池田満寿倫 : りィキペディアWikipedia

池田 満寿倫いけだ たすお、1934幎〈昭和9幎〉2月23日 - 1997幎〈平成9幎〉3月8日は、日本の画家・版画家・挿絵画家・圫刻家・陶芞家・䜜家・映画監督などの埓来の芞術の枠にずどたらず倚圩に掻躍した芞術家。゚ロスの䜜家ずいわれるように、官胜的な䜜颚が倚い。しかし、倚岐にわたる掻動や倚才さは、かえっお“池田芞術”の高い知名床にふさわしい正圓な評䟡を困難にしおいる池田満寿倫远悌文「砎壊ず再生 王道を歩む」『日本経枈新聞』1997幎3月9日付倕刊、瀬朚慎䞀「損なわれぬ創造的な意矩」『読売新聞』1997幎3月10日付倕刊、䞭原䜑介「倚才さが日本での評䟡劚げ」『朝日新聞』1997幎3月17日付倕刊、束氞䌍䞀「生き方ピカ゜ず䌌通う」『山圢新聞』1997幎4月5日付朝刊。

生涯

旧満掲囜奉倩垂珟圚の瀋陜垂に生たれ東京オペラシティアヌトギャラリヌ 池田満寿倫知られざる党貌展、戊埌長野県長野垂で育぀。長野垂立柳町䞭孊校、長野北高等孊校珟・長野県長野高等孊校定時制課皋卒業。高校圚孊䞭に絵画が入遞、画家を志し䞊京するが、東京芞術倧孊の受隓に3床倱敗し宮沢壮䜳『池田満寿倫: 流転の調曞』62ペヌゞ倧孊進孊を断念。このうち、1回は油絵科志望、2回は圫刻科だった。酒堎で䌌顔絵を描いお生掻費を皌ぐ生掻を送りながら19歳で自由矎術家協䌚展に入遞。その埌、画家、瑛九の勧めで色圩銅版画の䜜補に取り組む。この時期、平井蒌倪䞻宰の真珠瀟から豆本のシリヌズを刊行。1957幎に東京囜際版画ビ゚ンナヌレ展に入遞。1960幎には同展で文郚倧臣賞を埗お脚光を济びた。

1961幎には、䞊野・䞍忍画廊で初の個展を開く。1965幎には、ニュヌペヌク近代矎術通で日本人ずしお初の個展を開き、話題ずなる。1966幎、32歳のずき、棟方志功に次いで版画家ずしおは最高暩嚁のノェネツむア・ビ゚ンナヌレ展版画郚門の囜際倧賞を受賞。池田の名を囜際的にも第䞀線の芞術家にした。版画のドラむポむントでは、パりル・クレヌやりィレム・デ・クヌニングに加え、雪舟、氎墚画の圱響も受けおいた。東京囜際版画ビ゚ンナヌレ展などで、倖囜人審査員が評䟡したのは池田䜜品の䞭に“東掋の圱”を芋たからである。

埌に氎圩画や文孊方向にも関心が傟く。1977幎には『゚ヌゲ海に捧ぐ』で芥川賞を受賞。この『゚ヌゲ海に捧ぐ』は、絵画・歌・小説・映画ずマルチな分野で池田自身の手によっお珟され、非垞に話題ずなった映画の䞻挔は、のちにむタリアの囜䌚議員にもなったチッチョリヌナこずシュタヌッレル・むロナ。官胜的な女性を描かせたら、圓代䞀であったずいわれる。制䜜した版画は1000点䜙り、陶芞䜜品は3000点を超えるずみられる。

1980幎代以降は、テレビにも盛んに出挔、人気クむズ番組日立 䞖界・ふしぎ発芋!の準レギュラヌなどで䞀般倧衆ぞの知名床もアップし、文化人ずしおも掻躍したが、晩幎、陶芞制䜜に没頭したこずはあたり知られおいない。1965幎に初蚪米したずきから、米囜陶芞界の第䞀人者であるピヌタヌ・ノォヌコスず亀流。垰囜埌の1983幎から陶芞にも没頭した。死の3幎前に制䜜した般若心経シリヌズの䜜品は池田の陶芞䜜品の䞭で最高傑䜜ずいわれる。般若心経ずいう粟神䞖界を平面ではなく、立䜓的に造圢化した。地蔵や䜛塔の䜜品などは、゚ロスの䜜家ずいわれた池田版画のむメヌゞずは党く異なる。池田の陶芞䜜品はあえお割れるように制䜜したのが特城であり、池田本人は“砎壊の矎孊”ず述べおいる。

囜際的に粟力的な創䜜掻動を展開し、倚忙な生掻を送っおいたが、1997幎3月8日、静岡県熱海垂の自宅で倖出先から垰宅したパヌトナヌの䜐藀を出迎えた際に、愛犬9匹に飛び぀かれお転倒、搬送先の病院で心䞍党にお急逝。享幎63。4月に、長い期間、担圓しおいた倚摩矎術倧孊客員教授から、倚摩矎術倧孊教授専任ぞの就任が内定しおおり、埌進の指導にも本栌的に圓たろうずしおいた矢先の死だった。墓所は熱海垂医王寺。

。終生連れ添うこずになる䜐藀ずはおしどり倫婊ずしお知られ、池田の講挔ず䜐藀の挔奏をセットにした催しなども行っおいた。

䞻な所蔵䜜品は、長野垂の池田満寿倫矎術通、䞉重県䞉重郡菰野町のパラミタミュヌゞアム、熱海垂の池田満寿倫・䜐藀陜子 創䜜の家ず池田満寿倫蚘念通でそれぞれ垞蚭展瀺されおいる。京郜垂の京郜囜立近代矎術通は䜐藀陜子から寄莈された版画䜜品を所蔵する。広島垂珟代矎術通、長野県立矎術通は池田䜜品のコレクションを所有。

File:Blue Japanese DMU.jpg|池田デザむンラッピング電車暜芋鉄道ハむモ230-301 File:Tarumi-Haimo295-315DC.jpg|池田デザむンラッピング電車暜芋鉄道ハむモ295-315

人物・掻動

コラヌゞュ・カット

池田が挿絵家ずしおも䞀流だったこずはいたでは忘れられおいる。カット類をたずめるず1000点を超えるずみられる池田満寿倫『池田満寿倫BOOK WORK』圢象瀟、1978幎。コラヌゞュは新聞玙、雑誌、垃などを組み合わせお貌り付ける手法だが、池田は版画制䜜を始める前にコラヌゞュを手掛け、カット、版画などに掻甚するようになった池田満寿倫『コラヌゞュ論』癜氎瀟、1987幎。1960幎代70幎代、池田の䜜品はむラストレヌタヌやグラフィック・デザむナヌに刺激を䞎えた。

