フレデリック・ショパン : ウィキペディア(Wikipedia)

フレデリック・フランソワ・ショパン( 、国際音声記号による発音表記は 。 、生年未詳(1810年3月1日または2月22日、1809年説もありモーリッツ・カラソフスキ『ショパンの生涯と手紙』の第2章冒頭で述べられている説である。ドイツ語版(1877年出版)、ポーランド語版(1882年出版)、日本語版(柿沼太郎訳、1923年)) - 1849年10月17日)は、ポーランド出身の、前期ロマン派音楽を代表する作曲家。当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家としても有名だった。その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、ピアノの詩人フランス語 le poète du piano、ポーランド語 poeta fortepianu、英語 the poet of the piano、ドイツ語 der Poet am Klavierなど。とも呼ばれるようになった。様々な形式・美しい旋律・半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開いていった。夜想曲やワルツなど、今日でも彼の作曲したピアノ曲はクラシック音楽ファン以外にもよく知られている。これらの情熱的かつダイナミックな曲はクラシックピアノを学ぶ者の憧れであり、大きな目標となっている。そのためピアノの演奏会において取り上げられることが多い作曲家の一人である。また、母国ポーランドへの強い愛国心からフランスの作曲家としての側面が強調されることは少ないが、父の出身地で主要な活躍地だった同国の音楽史に占める重要性も無視できない。

1988年からポーランドで発行されていた5,000ズウォティ紙幣に肖像が使用されていた。また、2010年にもショパンの肖像を使用した20ズウォティの記念紙幣が発行されている。2001年、ポーランド最大の空港「オケンチェ空港(Port lotniczy Warszawa-Okęcie)」が「ワルシャワ・ショパン空港」に改名された。

略歴

  • 1810年 - 0歳:ワルシャワ公国中央のジェラゾヴァ・ヴォラに生まれる。
  • 1816年 - 6歳:ヴォイチェフ・ジヴヌィの指導を受ける。
  • 1817年 - 7歳:ジヴヌィよりピアノを習う。現存する最初の作品『ポロネーズ ト短調』を作曲・出版。
  • 1818年 - 8歳:ワルシャワではじめて公開演奏。
  • 1823年 - 12歳:ユゼフ・エルスネルより対位法・和声学を学ぶ。
  • 1826年 - 16歳:父親の勧めでワルシャワ音楽院に入学。
  • 1828年 - 18歳:ベルリンに2週間滞在。
  • 1829年 - 19歳:ワルシャワ音楽院を首席で卒業。ウィーンで演奏会を開く。
  • 1830年 - 20歳:ワルシャワを去りウィーンへ向かう。
  • 1831年 - 21歳:ウィーンを去りパリへ向かう。デルフィヌ(デルフィナ)・ポトツカ夫人と再会。
  • 1832年 - 22歳:2月26日、パリでの初の演奏会を開く。
  • 1835年 - 25歳:カールスバートで両親と最後の再会。マリア・ヴォジンスカとも再会。
  • 1836年 - 26歳:マリアに求婚。ジョルジュ・サンドと出会う。
  • 1837年 - 27歳:マリアとの婚約が破棄される。
  • 1838年 - 28歳:サンドとの交際が始まる。マヨルカ島に滞在。
  • 1839年 - 29歳:冬はパリ、夏はノアンのサンドの別荘で暮らす生活が始まる。
  • 1844年 - 34歳:冬、インフルエンザにかかる。
  • 1847年 - 37歳:ジョルジュ・サンドとの別れ。
  • 1848年 - 38歳:2月26日、パリでの最後の演奏会。イギリスへ演奏旅行。
  • 1849年 - 39歳:姉、ルトヴィカと最後の再会。10月17日、永眠。

