ラリー・ホームズ : ウィキペディア(Wikipedia)
ラリー・ホームズ(Larry Holmes、1949年11月3日 - )は、アメリカ合衆国の元プロボクサー。ジョージア州カサバート出身。元WBC・IBF世界ヘビー級王者で初代IBF世界ヘビー級王者。ニックネームは「イーストンの暗殺者」(The Easton Assassin)。
概要
モハメド・アリの引退後、マイク・タイソン台頭までの、1970年代末期から1980年代前半、いわゆる「ポスト・アリ」時代に最盛期を迎え、ヘビー級で長期政権を築き17度のWBC王座防衛、3度のIBF王座防衛に成功した。ホームズの左ジャブはボクシング史上最高と評価されることが多く、実力は折り紙付きで防衛戦でも多くの好ファイトを見せたが、「アリのコピー」呼ばわりされたこと、加えて強力なライバルの不在から人気は今一つであった。大きな注目を集めたのは引退から再起して衰えが顕著だったアリとの一戦、白人ホープの戦、ロッキー・マルシアノと並ぶ49戦全勝がかかったマイケル・スピンクス戦くらいで、アリやクーニーには勝利するも憎まれ役と見られ、スピンクスには僅差で敗れるなど、運にも恵まれなかった。そのためホームズは「史上最も過小評価されているヘビー級王者」と呼ばれることが多いが、フロイド・メイウェザー・ジュニアは「史上最高のヘビー級ボクサー」としてホームズを挙げている“Beat Everybody in His Era” – Floyd Mayweather Picks Larry Holmes Over Mike Tyson as Best Heavyweight Despite Defeat Essentially Sports 2022年5月15日。インタビューをしたアメリカのフィルムコレクターのジャーナリストによれば、ホームズは非常にたくさんの自分のノーテレビの映像を撮影したフィルムを持っているが、過去の自分の試合に無頓着で映像化する気は全然ないとのこと。
下積み時代モハメド・アリのスパーリングパートナーを務めたことでボクシングの技術だけでなくマスコミ対応や多くのことを学んだと語っている。また学習能力が高いと自己分析しており、トレーナーはメンターのような師匠と弟子の関係ではなくアドバイザーに過ぎないという考え方を示している。従ってマイク・タイソンと養父でもあったカス・ダマトとの関係性には選手の精神的な脆弱性がありうるとの見方を持っていた。また「ファイターを偉大たらしめるものはどんな相手を倒したか」という持論を持つ。
来歴
貧しい家庭の12兄弟の4男として生まれる。父親は庭師として働いていたが、それだけでは大家族を養いきれず、生活保護を受けていた。家計が苦しかったことでホームズは小学校を7年で中退して、洗車場で働いた。
19歳の時にボクシングを始める。
1972年、デュアン・ボビックに敗れ、ミュンヘンオリンピック代表の座を逸す。
アマチュアの戦績19勝3敗でプロへ転向。
1973年3月21日、プロデビュー。その後、モハメド・アリ、ジョー・フレージャー、、アーニー・シェーバースのスパーリング・パートナーを務めた。
1978年3月25日、元スパーリング・パートナーで「ヘビー級史上最高のハードパンチャー」と称されるアーニー・シェーバースを12回3-0の判定で破り、WBC世界ヘビー級王座の挑戦権を獲得した。
1978年6月9日、WBC世界ヘビー級王者ケン・ノートンに挑戦。激しい打ち合いを繰り広げ、14回までの採点でジャッジ3者全員が同点を付けるほどの接戦となったが、最終回にホームズが猛攻し15回2-1の僅差で判定勝ちを収め、王座獲得に成功した。
最初の2度の王座防衛戦で、ホームズはとを容易くKOした。1979年6月22日、後のWBA世界ヘビー級王者マイク・ウィーバーと対戦。ウィーバーは当時19勝8敗の戦績であったためホームズの楽勝と思われていたが、10回までウィーバーは善戦。しかし、ホームズは11回終盤に右アッパーでダウンを奪い、続く12回に猛攻を開始し、連打でウィーバーをロープまで後退させ、見かねたレフェリーが試合をストップしTKO勝ちを収め、3度目の王座防衛に成功したWeaver hurts Holmes before bowing in 12 The Spokesman-Review 1979年6月23日。
