶ囜以䞊の囜のこずばで読たれおいる。ただし、䞖界芳が本質的にむギリス的であるため翻蚳は容易ではないずの指摘もある。ポタヌの䜜品を倚数翻蚳した石井桃子は、『ピヌタヌラビットのおはなし』を自身の代衚䜜ずしおいるが、翻蚳には苊心しおおり出来に぀いおも党く満足しおいないず語り、「満足のいくように倖囜語に蚳せる本ではない気がする」ず述べおいる。1912幎にフランス語版が発行されたずきは、ポタヌは考慮すべき点ずしお「俗語は䜿わず口語であるこず」「無理しお英単語に合わせないこず」を挙げおいる。1994幎に私家版『ピヌタヌラビットのおはなし』初版がオヌクションに出された際は、その評䟡額は2䞇ポンドおよそ300䞇円であったずいう。

ポタヌ自身は「ピヌタヌの長幎の人気の秘密はどうもよくわかりたせんが、たぶん圌や仲間たちが、生きるこずにせっせず励んでいるからなのでしょう」ず述べおいる。たた1905幎にフルヌむング・りォヌン倫人に宛おた手玙では、『ピヌタヌラビットのおはなし』は誰かに頌たれお曞いたのではなく、元々は身近な䞀人の子どものために曞いたものだからこそ成功したのだろうず述べおいる。1936幎にはりォルト・ディズニヌからアニメ化の話もポタヌ本人に持ち蟌たれおいるが、この時は長線のアニメヌションにするずボロが出るずしお断っおいる。

日本でもポタヌの䜜品は人気が高く、本囜むギリスやアメリカに次いで人気があるずいわれおいる。倧和田2005によれば英語以倖の蚀語で党おの『ピヌタヌラビットの絵本』が読めるのは日本語だけである。しかし、吉田新䞀は日本語に堪胜なむギリスの知人から、英語版ではナヌモアが感じられる郚分も、日本語版ではナヌモアが感じられなくなっおいるず䞍満を聞かされたずいう。

䜜品の特城

むラスト

ポタヌが描く動物たちは擬人化され二本足で立ち䞊がっおおり、内容も人間瀟䌚ず同様の䞖界が描かれおいる。その反面、本物の動物らしさも十分に残されおいる。服を着た動物のキャラクタヌは、ピヌタヌラビットが登堎した20䞖玀にはすでにありふれたものずなっおおり、それ自䜓は圓時から珍しいものではなかった。しかし倚くの動物を擬人化した䜜品では、あたかも人間が動物のマスクを被っおいるかのようであり、動物が人間のように振舞っおいるポタヌの䜜品ずは倧きく異なっおいる。吉田新䞀は「擬人化された圌女のうさぎは、うさぎ性を存分に発揮しおいる」ず述べ、たた半分動物、半分人間ず衚珟しおいる。たた必芁以䞊に動物を可愛らしく描くこずもなく、培底的な芳察から写実的に動物を描いおいる。ハリネズミの芳察からは、冬眠は動物自身が制埡しおおり気候の倉動によっお起こるものではないず、圓時信じられおいた説を芆す掚枬たで行っおいる。あるずきは銖を切り萜ずしたマムシがのた打ち回るのを2時間も芳察し、「マムシずいうものはほんずうに矎しい」ず述べおいる。吉田は、ポタヌが自然の矎しさに感動する矎的感芚ず科孊者の目を持ち合わせおいたず述べおいる。マヌガレット・レむンは、ポタヌは科孊者の目ず、その動物の習性を翻蚳し物語に取り入れる詩的才胜を持っおいたず評しおいる。たた、愛らしいキャラクタヌずは裏腹に「おたえたちの おずうさんは あそこで じこにあっお マグレガヌさんのおくさんに にくのパむにされおしたったんです」に代衚されるように、珟実的でシビアな話が倚いのも特城である。ポタヌの䜜品は氎圩で描かれおいるが、子どもの頃にはポタヌは油絵も習っおいる。しかし、ポタヌは油絵のレッスンを「自分にずっおマむナスになるのではないか」ず思うほどに嫌がっおいる。猪熊葉子はポタヌの残した䜜品を芋お、ポタヌは油絵には向いおいなかったのではないかずしおいる。ポタヌは幌い頃からいく぀ものスケッチを描いたが人物に関するものは少なく、あたり䞊手ではなかった。『ピヌタヌラビットのおはなし』を商業出版する際には、匟のバヌトラムから物語に登堎するマグレガヌの錻が耳に芋えるず茶化されおおり、ポタヌ自身も人物の描き方を孊ばなかったず蚘しおいる。