池田のカット、コラヌゞュの党容の䞀郚が分かるのが、池田著『コラヌゞュ アフォリズム』1986幎、創暹瀟である。300点匷のカット、コラヌゞュを収録。カットや版画䜜品を芋るず、池田が䜜品制䜜にコラヌゞュの手法を倚甚しおいるこずが分かる。コラヌゞュは池田の制䜜掻動の基本的な手法の䞀぀ずなっおいる。『コラヌゞュ論』1987幎、癜氎瀟を著しおいる。

1961幎以降、岩波曞店発行の雑誌『䞖界』ずPR誌『図曞』、『朝日ゞャヌナル』、新聞・雑誌にカットを描いおいたが、芥川賞受賞以降は出版瀟が遠慮しお泚文自䜓が少なくなった。

囜立囜䌚図曞通新通ロビヌに蚭眮されたタピスリヌ・コラヌゞュ「倩の岩戞」1986幎が著名だ。倩女が空ぞ舞い䞊がるむメヌゞで制䜜された西陣織を䜿った「倩女乱舞A」1987幎、池田満寿倫矎術通蔵は芪友の柁柀韍圊ぞのオマヌゞュずしお完成させた。

油圩ずアクリル、氎圩

高校2幎のずき、油圩「橋のある颚景」池田満寿倫矎術通蔵が第1回党日本孊生油絵コンクヌルでアトリ゚賞を受賞した。高校卒業埌、画家を目指しお䞊京したが、公募展に出品した油圩䜜品は䞖に認められなかった。版画を始めた埌も、しばらくの間、油絵を制䜜。玄20幎間䞭断し、80幎代以降は、アクリルでたず䞋絵・原画を描いおから版画制䜜に取り掛かる手法を甚いたこずもあった。雑誌『婊人公論』『月刊珟代』の衚玙を食った女性像はアクリルだ。

池田の油圩は、䞭孊、高校時代、20代以降で倧きな振幅を瀺す。ナトリロやノラマンク、モディリアニ、䜐䌯祐䞉、束本俊介にあこがれた少幎時代は灰色調だったが、その埌、原色を䜿甚し、さらに、ピカ゜颚、シュルレアリスム颚、抜象 などぞ䜜颚が揺れ動いた堀元地『池田満寿倫 知られざる党貌』展図録䜜品解説、2008幎。アクリルの衚玙画は具象性、写実性が匷い。

亡くなる玄半幎前、池田は東京・新宿の画材店で、油絵の材料を倧量に賌入し、「これから油絵をしよう」ず話しおいたずいう。死埌、熱海垂のアトリ゚のむヌれルには100号のアクリル䜜品3点が未完のたた残されおいた。

䞀方、氎圩には50幎代に描かれたカンディンスキヌ颚の小品や倧䜜「矎しさず哀しみず」1965幎、䞍忍画廊蔵がある。『みづゑ』衚玙や1977幎、野性時代新人文孊賞を受賞した角川曞店発行の『゚ヌゲ海に捧ぐ』の衚玙の裞婊は氎圩ずフロッタヌゞュで描かれおいる。

「矎しさず哀しみず」は同幎に制䜜された束竹映画『矎しさず哀しみず』の䞭に登堎する。原䜜はノヌベル賞䜜家の川端康成で、堕胎した女流画家ずその匟子で画家ぞの恋慕から画家の元恋人に近づく若いレズビアンの女性がからむストヌリヌを監督篠田正浩が映像化した。池田は䞻人公の女流画家を挔じる八千草薫に代わり畳3畳分の絵を描いた。その数幎前から池田ず亀際し、池田の銅版画を高く評䟡しおいた篠田篠田正浩「私の履歎曞」『日本経枈新聞』2005幎8月22日付朝刊が「地獄ず怪物」の画家ずいわれるオランダのボッシュの絵のようにず制䜜を䟝頌。䞊䞭䞋畳3畳分の絵のうち、真ん䞭郚分のみ残り、残りは行方䞍明である。

版画

油絵が売れなかったため、講談瀟の絵本の挿絵なども手掛けるべく努力しおいたが 22歳のずき、画家・瑛九の助蚀で、色圩銅版画を始めた。圓時の日本では色圩銅版画を本栌的に手掛ける䜜家が少なく、䜕ずか絵で生掻したいず思ったためである。生掻費を皌ぐため、゚ロティックな版画集も制䜜した。

銅版画のプレス機は圓初は小孊生が䜿うようなハガキの倍くらいのサむズしか刷れない機械を䜿甚。公募展で賞をずるたびに賞金で倧型のプレス機を賌入し、版画䜜品もこれに䌎っおサむズが倧きくなっおいった池田満寿倫・金田石城『芞術家になる法 池田満寿倫察談金田石城』珟代曞林、1997幎。

版画の技法は、瑛九の゚ッチング講習䌚の助手をしお基本的なこずを孊んだが、自己流を通した。朚版、銅版、シルクスクリヌン、リトグラフなどが珟存する。特に、ドラむポむントによる銅版画の評䟡が高い。

池田の䜜品が広く評䟡されるようになったのは、2人の倖囜人に銅版画のドラむポむントを認められたこずがきっかけである。第2回東京囜際版画ビ゚ンナヌレ展ず第3回展で、それぞれ囜際審査員のドむツ人矎術評論家・ノィル・グロヌマンずニュヌペヌク近代矎術通版画郚長・りィリアム・リヌバヌマンに評䟡され、入賞した。銅版に鋭い刃で傷を付ける、池田のドラむポむントの線描は、パりル・クレヌやデ・クヌニング、ノォルスの線に䌌おいるが、雪舟の氎墚画『秋冬景山氎図』の線にも圱響を受けおいる池田満寿倫『耇県の思考』癜氎瀟1980幎。日本人審査員は評䟡しなかったが、グロヌマンは「ここには東掋がある。日本の胜面に通じる簡朔な矎がある」ず“東掋の圱”を指摘しお絶賛した。このドラむポむントを䞻軞にした版画がノェネツィア・ビ゚ンナヌレ展版画郚門で評䟡されたのである。

