内藤洋子 : ウィキペディア(Wikipedia)

内藤 洋子(ないとう ようこ、1950年5月28日 - )は、日本の女優。

茨城県神栖市生まれ、北鎌倉育ち。鎌倉市立御成小学校、北鎌倉女子学園卒業。伯母はダンサーの和田妙子。妹は元歌手・タレントの内藤圭子。娘は喜多嶋舞

来歴・人物

4人姉妹の3番目として誕生。父は勤務医だった。内藤家は藤原氏の庶流で、現在の静岡県浜松市の在で代々地主を務め、洋子の曽祖父の代からは医業を生業とした『女学生の友』 1966年8月号(小学館)188-193ページ。

小学校5年生の時に学校にエースコックのワンタンメンのCM撮影隊が訪れ、それがきっかけで雑誌『りぼん』のモデルを始めるようになりNHK『スタジオパークからこんにちは』2006年1月ゲスト時の本人コメント。、在学中の1965年、黒澤明監督の『赤ひげ』でデビュー。

1966年、『氷点』には辻口陽子役で出演。番組が高視聴率を続けたことで、遊覧コースとして観光バスが自宅前を通過する程の事態となった(しかも「あちらに見えますのは、ドラマ『氷点』で陽子を演じている内藤洋子さんのご自宅でございます」と紹介された)近代映画 近代映画社 1967年1月号 203頁。。主演の新珠三千代たっての共演であった。

歌手としても成功し、松山善三監督の『その人は昔』の挿入歌だった「白馬のルンナ」が50万枚の大ヒットとなった。

1つ年上の酒井和歌子とともに東宝からは「青春スター」と呼ばれて売り出された。「永遠の美少女」と評され、内藤のほうが早く売れた。

1970年、音楽家の喜多嶋修と結婚して芸能界を完全引退。

1974年、長女・舞が2歳の頃に家族共々アメリカ・カリフォルニア州に移住した(子どもは舞のほか、渡米後に出生した長男と次女がいる)。その後は本名の喜多嶋 洋子(きたじま ようこ)名義で絵本などを発表しているほか、時折テレビにも出演している。

代表作

映画

  • 赤ひげ(1965年)
  • 大菩薩峠(1966年)
  • あこがれ(1966年)
  • お嫁においで(1966年)
  • 伊豆の踊子(1967年)
  • 続・名もなく貧しく美しく 父と子 (1967年)
  • その人は昔(1967年)
  • 育ちざかり(1967年) - 大内陽子
  • 君に幸福を センチメンタル・ボーイ (1967年)
  • 年ごろ(1968年)
  • 兄貴の恋人(1968年)
  • 若者よ挑戦せよ(1968年)
  • 社長えんま帖 (1969年)
  • 続・社長えんま帖 (1969年)
  • 華麗なる闘い (1969年)
  • 地獄変(1969年)
  • 娘ざかり(1969年)
  • 社長学ABC(1970年)
  • クレージーの殴り込み清水港 (1970年)
  • 続・社長学ABC (1970年)
  • バツグン女子高校生 16才は感じちゃう(1970年)
  • 日本一のワルノリ男 (1970年)

テレビ

  • 氷点(1966年)
  • あじさいの歌(1966年)
  • えり子とともに(1969年)
  • めぐり逢い(1970年)

舞台

  • 雪国(1970年1-2月、5-6月)芸術座にて若尾文子との共演。

CM

  • 神戸銀行(現:三井住友銀行)

著作

音楽

シングル

発売日規格規格品番タイトル作詞作曲編曲
日本コロムビア
1967年EPSAS-913A心こめて愛する人へ松山善三船村徹
Bじっとしてると恋しい
1967年EPSAS-939A白馬のルンナ松山善三船村徹
B雨の日には
東宝レコード
1971年8月EPKS-1002AMY LOVE…THE SEA水嶋哲喜多嶋修
B海と空と私
1971年9月EPKS-1003Aお伽噺水嶋哲喜多嶋修
Bやさしい感じ
日本コロムビア
1983年EPAK-804A恋のホロッポ松山善三船村徹
B今度の日曜日

アルバム

発売日規格規格品番タイトル
東宝レコード
1971年LPKR-1003洋子Side:A# My Love The Sea# 雲を追いかけて# やさしい感じ# Lullaby Of Breeze# 海と空とわたし# 靄 (もや)Side:B# あの人に伝えて# マドレーヌ# あなたとわたし# 鍵# お伽噺# 海をなくした女の子

注釈

出典

外部リンク

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