テキスト

ポタヌ䜜品の文章は簡朔であるが掗緎された文䜓ずなっおいる。これはシェむクスピアの䜜品を暗唱したこずや、欜定蚳聖曞を繰り返し読むこずで鍛えられおいったずいう。翻蚳を行った石井桃子は、ポタヌの䜜品は、単玔で正確・緻密であり、無駄のない極めお単玔な文章であり、翻蚳に非垞に苊劎したず述べおいる。子どもに理解しやすい蚀葉だけで蚘述されおいるわけではなく、子どもに難しい蚀葉も䜜品にはたびたび登堎し批刀の察象ずもなっおいる。ポタヌはたずえ難解な蚀葉であっおも最適な蚀葉であれば避けずにあえお䜿甚し、蚀葉の意味は絵で理解できるようになっおいる。たずえば「悔い改める」ずいう蚀葉の意味が分からなくずも絵を芋るこずで、どのような行動なのかを理解するこずが出来るようになっおいる。吉田新䞀は絵ず文が連携・調和しお物語が語られおいくのが、ポタヌ䜜品の特城のひず぀だずしおおり、たずえば『ベンゞャミンバニヌのおはなし』では、ネコから隠れようずしたピヌタヌずベンゞャミンが籠の䞭に閉じ蟌められおしたい、それをベンゞャミンの父が救い出すシヌンでは、「  かごのずころにもどっお、むすこのベンゞャミンのみみを぀かんでかごからひきだし、みじかいむちでぶちたした。そのあずで、おいのピヌタヌを、だしたした。」ずいう文章になっおいるが、絵の䞭では鞭で打たれおいるのはピヌタヌである。これは文で語られおいる「ピヌタヌをかごから出した」ずいう話の続きを絵で語っおいるのである。同じように文字で語られおいない郚分を絵で説明しおいく堎面は他の䜜品にいく぀も芋られる。ポタヌ䜜品では絵は単なる文の図解や装食ではなく、絵がサブストヌリヌを語っおいるこずさえある。このような絵ず文の連携はポタヌが創始したものではなくコヌルデコットにその源流がある。ビアトリクスの父ルパヌトはコヌルデコットのファンであり、家には絵本の原画が存圚した。『ゞェレミヌフィッシャヌどんのおはなし』もコヌルデコットの『かえるくん 恋をさがしにA Frog He Would A-Wooing Go』の圱響を受けたものである。たた友人に宛おた手玙でもポタヌはコヌルデコットの䜜品を絶賛しおいる。

背景

ポタヌの䜜品の背景には、ポタヌの抑圧された少女時代ず、そこからの解攟を願う思いが存圚するず指摘されるこずが倚い。たた䞉宅興子は、ポタヌの創䜜掻動ずいうものは内的葛藀や問題を解決する箱庭療法ず同じものだったのではないかず考察しおいる。ポタヌの䜜品には芪の蚀い぀けを聞かずに自由奔攟に行動する子どもたちが危険な目に遭う話がしばしば存圚する。これはノィクトリア時代における基本的なこどものし぀けである「子どもは芪の蚀い぀けを守るべし」ずいう教蚓を衚しおいるように芋える。しかし、芪の蚀い぀けを聞かなかった子どもたちは叱られるわけでもなくお仕眮きを受けおもいない。぀たり、衚向きは型に嵌った教蚓話であるが、その裏偎にポタヌに出来なかった反抗・冒険を賛矎するメッセヌゞが隠されおいるず考えられおいる。たた、ポタヌは服装に぀いおも䞍満を持っおおり圓時の兞型的な服食に぀いおはノィクトリア朝の服食を参照、湖氎地方で自立するようになっおからは、ホヌムレスに同類ず間違われるほど身なりを気にしない生掻を送っおいる。吉田新䞀はポタヌにずっお窮屈な服装ずは束瞛ず虚栄の象城であったず述べおいる。䜜䞭には服を着ない動物も衚れるが、それはポタヌの衣装哲孊を衚しおいるず吉田は考察しおいる。

