藤田嗣治 : ウィキペディア(Wikipedia)

藤田 嗣治(ふじた つぐはる、1886年11月27日 - 1968年1月29日)は、日本生まれのフランスの画家・彫刻家。フランスに帰化後の洗礼名はレオナール・ツグハル・フジタ(、レオナール・フジタとも)。

第一次世界大戦前よりフランスのパリで活動、猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。エコール・ド・パリの代表的な画家である。

生涯

家柄

1886年(明治19年)、東京府牛込区(現在の東京都新宿区)新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれた。父・藤田嗣章(つぐあきら)(1854 - 1941年)は、大学東校(東京大学医学部の前身)で医学を学んだ後、軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鷗外の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物。祖父の藤田嗣服は元田中藩士『人事興信録』8版。曽祖母は江戸時代の文人画家春木南湖の血筋である「藤田嗣隆さん 『レオナルド藤田嗣治覚書』 身内だからこそ書ける姿」2022年6月8日閲覧。。兄の嗣雄(1885 - 1967)は朝鮮総督府や陸軍省に在職した法制学者・上智大学教授1885年-1967年。著書に『天皇の起源 法社会学的考察』(新版・書肆心水、2019年)などがある。で、陸軍大将児玉源太郎の四女と結婚。また、義兄(姉たちの夫)に、父の元部下でのちに陸軍軍医総監となった中村緑野(中原中也の名づけ親)、芦原甫の養子・信之(医師)がいる。小山内薫は嗣治の従兄、舞踊評論家の蘆原英了と建築家の蘆原義信は甥にあたる。又、遠い親戚に千葉雄大がいる。

パリに至るまで

藤田は子供の頃から絵を描き始める。父の転勤に伴い7歳から11歳まで熊本市で過ごした。小学校は熊本県師範学校附属小学校(現在の熊本大教育学部附属小)『藤田嗣治の肖像』西日本新聞. 2009年3月3日朝刊に通った。1900年、高等師範附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)を、1905年に高等師範附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。その頃には、画家としてフランスへ留学したいと希望するようになる。

1905年(明治38年)、森鷗外の薦めもあって東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)西洋画科に入学する。しかし当時の日本画壇はフランス留学から帰国した黒田清輝らのグループにより性急な改革の真っ最中で、いわゆる印象派や光にあふれた写実主義がもてはやされており、藤田の作風は不評で成績は中の下であった。表面的な技法ばかりの授業に失望した藤田は、それ以外の部分で精力的に活動し、観劇や旅行、同級生らと授業を抜け出しては吉原遊廓に通いつめるなどしていた。1910年に同校を卒業。卒業に際して製作した『自画像』(東京芸術大学所蔵)は、黒田が忌み嫌った黒を多用しており、挑発的な表情が描かれているこの自画像については、2007年8月19日放送のETV特集「日本人と自画像~東京芸術大学 4800枚の証言~」で紹介された。。なお精力的に展覧会などに出品したが、当時黒田清輝らの勢力が支配的であった文展などでは全て落選している。

1911年(明治44年)、長野県の木曽へ旅行し、『木曽の馬市』や『木曽山』の作品を描き、また薮原の極楽寺(木祖村)の天井画を描いた(現存)極楽寺木祖村観光協会公式ホームページ(2019年2月19日閲覧)。。この頃女学校の美術教師であった鴇田登美子(鴇田とみ)と出会って、2年後の1912年に結婚。鴇田とともに榛名湖(群馬県)などを訪れた際に描いたと思われる油彩画『榛名湖』が2017年、鴇田の生家(千葉県市原市)の解体中の蔵から発見されている藤田嗣治の風景画 未発表作見つかる 渡仏前に描いた「榛名湖」『朝日新聞』夕刊2019年2月18日(10面)2019年2月19日閲覧。。

新宿百人町にアトリエを構えるが、フランス行きを決意した藤田は妻を残して単身パリへ渡航。最初の結婚は1年余りで破綻する。

パリでの出会い

1913年(大正2年)に渡仏し、パリのモンパルナスに居を構えた。当時のモンパルナス界隈は町外れの新興地に過ぎず、家賃の安さで芸術家、特に画家が多く暮らしていた。藤田は、隣の部屋に住んでいて後に「親友」と呼んだアメデオ・モディリアーニやシャイム・スーティンらと知り合う。また彼らを通じて、後のエコール・ド・パリのジュール・パスキン、パブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、モイズ・キスリング、ジャン・コクトーらと交友を結びだす。フランスでは「ツグジ」と呼ばれた(嗣治の読みをフランス人にも発音しやすいように変えたもの)。

また、同じようにパリに来ていた川島理一郎や、島崎藤村、薩摩治郎八、金子光晴、岡田謙三ユーゲニズム(幽玄主義)をアメリカで広めた画家ら日本人とも出会っている。このうち、フランス社交界で「東洋の貴公子」ともてはやされた、大富豪の薩摩治郎八との交流は藤田の経済的支えともなった。

パリでは既にキュビズムやシュールレアリズム、素朴派など、新しい20世紀の絵画が登場しており、日本で「黒田清輝流の印象派の絵こそが洋画」だと教えられてきた藤田は大きな衝撃を受ける。この絵画の自由さ、奔放さに魅せられ、今までの作風を全て放棄することを決意した。「家に帰って先ず黒田清輝先生ご指定の絵の具箱を叩き付けました」と藤田は自身の著書で語っている。

第一次世界大戦

1914年、パリでの生活を始めてわずか1年後に第一次世界大戦が勃発。日本からの送金が途絶え、生活は貧窮した。戦時下のパリでは絵が売れず、食事にも困り、寒さのあまりに描いた絵を燃やして暖を取ったこともあった。そんな生活が2年ほど続き、フランス領内に侵攻していたドイツ軍が守勢に転じて大戦が終局に向かい出した1917年3月、カフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエと2度目の結婚をした。この頃に初めて藤田の絵が売れた。最初の収入は、わずか7フランであったが、その後少しずつ絵は売れ始め、3か月後には初めての個展を開くまでになった。