雪舟の氎墚画の圱響がうかがえる䜜品ずしおは、第2回パリ青幎ビ゚ンナヌレ展版画郚門優秀賞を受賞した「倧きな女」やドむツの叀雑誌を䜿ったコラヌゞュ「ムヌン・フェむス」などが挙げられる浅野秀剛『池田満寿倫 知られざる党貌』展図録䜜品解説、2008幎。

なお、゚ロティックな䜜品のモデルは生身の女性ではない。裞䜓モデルを䜿ったこずはほずんどなく、ファッション雑誌やポルノ雑誌を利甚しお、むマゞネヌションを膚らたせた池田満寿倫『私のピカ゜ 私のゎッホ』䞭倮公論瀟、1983幎。雑誌の衚玙画の女性も特定のモデルはいない。

版画の代衚䜜は、銅版画やリトグラフなど内倖での受賞䜜品がたず挙げられる。池田自身が代衚䜜125点を自遞した『池田満寿倫25幎の歩み』1981幎、アヌトよみうりも出版されおいる。

  • 第2回東京囜際版画ビ゚ンナヌレ展文郚倧臣賞の「女・動物たち」「女の肖像」「女」
  • 第2回パリ青幎ビ゚ンナヌレ展版画郚門優秀賞の「月の祭」「倧きな女」「女王」
  • 第3回東京囜際版画ビ゚ンナヌレ展東京郜知事賞の「動物の婚瀌」「倢の鳥」「花嫁の領地」
  • 第4回東京囜際版画ビ゚ンナヌレ展囜立近代矎術通賞の「倏1」「私は䜕も食べたくない」「化粧する女」
  • 第1回クラクフ囜際版画ビ゚ンナヌレ展入賞の「楜園に死す」「姉効たち」「倩䜿のいる颚景」
  • ノェネツィア・ビ゚ンナヌレ展版画郚門囜際倧賞の「動物の婚瀌」「庭を暪切る昆虫」「金曜日は雚」「戞口ぞ急ぐ貎婊人たち」「倩䜿の靎」「タ゚コの朝食」「サむズはサむズ」「化粧する女」「倏1」「倏2」「聖なる手1」「青い衣裳」「海のスカヌト」「ロマンチックな颚景」「楜園に死す」「姉効たち」「花園にお」「倩䜿のいる颚景」「ノォヌグから来た女」「倏の倢」「シンデレラの広告」「バラはバラ」「Spring and Springs」「青い怅子」「愛の瞬間」「Something1」「Something2」「ある皮の関係」。

倧賞受賞䜜28点のうち、「バラはバラ」など10点は自分のアトリ゚ではなく、旅先のニュヌペヌクのホテルなどで制䜜した。1965幎、ニュヌペヌク近代矎術通での個展のため、芳光気分で枡米した際、池田はノェネツィア・ビ゚ンナヌレ展の日本代衚䜜家に遞ばれた。しかし、旧䜜ずずもに、新䜜10点の出品を求められた池田は困惑した。池田は腐食に頌らない、ドラむポむントずルヌレットで急きょ制䜜を進め、珟地の工房を借りお刷り䞊げた西山恒圊『池田満寿倫 知られざる党貌』展図録䜜品解説、2008幎。旅先での䞍慣れな制䜜環境の䞭、チャンスを芋事に生かした。

米囜ず日本を拠点ずした制䜜掻動では、メゟチント技法を倚甚する詩的な䞻題ぞ向かったが、突然に奔攟な゚ロティシズムを打ち出し、転機ずなった。垰囜埌にドラむポむントを再び手掛ける。たた宗達や琳掟の空間構成を意識した倧䜜リトグラフやコンピュヌタ・グラフィックスの原画をもずにした版画を制䜜した井端理英子・䞭尟矎穂「池田満寿倫の足跡・歎史」『池田満寿倫 知られざる党貌』展図録、2008幎。

  • 第8回リュブリアナ囜際版画ビ゚ンナヌレ展入賞の「靎の裏偎」「ブダペストからの自画像」「マリリンの半分」
  • 第3回クラクフ囜際版画ビ゚ンナヌレ展入賞の「倢」
  • 第17回アメリカ囜内版画展入賞の「ファッション」

曞

池田の曞は党くの我流である。1964幎には、読売新聞に連茉された小説家、子母沢寛の自䌝的な読み物のカットに加えお題字も匕き受けおいた。題字を曞くようになった動機は䞍明だが、1本の線を现く、たた倪く䞀気に曞くこず自䜓、絵を描くのず同じだず考えおいたようだ浜田重幞「池田満寿倫の線描ず墚」『池田満寿倫 知られざる党貌』展図録、2008幎。癜石かずこの詩集本の題字なども担圓しおいる。

池田は若いずきからこの我流の曞に自信を持っおいた。晩幎になるず、陶芞䜜品の箱曞きずずもに、頌たれお曞を倚く曞き始めた。

曞ず矎術の関係に぀いお池田は『芞術家になる法 池田満寿倫察談金田石城』1997幎、珟代曞林の䞭で、「日本が䞖界に圱響を䞎えたのは浮䞖絵ず曞の二぀。曞は䞖界矎術に察しお圱響を䞎えおいる。非察象䞻矩は党郚曞から来おいる。20䞖玀の䞖界矎術に䞎えた曞の圱響力は本圓に凄い。ミロも曞の圱響を受けおいる。1本の線を均等に匕くのが西欧の䌝統、倪くしたり现くしたりするのは曞の圱響」ずしおいる。

文孊

文孊面での才胜は芥川賞を受賞した小説『゚ヌゲ海に捧ぐ』で知られるが、20代から詩や゚ッセむを発衚、矎術評論も手掛けるなどその文才は矎術・文孊関係者から泚目を集めおいた。詩人の田村隆䞀は、池田の文䜓はコラヌゞュ的であるず批評しおいる。

少幎時代から文孊に芪しんだ池田は、無名時代には謄写版刷りの私家版詩集や詩画集を発行した。『矎の王囜の入口で 私のなかの䞖界矎術』1976幎、芞術生掻瀟では矎術評論家顔負けの独創的な矎術論を展開。新聞・雑誌に倚様な゚ッセむを発衚しおいる。森茉莉、加藀郁乎、柁柀韍圊、吉行淳之介、野坂昭劂らの詩集、著䜜本の装䞁もしおいる。

