ジェームズ・ジェマーソン : ウィキペディア(Wikipedia)

ジェームス・ジェマーソンJames Jamerson、1936年1月29日 - 1983年8月2日)は、アメリカのベーシスト。アメリカ合衆国サウスカロライナ州チャールストン出身。

1960年代から70年代初頭における、モータウン黄金期のベーシストである。現代のポピュラー音楽において最も影響力のあるベーシストとして知られており、没後17年にあたる2000年にはロックの殿堂入りを果たしている。

2020年、ローリング・ストーン誌が選んだ「史上最高のベーシスト50選」で第1位

来歴

サウスカロライナ州のエディストアイランドに生まれる。母親と共に移住したデトロイトでベリー・ゴーディと出会い、1959年にはベーシストとしてモータウンを中心に活動していた。同時期にはジョン・リー・フッカーや、やジョーン・バエズらのサポートも務めており、幅の広さを示している。

モータウン黄金期の代表曲として、シュープリームスの「恋はあせらず」http://www.bassland.net/jamersonhits.htm、テンプテーションズの「マイ・ガール」「ザ・ウェイ・ユー・ドゥ・ザ・シングズ・ユー・ドゥ」、フォー・トップスの「バーナデット」、「アイ・キャント・ヘルプ・マイセルフ」、マーサ&ザ・ヴァンデラスの「ダンシング・イン・ザ・ストリート」、スモーキー・ロビンソン&ミラクルズの「ゴーイング・トゥ・ア・ゴーゴー」など、多数の曲でベースを演奏している。しかし、ジェマーソンの名がモータウンのレコードに初めてクレジットされたのは1971年のことだった。

モータウンは1972年にロサンゼルスへと移転。ジェマーソンもロスへ移住するが、1973年にはモータウンから離脱している。

離脱後におけるジェマーソンの仕事として、シングルではグラディス・ナイトの「ニーザー・ワン・オブ・アス」(1973年)、の「ブギー・フィーバー」(1976年)、マリリン・マックー&の「」(1976年-1977年)、アルバムではロバート・パーマーの「プレッシャー・ドロップ」(1975年)、の「エレメンタリー」(1976年)、の「ウイ・ゴー・ア・ロング・ウェイ・バック」(1982年)などがある。

酒豪だったが大量飲酒がたたり、1983年に肝臓病のため死去。息子のジェームス・ジェマーソン・ジュニアもベーシストだったが、2016年に死去している。

ジェマーソンは多くのベーシストに影響を与えている。ジェマーソンに影響を受けた奏者としては、ファンク・R&Bでは、バーナード・エドワーズ(シック)、ブーツィー・コリンズ、ラリー・グラハム、フレッド・トーマス(JBズ)、ロバート・クール・ベル(クール・アンド・ザ・ギャング)、マーク・アダムス(スレイブ)、スティーブ・ワシントン()など。ロックではポール・マッカートニー、ゲイリー・セイン(ユーライア・ヒープ)、メル・サッチャー(グランド・ファンク・レイルロード)、アンディ・フレイザー(フリー)、ロジャー・グローヴァーなど。ジャズ・クロスオーバーでは、ジャコ・パストリアスマーカス・ミラースタンリー・クラークチャック・レイニーなどが影響を受けている。

使用機材と演奏法

ジェマーソンの使用していたダブルベースはドイツ製のアップライト・ベースである。10代だった頃にこれを手に入れ、モータウン時代にもの「My Guy」 や、マーサ&ザ・ヴァンデラスの「Heat Wave」などのヒット曲で使用する。その後もアップライト・ベースを使用していたが、1960年に友人のホレス“チリ”ルースからエレクトリックベースを使うよう説得され、ホレスが所有していた1957年製のフェンダー・プレシジョンベースを譲り受ける。このベースはボディが黒に塗り直されており、「Black Beauty」と呼ばれていた。

ジェマーソンが自身のキャリアのほとんどを通して使い続けたのが、1962年製のサンバーストフィニッシュのプレシジョンベースである。「Black Beauty」は盗難に遭ってしまったため、これが彼にとって2本目のベースとなる。ピックアップ・フェンスとブリッジガードは、購入時と同じ状態で取り付けられている。演奏時のヴォリュームとトーンのノブは全開であった。このベースもジェマーソンの死の数日前に盗まれてしまい、現在も見つかっていない。彼はこのベースに「Funk Machine」と名付け、ネックのジョイント部分に「Funk」と刻み込んでいた。

弦はLa Bellaのヘヴィ・ゲージ(.052-.110)を使用していた。ジェマーソンはフラット・ワウンドの弦を張り、ほとんど変えることはなかった。指板からの弦高は非常に高く、アップライト・ベースの感覚に近づけていたと思われる。しかしあまりに弦高が高いがゆえに、このベースでの演奏をした者は誰しも「とても演奏できるセッティングではない」と言ったほどであった。このセッティングにより演奏が困難になる一方で、ジェマーソン本人はこれが良質のトーンを生み出すと考えていた。ブリッジの下にはスポンジを押し込み、サステインを減らす工夫をしていた。70年代に入り、プロデューサーより派手な音を得るためにラウンド・ワウンドの弦に変えるように言われたが、ジェマーソンはこれを拒否した。

演奏法がストイックな印象もあるジェマーソンだが、ベースとアンプをワイヤレスで接続する装置や、ハグストロームの8弦ベースを使うなど、新奇性を求めた逸話もいくつかある。また、生前にフェンダーの5弦ベースを所有しており、本人の死後、自宅に残っていたベースは前述のアップライトとこの5弦ベースであった。

クラブで演奏を行うときのアンプはアンペグのB-15を使用していた。広い会場においては青色人工皮革張りの Kustom 社製15インチツイン・スピーカーアンプを使用していた。いずれのアンプにおいても、Bassのツマミは全開にし、Trebleのツマミは半分ほどしか上げなかった。レコーディング時には、ベースを直接ミキシング・コンソールのヘッド・アンプ部分に接続してレコーディングを行っていた。

ジェマーソンがアップライト・ベースからエレクトリックベースへと転向する上で引き継がれたのが、自身のピッキング法である。ジェマーソンは右手の人差し指のみでピッキングを行い、小指はピックアップ・フェンスの上におき、親指で残りの弦をミュートした。このことから彼の右手人差し指には「ザ・フック」という愛称がつけられたほどである。1本指で複雑なフレーズを演奏できたのは、開放弦を多用していたことに加え、1回のストロークで複数の弦をピッキングするレイキングの技術に長けていたからだと考えられる。そのため、ほとんどのフレーズは5フレット以下のポジションで演奏したといわれる。ただし、曲によっては人差し指と中指のツーフィンガーで演奏することもあった。ワンフィンガー奏法を得意とするベーシストのチャック・レイニーは、ジェマーソンからツーフィンガー奏法を強く薦められたと述懐している。

関連項目

  • ファンク

出典

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