ウィリアム・S・ハート : ウィキペディア(Wikipedia)
ウィリアム・サリー・ハート(William Surrey Hart、1864年12月6日 - 1946年6月23日)は、アメリカ合衆国の俳優・脚本家・映画監督・映画プロデューサーであるObituary Variety, June 26, 1946, page 62.。サイレント映画時代を代表する西部劇スターである。1910年代後半から1920年代前半にかけて安定した人気を保ち、映画ファン雑誌主催の人気コンテストにおいて、男性俳優の中で上位にランクインしていた。
若年期
ウィリアム・S・ハートは1864年12月6日にニューヨーク州で生まれた。父ニコラス(1834年頃 - 1895年)はイングランド、母ロザンナ(1839年頃 - 1909年)はアイルランド出身だった。ウィリアムには2人の兄弟(いずれも幼児期に死亡)と4人の姉妹がいた。西部劇俳優のは遠戚に当たる。
1888年、率いる劇団の一員として舞台に立ち、20代で舞台俳優としてキャリアをスタートさせた。その翌年にニューヨークのの劇団に参加し、その後数シーズンをの巡業劇団で過ごしたDavis, Ronald L., 2003. <i>William S. Hart: Projecting the American West</i> – pp. 28-32 Retrieved March 2, 2014。1900年頃にノースカロライナ州アシュビルのオペラハウスで舞台の演出をしたこともある。シェイクスピア俳優としてブロードウェイでらスターたちと共演し、成功を収めた。1899年のブロードウェイでの『』の初演にも参加している。ハートの家族はアシュビルに移り住んだが、1901年に末妹ロッタが腸チフスで亡くなり、ウィリアムが巡業に出るまで、家族全員でブルックリンに住んでいた。
映画界でのキャリア
ハートは西部劇映画の最初の大スターの一人となった。西部開拓時代に魅了されたハートは、ビリー・ザ・キッドが使っていたリボルバーである"six shooters"を入手し、伝説の保安官であるワイアット・アープやバット・マスターソンと親交を深めた。1914年に映画界に入り、2本の短編映画で脇役を演じた後、同年、長編映画"The Bargain"の主役を務めた。ハートはリアルな西部劇映画を作ろうとした。衣装や小道具もリアルで本格的なものを用意し、シェイクスピア劇の舞台で磨かれた演技力を駆使した。
1915年には、「ウェスタンの父」と呼ばれるプロデューサー、トーマス・H・インスの下で全2巻の映画を多数製作したが、それらの人気が出たことから、より長編の映画を製作するようになった。ハートの初期の作品の多くは、それから十数年、タイトルを変えながら映画館で上映され続けた。全米の映画興行主の投票により決定する「ドル箱スター」のランキングであるトップテン・マネーメイキングスターで、ハートは1915年と1916年の2年連続で第1位となり、その後も1921年までトップテンにランクインした。
1917年、ハートはアドルフ・ズコールからのオファーを受けて、ズコールの映画会社を合併したばかりのパラマウント・ピクチャーズに移籍した。ハートは映画の中で「フリッツ」(Fritz)と名付けた茶色と白の駁毛の馬に乗るようになった。フリッツは、「」と呼ばれる、名前のついた西部劇のタレント馬のさきがけとなった。例えば、トム・ミックスの「トニー」、ロイ・ロジャースの「」、クレイトン・ムーアの「シルバー」などである。1917年、自身の愛国心とアンクル・サムへの忠誠心を示すために、愛馬の名前をフリッツから「よりアメリカ的なもの」に変更すると発表した。また、1917年から1918年にかけて、ウッドロウ・ウィルソン大統領の「」プログラムに志願し、第一次世界大戦へのアメリカの参戦への支持を呼びかける演説を全米で行った。ハートは長編映画のみを製作するようになり、"Square Deal Sanderson"や"The Toll Gate"などの作品はファンの間で人気となった。
1919年、"John Petticoats"で、後に妻となる若手女優と共演したJohn Petticoats Proves Bill Hart is Versatile Star, ‘’The Gadsden Times'' Gadsden, Alabama, December 8, 1919, page 5。
1921年、ハリウッドの喜劇俳優ロスコー・アーバックルが、女優志望のヴァージニア・ラッペを強姦し死に致らしめたとして起訴された。アーバックルの俳優仲間の多くがこの事件についての公的なコメントを避ける中、ハートは、アーバックルと会ったことさえもなかったにもかかわらず、アーバックルが事件に関与したとする発言を繰り返した。アーバックルは、最終的に無罪になったものの、この一件でキャリアを台無しにされた。アーバックルはハートを侮辱する内容の映画の構想を立て、1922年、それを元にバスター・キートンが短編映画"The Frozen North"を製作・監督・主演した。ハートは長年キートンとの会話を拒否した。
ハートの映画は、硬質で無骨で、道徳主義的なテーマを持ち、地味な衣装の西部劇であったが、1920年代初頭にはこのような映画は徐々に流行らなくなっていった。大衆は、トム・ミックスのような派手な衣装とアクションを特徴とする新しいタイプの西部劇を求めるようになった。パラマウントはハートとの契約を解除した。ハートは、自分が求める西部劇映画への最後の挑戦として、1925年に"Tumbleweeds"(邦題『曠野の志士』)を自己資金で製作し、ユナイテッド・アーティスツ(UA)を通じて公開した。壮大な大地を駆け巡るシーンのあるこの映画の出来にハート自身は満足していたが、興行成績は振るわなかった。ハートは、この映画の宣伝をUAがしなかったせいだとして、UAを訴えた。裁判は長引き、1940年にハートに有利な判決が下された。