生涯

幼少期

ショパンの父親はニコラ・ショパンといい、ロレーヌから1787年に16歳でポーランドに移住してきたフランス人だった。1794年のコシチュシュコの蜂起で、彼はワルシャワの市民兵として戦いに加わり、副官へ昇格した。彼のフランスで受けた洗礼名はニコラ(Nicholas)だったが、ポーランドではポーランド風の名前を名乗ることにし、ミコワイ(Mikołaj)とした。元来外国人だった彼だが、時とともに完全にポーランドに馴染んだ。ポーランドの歴史家・公文書保管人のワパチンスキ(Łopaciński)によれば、彼は「自分のことをポーランド人と考えて疑うことがなかった」という。

フランス語が堪能だったニコラは知られる存在となり、貴族の家庭教師をするようになった小坂 p7.。その中にはスカルベク(Skarbeks)がおり、ニコラはその遠い親戚であるユスティナ・クシジャノフスカ(Justyna Krzyżanowska)と結婚した。彼女はシュラフタ(ポーランド貴族)の娘だったが、地位を失いスカルベク家に住み込んで侍女をしていた。二人の結婚式は16世紀のブロフフポーランド中央東寄り、マゾフシェ県、ソハチェフ群の村。ワルシャワより52kmの位置にある。(Brochów)の教区の聖ロフ教会で、1806年6月2日に執り行われた。ユスティナの兄弟には、アメリカの南北戦争で北軍の准将を務めることになるがいた。

フレデリック・ショパンは夫妻の2人目の子供として生まれた。彼は当時ワルシャワ公国だったワルシャワから西に46kmの地点にあるジェラゾヴァ・ヴォラ村で生まれた。1892年に発見された教区の洗礼記録によると、彼の生年月日は1810年2月22日となっているがブロフフの聖ロフ教会のショパンの洗礼記録(ラテン語表記、4月23日付)では、ショパンの生まれた日は2月22日とされている。これは本人やその家族の主張する3月1日という日付より一週間早い。ショパンが1833年1月16日にパリのポーランド文学協会(Polish Literary Society)の議長に宛てた書簡には、彼が「1810年3月1日にマゾフシェ県のジェラゾヴァ・ヴォラ村で生まれた」と記されている。

ショパンは1810年4月23日の復活祭の日曜日、両親が結婚式を挙げたのと同じブロフフの教会で洗礼を受けた。登記簿には彼の名前はラテン語表記でFridericus Franciscus、ポーランド語表記でFryderyk Franciszekと記されている。彼の代父となったフレデリック・スカルベク(Fryderyk Skarbek)は後に監獄を改修する仕事監獄を改修し、より刑罰に適した環境に造り変える仕事。(Prison Reform)に従事し、第二次世界大戦で悪名をとどろかせたパヴィアク刑務所の設計に携わった。また彼は第二次世界大戦でイギリスの特殊作戦執行部戦時経済担当大臣(Minister of Economic Warfare)のヒュー・ダルトン(Hugh Dalton)によって組織された部隊。スパイ、サボタージュ、枢軸国の偵察、各地の抵抗運動への協力を行っていた。に所属していたクリスティナ・スカルベク(Krystyna Skarbek)の曽祖おじにあたる。代父の息子のヨーゼフ・スカルベクは、かつてショパンと婚約関係にあったマリア・ヴォジンスカ(Maria Wodzińska)と1841年に結婚する。

File:Poland Zelazowa Wola.jpg|ショパンの生家ジェラゾヴァ・ヴォラ村にある伯爵ウォンチニスキ家(Łączyński)のマナー・ハウス。ポーランド国立ショパン博物館分館。 File:Church of Saint Rocha and Saint Jana Chrzciciela in Brochow.jpg|聖ロフ教会ブロフフ村。ここでショパンの両親が結婚し、またショパンが幼児洗礼と堅信礼を受けた。 File:Brochow Chopin3.JPG|教会内部「この聖域において、ジェラゾヴァ・ヴォラ村で1810年2月22日誕生のフレデリック・ショパンが1810年4月23日に洗礼を受けた」 File:Brochow Chopin2.JPG|教会内部写真はショパンが洗礼を受けたときにも使われた聖水盤。 File:Fridericus Franciscus Choppen.jpg|ショパンの洗礼記録