1979年9月28日、ケン・ノートンを初回でKOし王座挑戦権を獲得したアーニー・シェーバースと再戦。最初の6回まではホームズが優勢だったが、7回にシェーバーズの強烈な右オーバーハンドを貰いダウンを喫する。しかしホームズは立て直し、11回にシェーバーズを攻め続け、レフェリーが試合をストップしTKO勝ちを収め、4度目の王座防衛に成功した。続く3度の防衛戦で、ホームズはロレンゾ・ザノン、、をストップで破ったHolmes Wins Wild Brawl The Spokesman-Review 1979年9月29日。
1980年10月2日、ラスベガスのシーザーズ・パレスでかつてスパーリング・パートナーだった元WBA・WBC世界ヘビー級統一王者モハメド・アリと対戦。この頃、アリはパーキンソン病の兆候である声の吃音や手の震えが見られ、ネバダ州アスレチック・コミッション(NSAC)はアリの健康状態を懸念してラスベガスで精密検査を受けるよう命じた。アリはメイヨー・クリニックで検査を受け、クリニックはアリが試合を行うことに問題はないと発表し、1980年7月31日、NSACは正式にアリの復帰戦を許可した。しかし、試合は減量のために服用した甲状腺薬の影響で衰弱していたアリをホームズが一方的に圧倒し、14回終了時にアリのトレーナーのアンジェロ・ダンディーがストップを要請したため、TKO勝ちで8度目の王座防衛に成功した。ホームズのトレーナーであるリッチー・ジャケッティは「ひどい…私の中で最悪のスポーツイベントだった」と語り、リングサイドで観戦した俳優のシルヴェスター・スタローンは「まだ生きている男の解剖を見ているようだった」と語っている。アリの元リングドクターのファーディ・パチェコは「あの戦いに関わった人たちは全員逮捕されるべきだった。あの試合は忌まわしい物であり、犯罪そのものだった」と怒りを露わにした。ホームズは控室に戻って号泣し、ジャケッティは後に「ラリーはアリと戦うことを望んでいなかった。試合が惨劇になることを分かっていた」と振り返っている。一般的に、この試合がアリのパーキンソン病の一因となったと言われており、衰えの顕著だったアリを一方的に打ちのめす試合内容から、ホームズはこの試合以降憎まれ役として見られるようになったThe Fight That Should Never Have Been Allowed: Holmes – Ali Boxing News 24/7 2021年10月2日。
1981年4月11日、後のWBC世界ヘビー級王者トレバー・バービックを判定で破り9度目の王座防衛に成功したホームズは、その2か月後に元WBA・WBC世界ヘビー級統一王者レオン・スピンクスを3回にTKOし10度目の王座防衛に成功した。1981年11月6日、と対戦し、7回にダウンを奪われるも、11回TKO勝ちを収め11度目の王座防衛に成功した。
1982年6月11日、25戦無敗で直近の試合でケン・ノートンを54秒でTKOしたと対戦。試合前、プロモーターのドン・キングはクーニーを「グレート・ホワイト・ホープ」(白人の希望の星、1910年代初頭に作家のジャック・ロンドンが、当時の世界ヘビー級王者ジャック・ジョンソンに挑戦する元世界ヘビー級王者ジェームス・J・ジェフリーズへ向けて作った言葉)として大々的に宣伝した。この試合のホームズとクーニーのファイトマネーはそれぞれ1000万ドルであり、ホームズは「クーニーが白人でなければ王者である俺と同額のファイトマネーを受け取ることはできなかっただろう」と語っている。また、試合前にスポーツ月刊誌『スポーツ・イラストレイテッド』は表紙にホームズではなくクーニーを起用した。更に試合前の選手コールの際には、王者であるホームズが先に紹介されクーニーが後に紹介される(通常は挑戦者が先で、王者が後に紹介される)など、ホームズは不遇な扱いを受け続けた。試合はシーザーズ・パレスの駐車場に特設で建てられた3万2000席のスタジアムで行われ、テレビでの視聴者は数百万人を記録した。ホームズは初回から優勢に試合を進め、2回にはクーニーからダウンを奪った。その後、13回にホームズは連打で再びダウンを奪い、クーニーは立ち上がったがトレーナーのビクトル・ヴァッレがストップを要請したためTKO勝ちを収め12度目の王座防衛に成功したLarry Holmes vs. Gerry Cooney TheSweetScience 2009年2月21日。
1983年11月25日、WBCはランキング1位のグレグ・ペイジと対戦するよう指令を出すが、ファイトマネーの額に満足でなかったホームズはジョー・フレージャーの息子と対戦し、初回TKO勝ちを収め、翌月に17度にわたって防衛したWBC王座を返上した。