"Tumbleweeds"を最後にハートは俳優業を引退し、建築家が設計したカリフォルニア州サンタクラリタのニューホールの邸宅"La Loma de los Vientos"に住んだ。1939年、"Tumbleweeds"にトーキーのプロローグを追加して再公開された。これがハートが出演した唯一のトーキーであり、ハートの最後の映画出演となった。追加部分は自身が保有する牧場で撮影され、74歳のハートは西部開拓時代を振り返り、サイレント映画の全盛期を回顧した。
私生活
ハートは妹のメアリーと生涯一緒に暮らしており、ハートがカリフォルニアに引っ越したときはメアリーも同行した。ハートは自伝"My Life East and West"の中でメアリーのことを「私の常任のアドバイザー」と呼び、ファンレターの整理をしてくれたと書いているHart, William S., My Life East and West (reprint), pages 211, 309, 343, R. R. Donnelley & Sons Company, 1994。メアリーは、ハートが執筆した"Pinto Ben and Other Stories"(1919年)と"And All Points West"(1940年)の共著者となっている。
とは、"John Petticoats"で共演した後、ウィニフレッドが仕事のためにニューヨークに来た時には、ハートは必ず会いに来て、ディナーやショーに付き添った。ウィニフレッドは映画プロデューサーのと5年間の契約を結ぼうとしていたが、ハートは電報で、これから送る手紙が届くまでサインはするなと伝えた。後に送られてきた手紙には、プロポーズの言葉が書かれていた。ウィニフレッドは電報で承諾を伝えたDavis, Ronald L., William S. Hart, pages 166-171, University of Oklahoma Press, 2003。
1921年12月7日、ハートはロサンゼルスでウィニフレッドと結婚した。ハートは57歳、ウィニフレッドは22歳だった。結婚式に参列したのは、ハートの妹メアリーとウィニフレッドの母、そしてハートの弁護士だけだったBill Hart Is Married Here, The Los Angeles Times, December 8, 1921, page 25。この日、ウィニフレッドは女優業を引退するという同意書にサインしたHart’s Divorced Wife Returns to the Screen。
ウィニフレッドはハートの家での生活を始めたが、その家にはメアリーも同居していた。結婚の6か月後、ハートは妊娠中の妻に家を出るように言い、ウィニフレッドはサンタモニカの実母の家で暮らすようになった。後の離婚のための審問でウィニフレッドは、別居の原因はハートの妹であり、ハートは自分たちの寝室と妹の部屋の間のドアは開けておくように主張していたと証言したWinifred Westover, early film star, is dead。
1922年9月22日、ウィニフレッドはハートとの間の息子、ウィリアム・S・ハート・ジュニアを生んだ。ウィニフレッドはハートとの離婚を申し立て、1927年2月11日に認められた。ウィニフレッドは、女優業には復帰せず、映画には出ないという条件で、ハートから慰謝料10万ドルを受け取った。この慰謝料は信託基金とされ、息子ウィリアム・ジュニアの扶養と教育のために使われた。
ウィリアム・ジュニアはウィニフレッドのもとで暮らし、ハートに会うことはほとんどなかった。しかし、ハートの妹メアリーが1943年に亡くなったとき、報道によれば葬儀の場でハートは息子の腕に寄りかかっていたというDeath Ends Colorful Career of Mary Hart, <i>North Hollywood Valley Times</i>, October 22, 1943, page 8。
死去
ハートは1946年6月23日にニューホールで死去した。81歳だった。遺体はニューヨーク市ブルックリンのグリーンウッド墓地に埋葬された。遺言により、財産は息子に相続されなかったObituary: William S. Hart Jr. (son of 1920s silent film star), San Diego Union-Tribune, June 1, 2004.。
遺産
映画界への貢献を称えて、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームのハリウッド・ブールバール6363番地にハートの星が設置された。グローマンズ・チャイニーズ・シアターの前庭「フォーコート・オブ・ザ・スターズ」には、ハートの手形・足形および愛用のリボルバーの形を刻んだセメントタイルが埋め込まれている。死後の1975年、オクラホマ州オクラホマシティのは、へのハートの殿堂入りを発表した。
サンタクラリタには、ハートの名を冠した高校()や野球場がある。
ハートの依頼により製作された自身の銅像"Range Rider of the Yellowstone"がモンタナ州ビリングスのに設置され、1927年にハートはこの像をビリングス市に寄贈した