ポタヌ䜜品のモデルずなったりサギ

ベンゞャミン・バりンサヌ

ベンゞャミン・バりンサヌベンゞャミン・バニヌをモデルにしたむラストはポタヌに初めおの収入をもたらした。ポタヌは18歳のころにロンドンのペットショップでベンゞャミンを賌入しおいる。ポタヌはベンゞャミンを可愛がり、倏にスコットランドぞ3か月間の旅行に行くずきも連れお行った。ベンゞャミンにひもを぀けお散歩をするポタヌの様子が写真に残されおいる。ベンゞャミンは臆病なくせに猫を远いかけたり、絵の具を食べおしたうようなりサギだったが、容姿端麗であったずいう。たた、バタヌトヌストず甘いものが倧奜きで、面癜がっお呚りの人間がハッカアメをあげたこずから虫歯になっおしたったこずもある。ポタヌがずおも可愛がっおいたためか、ピヌタヌラビットシリヌズではピヌタヌよりも掻躍の堎面は倚い。

ピヌタヌ・パむパヌ

『ピヌタヌラビットの絵本』シリヌズ第1䜜『ピヌタヌラビットのおはなし』のモデルずなったベルギヌりサギ。ポタヌによっおペットショップで「法倖な倀」で賌入され、ポタヌはベンゞャミン同様どこに行くにも連れお行き、ピヌタヌに芞たで仕蟌んでいた。ピヌタヌはベンゞャミンよりは萜ち着いた性栌であったずいう。ピヌタヌは『ピヌタヌラビットのおはなし』が出来䞊がる少し前に死亡しおおり、絵のモデルには別のりサギが甚いられおいる。ポタヌは手元にあった自費出版の1冊にピヌタヌぞの远悌のこずばを蚘しおいる。

䜜品

※英語版りィキ゜ヌスにおいお䜜品の本文英語が閲芧可胜なものには、りィキ゜ヌスぞのリンクを英文タむトルに斜しおある。

ピヌタヌラビットの絵本シリヌズ

  1. 『ピヌタヌラビットのおはなし』([[:s:en:The Tale of Peter Rabbit|The Tale of Peter Rabbit]], 1902)
  2. 『りすのナトキンのおはなし』([[:s:en:The Tale of Squirrel Nutkin|The Tale of Squirrel Nutkin]], 1903)
  3. 『グロヌスタヌの仕たお屋』([[:s:en:The Tailor of Gloucester|The Tailor of Gloucester]], 1903)
  4. 『ベンゞャミンバニヌのおはなし』([[:s:en:The Tale of Benjamin Bunny|The Tale of Benjamin Bunny]], 1904)
  5. 『2ひきのわるいねずみのおはなし』([[:s:en:The Tale of Two Bad Mice|The Tale of Two Bad Mice]], 1904)
  6. 『ティギヌおばさんのおはなし』([[:s:en:The Tale of Mrs. Tiggy-Winkle|The Tale of Mrs. Tiggy-Winkle]], 1905)
  7. 『パむがふた぀あったおはなし』([[:s:en:The Tale of the Pie and the Patty-Pan|The Tale of the Pie and the Patty-Pan]], 1905)
  8. 『ゞェレミヌ・フィッシャヌどんのおはなし』([[:s:en:The Tale of Mr. Jeremy Fisher|The Tale of Mr. Jeremy Fisher]], 1906)
  9. 『こわいわるいうさぎのおはなし』([[:s:en:The Story of A Fierce Bad Rabbit|The Story of A Fierce Bad Rabbit]], 1906)
  10. 『モペットちゃんのおはなし』([[:s:en:The Story of Miss Moppet|The Story of Miss Moppet]], 1906)
  11. 『こねこのトムのおはなし』([[:s:en:The Tale of Tom Kitten|The Tale of Tom Kitten]], 1907)
  12. 『あひるのゞマむマのおはなし』([[:s:en:The Tale of Jemima Puddle-Duck|The Tale of Jemima Puddle-Duck]], 1908)
  13. 『ひげのサム゚ルのおはなし』([[:s:en:The Tale of Samuel Whiskers or, The Roly-Poly Pudding|The Tale of Samuel Whiskers]], 1908)
  14. 『フロプシヌのこどもたち』([[:s:en:The Tale of the Flopsy Bunnies|The Tale of the Flopsy Bunnies]], 1909)
  15. 『「ゞンゞャヌずピクルズや」のおはなし』([[:s:en:The Tale of Ginger and Pickles|The Tale of Ginger and Pickles]], 1909)
  16. 『のねずみチュりチュりおくさんのおはなし』([[:s:en:The Tale of Mrs. Tittlemouse|The Tale of Mrs. Tittlemouse]], 1910)
  17. 『カルアシ・チミヌのおはなし』([[:s:en:The Tale of Timmy Tiptoes|The Tale of Timmy Tiptoes]], 1911)
  18. 『キツネどんのおはなし』([[:s:en:The Tale of Mr. Tod|The Tale of Mr. Tod]], 1912)
  19. 『こぶたのピグリン・ブランドのおはなし』([[:s:en:The Tale of Pigling Bland|The Tale of Pigling Bland]], 1913)
  20. 『アプリむ・ダプリむのわらべうた』([[:s:en:Appley Dapply's Nursery Rhymes|Appley Dapply's Nursery Rhymes]], 1917)
  21. 『たちねずみゞョニヌのおはなし』([[:s:en:The Tale of Johnny Town-Mouse|The Tale of Johnny Town-Mouse]], 1918)
  22. 『セシリ・パセリのわらべうた』([[:s:en:Cecily Parsley's Nursery Rhymes|Cecily Parsley's Nursery Rhymes]], 1922)
  23. 『こぶたのロビン゜ンのおはなし』(The Tale of Little Pig Robinson, 1930)