1983年12月11日、USBA国際部(後のIBF)から初代世界ヘビー級王者に認定されたボクシング・マガジン(ベースボール・マガジン社刊)、1983年8月号、92頁。その後、ジェームス・スミス、、カール・ウィリアムスを破り3度の防衛に成功。
1985年9月22日、1階級下のWBA・WBC・IBF世界ライトヘビー級統一王者マイケル・スピンクスと対戦。ホームズはこの試合に勝利すれば、元世界ヘビー級王者ロッキー・マルシアノの保持する49戦全勝の大記録に並ぶこととなり、試合前はホームズの有利と目されていたが、15回0-3の判定負け。王座から陥落し、ホームズの無敗連勝記録は48でストップした。この試合は、リングマガジン アップセット・オブ・ザ・イヤーに選出された。
1986年4月19日、IBF世界ヘビー級王者マイケル・スピンクスにダイレクトリマッチで挑戦するが、15回1-2の僅差判定負けを喫し王座奪還に失敗した。試合後、ホームズは判定への不満を語った。
1986年11月6日、37歳の時に1度目の引退を発表。
1988年1月22日、引退を撤回してWBA・WBC・IBF世界ヘビー級王者マイク・タイソンに挑戦するが、4回に右フックで失神KO負け。王座獲得に失敗し、試合後に2度目の引退を発表した。
1991年4月7日、引退を撤回して2度目の復帰。5連勝を飾る。
1992年2月7日、18戦無敗の元WBO世界ヘビー級王者レイ・マーサーと対戦し、番狂わせとなる12回3-0の判定勝ちを収めイベンダー・ホリフィールドへの挑戦権を獲得した。ホームズは後に、網膜剥離を患っていた状態でマーサーと戦ったと語っているLarry Holmes Says He Fought Mercer With a Detached Retina Los Angeles Times 1992年12月30日。
1992年6月19日、WBA・WBC・IBF世界ヘビー級王者イベンダー・ホリフィールドに挑戦するが、12回0-3の判定負けを喫し王座獲得に失敗した。この試合でコンタクトレンズ(ソフト)を着用していたことが試合終了直後に発覚Holyfield beats Holmes by unanimous decision AP通信 1992年6月20日。
1995年4月8日、WBC世界ヘビー級王者オリバー・マッコールに挑戦するが、僅差で12回0-3の判定負けを喫し王座獲得に失敗したMcCall outlasts Holmes for win 1995年4月7日。
1999年1月23日、ジョージ・フォアマンとの対戦が決定するが、プロモーターが期限までに資金を集めきれなかったため、試合数週間前に中止となった。
2002年7月27日、バタービーンと対戦し、10回3-0の判定勝ち。これが最後の試合となった。
引退後
引退後、ホームズはボクシングで稼いだお金を投資し、故郷のイーストンに定住した。また、様々な事業を通じて200人以上の従業員を雇用すると、2008年にはレストラン2軒とナイトクラブ、トレーニング施設、オフィスビル、スナックバー、スロットマシン場を所有するなど成功を収めた。
2013年3月、高血糖で2度入院する。
2014年、自宅を含む、イーストンのレストラン2軒とナイトクラブ、トレーニング施設、オフィスビル、スナックバー、スロットマシン場の全ての不動産を起業家のジェラルド・ゴーマンに売却した。
私生活
1979年、ホームズはダイアン・ロビンソンと結婚し、2人の子供を儲けた。また、ホームズには以前交際していた2人の女性との間に3人の娘もいる。2019年現在、ホームズはペンシルベニア州イーストン近郊のパーマータウンシップに住んでいるLarry Holmes' Palmer Township estate just one holding of his for sale lvl 2013年5月29日。弟のマーク・ホームズは1980年から1987年までミドル級で活動したプロボクサーであった。
戦績
- プロボクシング: 75戦 69勝 (44KO) 6敗
関連項目
- 男子ボクサー一覧
- 世界ボクシング評議会(WBC)世界王者一覧
- 国際ボクシング連盟(IBF)世界王者一覧
- 国際ボクシング名誉の殿堂博物館
- 世界ボクシング殿堂
- リングマガジン ファイター・オブ・ザ・イヤー - 1982年選出
外部リンク
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2024/03/07 08:55 UTC (変更履歴)
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