1810年10月、ショパンが7か月の時、ポーランドの言語学者・司書・辞書編集者。ワルシャワ中等学校の校長だった。が父に1804年開校のワルシャワのセカンダリー・スクール。1830年の11月蜂起の後、ロシア帝国に閉鎖された。でフランス語を教えないかと持ちかけ、承諾した父と共に家族はワルシャワに移住した。中等学校はサスキ宮殿1666年建造。1944年のワルシャワ蜂起の後のドイツ軍による計画破壊(Planned destruction of Warsaw)でアーケードのみ残して消滅した。内にあり、ショパン一家は宮殿の庭園に住むことになった。サスキ宮殿は1817年にコンスタンチン・パヴロヴィチによって軍用地として徴収され、中等学校はカジミェシュ宮殿1660年建造。サスキ宮殿同様の経緯で1944年に破壊されたが、2006年にEUの基金などによって再建された。へ移動を余儀なくされた。カジミェシュ宮殿には新たに設立されたワルシャワ大学も入居していた。ショパン一家は隣接する建物の二階で広々と暮らすことになった。ショパンもワルシャワ中等学校に1823年から1826年にかけて通った。

ポーランドの精神・習慣・言葉はショパンの家庭に浸み込んでおり、ショパンはパリに出てからもフランス語を完全には自分のものにできなかった「言葉は父から子に共通していた別の問題である。自らの出自を隠し、自分がポーランド人であることを示そうとしたニコラは、敵の前線に潜入したスパイの如く慎重であった。彼はポーランドで生まれた子どもたちに、自分のフランスの家族のことを1度も話さなかったようである。フランス語は貴族にとっては『リングワ・フランカ』(共通語)であり、ニコラが他人の子息に教えるものではあったが、自分の子どもには教えなかったのである(中略)結果としてフレデリックのフランス語文法と綴りの把握はおぼつかないものとなった。並外れた『耳』と幼い頃のずば抜けた物真似を褒められていた自分物としては驚くべきことだが、彼の発音もまた貧弱なものであった。より印象的なのは、彼が取り入れた言葉に居心地の悪さを感じていたということだった。フランス人とのハーフで、移民天国であるパリに住みながら、ショパンは常に2重の疎外感を覚えていた。祖国と母語からの疎外感である。外国語という檻の中に閉じ込められたショパンにとって、音楽の持つ表現力が自分を解き放ってくれるものだったのである」Benita Eisler, Chopin's Funeral, Abacus, 2004, p. 29.。伝記作家のルイ・エノーフランスのジャーナリスト・小説家。1824年、カルヴァドス県、イジニ・シュール・メール(Isigny-sur-Mer)生まれ。(Louis Énault)はジョルジュ・サンドの言葉を借りて、ショパンは「ポーランドよりもポーランド的」と評している「ショパンは半生をパリで過ごしながらもポーランド人の性質を持ち続けており、『孤独な魂』であった。伝記作家のルイ・エノール(Louis Enault)はこう述べている。『スラヴ人は自らを快く貸しはするが、与えはしない。ショパンはポーランドよりもポーランド人的である。』」。

ショパンの家族は皆音楽の才能に恵まれていた。父ニコラはフルートとヴァイオリンを演奏できた。母ユスティナはピアノに長けており、一家で切り盛りしていたエリートの寮で寮生の少年たちに指導をしていたので、「両親の寮の下宿生のうち4人が、彼の親友となった。ティトゥス・ヴォイチェホフスキ、ヤン・ビャウォブウォツキ、ヤン・マトゥシンスキとユリアン・フォンタナである。彼は(後に)後者2人とはパリでの生活を共にすることになる」Tad Szulc, Chopin in Paris, pp. 41–42.「Tytus Woyciechowskiは最も重要な人物で(中略)1827年にBiałobłockiが結核で死亡してからは、フレデリックは彼を生涯で唯一の最大の信頼を寄せる腹心の友としたのである」Tad Szulc, Chopin in Paris, p. 42.ショパンは幼い頃から様々な音楽に親しむことができた。