シェロン画廊で開催されたこの最初の個展では、著名な美術評論家であったアンドレ・サルモン ([[:en:André Salmon]]) が序文を書き、良い評価を受けて、すぐに絵も高値で売れるようになった。翌1918年に第一次世界大戦が終結。戦後の好景気に合わせて多くのパトロンがパリに集まって来ており、この状況が藤田に追い風となった。

パリの寵児

面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるような画風はこの頃に確立。以後、サロンに出す度に黒山の人だかりができた。サロン・ドートンヌの審査員にも推挙され、急速に藤田の名声は高まった。

当時のモンパルナスにおいて経済的な面でも成功を収めた数少ない画家であり、画家仲間では珍しかった熱い湯の出るバスタブを据え付けた。多くのモデルがこの部屋にやって来てはささやかな贅沢を楽しんだが、その中にはマン・レイの愛人であったキキも含まれている。彼女は藤田のためにヌードとなったが、その中でも『寝室の裸婦キキ (Nu couché à la toile de Jouy)』と題される作品は、1922年のサロン・ドートンヌでセンセーションを巻き起こし、8000フラン以上で買いとられた。

このころ、藤田はフランス語の綴り「Foujita」から「FouFou(フランス語でお調子者の意)」と呼ばれ、フランスでは知らぬ者はいないほどの人気を得ていた。1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を贈られた。

南アメリカへ

2人目の妻、フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚し、藤田自身が「お雪」と名づけたフランス人女性リュシー・バドゥと結婚。リュシーは教養のある美しい女性だったが酒癖が悪く、夫公認で詩人のロベール・デスノスと愛人関係にあり「異邦人の視線 -金子光晴とジャン・コクトー」西川正也、その後離婚する。

1931年には、新しい愛人マドレーヌ (Madeleine Lequeux 1910 - 1936)後に妻となり、日本で急死を連れて個展開催のため、南北アメリカへに向かった。ヨーロッパと文化、歴史的に地続きで、藤田の名声も高かった南アメリカで初めて開かれた個展は大きな賞賛で迎えられ、

マドレーヌは戸塚の家で脳溢血で急死した。

日本への帰国

その後、1933年に南アメリカから日本に帰国、1935年に25歳年下の君代(1911年 - 2009年)と出会い、一目惚れして翌年5度目の結婚をして、終生連れ添った。1936年、旧友ジャン・コクトーが世界一周の旅で日本に滞在した際は、藤田と再会し詩人の堀口大學らと共に相撲観戦や夜の歓楽街の散策を供にした(その時、藤田の案内で学生絵画グループ「表現」が銀座の紀伊国屋画廊で開催していた展覧会を訪れ、ジャン・コクトーが大塚耕二の作品を称賛した)。

1938年からは1年間、小磯良平らとともに従軍画家として日中戦争中の中華民国に渡り、1939年に日本に帰国した。

その後再びパリへ戻ったが、同年9月には第二次世界大戦が勃発。翌年5月23日、ドイツにパリが占領される直前にパリを離れ、同年7月7日、再度日本に帰国した戦乱のパリから帰国『東京日日新聞』(昭和15年7月9日)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p684 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年。その後、太平洋戦争に突入した日本において陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画(下参照)の製作を手掛けた。南方などの戦地を訪問しつつ『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』(題材はノモンハン事件)や『アッツ島玉砕』(アッツ島の戦い)などの作品を書いた。

このような振る舞いは、終戦後の占領期では「戦争協力者」と批判されることもあった。また、陸軍美術協会理事長という立場であったことから、一時はGHQからも聴取を受けるべく身を追われることとなり、千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていたこともあった遠山彰『日本ダービー物語』(丸善ライブラリー、1993)、p11。また1945年11月頃からGHQの命令に近い形で、戦争画の収集作業に協力させられている秘史こぼれ話『朝日新聞』1976年(昭和51年)5月31日、13版、3面。こうしたGHQに占領された戦後の日本国内の情勢に嫌気が差した藤田は、1949年に日本を去りフランスに向うこととなる。

フランスに帰化

傷心の藤田がフランスに戻った時には、既に多くの親友の画家たちがこの世を去るか亡命しており、フランスのマスコミからも「亡霊」呼ばわりされるという有様だったが、その後もいくつもの作品を残している。そのような中で再会を果たしたパブロ・ピカソとの交友は晩年まで続いた。1955年にフランス国籍を取得(その後、日本国籍を抹消)。1957年、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られた。

晩年

1959年にはランスのノートルダム大聖堂でカトリックの洗礼を受け、シャンパン「G.H.マム」の社主のルネ・ラルーと、「テタンジェ」のフランソワ・テタンジェから「レオナール」と名付けてもらい、レオナール・フジタとなった。またその後、ランスにあるマムの敷地内に建てられた「フジタ礼拝堂」の設計と内装のデザインを行った。1968年1月29日にスイスのチューリヒにおいて、ガンのため死亡した。遺体は「フジタ礼拝堂」に埋葬された。日本政府から勲一等瑞宝章を没後追贈された。

死後

藤田の最期を看取った君代は、自身が没するまで藤田旧蔵作品を守り続けた。パリ郊外のに旧宅を「メゾン・アトリエ・フジタ」として開館に向け尽力。晩年には個人画集・展覧会図録等の監修も行った。2007年に東京国立近代美術館アートライブラリーに藤田の旧蔵書約900点を寄贈し、その蔵書目録が公開東京国立近代美術館アートライブラリ所蔵 藤田嗣治旧蔵書。された。藤田の死去から40年余りを経た2009年4月2日に、東京にて98歳で没した。遺言により遺骨は夫嗣治と共にランスの「フジタ礼拝堂」に埋葬された。君代夫人が所有したかどうかは明記されていないが、藤田作品の多くはポーラ美術館とランス美術館(フジタ礼拝堂がこの美術館の建物の一部)に収蔵されている。