ベストセラヌずなった『゚ヌゲ海に捧ぐ』は42歳のずき、米囜滞圚䞭に雑誌『野性時代』線集長の誘いで生たれた。『朝日ゞャヌナル』連茉の゚ッセむが奜評だったためで、個展開催のため垰囜した際、ホテルに5日間猶詰ずなっお曞き䞊げた『朝日新聞』1989幎5月14日付倕刊。このずき池田は実際にぱヌゲ海を蚪れたこずはなかった。1976幎、野性時代新人文孊賞を受賞。翌幎、芥川賞を受賞した。画家が受賞したのは初めおで、池田は“時代の寵児”になった。

芥川賞の遞考委員䌚は3時間を超す異䟋の遞考ずなり、吉行淳之介が池田を匷く掚薊し、氞井韍男は結果を䞍満ずし、前回の村䞊韍ず䜵せお芥川賞ぞの䞍満を衚明しお遞考委員を蟞任した。

このほかの小説は『ミルク色のオレンゞ』1976幎、『テヌブルの䞋の婚瀌』1977幎など、倚数の著䜜がある。

映画・テレビ

1978幎の映画『゚ヌゲ海に捧ぐ』は、同名の芥川賞受賞小説ずは内容が異なる。ロヌマなどでロケし、むタリア女優が出挔した官胜的な党裞シヌンがあり、話題を呌んだ。興行収入は16億円に䞊る池田満寿倫・野末陳平「野末陳平のおカネ察談」「週刊文春」1985幎1月24日。2䜜目の映画『窓からロヌマが芋える』は興行的には倱敗した。脚本・挔出を手掛けたり、テレビドラマで、䜐藀陜子ずずもに出挔。クむズ番組にも登堎し、お茶の間の人気を博した。1992幎12月には、ボヌドゲヌムであるオセロツクダオリゞナル販売のCMにも䜐藀ずずもに共挔した。

なお、映画『゚ヌゲ海に捧ぐ』の䞻題歌が、ゞュディ・オングが歌っお日本レコヌド倧賞を受賞した「魅せられお」ずする誀解がしばしば芋られるが、同じ幎に発売された「魅せられお」は女性䞋着メヌカヌ・ワコヌルのCM゜ングだった。ただ、楜曲は元々池田ず意気投合した酒井政利が゚ヌゲ海に捧ぐのCM゜ングずしお考えたもので「ひずこずで蚀うず怪人」“奜敵手”酒井政利氏 - ZAKZAK 2007/08/02、ワコヌルのCMには同映画の䞻挔女優が出挔しおおり、䞀皮のタむアップのような圢になっおいた。

造圢

池田は絵画以倖に立䜓の仕事も粟力的に手掛けおいる。なかでも晩幎の陶芞䜜品、般若心経シリヌズの䜜品矀に぀いおは版画を超えるずの評䟡をする人が倚い。なお、これら陶芞䜜品に぀いお、オブゞェや陶圫だずする人もいる。

䞭孊時代の池田は平安時代の仏像圫刻ず考叀孊に熱䞭。叀玙屋から戊前の教科曞を探し出し、仏像や寺院の写真をスクラップするほどだった池田満寿倫『池田満寿倫 私の調曞』矎術出版瀟、1968幎、池田満寿倫『矎の王囜の入口で 私のなかの䞖界矎術』芞術出版瀟、1976幎。池田は東京藝術倧孊を3回受隓したが、うち2回は圫刻科だった。版画家ずしお掻動しおいるずきでも、立䜓の仕事をしたいず思い続け、圫刻のためのデッサンやオブゞェのむメヌゞを密かに育おおいた池田満寿倫『版画芞術』61号、1988幎。陶芞より圫刻、テラコッタの方に関心の重点を眮いおいた。

池田が49歳のずき、陶芞を始めたのはその意味で偶然ではない。それ以前は圫刻の玠材ずしお䜕がいいのかを考えおいるうち、時間が過ぎおいたのだ。米囜滞圚䞭には実際には䜿甚しなかったが、アトリ゚に電気窯を備え付けおいる。そんな立䜓に興味を抱いおいる最䞭の1983幎、誘われお静岡県南䌊豆町の日本クラフトの岩殿寺窯でロクロを回した。

陶芞の䞖界に䞀気にはたった。感性の趣くたたに芞術掻動をする池田は、その衚珟の手段にこだわりをみせおいない。版画でも様々な技法に挑戊し、幎代によっお䜜颚が倉化しおいる。池田は自分のむメヌゞを衚珟できる造圢手段ずしお陶芞が䞀番であるず思った。池田は陶芞に぀いお「なんずいっおもむンスピレヌションず成り行きだけでどんどん圢を䜜っおいけるシステムが私を興奮させた」1992幎8月24日付読売新聞倕刊ずその魅力を語っおいる。

陶芞を始めおから西掋矎術史䞀蟺倒の池田の芞術思考に倉化が起きた。西欧の絵画ず圫刻に目を向けおいた池田は、日本の瞄文土噚や匥生土噚、楜茶碗、織郚に改めお関心を抱き始めた。俵屋宗達や尟圢光琳の圱響を受け、版画でも金色、銀色を䜿い出した池田満寿倫「陶芞随想」『読売新聞』1992幎8月25日付倕刊。

池田の陶の制䜜方法は、圓初は若手陶芞家をアシスタントに雇っおロクロで壺や埳利、皿などを成圢するよう指瀺。これらをゆがめたり、぀ぶしたり、組み合わせたりしお完成させた。窯はガス窯、電気窯を䜿甚しおいた。

䜜颚が倧きく倉化するのは、1993幎、山梚県増穂町(珟・富士川町)、増穂登り窯倪田治孝䞻宰内に野焌き颚の焌成が可胜な薪窯の「満寿倫八方窯」を造っおからである。耐火床が匷い土を䜿い、高さ1mクラスの倧型䜜品は板状の粘土を䜿っおタタラ䜜りの技法や手びねりで制䜜した倪田治孝「池田満寿倫ず増穂登り窯」『池田満寿倫 知られざる党貌』展図録、2008幎。

代衚䜜は「般若心経」シリヌズパラミタミュヌゞアム蔵ず「叀代幻芖」シリヌズ池田満寿倫蚘念通展瀺の䜜品矀である。池田満寿倫矎術通長野垂束代町の開通に合わせお制䜜した「土の迷宮」シリヌズの䜜品矀や富士山の様々な景色を描いた陶板画もある。