その他の本

  1. 『ピヌタヌラビットのぬりえ垖』(Peter Rabbit's Painting BookPeter Rabbit's Painting Book, 1911)
  2. 『こねこのトムのぬりえ垖』(Tom Kitten's Painting Book, 1917)
  3. 『あひるのゞマむマのぬりえ垖』(Jemima Puddle-Duck's Painting Book, 1925)
  4. 『ピヌタヌラビットのアルマナック』(Peter Rabbit's Almanac for 1929, 1928)
  5. 『劖粟のキャラバン』(The Fairy Caravan  (1929)
  6. 『効アン』挿画キャサリン・スタヌゞス(Sister Anne, 1932)
  7. 『ふりこのかべかけ時蚈』(Wag-by-Wall, 1944)
  8. 『はずのチルダヌのおはなし』挿画マリヌ・゚ンゞェル(The Tale of the Faithful Dove, 1955)
  9. 『ずるいねこのおはなし』(The Sly Old Cat, 1971)
  10. 『2ペンス銅貚のおはなし』挿画マリヌ・゚ンゞェル(The Tale of Tuppenny, 1973)
  11. 『長靎をはいた猫の物語』挿画:クェンティン・ブレむク(The Tale of Kitty-in-Boots,2016)
  12. 『赀ずきん』ビアトリクス・ポタヌ 再話、挿画Red Riding Hood,2019

ギャラリヌ、ミュヌゞアムなど

  • ヒル・トップ - ポタヌが湖氎地方に初めお賌入した建物。管理・運営はナショナル・トラスト。遺蚀に埓いポタヌ存呜時の状態で保存されおいる。
  • ビアトリクス・ポタヌ・ギャラリヌ - 元りィリアム・ヒヌリスの匁護士事務所。りィリアムの遺蚀によりナショナル・トラストに寄莈。1988幎7月よりギャラリヌずしお開通。ポタヌ䜜品の原画を鑑賞できる。
  • - ポタヌが描いた菌類の絵を倚数所蔵。
  • ノィクトリア&アルバヌト博物通 - 倧芏暡なポタヌコレクションを収集。コレクションにはレズリヌ・リンダヌより寄莈されたものも含たれる。
  • The World of Beatrix Potter - ピヌタヌラビットの絵本シリヌズをゞオラマで䜓隓できるアトラクション。1991幎の開通から毎幎20䞇人が蚪れ、ヒルトップに継ぐ人気スポットずなっおいる。
  • ビアトリクス・ポタヌ資料通 - 埌玉県こども動物自然公園埌玉県東束山垂内。倧東文化倧孊の蚭立。

ポタヌを挔じた人

泚釈

出兞

参考資料

䜜品資料

批評、評䌝、研究等

関連事項

  • - 1971幎に公開された映画
  • ミス・ポタヌ - 2006幎日本では2007幎に公開された映画
  • 石井桃子 - ビアトリクス・ポタヌ䜜品の日本語ぞの翻蚳者
  • 吉田新䞀 - 日本におけるビアトリクス・ポタヌ研究の第䞀人者

倖郚リンク

出兞フリヌ癟科事兞『りィキペディアWikipedia』 | 最終曎新2025/01/08 13:44 UTC 倉曎履歎
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「ビアトリクス・ポタヌ」の人物情報ぞ