邸宅
ホールが死去したときに住んでいた邸宅と約100ヘクタールの敷地は、遺言によりロサンゼルス郡に寄贈され、現在は「」となっている。
ニューホールにあるホールのかつての自宅は、の分館の「ハート・S・ウィリアム博物館」とされ、無料で一般公開されている。この邸宅はで、内部にはネイティブアメリカンの工芸品や、チャールズ・マリオン・ラッセル、ジェームズ・モンゴメリー・フラッグ、の作品など、ハートが保有していた多くの物品が展示されている。自宅を博物館にしたのは、「私が映画を作っていた時、人々は私に5セント、10セント、25セントを支払ってくれた。私が死んだ後は、私の家を彼らのものにしてほしい」というハートの遺言によるものである。公園内には遊歩道、動物園、ピクニックエリアなどが設けられているほか、この地域の様々な歴史的建造物が移築されている。
2015年から、この公園でが開催されている。
著書
ハートは映画製作から引退した後、以下の短編小説や単行本を執筆したRonald L. Davis, William S. Hart: Projecting the American West, University of Oklahoma Press, 2003。
- Pinto Ben and Other Stories(メアリー・ハートとの共著), 1919, Britton Publishing Company
- The Golden West Boys, Injun and Whitey, 1920, Grosset & Dunlap
- Injun and Whitey Strike Out for Themselves, 1921, Grosset & Dunlap
- Injun and Whitey to the Rescue, 1922, Grosset & Dunlap
- Told Under a White Oak Tree (credited as by "Bill Hart's Pinto Pony"), 1922, Houghton Mifflin Co.
- A Lighter of Flames, 1923, Thomas Y. Crowell
- The Order of Chanta Sutas, 1925, unknown publisher
- My Life East and West, 1929, Houghton Mifflin Co.
- Hoofbeats, 1933, Dial Press
- Law on Horseback and Other Stories, 1935, self-published
- And All Points West(メアリー・ハートとの共著), 1940, Lacotah Press
フィルモグラフィ
公開日 | タイトル | 役名 | クレジット | 脚注 | 出典 | |||||
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監督 | 脚本 | 製作 | ||||||||
His Hour of Manhood | 全2巻 保存状態不明 | |||||||||
Jim Cameron's Wife | 全2巻 保存状態不明 | |||||||||
2010年にアメリカ国立フィルム登録簿に登録 | Sources: | * | * | |||||||
全2巻 保存状態不明 | ||||||||||
In the Sagebrush Country | 全2巻 | |||||||||
全2巻 保存状態不明 | ||||||||||
Mr. "Silent" Haskins | 全2巻 | |||||||||
全2巻 保存状態不明 | ||||||||||
全2巻 保存状態不明 | ||||||||||
全2巻 | ||||||||||
On the Night Stage | ||||||||||
全2巻 | ||||||||||
全2巻 | ||||||||||
Bad Buck of Santa Ynez | 全2巻 | |||||||||
アラスカの地獄犬 | ||||||||||
全2巻 | ||||||||||
Tools of Providence | 全2巻 | |||||||||
全2巻 | ||||||||||
Cash Parrish's Pal | 全2巻 | |||||||||
Knight of the Trail | 全2巻 | |||||||||
Pinto Ben | Boss Rider | 全2巻 | ||||||||
Keno Bates, Liar | 全2巻 | |||||||||
これが真の男だBetween Men | ||||||||||
Hell's Hinges | 1994年にアメリカ国立フィルム登録簿に登録 | Sources: | * | * | ||||||
喪失 | * | * | ||||||||
喪失 | Sources: | * | * | |||||||
喪失 | Sources: | * | * | |||||||
喪失 | Sources: | * | * | |||||||
喪失 | Sources: | * | * | |||||||
Truthful Tulliver | ||||||||||
Wolf Lowry | ||||||||||
All-Star Production of Patriotic Episodes for the Second Liberty Loan | 本人役 | ½巻 | ||||||||