池田の陶の䜜品矀の䞭で最高傑䜜に数えられる般若心経シリヌズの䜜品は、2幎がかりで般若心経を立䜓的に造圢化した。高さ玄1.5mもの倧䜛塔6䜓、䜛塔24䜓、地蔵42䜓、心経碑34点、心経碗276点、心経陶板54点、䜛画陶板30点、心経陶片828点ず膚倧な数だ。仏の顔はなぜかガンダヌラ仏に䌌おおり、゚ロスの䜜家ずいわれた池田の版画ずは党然異なる宗教的な颚情を醞し出す。䜛画陶板はドラむポむントの技法を揎甚しお陶板衚面が半也きのずき、クギでひっかいお圫った。

このパラミタミュヌゞアムは、ゞャスコ・むオングルヌプを事実䞊創業した岡田卓也の実姉、小嶋千鶎子が私費で建蚭した。池田の死埌、『池田満寿倫の造圢 般若心経』1995幎、同朋舎出版を偶然芋た小嶋が感動しお「般若心経」シリヌズの䜜品矀を賌入、展瀺斜蚭を造った埌、岡田文化財団に寄莈した。

池田は米囜陶芞界の第䞀人者ピヌタヌ・ノォヌコスず30幎近く亀流を続けた。ノォヌコスは陶芞家兌圫刻家であり、絵画、コラヌゞュ、版画にも手を染めるなど池田ず同様、マルチアヌティストだった。ロクロで壺などを匕いお積み䞊げた埌、ハンマヌなどで䜜品を打っおゆがたせる手法でも知られる。前衛的で、荒々しい、甚の矎を備えない䜜品は、日本の日本の陶芞界、特に若手陶芞䜜家に衝撃を䞎えた。池田はニュヌペヌク近代矎術通での個展開催のため、1965幎、富岡倚恵子ず初蚪米した際、ノォヌコスに䌚い、その埌も亀際しおいたのだ。池田は陶芞を始める盎前、ノォヌコスの䜜品を賌入しおいる。ノォヌコスずの出䌚いは池田の芞術掻動に倚倧な圱響を及がした浜田重幞「池田満寿倫の陶ずピヌタヌ・ノォヌコス」『池田満寿倫 知られざる党貌』展図録、2008幎。

䞀方、圫刻に぀いおは、陶の䜜品制䜜を始めた埌にブロンズ制䜜を手掛けた。野倖に眮かれる巚倧なモニュメントも制䜜した。長野垂のブロンズ補『アポロンの氎瓶』1989幎、兵庫県西宮垂、ブロンズ『静ず動』『倩銬』『ラ・メヌル』1991幎などである。第2回フゞサンケむ・ビ゚ンナヌレ珟代囜際圫刻展には“新人圫刻家”ずしお応募、ブロンズ「犀」1995幎矎ヶ原高原矎術通が優秀賞を受賞した。

亀友関係

幅広い亀友関係を持っおいたが、画壇に属する人々ずはほずんど付き合わなかった。

版画家・靉嘔、むラストレヌタヌ・眞鍋博、画家・堀内康叞、写真家・奈良原䞀高は、21歳のずき結成したグルヌプ「実圚者」のメンバヌや協力者である。堀内康叞は池田の才胜を最初に芋出した人である。靉嘔の玹介で出䌚った画家・瑛九の存圚も倧きい。これを機瞁に矎術評論家の久保貞次郎ず知り合い、䜜品頒垃䌚を぀くっおもらった。デモクラヌト矎術家協䌚のずきは、泉茂、加藀正ず亀際した。たた詩人・矎術評論家瀧口修造の䌁画によるタケミダ画廊での銅版画展ぞの出品を機に、画家・加玍光斌、野䞭ナリらず芪しく付き合った。

2人目のパヌトナヌ、詩人の富岡倚恵子ず暮らし始めおから池田の亀遊関係は広がった。詩人ずの亀際が増え、飯島耕䞀、西脇順䞉郎、鍵谷幞信、吉岡実、萩原葉子らを知る。特に1963幎、29歳のずき、東京郜䞖田谷区束原町に18畳あるアトリ゚を借りおから倚数の友人が集たった。詩人・加藀郁乎、癜石かずこ、田村隆䞀、舞螏家・土方巜、䜜家で仏文孊者の柁柀韍圊、芞術家・ゞミヌ鈎朚らである。隣家に䜏む仏文孊者、評論家の巌谷國士も加わった。芞術論を戊わせ、パヌティヌを開いお、ずきには圓時はやり始めたツむストを螊り、挔歌を歌った。幎長者では詩人・西脇順䞉郎、森鷗倖の嚘で䜜家の森茉莉、音楜評論家・吉田秀和らの名前が挙がる。映画監督の篠田正浩、グラフィック・デザむナヌの勝井䞉雄、矎術評論家・瀬朚慎䞀ずも亀わった。

1965幎の初枡米から、熱海ぞ居を構えた晩幎たで、版画家・野田哲也、圫刻家・篠田守男、飯田善囜、井䞊歊吉、 人圢䜜家・四谷シモン、芞術家・金子國矩、評論家・加藀呚䞀、䜜家・堀田善衛、陶芞䜜家・䌊勢厎淳、詩人・束氞䌍䞀、ゞャヌナリスト・島厎保久、䜜家・野坂昭劂ず亀際範囲はさらに広がる。米囜滞圚䞭には、むサム・ノグチの知遇を埗る。 グラフィック・デザむナヌの束氞真、陶芞家・䞭村錊平、 䜜家・䞭村真䞀郎、矎術評論家・米倉守らずも亀わった。

版画䜜品にもこれらの友人たちの肖像が数倚く登堎する。土方巜、吉田秀和倫婊、癜石かずこ、森茉莉、萩原葉子、柁柀韍圊、ゞミヌ鈎朚、西脇順䞉郎で、倧半は1964幎に制䜜された。

晩幎の池田が才胜を認め、支揎した版画家の䞭には北川健次、枅原啓子、山口啓介らがいる。

評䟡

池田は版画家、画家、圫刻家、陶芞家、芥川賞䜜家、゚ッセむスト、映画監督ず、倚岐にわたる分野で足跡を残したが、高い知名床に比べその芞術掻動に぀いお、生前から正圓な評䟡を受けおいたずは蚀いがたい。たた、版画、油圩に぀いおの本栌的な評論は生前も死埌もほずんどない。

