ジェームズ・ブリッジス : ウィキペディア(Wikipedia)

初代シャンドス公爵ジェームズ・ブリッジス(, 、1674年1月6日 – 1744年8月9日)は、イギリスの貴族。とエリザベス・バーナードの長男として生まれ、1714年10月16日に父が死去すると第9代シャンドス男爵になり、その3日後にはカーナーヴォン伯爵に叙され、1719年にシャンドス公爵に叙された。また、1698年から1714年までの庶民院議員を務めた。

生涯

とエリザベス・バーナードの長男として、1674年1月6日に生まれた。1686年にウェストミンスター・スクールで教育を受け、1690年6月21日にオックスフォード大学に入学した。その後、1692年にヴォルフェンビュッテル・アカデミーに転じ、1694年までそこで学んだ後、1710年にインナー・テンプル入りを果たした。1694年11月30日、王立協会フェローに選出された。

でから出馬して庶民院議員に当選、議会でトーリー党の一員としてふるまった。スペイン継承戦争中、()を務め(任期:1705年5月10日 – 1713年9月4日)、財を成した。1714年10月16日に父が死去すると、シャンドス男爵の爵位を継承、その3日後にウィルトン子爵カーナーヴォン伯爵に叙された。

1711年に南海会社への投資を募り、1718年から1736年まで総裁を務めるなど積極的に投資したが、1719年にミシシッピ会社と南海泡沫事件で大きな損失を出した。同1719年4月29日、カーナーヴォン侯爵シャンドス公爵に叙された。

ブリッジスはミドルセックスのエッジウェアで大金をはたいてという邸宅を建てたColvin, p. 403.(ジョン・ソーンを引用)。建設にあたって、ブリッジスはで活躍した建築家を招聘、1713年にに依頼、翌1714年にタルマンを解雇して代わりにを雇ったが、1715年にはその代わりにを雇った(ハワード・コルヴィン()は南側と東側の立面とチャペルがギブスによる設計としている)。ブリッジスは1719年にギブスを解雇、最終的にはジョン・プライス()プライスはキャノンズの立面図を出版したが、そこで自身を設計者とした。出典:"Built Anno 1720" (Colvin, sub. Price).とエドワード・シェパード(、1723年から1725年まで)の監督に完成させた。キャノンズは1747年に取り壊され、その立地は現代ではとなっている。

公職では1721年から1744年までとを務め、1721年11月21日に枢密顧問官に任命され、1724年から1744年までを務めた(1721年にはを創設した)。の創設にも関わり、1739年に創設を許可する勅許状が発行されたときは初代総裁の1人を務めた勅許状で指名された総督の一覧はNichols and Wray, pp. 345–353にある。。

親族のジョージ・ロドニーが海軍に入った頃にそのパトロンになったTrew, pp. 13–14.。

1744年8月9日、キャノンズで死去、23日にウィットチャーチのChandos Mausoleum で埋葬された。爵位は次男ヘンリーが継承したが、そのときにはわずか1万4千ポンドしか継承できず、ヘンリーはキャノンズを取り壊した。

ヘンデルとの関わり

シャンドスは1717年から1718年にかけてゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルをキャノンズに招聘、ヘンデルはそこでオラトリオの『エステル』とパストラルの『エイシスとガラテア』を完成した。また、シャンドスのために『』を作曲した。シャンドス・アンセムはで初演され、そのときに使われたオルガンは現存している。

1719年、に出資したDeutsch, O.E. (1955), Handel. A documentary biography, p. 91. Reprint 1974.。

ポープとの関わり

アレキサンダー・ポープは『』の1作目である『バーリントンへの書簡』(1731年)でシャンドスを風刺したとされ、ジョナサン・スウィフトはシャンドスを「全ての宮廷に従う」とこき下ろしたが、ポープの書簡はシャンドスを称えているとも読めるため、ウィリアム・ホガースは風刺絵でポープをシャンドスに卑屈であると風刺した。ポープはその後シャンドスを風刺しなかったと否認した。ポープの伝記を著したメイナード・マック()によると、シャンドスはポープに手紙を書き、彼を信じると述べたという。

家族

1695年2月27日、メアリー・レイク(1668年 – 1712年、トマス・レイクの娘)と結婚、下記の子女をもうけた。

  • (1703年1月15日 – 1727年4月8日) - 庶民院議員、早世
  • ヘンリー(1708年2月1日 – 1771年11月28日) - 第2代シャンドス公爵

1713年8月4日、(1670年 – 1735年、フランシス・ウィラビイの娘)と再婚したが、2人の間に子供はいなかった。

1736年4月18日、リディア・キャサリン・ヴァン・ハッテン(、1750年11月18日没、ジョン・ヴァン・ハッテンの娘)と再婚したが、2人の間に子供はいなかった。シャンドスの死後、リディアはに住んだ。

参考文献

  • , 1995 (3rd ed.). A Biographical Dictionary of British Architects, 1600–1840 (Yale University Press)
  • R. H. Nichols and F.A. Wray, The History of the Foundling Hospital (London: Oxford University Press, 1935)
  • Johnson, Joan. Excellent Cassandra: The Life and Times of the Duchess of Chandos. Alan Sutton Publishing Limited, Gloucester, England 1981.
  • Trew, Peter. Rodney & the Breaking of the Line. Pen & Sword, 2006.

関連図書

  • Joan Johnson, 1989. Princely Chandos: James Brydges 1674–1744.
  • and M. I. Collins Baker, 1949. The Life and Circumstances of James Brydges,: First Duke of Chandos, Patron of the Liberal Arts (Oxford University: Clarendon Press). Still the standard work on Chandos and Cannons
  • (Henry St. John, Lord Bolingbroke) 1935. Letters of Henry St. John to James Brydges (Harvard University Press)
  • John Robert Robinson, The princely Chandos, a memoir of James Brydges, paymaster-general to the forces abroad during the most brilliant part of the Duke of Marlborough's military ... afterwards the first Duke of Chandos

外部リンク

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