2011年、君代が所蔵していた藤田の日記(1930年から1940年、1948年から1968年までで、戦時中のものは未発見)及び写真、16mmフィルムなど6000点に及ぶ資料が母校の東京芸術大学に寄贈されることが発表され、今後の研究に注目が集まっている。

2015年、日本・フランス合作の伝記映画『FOUJITA』(小栗康平監督)が公開され、2018年には『没後50年 藤田嗣治展』が東京と京都で開催されるなど、再評価の機運が高まっている。

名前の表記揺れについて

藤田は名前の表記揺れが多い画家である。まず「嗣治」の名前であるが、一般に「つぐはる」と読まれるが、前述のように「つぐじ」と読む場合もある。これについては、元々次男だったこともあり「つぐじ」と読んでいたが、父から「画家として名を成したら「つぐはる」と読め」といわれ、パリで成功した後の藤田は「つぐはる」と名乗るようになったと言う逸話が知られる。しかし、10代の頃から親友への手紙に「つぐはる」と記した例や、藤田の戦後のアメリカ・フランス行きを支援したGHQの印刷・出版担当官フランク・エドワード・シャーマン宛の手紙に「つぐじ」と署名するなど例外もあり、藤田がどういう意図をもって使い分けていたかは判然としない。

作品のサインも「Foujita」と「Fujita」の二通りある。フランス語としては前者が正しくパリ時代のものは同様に署名しているが、日本滞在中などでは後者の例が多い。

フランス帰化後の表記も、「レオナール・フジタ」と「レオナルド・フヂタ」の揺れがある。今日、前者で呼ばれる方が一般的であるが、これは君代の意向が大きく働いている。しかし、藤田自身はそもそもレオナルド・ダ・ヴィンチへの尊敬から後者で呼ばれることを好み、手紙類の日本語署名は全て「レオナルド(フヂタ) 」である矢内(2015)pp.183-184。。

岡沢吉夫との親交

1944年春、八王子付近で疎開先を探していた藤田は岡沢吉夫を訪問した。これまでに二人の交流があったかは不明だが、以後は親しく交流し、1945年8月の八王子空襲では、藤田をはじめ新制作派協会(現・新制作協会)の画家たちが岡沢の安否を気遣い見舞いに訪れた。

1947年2月には岡沢一家を招き、岡沢の娘・由美子に誕生日のお祝いとして「少女像」をプレゼントしている。藤田は岡沢の子・由美子と伸夫を心から可愛がっていたといい、この日も楽しげに遊ぶ姿を岡沢が撮影している。

1949年3月に日本を去った藤田は、いつどの飛行機で日本を発つかは誰にも言わず秘密にしていたが、一度目の査証申請時にすでに永遠に日本を去る決意を岡沢に語っている。のちに岡沢へ送った手紙には「(略)本当に岡沢さんにハお世話になった。疎開前後東京の住さんの処へ移った時又小竹町へ移った時は真裸体になって天井裏に入って電気をみてくだすった等とてもとても言葉に現はせぬ程親切にして下すつて其のご恩は忘れた事ハありませんでしたが日本を立つ時いろいろ邪魔が入ったりして世間が煩わしいのでだまつて君に御暇乞もせずに立つた事が大に今更口惜しいような気がして心残りになったと二人で今頃もつくづく噂した次第です 何うか悪しからず恩知らずの人間と思はずに居て下さい(略)」と思いを綴っている。 以後も手紙での親交は続き、1955年に藤田がレジオン・ドヌール勲章のオフィシエを受勲した際には、受勲の喜びと同時に複雑な心情を語っている。

1966年3月、「全日本スキー連盟オーストリア・フランス国立スキー学校旅行」の団長としてシャモニーを訪れていた岡沢は、娘・由美子の手配でヴィリエ・ル・バクルで藤田と再会している。藤田は訪ねてきた岡沢に「キリスト頭部のデッサン」と猫の版画を贈った。二人は藤田が1968年1月に息を引き取るまで幾度も手紙や絵葉書を送っている。『近代画説 19』明治美術学会誌(2010年)ISSN 1343-7445

戦争画

日中戦争勃発後に日本に戻っていた藤田には、陸軍報道部から戦争記録画(戦争画)を描くように要請があった。国民を鼓舞するために大きなキャンバスに写実的な絵を、と求められて描き上げた絵は100号200号の大作で、戦場の残酷さ、凄惨、混乱を細部まで濃密に描き出しており、一般に求められた戦争画の枠には当てはまらないものだった。同時に自身は、クリスチャンとしての思想を戦争画に取り入れ表現している。

1945年8月の終戦で戦争画を描くことはなくなったが、終戦後の連合国軍の占領下で、日本美術会の書記長で同時期に日本共産党に入党した内田巌などにより、半ばスケープゴートに近い形で「戦争協力者」と非難された。藤田は、連合国軍占領下の1949年に渡仏の許可が得られると「絵描きは絵だけ描いて下さい。仲間喧嘩をしないで下さい。日本画壇は早く国際水準に到達して下さい」との言葉を残してフランスへ移住し、生涯日本には戻らなかった。渡仏後、藤田は「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」とよく語った。

その後も、「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いたのになぜ非難されなければならないか」と手記の中でも嘆いている。とりわけ藤田は陸軍関連者の多い家柄にあるため軍関係者には知己が多く、また戦後日本を占領する連合国軍において美術担当に当たったアメリカ人担当者とも友人であったがゆえに、戦後に「戦争協力者」のリストを作る際の窓口となるといった点などで槍玉にあげられる要素があった。

パリでの成功後も、第二次大戦後も、存命中に日本では然るべき評価は得られなかった。また君代夫人も夫の没後は「日本近代洋画シリーズ」や「近代日本画家作品集」などの、他の画家達と並ぶ形での画集収録例外で生前に『日本近代絵画全集7 藤田嗣治』(岡本謙次郎解説、講談社、1964年)が出版された。は断ってきた。没後には日本でも徐々に藤田の評価が高まり、多くの展覧会が開かれている。