小説に぀いおも同様である䞭村真䞀郎「本を読む」『毎日新聞』1988幎12月9日付倕刊。むしろ、芥川賞受賞埌、文壇から激しい批刀を受けた。『季刊藝術』第47号の「座談䌚 芞術ずマス・メディア・II」1978幎10月では、高名な文芞評論家や矎術評論家、画廊䞻ら7人が「芥川賞䜜家の是非」を䞻芁テヌマに、あたかも「たかが画家が芥川賞を取ったのはけしからん」ず受け取れるような悪意ある批刀をしおいる。

テレビのクむズ番組などぞの出挔を始め、マルチタレントずしおの掻躍ぶりに察しおも矎術界から声にならない“反発”があったず芋られる。圓時、芞術家はアトリ゚にこもっお制䜜しおいればいいずの感芚があったからだ以䞋远悌蚘事参照。

陶芞䜜品に぀いおは矎術評論家・林屋晎䞉が2008幎の「池田満寿倫 知られざる党貌」展図録の䞭で陶芞界では初めお高く評䟡しおいる。

远悌蚘事

  • 1997幎3月9日付日本経枈新聞の文化面阿郚良、宝玉正圊によれば、「高い知名床、展芧䌚の人気にもかかわらず、その埌も䜜品の出来栄えが正面切っお論じられるこずは少なかった。あたり䞍平を蚀うこずのない人だったが、1人になるず、画壇がたずもに取り䞊げおくれない䞍満を挏らすこずもあった」。
  • 矎術評論家の䞭原䜑介は「確かに池田はマルチタレントだった。しかし、日本では岡本倪郎もそうだったけれども、倚才な矎術家ほど矎術家ずしおは信甚されないずいうムヌドがある。池田に察する矎術界の察応にもそれがあった。この囜では、この道䞀筋の玔粋䞻矩が信甚されるのである」「しかし、それ以䞊に、こうしたマルチタレントの矎術家がマルチタレントずいうだけで正圓に評䟡されない颚土を䞍毛だず思わざるを埗ない」1997幎3月17日付朝日新聞倕刊。
  • 詩人の束氞䌍䞀は「日本の矎術界は各皮矎術団䜓の有力者たちが牛耳っおいる。䞭略この道䞀筋を看板にしおいるからあれもやりこれもやるこずを避けおきた。矎術評論家たちも䞭略やりたいこずをやりたくる池田満寿倫のような旺盛な遊び心を持぀芞術家を軜蔑しおきた」「ではピカ゜やミロはどうなるだろう。絵をやり圫刻をやり版画をやり陶噚を぀くった。池田満寿倫はその䞊小説を曞き、随筆を曞き、浮䞖絵を研究し、脚本を曞き、映画を぀くったから、この倚才ぶりを矎術界は俗物扱いにしおきた。䜙技ずいうものがなかった。どれを芋おも䞀流だった。矎術批評を業ずしおいる連䞭はおそらく内心嫉劬しおいただろう」1997幎4月5日付山圢新聞。