沈黙の人 | ||||||||||
狭き路 | ||||||||||
鉄路の娘Wolves of the Rail | ||||||||||
鬼火ロウドンBlue Blazes Rawden | ||||||||||
我利我利イェーツSelfish Yates | ||||||||||
Shark Monroe | ||||||||||
リッドル・ゴウンRiddle Gawne | 全5巻中2巻が現存 共演: ロン・チェイニー | Sources: | * | * | ||||||
本人役 | ½巻 | |||||||||
沖天の意気 | 喪失 | Sources: | * | * | ||||||
都の汚辱Branding Broadway | ||||||||||
人道の為にBreed of Men | ||||||||||
唱女の夫 | 喪失 | Sources: | * | * | ||||||
大金を護りて | ||||||||||
Square Deal Sanderson | 共同監督: | |||||||||
開拓者Wagon Tracks | 監督: ランバート・ヒルヤー | |||||||||
ジョン・ペティコーツJohn Petticoats | 監督: ランバート・ヒルヤー | |||||||||
人生の関所 | 監督: ランバート・ヒルヤー | |||||||||
侠漢と悍馬Sand! | 監督: ランバート・ヒルヤー | |||||||||
燃え立つ義勇 | 監督: ランバート・ヒルヤー | |||||||||
試練台 | 監督: ランバート・ヒルヤー | |||||||||
乗馬警官隊のオマレイO'Malley of the Mounted | 監督: ランバート・ヒルヤー 1936年に主演でリメイク | Sources: | * | * | ||||||
断腸の笛 | 監督: ランバート・ヒルヤー | |||||||||
寡言の男Three Word Brand | 監督: ランバート・ヒルヤー | |||||||||
White Oak | 監督: ランバート・ヒルヤー | |||||||||
Travelin' On | J.B. | 監督: ランバート・ヒルヤー | ||||||||
Hollywood | 本人役 | 喪失 監督: | ||||||||
2挺拳銃Wild Bill Hickok | 監督: | |||||||||
唄う超人Singer Jim McKee | 監督: クリフォード・スミス | |||||||||
曠野の志士Tumbleweeds | 監督: 1939年に、ハートによるトーキーのプロローグを追加して再公開 | |||||||||
活動役者Show People | 本人役 | 監督: キング・ヴィダー 2003年にアメリカ国立フィルム登録簿に登録 | Sources: | * | * |
The Dawn-Maker.jpg|The Dawn Maker (1916) 'The Return of Draw Egan'.jpg|The Return of Draw Egan (1916) The Square Deal Man.jpg|The Square Deal Man (1917) The Money Corral.jpg|The Money Corral (1919) The Whistle - Exhibitors Herald, June 25, 1921.jpg|The Whistle (1921) William S. Hart in White Oak.jpg|White Oak (1921)
参考文献
- William Surrey Hart, My Life East and West, New York: Houghton Mifflin Company, 1929.
- Jeanine Basinger, Silent Stars, 1999 (). (chapter on William S. Hart and Tom Mix)
- Ronald L. Davis, William S. Hart: Projecting the American West, University of Oklahoma Press, 2003.
関連項目
- 二丁拳銃
外部リンク
- In Loving Memory of William S. Hart
- William S. Hart Ranch and Museum
- (Photos & text)
- William S. Hart Photos and History
- Ron Schuler's Parlour Tricks: The Good Badman
- The Haunted Hart Ghost Site
- William S. Hart Union High School District, Santa Clarita Valley, California
- William S. Hart High School, Newhall, California
- Photographs of William S. Hart
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2024/07/30 12:17 UTC (変更履歴)
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