竹節作太 : ウィキペディア(Wikipedia)
竹節 作太(たけふし さくた、1906年4月17日 - 1988年8月12日)は、長野県下高井郡平穏村(現・山ノ内町)出身のジャーナリスト、クロスカントリースキー選手、登山家。
来歴
旧制飯山中学校を経て、1929年早稲田大学商学部卒。全日本スキー選手権大会クロスカントリースキーのリレーでは早大チームのメンバーとして1925年の第3回大会、翌年の第4回大会と連覇を果たした。日本初参加となった1928年サンモリッツオリンピックでは、クロスカントリースキー個人18kmで30位、個人耐久(50km)で26位だった。研究熱心な竹節は同大会で欧米の選手が用いていた距離スキー専用のワックスや、ヒッコリー材のスキーを大会後いち早く導入するなど、日本のスキー技術の向上につとめた。
大学卒業後、東京日日新聞社(現毎日新聞東京本社)に入社。その後は登山家としても活躍し、1936年には日本初のヒマラヤ遠征となった立教大学の登山隊(堀田弥一隊長)に同行し、初登頂に成功する。1952年から54年の第一次・第二次マナスル登山隊にも隊員として参加した。
1959年毎日新聞東京本社を運動部長で退職し、以後は東急嘱託、白馬観光開発常務・相談役などを歴任した。また、この間1949年から54年まで全日本スキー連盟の理事長もつとめた。1988年に死去した。。戒名は高照院貫山道徹居士。墓所は神奈川県川崎市中原区の大乗院。
著書
- 新しいスキー術 : 雪・ワックス・競技(1930年)
- ナンダ・コット登攀(1937年)
- 我がヒマラヤの記(1943年)
- 山に生きる(1947年)
- 雪線(1948年)
- 雪の千一夜(1949年)
- ヒマラヤの山と人(1955年)
- ヒマラヤの旅(1957年)
- 山のふしぎ : 自然とくらし(1958年)
- 遠近の雪(1971年)
- 遠近の山(1972年)
参考文献
- 小川勝次「日本スキー発達史」朋文堂、1956年
- 菅原悦子「歴史ポケットスポーツ新聞冬季オリンピック」大空出版、2009年
- 「長野県姓氏歴史人物大辞典」角川書店、1996年
外部リンク
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2023/11/12 09:00 UTC (変更履歴)
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