乳白色の肌の秘密

藤田は絵の特徴であった『乳白色の肌』の秘密については一切語らなかった。近年、絵画が修復された際にその実態が明らかにされた。藤田は、硫酸バリウムを下地に用い、その上に炭酸カルシウムと鉛白を1:3の割合で混ぜた絵具を塗っていた木島 林(2010)pp.72-85。。炭酸カルシウムは油と混ざるとほんのわずかに黄色を帯びる。さらに絵画の下地表層からはタルクが検出されており、その正体は和光堂のシッカロールだったことが2011年に発表された。

タルクの働きによって半光沢の滑らかなマティエールが得られ、面相筆で輪郭線を描く際に墨の定着や運筆のし易さが向上し、膠での箔置きも可能になる。この事実は、藤田が唯一製作時の撮影を許した土門拳による1942年の写真から判明した。以上の2つが藤田の絵の秘密であったと考えられている。ただし、藤田が画面表面にタルクを用いているのは、弟子の岡鹿之助が以前から報告している岡鹿之助 「藤田嗣治―ドランブル時代」『みづゑ』593号、1955年1月。岡鹿之助 『フランスの画家たち』 中央公論美術出版、2004年、p.115、に再録。内呂博之 「「かたち」への挑戦―岡田三郎助と藤田嗣治」(東京文化財研究所編 『「かたち」再考 開かれた語りのために』 平凡社、2014年12月17日、pp.162-165)。。

反面、藤田の技法は脆弱で経年劣化しやすい。水に反応し、絵肌は割れやすく、広い範囲に及ぶ網目状の亀裂の発生が度々観察される木島 林(2010)p.49。。また、多くの藤田作品には地塗り表面に特徴的な気泡の穴が多数散見され(贋作にはこの気泡は無いという)、これは油絵の具に混ぜた炭酸カルシウムと油が反応して発生したガスの穴だと考えられる木島 林(2010)p.105。。

作品

藤田の作品は、日本国内では東京のブリヂストン美術館、東京国立近代美術館、国立西洋美術館、箱根のポーラ美術館、秋田市の平野政吉美術館、軽井沢の軽井沢安東美術館(安東泰志設立、2022年秋に開館)で見ることができる。安東美術館は、藤田の作品のみを収蔵・常設展示する日本初の美術館である。

下記・関連図書の「世界のフジタに世界一巨大な絵…」の絵とは、平野政吉美術館所蔵の壁画『秋田の行事』(高さ3.65m・幅20.5m)である。現在は秋田県立美術館に展示されており、藤田が設計に携わった平野政吉美術館での展示から、秋田県立美術館での展示になったことへの批判も存在する。

晩年に手がけた最後の大作は、没する直前に描きあげたランスの教会における装飾画である。

藤田は挿画本作家としても独自の地位を得ている。ピエール・ロティラビンドラナート・タゴールギヨーム・アポリネール、ポール・クローデル、ピエール・ルイスジャン・ジロドゥ、キク・ヤマタ、ジャン・コクトー等、大作家の著作に木版や銅版の版画を寄せ、出版社も多数にのぼる。挿画本は、絵と文に共通するテーマを設定し、それぞれの立場から表現する事を目指す共作であり競作で、挿画は単なる挿絵ではない。藤田は装画本のこうした特性をよく理解し、文を理解しつつもこれに負けない独自の表現を追求している。中でも、パリのフォーブール・サン=トノレ通りの歴史風俗を描いたド・ヴィルフォスの『魅せられた河』(1951年)は石版による傑作である。

多くのエッセイを書き残し、没後に出版されている。藤田の芸術に対する考え方、人生に対する取り組み方が興味深い。死の直前までノートに書かれたモノローグの一つに「みちづれもなき一人旅 わが思いをのこる妻に残して。1966年9月28日」がある。

藤田は当時の男性としては珍しく、裁縫や木工など身の回りの様々な物を手作りしていた。藤田本人は「デパートなどで売っているのは全て商品に過ぎないという主張で、芸術家は宜しく芸術品を身に纏うべし」と言い、自身をアーティストではなくアルチザンであると語っていた。製作した物は自分が着用する服や帽子、自分の絵に使う額縁、象嵌細工を施した机や小箱など多岐にわたる。象嵌細工の机は目黒区美術館が所蔵する物の他に同一デザインのものが5点ほど存在する。