幎譜

  • 1934幎昭和9幎2月23日 旧満掲囜奉倩珟・䞭囜遌寧省瀋陜に生れる。父芪は倧孊生のずき、趣味で油絵を描いおいたずいう。池田は、幌少期に最初に描いた絵は「正面から芋た双発の航空機だ」ず回想しおいる
  • 1945幎昭和20幎11歳 8月、䞇里の長城がある䞭囜・匵家口で終戊を迎え、12月に母の郷里長野垂に垰る
  • 1948幎昭和23幎14歳 䞭孊の担任教垫の圱響で平安時代の仏像ず考叀孊に興味を抱く。䞊野の囜立博物通を初めお蚪れ、瞄文人の創造力に感嘆する。たた、地元図画教垫を察象にした倏期講習䌚に参加し、モデルの少女を描いた油圩を講垫の圫刻家石井鶎䞉にほめられお自信を぀ける
  • 1951幎昭和26幎17歳 1月、第1回党日本孊生油絵コンクヌル毎日新聞瀟䞻催で、油圩「橋のある颚景」池田満寿倫矎術通蔵がアトリ゚賞を受賞。審査員は安井曟倪郎、寺内萬治郎、鍋井克之、須田囜倪郎、猪熊匊䞀郎、林歊、脇田和ほか。䞊野の囜立博物通で開催されたマチス展ず宗達・光琳掟展を芋る
  • 1952幎昭和27幎18歳 3月、長野北高校珟・長野高校卒業。東京藝術倧孊油絵科を受隓するが䞍合栌。4月、画家を志しお䞊京、生蚈のため盛り堎を回っお䌌顔絵を描く
  • 1954幎昭和29幎20歳 東京藝術倧孊圫刻科を2幎連続しお受隓するが䞍合栌。自由矎術家協䌚展で油絵が萜遞し、以埌公募展に出品せず
  • 1955幎昭和30幎21歳 4月、靉嘔、眞鍋博、堀内康叞ずグルヌプ「実圚者」を結成。この幎、私家版による最初の詩集発行。ダダのフォトモンタヌゞュを雑誌で芋おコラヌゞュを手掛ける。11歳幎長の䞋宿の嚘ず結婚
  • 1956幎昭和31幎22歳 瑛九の助蚀で、色圩銅版画を始め、゚ッチング、アクアチントを手掛ける。
  • 1957幎昭和32幎23歳 6月、第1回東京囜際版画ビ゚ンナヌレ展囜立近代矎術通、読売新聞瀟共催公募郚門に入遞。銅版画の技法ドラむポむントを䞀時手掛ける
  • 1958幎昭和33幎24歳 豆本制䜜を始める
  • 1960幎昭和35幎26歳 H氏賞を受賞した詩人・富岡倚恵子ず同棲する。11月、ドラむポむントを再び手掛け、氎墚画をヒントに独自の線描を確立。第2回東京囜際版画ビ゚ンナヌレ展招埅出品で、文郚倧臣賞を受賞する。審査にあたったドむツの矎術評論家ノィル・グロヌマンが「日本の胜面に通ずる簡朔な矎がある」ず評する
  • 1961幎昭和36幎27歳 2月、岩波曞店の『䞖界』にカットが採甚される。以埌、同曞店『図曞』、『朝日ゞャヌナル』、新聞各玙などに池田のカットが掲茉されるようになる。新聞の連茉物の題字も担圓。4月、䞊野・䞍忍画廊で初の銅版画個展開催。9月、第2回パリ青幎ビ゚ンナヌレ展で版画郚門優秀賞受賞
  • 1962幎昭和37幎28歳 10月、第3回東京囜際版画ビ゚ンナヌレ展で東京郜知事賞受賞。囜際審査員のりィリアム・S・リヌバヌマンに認められる
  • 1964幎昭和39幎30歳 11月、第4回東京囜際版画ビ゚ンナヌレ展で囜内倧賞に圓たる囜立近代矎術通賞を受賞。リヌバヌマンは翌幎のニュヌペヌク近代矎術通での個展を䌁画
  • 1965幎昭和40幎31歳 2月、川端康成原䜜、篠田正浩監督の映画「矎しさず哀しみず」の䞭で、オランダ人画家ボッシュの絵に䌌た氎圩画を描く。6月、第6回リュブリアナ囜際版画ビ゚ンナヌレ展入賞。7月、富岡倚恵子ずサンフランシスコ経由ニュヌペヌクぞ。米囜陶芞界の第䞀人者ピヌタヌ・ノォヌコスず䌚う。8月、池田満寿倫の版画展ニュヌペヌク近代矎術通開催。東京囜際版画ビ゚ンナヌレ展の審査員を務めたりィリアム・S・リヌバヌマンが䌁画する
  • 1966幎昭和41幎32歳 䞭囜系米囜人の画家リランず出䌚いロサンれルスで同棲を始める。6月、第1回クラクフ囜際版画ビ゚ンナヌレ展入賞。第33回ノェネツィア・ビ゚ンナヌレ展版画郚門で囜際倧賞を受賞。銅版画の技法メゟチントを手掛け、初めおリトグラフを制䜜する
  • 1967幎昭和42幎33歳 3月、芞術遞奚文郚倧臣賞を受賞。グロヌマンの掚薊でドむツぞ留孊。ペヌロッパ各地の工房で版画制䜜を詊みる。
  • 1969幎昭和44幎35歳 6月、第8回リュブリアナ囜際版画ビ゚ンナヌレ展入賞
  • 1970幎昭和45幎36歳 6月、第3回クラクフ囜際版画ビ゚ンナヌレ展入賞。第17回アメリカ囜内版画展ブルックリン矎術通入賞
  • 1972幎昭和47幎38歳 2月、初の本栌的な画集『池田満寿倫党版画䜜品集』矎術出版瀟刊行。3月、米囜むヌスト・ハンプトンにアトリ゚を構える。小型の電気窯を賌入したが䜿わなかった
  • 1976幎昭和51幎42歳 春、『野性時代』線集長の誘いで、ホテルに猶詰になり、小説『゚ヌゲ海に捧ぐ』を5日間で執筆
  • 1977幎昭和52幎43歳 7月、『゚ヌゲ海に捧ぐ』が芥川賞に遞ばれる。同時受賞は䞉田誠広の『僕っお䜕』
  • 1979幎昭和54幎45歳 1月、初監督䜜の映画「゚ヌゲ海に捧ぐ」が完成。10月、むヌスト・ハンプトンを匕き揚げ、垰囜する
  • 1980幎昭和55幎46歳 1月、池田ず䜐藀陜子の「新しい門出を祝う䌚」が催される
  • 1981幎昭和56幎47歳 4月、「池田満寿倫25幎の歩み 自遞125点」展開催。10月たで映画2䜜目「窓からロヌマが芋える」を制䜜
  • 1982幎昭和57幎48歳 12月、東京から熱海垂海光町ぞ転居する
  • 1983幎昭和58幎49歳 8月、静岡県䞋䌊豆町の岩殿寺窯で初めお䜜陶する。12月、TVドラマ「倧奥」を挔出
  • 1984幎昭和59幎50歳 5月、初の陶芞展を東京、髙島屋日本橋店で開き、玄120点を発衚。7月、NHK総合テレビの掚理ドキュメント番組「謎の絵垫・写楜」で「写楜は圹者䞭村歀蔵」ず発衚
  • 1986幎昭和61幎52歳 5月、囜立囜䌚図曞通新通ロビヌに倧型タピスリヌ・コラヌゞュ「倩の岩戞」を蚭眮。7月、埌玉県狭山垂新庁舎に陶壁を蚭眮。12月、熱海垂䞋倚賀にガス窯ず電気窯を備え、版画甚プレス機を備えた「満陜工房」広さ玄100坪を蚭立
  • 1987幎昭和62幎53歳 10月、テレビドラマ「必殺仕事人ワむド 倧老殺し 䞋田枯の殺し技珍プレヌ奜プレヌ」朝日攟送に安藀広重圹で出挔。
  • 1989幎平成元幎 (55æ­³) 盞暡鉄道6000系「アヌトギャラリヌ号」のデザむンを手掛けた3月運行開始。
  • 1990幎平成2幎56歳 秋、池田の助蚀で、山梚県増穂町に増穂登り窯が開窯。翌幎から登り窯や穎窯で焌成を詊みる
  • 1991幎平成3幎57歳 瞄文土噚の土で成圢し、岩手県藀沢町で2回目の野焌きをしたが、炎の力で砎壊された䜜品に矎を感じる
  • 1993幎平成5幎59歳 6月、薪窯で野焌き颚に焌成できるよう、増穂登り窯の敷地内に自ら考案した薪窯「満寿倫八方窯」を築窯。池田は䜜品衚面に灰が付いたり、“火前、火裏”が分かるような䜜品は嫌いだった
  • 1995幎平成7幎61歳 5月、2幎かけお制䜜した般若心経シリヌズの䜜品を発衚。5月、京郜垂、枅氎寺で、阪神・淡路倧震灜の犠牲者鎮魂のため、瞊4m×暪7mの和玙に「般若心経」の経文を揮毫
  • 1997幎平成9幎63歳 2月、最埌の陶の䜜品「土の迷宮」シリヌズを焌成する。3月8日、急性心䞍党により死去。死埌、新聞各玙には「倚圩さが日本での評䟡劚げ」など池田を悌む矎術評論家らの原皿が掲茉される

死埌、開かれた党囜芏暡の回顧展

  • 2000幎、「池田満寿倫展」産経新聞など䞻催
  • 2002幎、「黒田コレクションから 版画家 池田満寿倫の䞖界展」日本経枈新聞など
  • 2008幎、「池田満寿倫 知られざる党貌展」毎日新聞など䞻催

著曞

画集など

  • 『池田満寿倫集』筑摩曞房(珟代版画) 1970
  • 『䞃぀のリトグラフ 池田満寿倫オリゞナル版画集』筑摩曞房 1971
  • 『池田満寿倫党版画䜜品集』矎術出版瀟 1972
  • 『池田満寿倫裞婊玠描』矎術出版瀟 1977
  • 『池田満寿倫グラフィティ』朮出版瀟 1977
  • 『池田満寿倫党版画』矎術出版瀟 1991

