高山辰雄 : ウィキペディア(Wikipedia)

高山 辰雄(たかやま たつお、1912年(明治45年)6月26日 - 2007年(平成19年)9月14日)は、日本画家。文化勲章受章者。

来歴

大分市に生まれる。1931年(昭和6年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学、1936年(昭和11年)に卒業している。在学中から松岡映丘の画塾に入り、師事した。美校の卒業制作「砂丘」は、砂の上に座るセーラー服姿の若い女性を俯瞰的に描いた洋画風の作品で、後の高山の作風を思わせるものはほとんどない。

高山は戦後まもない1946年(昭和21年)ころ、ゴーギャンの伝記を読んで感銘を受け、その後の作風にはゴーギャンの影響がみられるようになる。1946年、第2回日展に裸婦ふたりを描いた「浴室」を出品し、特選となる。1949年(昭和24年)には日展に「少女」を出品し、再び特選となる。この頃から独自の幻想的な画風が定着する。

1960年(昭和35年)に「白翳」で日本芸術院賞、1964年(昭和39年)に「穹」で芸術選奨文部大臣賞、1970年(昭和45年)には日本芸術大賞を受賞。

1972年(昭和47年)日本芸術院会員。1975年から1977年まで(昭和50–52年)日展理事長を務め、任期満了後は日展常務理事、顧問となる。1979年(昭和54年)文化功労者として顕彰。1982年(昭和57年)70歳の時に文化勲章を受章している。1983年(昭和58年)に大分市名誉市民に推挙され、1987年(昭和62年)には世田谷区名誉区民として顕彰される。

1985年(昭和60年)には東京はじめ日本の5都市で「日月星辰-高山辰雄展1985」を開催。屏風絵の大作をはじめとする意欲作を出品し、健在ぶりを示した。

1990年(平成2年)秋の平成の大嘗祭では(出身の大分県が主基国に選ばれたため)、大分の風俗考証画を制作納めた。

2007年(平成19年)9月14日午後4時19分、肺炎のため自宅で死去。。

出身地の大分県には高山にちなんだ「高山辰雄賞ジュニア県美展」(通称「高山賞」「高山展」)という名称の賞がある。

代表作品

  • 「砂丘」 1936年、東京藝術大学 収蔵
  • 「浴室」 1946年、大分県立芸術会館 収蔵
  • 「食べる」 1973年、大分県立芸術会館 収蔵
  • 「日(六曲屏風)」 1985年
  • 「月(六曲屏風)」 1985年、成川美術館 収蔵
  • 「赤い服の少女」 1997年、康耀堂美術館 収蔵
  • 「二人」 1997年、康耀堂美術館 収蔵
  • 「草原の朝」 2001年、康耀堂美術館 収蔵

画集・著書

  • 『高山辰雄』 三彩社、1974年
  • 『日月星辰 』 新潮社、1976年
  • 『聊斎志異』 渓水社 1978年
  • 『 日月星辰 高山辰雄』 日本放送出版協会、1978年
  • 『高山辰雄自選画集』 毎日新聞社 1979年
  • 『アッシジへ行く』 講談社、1979年/新版・角川文庫、2002年
  • 『大地を行く』 講談社、1987年
  • 『 高山辰雄』 学習研究社、1991年
  • 『 高山辰雄』 ぎょうせい、1992年
  • 『高山辰雄』 日本経済新聞社(日経ポケット・ギャラリー)、1992年。文庫版
  • 『聖家族1993 』 講談社、1993年
  • 『高山辰雄』 日本経済新聞出版社、1997年
  • 『高山辰雄の世界 』 広田肇一責任編集、思文閣出版、2000年
  • 『存在追憶 』 角川書店、2007年。画文集の遺著

関連項目

  • 高山由紀子 - 長女で作家・脚本家、回想『父 高山辰雄』(角川書店、2011年)がある
  • シュルレアリスム
  • 幻視芸術
  • 幻想絵画
  • 三尾彰藍 - 弟子

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2023/12/28 13:11 UTC (変更履歴
Text is available under Creative Commons Attribution-ShareAlike and/or GNU Free Documentation License.

「高山辰雄」の人物情報へ