主な作品

タイトル制作年技法・素材サイズ(cm)所蔵先備考
にわとりとタマゴ1901年頃油彩・キャンバス22x16軽井沢安東美術館
婦人像1909年油彩・キャンバス60.3x45.7東京芸術大学面貌から像主は最初の妻とみか。
父の像1909年油彩・キャンバス59.0x44.0東京芸術大学
自画像1910年油彩・キャンバス60.6x45.5東京芸術大学
朝鮮風景1913年油彩・キャンバス78.1x114.7下関市立美術館
スーチンのアトリエ1913年油彩・キャンバス41.0x33.0ランス美術館
キュビズム風静物1914年キャンバス・油彩54.2x81.4ポーラ美術館
巴里城門1914年キャンバス・油彩33.7x41.7ポーラ美術館
トランプ占いの女1914年水彩・紙30.5x22.5徳島県立近代美術館キュビズム
収穫1917年油彩・キャンバス92.0x73.2個人『藤田嗣治展 東と西を結ぶ絵画』第7図。
断崖の若いカップル1917年油彩・キャンバス73x92.4ベルナール・ビュフェ美術館
雪のパリの街並み1917年油彩・キャンバス45.5x38.0ベルナール・ビュフェ美術館
ル・アーヴルの港1917年油彩・キャンバス45.8x60.9横須賀美術館
パリ風景1918年1月油彩・キャンバス84.0x103.5東京国立近代美術館
モンルージュ、パリ1918年油彩・キャンバス41.0x33.5静岡県立美術館
巴里風景1918年油彩・キャンバス46.0x55.2ブリヂストン美術館
風景1918年油彩・キャンバス46.2x38.0名古屋市美術館
聖誕 於巴里1918年油彩・キャンバス114.0x146.0松岡美術館(東京都港区)
二人の子供と鳥籠1918年油彩・キャンバス81.0x65.0松岡美術館
ドランプル街の中庭、雪の印象1918年油彩・キャンバス27.6x35.4個人(日本)『没後50年 藤田嗣治展』第10図。
花を持つ少女1918年油彩・キャンバス65.4x54.0栃木県立美術館
二人の女1918年油彩・キャンバス92.2x73.3北海道立近代美術館
聖母子1918年頃油彩・金箔、キャンバス58.0x48.0ヴァチカン美術館
自画像1921年油彩・キャンバス100.0x80.5ベルギー王立近代美術館同年のサロン・ドートンヌ出品作3点のうちの1点
私の部屋、目覚まし時計のある静物1921年油彩・キャンバス130x97フランス国立近代美術館(ポンピドゥー・センター内)同年のサロン・ドートンヌ出品作3点のうちの1点
横たわる裸婦と猫1921年油彩・キャンバス72x115プティ・パレ美術館(パリ)同年のサロン・ドートンヌ出品作3点のうちの1点の可能性がある。
私の部屋、アコーディオンのある静物1922年油彩・キャンバス130x97フランス国立近代美術館(ナンシー美術館寄託)同年のサロン・ドートンヌ出品作3点のうちの1点。他は《裸婦》《学校》という題名は判明しているものの、作品は特定されていない。
寝室の裸婦キキ1922年油彩・キャンバス130x195パリ市立近代美術館その大きさから、同年のサロン・ドートンヌ出品作3点のうちの《裸婦》の可能性がある。
ジュイ布のある裸婦1922年油彩・キャンバスパリ市立近代美術館
横たわる裸婦1922年油彩・キャンバス72.5x115ニーム美術館
エミリー・クレイン・シャドボーンの肖像1922年テンペラ、銀箔・キャンバス89.5x146.1シカゴ美術館
バラ1922年油彩・キャンバス81.0x65.0ユニマットグループ神戸市立小磯記念美術館編集 『ユニマットコレクション フランス近代絵画と珠玉のラリック展 ―やすらぎの美を求めて―』 神戸新聞社、2017年9月16日、第66-71図。アンリ・ベルンスタン旧蔵
アントワープ港からの眺め1923年油彩・キャンバス170.0x224.0島根県立石見美術館
長い髪のユキ1923年油彩・キャンバス100.0x65.0ユニマットグループ
裸婦1923年油彩・キャンバス144x87.5
裸婦1923年油彩・キャンバス54.5x100公益財団法人 ひろしま美術館
五人の裸婦1923年油彩・キャンバス169x200東京国立近代美術館同年秋のサロン・ドートンヌ出品
座る女性と猫1923年油彩・キャンバス114.0x77.0鹿児島市立美術館
タピスリーと裸婦1923年油彩・キャンバス130.0x96.0京都国立近代美術館
室内、妻と私1923年油彩・キャンバス145.8x114.0笠間日動美術館ソシエテ・ナショナルのサロン出品作
人形を抱く少女1923年油彩・キャンバス73.4x54.3群馬県立近代美術館
ヴァイオリンをもつ子ども1923年油彩・キャンバス116x73熊本県立美術館
友情1924年油彩・キャンバス146.0x89フランス国立近代美術館(リブルヌ美術館寄託)同年のサロン・ドートンヌ出品作2点のうちの1点。
ユキ(雪の女王)1924年油彩・キャンバスプティ・パレ美術館同年のサロン・ドートンヌ出品作2点のうちの1点。
横たわる裸婦(ユキ)1924年油彩・キャンバス54x73ユニマットグループ
エレーヌ・フランクの肖像1924年3月油彩・キャンバス142.0x115.0イセ文化基金
動物群1924年油彩・キャンバス97x145.5目黒区美術館
10人の子どもたち1924年油彩・キャンバス114.0x144.3目黒区美術館
貝殻のある静物1924年油彩・キャンバス73.0x61.0高知県立美術館
ギターを持つ少年と少女1924年油彩・キャンバス72.8x60.0樋田コレクション『藤田嗣治展 東と西を結ぶ絵画』第26図。
砂の上で1925年油彩・キャンバス70.3x160.8姫路市立美術館
座る裸婦1925年油彩・キャンバス73x60アンドレ・マルロー美術館
舞踏会の前1925年油彩・キャンバス168.5x199.5大原美術館
横たわる裸婦(夢)1925年油彩・キャンバス142x123国立国際美術館