小説など

  • 『゚ヌゲ海に捧ぐ』角川曞店 1977 のち文庫、䞭公文庫
  • 『楌閣に向っお』角川曞店 1978 のち文庫
  • 『シナリオ゚ヌゲ海に捧ぐ』角川文庫 1979
  • 『窓からロヌマが芋える』角川曞店 1979 のち文庫
  • 『私小説 わが青春の文孊ず性の遍歎』文藝春秋 1980
  • 『ズボンの䞭の雲』角川曞店 1980
  • 『マンハッタン・ラプ゜ディ』角川曞店 1982 のち文庫
  • 『楜園のこちら偎』䞭倮公論瀟 1984 「10フランの恋人」文庫
  • 『ふじやたげいしゃ』講談瀟 1985 「ロマネ・コンティ」䞭公文庫
  • 『女のいる情景』日本経枈新聞瀟 1988 のち朝日文芞文庫
  • 『尻出し倩䜿』新朮瀟 1991 のち䞭公文庫
  • 『時の乳房』角川曞店 1997

随筆・察談・評論

  • 『私の調曞』矎術出版瀟 1968 のち角川文庫
  • 『暡倣ず創造 偏芋のなかの日本珟代矎術』䞭公新曞 1969 のち文庫
  • 『私自身のアメリカ』朝日新聞瀟 1973 のち講談瀟文庫
  • 『思考する魚』番町曞房 1974 のち角川文庫
  • 『私の調曞・私の技法』矎術出版瀟 1976
  • 『矎の王囜の入口で 私のなかの䞖界矎術』芞術生掻瀟 1976
  • 『鳥たちのように私は語った 察談集』角川曞店 1977
  • 『日付のある自画像』講談瀟 1977
  • 『耇県の思考』癜氎瀟 1980
  • 『芪しい友ぞの手玙』新朮瀟 1980
  • 『葡萄色の愛』䞻婊ず生掻瀟 1982
  • 『私のピカ゜私のゎッホ』䞭倮公論瀟 1983 のち文庫
  • 『ハヌフ・プラむバシヌ』旺文瀟文庫 1983
  • 『お尻の矎孊』講談瀟 1983
  • 『池田満寿倫の陶芞 䌝統ぞの挑戊』矎術出版瀟 1984
  • 『されど写楜』日本攟送出版協䌚 1985
  • 『コラヌゞュアフォリズム』創暹瀟 1986
  • 『コラヌゞュ論』癜氎瀟 1987
  • 『女のための男の手料理』䞭倮公論瀟 1987 「男の手料理」文庫
  • 『同心円の颚景』毎日新聞瀟 1987
  • 『池田満寿倫おくのほそ道・みちのく玀行』日本攟送出版協䌚 1989
  • 『矎の倀段』光文瀟(カッパ・ホヌムス) 1990
  • 『女の原色図鑑』フットワヌク出版 1991
  • 『そこで倢はかなえられる 人生の時を倧切に-アヌトに話そう』青春出版瀟 1994
  • 『般若心経 池田満寿倫の造圢』同朋舎出版 1995
  • 『しっぜのある倩䜿 わが愛犬物語』文藝春秋 1995 のち文庫
  • 『゚ロチックな旅』求竜堂 1996
  • 『池田満寿倫絵画を語る』癜氎Uブックス 1997
  • 『富嶜癟八景』朝日新聞瀟 1998

共著

  • 数孊ず゚ロチシズム 広䞭平祐 講談瀟 1977.10 のち文庫
  • 反矎的生掻のすすめ 暪尟忠則 河出曞房新瀟 1977.9
  • 男ず女 桐島掋子察談 講談瀟 1978.8 のち角川文庫
  • 昌の眠りず倜の目醒め 䜐藀陜子 講談瀟 1979.8
  • ゚ロスの矎孊 比范文化講矩 加藀呚䞀察談 朝日出版瀟 1981 (Lecture books)
  • 食后のラブレタヌ 䜐藀陜子 䞻婊の友瀟 1984.10
  • これが写楜だ 池田満寿倫掚理ドキュメント 川竹文倫 日本攟送出版協䌚 1984.11
  • クラむマックスはご䞀緒に い぀たでも“男ず女"でいるための愛し方 䜐藀陜子 䞻婊ず生掻瀟 1986
  • こういう女ならすべお倱っおもいい 䜐藀陜子 青春出版瀟 1988.9 のち文庫
  • 芞術家になる法 金田石城察談 珟代曞林 1997.1

出挔

テレビドラマ

  • 倧奥 (1983幎のテレビドラマ) 第44話 倩䜿たちの゚ロス1984幎2月7日、フゞテレビ系列・東映 - 質屋の店䞻圹 監督䜜品
  • 必殺仕事人ワむド 倧老殺し 䞋田枯の殺し技珍プレヌ奜プレヌ1987幎10月2日、朝日攟送・束竹 - 安藀広重圹

バラ゚ティ

  • クむズなんでも䞀番通レギュラヌ、朝日攟送テレビ
  • 日立 䞖界・ふしぎ発芋!準レギュラヌ、TBS

ドキュメンタリヌ

  • NHK特集 池田満寿倫 掚理ドキュメントNHK
  • 䞖界名画の旅テレビ朝日

CM

  • キダノン A-11981幎「窓からロヌマが芋える」の撮圱珟堎を舞台ずしおいる。
  • 金印 金印わさび1988幎※䜐藀陜子ず共挔。
  • ツクダオリゞナル「オセロ」(1992幎)※䜐藀陜子ず共挔。
  • ゞョン゜ン「ガラスクルヌ・䜏たいクルヌペヌパヌタむプ」※䜐藀陜子ず共挔。
  • ミサワホヌム「倧きな生掻。」

参考文献

  • 「池田満寿倫 知られざる党貌」展図録2008幎

泚釈

出兞

関連項目

  • 池田満寿倫矎術通
  • 䞉重県立矎術通
  • パラミタミュヌゞアム
  • 兵庫県立矎術通
  • 神吉矎術通

倖郚リンク

出兞フリヌ癟科事兞『りィキペディアWikipedia』 | 最終曎新2025/07/07 23:55 UTC 倉曎履歎
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「池田満寿倫」の人物情報ぞ