小川清一 : ウィキペディア(Wikipedia)

小川 清一(おがわ せいいち、1952年7月28日 - )は、大分県別府市プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、122ページ出身の元プロ野球選手(投手)。登録名を、小川 精一とする資料もある資料の誤記であるか実際に用いられたか不明。。

来歴・人物

大分商業高校では1970年、エースとして春季九州大会決勝に進むが、宮崎日大高に延長12回裏サヨナラ負け。同年夏は中九州大会決勝で津久見高の橘健治らに投げ勝ち、第52回全国高等学校野球選手権大会に出場。この大会では、1回戦の九州工(福岡)戦で市橋秀彦投手と延長15回の投手戦を展開、5-1で勝利する。2回戦の日大一高(東京)戦でも、保坂英二投手に投げ勝ち完投勝利。しかし準々決勝ではPL学園(大阪)の新美敏、田代克業(中大-本田技研)両投手の継投・好投に屈し、0-7で完封負けを喫した。同年秋の岩手国体では、決勝でPL学園に1-2で惜敗し、準優勝に留まる。住友金属に内定していたが同年のドラフト会議で、阪神タイガースの6位指名を受け、入団。

3年目の1973年に一軍に上がり、翌1974年は中継ぎで22試合に登板した。同年暮れ、鈴木皖武・上辻修・森山正義・平山英雄と共に、池辺巌・井上圭一との5-2の交換トレードでロッテオリオンズに移籍。オリオンズでも主に中継ぎとして活躍し、1975年には初勝利を記録。1977年には4月から6試合に先発としても起用される。1979年オフ、小俣進・庄司智久・田村勲との交換トレードで古賀正明と共に3チーム目の読売ジャイアンツに移籍するが、登板機会に恵まれず、1980年限りで現役引退。その後もチームに残り、1年ほど打撃投手を務めた。

右オーバースロー、速球主体の本格派でストレートとカーブが得意球、スライダー、シュート、パームボールも投げた。但し、パームボールについては阪神時代に小山正明より教わったが、実戦で生かされないままだった。

詳細情報

年度別投手成績

阪神7000000--------5012.0111300900543.001.17
220000000------12630.02361312151116154.501.20
ロッテ151000110--.50016738.13671602191227255.921.36
82000200--1.00010526.1251701901962.081.22
156000220--.50018539.24731902222034224.951.66
60000100--1.0009824.018170014101093.381.04
20000000------184.051200000324.501.75
通算:7年759000630--.667749174.11652067178854104834.291.33
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

  • 初登板:1973年4月25日、対読売ジャイアンツ2回戦(後楽園球場)、7回裏から5番手で救援登板・完了、2回無失点
  • 初先発出場:1975年4月12日、対近鉄バファローズ前期1回戦(日本生命球場)、6番・指名打者で先発出場 ※偵察メンバー、ジム・ラフィーバーに交代
  • 初勝利:1975年4月22日、対太平洋クラブライオンズ前期4回戦(平和台球場)、6回裏2死から4番手で登板、1回1/3無失点
  • 初先発登板:1975年6月18日、対日本ハムファイターズ前期11回戦(後楽園球場)、1回0/3を3失点で敗戦投手
  • 初先発勝利:1976年8月24日、対日本ハムファイターズ後期7回戦(川崎球場)、8回2失点

背番号

  • 54(1971年 - 1974年)
  • 45(1975年 - 1976年)
  • 11(1977年 - 1979年)
  • 46(1980年)
  • 92(1981年)

関連項目

  • 大分県出身の人物一覧
  • 阪神タイガースの選手一覧
  • 千葉ロッテマリーンズの選手一覧
  • 読売ジャイアンツの選手一覧

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2023/10/29 01:30 UTC (変更履歴
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