横たわる貴婦人1925年油彩・キャンバス65.2x80.5宮城県美術館寄託
夢から醒めて1925年油彩・キャンバス142.0x123.0テレビ朝日
1925年油彩・キャンバス142.3x123.4岐阜県美術館
青衣の女1925年油彩・キャンバス55.0x38.0愛知県美術館
二人の女1926年油彩・キャンバス92x73プティ・パレ美術館
2人の裸婦1926年油彩・キャンバス50x73ユニマットグループ
横たわる裸婦1926年油彩・キャンバス53.0x63.8神奈川県立近代美術館(北河原コレクション)神奈川県立近代美術館ほか編集『「松本竣介 創造の原点」展』 神奈川県立近代美術館、2016年、p.48。横たわる裸婦 _ 神奈川県立近代美術館
横綱栃木山の肖像1926年水彩、木炭・絹115.2x89.5グルノーブル美術館同年のサロン・ドートンヌ出品作
アトリエの自画像1926年油彩・キャンバス81.0x61.0リヨン美術館
インク壺の静物1926年油彩・キャンバス22x26.9ブリヂストン美術館
アンナ・ド・ノアイユの肖像1926年頃油彩・キャンバス167.1x108.4DIC川村記念美術館
シュジー・ソリドールの肖像1927年油彩、金箔・キャンバス97x63カーニュ=シュル=メール・シャトー美術館
裸婦1927年油彩・キャンバス63.5x98.5ベルギー王立美術館薩摩治郎八が、外交官安達峰一郎の仲介を経て王立美術館に寄贈
横たわる裸婦1927年油彩・キャンバス81.0x100.0茨城県近代美術館
猫のいる自画像1927年頃油彩・キャンバス54.3x45.5三重県立美術館
受胎告知・三王礼拝・十字架降下1927年油彩、金箔・キャンバス前2者が150.0x100.0後者が150.0x150.0公益財団法人 ひろしま美術館三連祭壇画を意識して制作されたと推測される。
ライオンのいる構図1928年油彩・キャンバス300x300エソンヌ県議会
犬のいる構図1928年油彩・キャンバス300x300エソンヌ県議会
争闘11928年油彩・キャンバス300x300エソンヌ県議会
争闘21928年油彩・キャンバス300x300エソンヌ県議会
裸婦1928年油彩・キャンバス73.0x101.0個人(名古屋市美術館寄託)『藤田嗣治展 東と西を結ぶ絵画』第40図。
座る女1929年油彩、金箔・キャンバス110.0x125.0国立西洋美術館
自画像1929年油彩、鉛筆、金箔・キャンバス81.4x65.5名古屋市美術館
自画像1929年油彩・キャンバス61.0x50.2東京国立近代美術館同年10月の第10回帝展出品
欧人日本へ渡来の図1929年油彩、金箔・板パネル張り300x600パリ日本館
馬の図1929年油彩、金箔・板パネル張り235x462パリ日本館
二人の友達1929年油彩・キャンバス81x54DIC川村記念美術館
二人の裸婦1929年油彩・キャンバス178.0x94.2富山県美術館『藤田嗣治展 東と西を結ぶ絵画』第44図。富山県美術館編集・発行『TAD 富山県美術館』(2017年)、第12図。
二人裸婦1930年油彩・キャンバス143.0x125.0神奈川県立近代美術館二人裸婦 _ 神奈川県立近代美術館
三人の女1930年油彩・キャンバス142.5x124.6エソンヌ県議会
死に対する生命の勝利1930年油彩・キャンバス161.0x183.5パーフェクト リバティー教団
調教師とライオン1930年油彩・キャンバス147x91プティ・パレ美術館
横たわる裸婦と猫1931年油彩・キャンバス73.2x116.2埼玉県立近代美術館
横たわる裸婦と猫1931年油彩・キャンバス73.2x116.2埼玉県立近代美術館
仰臥裸婦1931年油彩・キャンバス96.9x162.2福岡市美術館
横たわる裸婦1931年油彩・キャンバス64.7.x80.5長島美術館財団法人 長島美術館編集・発行 『長島美術館図録』 1989年10月5日、p.143。
横たわる裸婦1932年油彩・キャンバス71.5x91個人『藤田嗣治展 東と西を結ぶ絵画』第59図。
横たわる裸婦(マドレーヌ)1932年油彩・絹69x99ユニマットグループ
横たわる裸婦と猫1932年油彩・キャンバス65.0x100.0ブリヂストン美術館
カーニバルの後1932年油彩・キャンバス98.5x79.0公益財団法人 平野政吉美術財団
室内の女二人1932年油彩・キャンバス95.0x77.0公益財団法人 平野政吉美術財団
婦人像(リオ)1932年油彩・キャンバス81.2x65.0広島県立美術館
家族の肖像1932年鉛筆、パステル・紙86.5x67.2名古屋市美術館
ラマと四人の人物1933年水彩・紙155x95三重県立美術館翌年の二科展出品
大地1934年油彩・キャンバス244.6x968.0公益財団法人 ウッドワン美術館元は銀座聖書館ビル内ブラジルコーヒー陳列所を飾った幅15メートルを超える壁画。6年後に依頼主だったブラジルのアッスムソン邸に移設され、この時3割ほど切り取られたウッドワン美術館編集 『ウッドワン美術館所蔵 近代日本絵画の巨匠立たち』 青幻舎、2011年2月、pp.105-111,187-188、ISBN 978-4-86152-295-6。
メキシコに於けるマドレーヌ1934年油彩・キャンバス91.0x72.5京都国立近代美術館
力士と病児1934年油彩・キャンバス116.8x91.0大日本印刷株式会社
空の上の空中戦1934年油彩・キャンバス100x81法人『芸術新潮』2018年8月号、p.97。
北平の力士1935年油彩・キャンバス180.9x225.4公益財団法人 平野政吉美術財団第22回二科展出品
五人女1935年油彩・キャンバス192.5x128.5公益財団法人 平野政吉美術財団第22回二科展出品
Y夫人の肖像1935年油彩・キャンバス92x117.5個人第22回二科展出品
