羽仁五郎 : ウィキペディア(Wikipedia)
羽仁 五郎(はに ごろう、1901年〈明治34年〉3月29日 - 1983年〈昭和58年〉6月8日)は、日本の歴史家(マルクス主義歴史学・歴史哲学・現代史)。参議院議員。日本学術会議議員。
経歴
出生から修学期
1902年(明治34年)、森五郎として群馬県桐生市で生まれた。生家は近江商人ルーツに持ち、地元桐生で桐生織物を取り扱う有力な織物仲買商(現在の森合資会社)であった。1913年(大正2年)、桐生北尋常小学校を卒業。同年東京に上京して、東京府立第四中学校に入学。厳しい規則と詰め込み主義の学校を批判し、停学処分を受けるなどした。1918年、旧制第一高等学校独法科に進学した。
1921年、東京帝国大学法学部に入学。しかし数か月後に休学し、同年9月よりドイツで歴史哲学を学ぶため出国。1922年4月、ハイデルベルク大学哲学科でリッケルトに師事して歴史哲学を学んだ。留学中、糸井靖之・大内兵衛・三木清と交流し、現代史や唯物史観の研究を開始。「すべての歴史は現代の歴史である」というベネデット・クローチェの歴史哲学を知り、イタリア旅行中に生家を訪れるも面会は求めなかった。しかし、生涯在野の哲学者であったクローチェの影響を色濃く受けた。1924年、帰国して東京帝国大学文学部に復学し、史学科に在籍した。
1926年4月8日、羽仁吉一・もと子夫妻の長女説子と結婚。「彼女が独立の女性として成長することを期待して」婿入りし、森姓から羽仁姓となった。1927年、東京帝国大学卒業。
歴史学研究者として
同大史料編纂所に嘱託として勤務。1928年2月、日本最初の普通選挙で応援演説をしたことが問題となり辞職。同年10月、三木清・小林勇と雑誌『新興科学の旗のもとに』を創刊。1932年、野呂栄太郎らと『日本資本主義発達史講座』を刊行。
治安維持法での検挙から終戦まで
1933年9月11日、治安維持法容疑で検束。留置中に日本大学教授を辞職。強制的に虚偽の「手記」を書かされた上で、12月末に釈放。その後、『ミケルアンヂェロ』その他の著述で軍国主義に抵抗し、多くの知識人の共感を得た。中でも『クロォチェ』論は特攻隊員の上原良司の愛読書となり、遺本ともなった。1945年3月10日、北京で憲兵に逮捕され、東京に身柄を移された。敗戦は警視庁の留置場で迎え、10月4日の治安維持法廃止を受けてようやく釈放された。
太平洋戦戦争後
1947年、参議院議員に当選し、1956年まで革新系議員として活動。国立国会図書館の設立に尽力した。日本学術会議議員も務めた。
晩年は新左翼の革命理論家的存在となり、学生運動を支援し『都市の論理』はベストセラーとなった。また、晩年は家元制度打倒を唱える花柳幻舟を事実上の愛人としていた。羽仁は花柳を「ぼくのガールフレンド」と呼んでいた。
1983年、肺気腫のため死去。墓所は雑司ヶ谷霊園にある。
業績
研究内容
唯物史観に基づいて歴史を考察した。マルクス主義の観点から、明治維新やルネッサンスの原因は農民一揆にあると主張した。
政治家・議員として
国立国会図書館法前文の「真理がわれらを自由にする」という文言は、羽仁がドイツ留学中に見た大学の銘文を基に入れたもので、新約聖書のヨハネによる福音書に由来する。
関連史跡
生家の森合資会社事務所、森合資会社店蔵、森家住宅石蔵は国登録有形文化財。戦後、横須賀市秋谷に移住し、自宅は1966年竣工の吉村順三設計の住宅で2015年12月から宿泊施設HAYAMA Funny house として活用されている。
エピソード
学生運動関係
- 1967年4月20日、午後1時に大講堂で日本大学経済学部の新入生歓迎会をしている最中に、講師に招かれた羽仁の講演を体育会学生と応援団が乗り込み妨害した。執行部学生に暴行を加え、歓迎会の解散を認める署名を強制した。羽仁に対して、ヤジや罵声は収まるどころか、いっそう増し、「アカ」、「ジジイ引っ込メ」などの罵声を受けた。羽仁は演壇上に立ち往生し、身の危険を感じて退避したが、歓迎大会は完全に破壊された。
- 作家の森まゆみは、「1968年、我が家の近くの東京大学で学生運動が激しかった頃、白いタートルネックにチェックのジャケットを着てステッキをついた洒脱なおじいさんが、よく全共闘の学生と対話していた。その人、羽仁五郎の『都市の論理』は、その時代のベストセラーだった」、羽仁の『ミケルアンヂェロ』を高校生の時に読んだとき、「口絵のダヴィデ像、そして「語るならば、低くかたれ」という言葉に、胸が熱くなったのを思い出す」と記している〔引用は145・149頁〕。
- 三里塚闘争への支援も行い、現地を2回程訪問し、三里塚芝山連合空港反対同盟へメッセージを送って激励している。遺言では「灰を三里塚にまけ」といったとされ、日比谷公会堂で行われた追悼集会で反対同盟の北原鉱治が別れの言葉を述べている。
- 1972年に発生したあさま山荘事件について、志水速雄との対談において羽仁は「権力を持っているものが人民を隅に追い込んでいった結果であり、そこに発生したことがらの全責任は権力を握っている側にあるんですよ」、「正義は虐げられている側、抑圧されている側、つねに少数の側にある」と連合赤軍を擁護した。志水が「知識人が学生を甘やかしたからあんなことになったのではないか」と追及すると「言論の責任を取ることになってくれば、言論の自由なんていうものは保証できないんですよ」と主張した『諸君!』1972年5月号。
家族・親族
- 父:森宗作(第2代森宗作)は、第四十銀行の創立者で初代頭取、舘林貯蓄銀行頭取などを務めた。初代森宗作の養子で、第2代森宗作を名乗ったが、大正14年の隠居後は森宗久を名乗った。
- 兄:森晋一郎は森家を継いで3代森宗作を襲名。桐生商工会議所初代会頭
- 甥:森喜作(兄・森晋一郎の次男)は世界で初めてシイタケの人工栽培法を発明した農学者。
- 兄(三番目の兄):森平三郎は山形大学学長を務めた。
- 息子:羽仁進は映画監督。その元妻は女優の左幸子。
- 孫:羽仁未央はエッセイスト、メディアプロデューサー。羽仁進と左幸子の娘。
- 娘:羽仁協子は音楽教育家。
著作
単著
共編著
対談
翻訳
校訂
著作集
羽仁五郎選集
羽仁五郎歴史論著作集
羽仁五郎戦後著作集
羽仁五郎戦後著作集
映画
- 純(1980年、出演・警察署長役)
外部リンク
- 山田敬男『羽仁五郎』 - コトバンク
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2024/11/01 14:30 UTC (変更履歴)
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