葡萄畑の女性、母と娘、ポプラ並木の女性と楽士、犬を抱く女性と楽士、貴婦人と召使い。女性と天使1935年油彩・キャンバス131.0x188.0(各)赤坂迎賓館元は銀座コロンバン洋菓子店2階サロン天井画。迎賓館開館時に6点全て同館に寄贈された。作風は18世紀ロココ様式を代表する画家・アントワーヌ・ヴァトーに倣っている。
ノルマンディーの春1936年油彩・キャンバス221.5x291.8関西日仏学館玄関ホール
野あそび1936年油彩・キャンバス160x350志摩観光ホテル京都の丸物百貨店喫茶店装飾画として制作。都ホテル東京を経て、2002年、現在の場所に移った『芸術新潮』2018年8月号、pp.92-93。。
自画像1936年油彩・キャンバス127.7x191.9公益財団法人 平野政吉美術財団
秋田の行事1937年油彩・キャンバス365.0x2050.0公益財団法人 平野政吉美術財団
一九〇〇年1937年油彩・キャンバス144x110.5公益財団法人 平野政吉美術財団
那覇の客人1938年油彩・キャンバス114.5x89.5公益財団法人 平野政吉美術財団第25回二科展出品
1938年油彩・キャンバス100.0x80.5沖縄県
ディナー・パーティー1939年油彩・キャンバス88.5x129.6公益財団法人 ウッドワン美術館
青いドレスの女1939年油彩・キャンバス57.6x71.2島根県立石見美術館
サーカスの人気者1939年油彩・キャンバス100.0x80.6島根県立美術館
猫のいる風景1939-40年油彩・キャンバス80.6x99.9ブリヂストン美術館
ドルドーニュの家1940年油彩・キャンバス45.5x53.3ブリヂストン美術館
カルポーの公園1940年油彩・キャンバス31.8x40.9ブリヂストン美術館
猫(闘争)1940年油彩・キャンバス78.7x98.5東京国立近代美術館第27回二科展出品
人魚1940年油彩・キャンバス63.5x99.5個人(香港)『没後50年 藤田嗣治展』第76図。
哈爾哈河畔之戦闘1941年油彩・キャンバス140.0x448.0東京国立近代美術館保管(アメリカ合衆国無期限貸与)翌年7月の第2回聖戦美術展出品
アッツ島玉砕1943年油彩・キャンバス193.5x259.5東京国立近代美術館保管(アメリカ合衆国無期限貸与)同年9月の決戦美術展出品
仏印風景1943年油彩・キャンバス60.5x72.8島根県立美術館島根県立美術館 収蔵品データベース
渡洋爆撃(空中戦)不詳油彩・板23.0x32.5福富太郎コレクション描かれている爆撃機は九九式双発軽爆撃機
仏印メコンの広野1944年油彩・キャンバス53.2x73.0日本赤十字社徳川圀順が日本赤十字社社長在任中に社長室を飾った作品。退任後そのまま赤十字社に寄贈徳島県立近代美術館企画・構成 今に生きる「人道博愛の心」展実行委員会 徳島県立近代美術館 日本赤十字社徳島県支部編集 『日本赤十字社徳島県支部創立130周年記念展 今に生きる「人道博愛の心」ー美術に見る日本赤十字社の歩みー図録』 今に生きる「人道博愛の心」展実行委員会、2017年4月22日、p.11。。
サイパン島同胞臣節を全うす1945年油彩・キャンバス181.0x362.0東京国立近代美術館保管(アメリカ合衆国無期限貸与)同年4月の「戦争美術展 昭和19年度陸軍作戦記録画」出品。バンザイクリフの凄惨な情景を描いた作品で、その残酷さから児童生徒には公開されなかったという。
無題1946年油彩・キャンバス70.0x88.5熱田神宮風景画熱田神宮文化課 大原和生編集 『熱田神宮名宝図録』 1992年4月1日、第84図(白黒)。
優美神1946-48年油彩・キャンバス127.3x191.0聖徳大学川並記念図書館
私の夢1947年油彩・キャンバス64.3x99.0新潟県立万代島美術館同年5月の東京都美術館開館20周年記念現代美術展覧会出品
カフェ1949年油彩・キャンバス76x64フランス国立近代美術館
美しいスペイン女1949年油彩・キャンバス76.0x63.5豊田市美術館
占いの老女1949年油彩・キャンバス101.6x76.0公益財団法人 ウッドワン美術館
姉妹1950年油彩・キャンバス60.8x45.3ポーラ美術館
夢見る女1951年油彩・キャンバスベルナール・ビュフェ美術館
ジャン・ロスタンの肖像1955年油彩・キャンバス100x81カルナヴァレ博物館
校庭1956年油彩・キャンバス65.3x54.1ポーラ美術館
家馬車の前のジプシー娘1956年油彩・キャンバス山王美術館
河原にて1956年油彩・キャンバス54.0.x65.1長島美術館
誰と戦いますか?1957年油彩・キャンバス130x195エソンヌ県議会同年の「時代の証人たち」展出品
カルチェ・ラタンのビストロ1958年油彩・キャンバス97.5x156カルナヴァレ博物館
庭園の子供達1958年油彩・キャンバス94.2x94.8聖徳大学
アージュ・メカニック(機械の時代)1958-59年油彩・キャンバス114.0x146.0パリ市立近代美術館
花の洗礼1959年油彩・キャンバス130.5x97.5パリ市立近代美術館
聖母子1959年10月14日油彩・キャンバス81.7x54.2ランス大聖堂(ランス美術館寄託)
EVE1959年油彩・キャンバス61.0x38.0公益財団法人 ウッドワン美術館
キリスト降架1959年クリスマス油彩・キャンバス112.0x144.0パリ市立近代美術館(ランス美術館寄託)翌年の第1回「国際宗教美術展」(イタリア・トリエステ)金賞
磔刑1960年油彩・キャンバス145.0x88.0パリ市立近代美術館(ランス美術館寄託)
アッシジ1961年油彩・キャンバス38x61.2ひろしま美術館
聖母子1962年油彩・キャンバス55.0x38.2吉野石膏吉野石膏株式会社編集・発行 印象社制作 『吉野石膏コレクション 西洋編』 2018年8月31日、p.85。
礼拝1963年油彩・キャンバス114.8x147パリ市立近代美術館
マドンナ1964年油彩・キャンバス60.9x38.2ランス市立美術館

著作

  • 『猫の本 藤田嗣治画文集』(講談社、2003年)
  • 『腕(ブラ)一本・巴里の横顔』(近藤史人編、講談社文芸文庫、2005年)。旧版は講談社、1984年
  • 『藤田嗣治随筆集 地を泳ぐ』 (平凡社ライブラリー、2014年)。旧版は講談社、1984年
  • 『藤田嗣治 妻とみへの手紙 1913-1916』(上・下、人文書院、2016年)。林洋子監修・加藤時男校訂
  • 『藤田嗣治 戦時下に書く 新聞・雑誌寄稿集 1935~1956年』(ミネルヴァ書房、2018年)。林洋子編
  • 『藤田嗣治芸術試論 藤田嗣治直話』夏堀全弘編(三好企画、2004年)

偽作

  • 2004年から2005年にかけて、オフセット印刷された藤田の作品が正規の版画作品として流通、丸善雄松堂を通じて市販されたことがある。後日、指摘を受けた丸善は回収に乗り出したが、行方不明になったものも存在する。

関連図書

  • 田中穣 『評伝 藤田嗣治』(芸術新聞社、1988、改訂版2015)
  • 近藤史人 『藤田嗣治「異邦人」の生涯』(講談社、2002/講談社文庫、2006)
  • 湯原かの子 『藤田嗣治 パリからの恋文』(新潮社、2004)
  • 『ユリイカ 詩と批評 特集 藤田嗣治』、2006年5月号(青土社)
  • 蘆原英了 『僕の二人のおじさん、藤田嗣治と小山内薫』 (田之倉稔解説、新宿書房、新版2007)
  • 林洋子 『藤田嗣治 作品をひらく 旅・手仕事・日本』(名古屋大学出版会、2008)
  • 木島隆康・林洋子編 『藤田嗣治の絵画技法に迫る:修復現場からの報告』(東京藝術大学出版会、2010)
  • 柴崎信三 『絵筆のナショナリズム-フジタと大観の戦争』(幻戯書房、2011)
  • 矢内みどり 『藤田嗣治とは誰か―作品と手紙から読み解く、美の闘争史』(求龍堂、2015)
  • 平山周吉 『戦争画リターンズ 藤田嗣治とアッツ島の花々』(芸術新聞社、2015)
  • 佐野勝也 『フジタの白鳥 画家藤田嗣治の舞台美術』(エディマン、2017)
  • 富田芳和 『なぜ日本はフジタを捨てたのか?―藤田嗣治とフランク・シャーマン 1945~1949』(静人舎、2018)
  • 藤田嗣隆 『レオナルド藤田嗣治覚書 レオナール・フジタとの散歩』(求龍堂、2020)- 親族による評伝
  • 清水敏男 『藤田嗣治 パリを歩く』(東京書籍、2021)
小著
  • 『藤田嗣治 手しごとの家』(林洋子解説、集英社新書ヴィジュアル版、2009.11)
  • 『藤田嗣治 本のしごと』(林洋子解説、集英社新書ヴィジュアル版、2011.6)
  • 『藤田嗣治 手紙の森へ』(林洋子解説、集英社新書ヴィジュアル版、2018.1)
  • 『もっと知りたい 藤田嗣治 生涯と作品』(林洋子監修、東京美術「アート・ビギナーズ・コレクション」、2013)
  • 布施英利『藤田嗣治がわかれば絵画がわかる』(NHK出版新書、2018.8)
  • 『旅する画家 藤田嗣治』(林洋子監修、新潮社、2018.9)
  • 『猫と藤田嗣治』(内呂博之監修、エクスナレッジ、2019.4)
  • 『夜と猫』(藤田嗣治・絵、エリザベス・コーツワース・詩、矢内みどり訳、2023.10)
画集・図版
  • 『藤田嗣治画集 素晴らしき乳白色』(藤田君代監修、講談社、2002)- 大著
  • 『藤田嗣治画集』(全3巻、林洋子監修、小学館、2014)
  • 『藤田嗣治の少女』(会田誠編、講談社、2018)
  • 『藤田嗣治作品集』(清水敏男編、東京美術、2018)
  • 『猫と女とモンパルナス 藤田嗣治』(オクターブ、2018)- 写真アルバム
  • 『藤田嗣治 腕一本で世界に挑む』(平凡社〈別冊太陽〉、2019)
  • 『藤田嗣治 安東コレクションの輝き 猫と少女と軽井沢』(軽井沢安東美術館編、世界文化社、2022、増補版2024)
  • 『猫の本 藤田嗣治安東コレクションより』(軽井沢安東美術館編、世界文化社、2023)
展覧会図録
  • 『生誕120年 藤田嗣治展 パリを魅了した異邦人』 尾崎正明ほか編集、NHKプロモーション・日本経済新聞社、2006年
  • 『藤田嗣治渡仏100周年記念 レオナール・フジタとパリ 1913-1931』 村上哲・ブレーントラスト編、藤田嗣治渡仏100周年記念・同 カタログ委員会、2013年
  • 『秋田県立美術館 開館記念特別展 壁画《秋田の行事》からのメッセージ 藤田嗣治の1930年代』関連図書に、渡部琴子『平野政吉 世界のフジタに世界一巨大な絵を描かせた男』(新潮社、2002年)公益財団法人 平野政吉美術財団編、秋田協同印刷株式会社、2013年9月
  • 『生誕130年記念 藤田嗣治展 東と西を結ぶ絵画』 名古屋市美術館ほか編、中日新聞社、2016年
  • 『レオナール・フジタとモデルたち』 中村水絵編、キュレイターズ、2016年、ISBN 978-4-901745-24-6
  • 『没後50年 藤田嗣治 本のしごと 文字を装う絵の世界展図録』 林洋子監修・西宮市大谷記念美術館ほか編、キュレイターズ、2018年
  • 『没後50年 藤田嗣治展』 東京都美術館ほか編、朝日新聞社・NHKプロモーション、2018年
  • 『フジタ-色彩への旅』 ポーラ美術館編、求龍堂、2021年
アン・ル・ディベルデル、佐々木佳苗、三木学、今井敬子ほか解説

関連項目

  • エコール・ド・パリ
  • アメデオ・モディリアーニ
  • シャイム・スーティン
  • キキ
  • パブロ・ピカソ
  • ポルチナーリ
  • ユキ・デスノス=フジタ
  • ラ・ブーム - 1980年公開のフランス映画
  • FOUJITA - 2015年公開の日仏合作伝記映画
  • フランク・エドワード・シャーマン - 戦後の支援者の一人
  • 千葉雄大 - 立松和平、小山内家を通じての縁戚関係にあたる

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2024/11/22 13:48 UTC (変更履歴
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