ショパンと同時代の音楽家の1813年生まれ。音楽活動・音楽評論活動などを行った。の著書『ショパンの想い出 Wspomnienie Chopina』によると、幼いショパンは母が弾くピアノを聴いて感極まって涙を流したという。彼は6歳にして、耳にした旋律を再現しようとしたり、新たなメロディーを作ろうとしたりした。しかし、ショパンに最初にピアノを教えたのは母ではなく、姉のルドヴィカだった。

ショパンが本格的にピアノを習ったのは1816年から1822年、指導者はチェコ人のヴォイチェフ・ジヴヌィだった。若きショパンの実力はあっという間に師匠を超えてしまったが、ショパンは後年ジヴヌィを高く評価していた。わずか7歳の「ショパン少年 Szopenek」は公開演奏を行うようになり、瞬く間に神童モーツァルトやベートーヴェンと比較されるようになっていった。

同年、7歳のショパンはト短調と変ロ長調の2つの『ポロネーズ』を作曲した。前者は老イジドル・ユゼフ・チブルスキIzydor Józef Cybulski; 彫刻師・作曲家・オルガン学校の校長で、ポーランドで数少ない音楽出版業を営んでいたの印刷工房で刷られ、出版された。後者は父ニコラが清書した原稿の状態で見つかっている。これらの小品はワルシャワの先導的作曲家たちの人気の『小ポロネーズ』のみならず、ミヒャウ・オジンスキポーランドの作曲家・外交官・政治家。スタニスワフ・ポニャトフスキ王に仕え、為政を支えた。(Michał Kleofas Ogiński)の有名な『大ポロネーズ』にも匹敵する作品と言われた。この後の旋律・和声・ピアノ奏法の創意工夫は、知られている次の『ポロネーズ 変イ長調』に明らかである。この曲は1821年に聖名祝日の贈り物としてジヴヌィに捧げられた。

幼少期の知的好奇心旺盛なショパンは、まるで乾いたスポンジのように何でも吸収し、それを発展させるためならば何でも利用した。彼は早くから観察とスケッチ、鋭いウィットとユーモアの感性に能力を示し、ものまねにも才能を持っていた。

この頃、11歳のショパンは、議会(セイム)の開会のためにワルシャワに来ていたロシアの皇帝アレクサンドル1世の御前で演奏を披露した。また、ポーランド立憲王国の副王だったコンスタンチン・パヴロヴィチ大公の息子の遊び相手としてベルヴェデール宮殿1660年建造。1818年以降、パヴロヴィチの住居になっていたが、彼は11月蜂起で追放される。(Belweder)に時々招かれ、ピアノを弾いて怒りっぽい副王を魅了した。

ユリアン・ニームチェヴィツベラルーシ生まれのポーランドの詩人・劇作家・政治家。中級貴族の御曹司であり、アダム・カジミェシュ・チャルトリスキの側近として仕えた。(Julian Ursyn Niemcewicz)は、劇的エクローグ『我らの交わり Nasze Verkehry』(1818年)の中で、8歳のショパン少年を対話の題材に据えて、その人気の高さについて証言している。

1820年代、ワルシャワ中等学校とワルシャワ音楽院に通っていたショパンは、休暇の度にワルシャワから離れて過ごすようになった。1824年と1825年にはシャファルニャ、1826年にはバート・ライネルツ(現:ドゥシュニキ・ズドルイ)現在のポーランド南西部ドルヌィ・シロンスク県、チェコとの国境に位置する、19世紀初頭にこの地方で栄えた温泉リゾートの町。当時はプロイセン領。若きショパンも温泉を目指して訪れた。1826年には2度のチャリティーコンサートを開催し、チケット売り上げの全額を孤児支援基金に寄付した。現在では世界最大のショパン祭りが毎年開かれている。(Duszniki-Zdrój)、1827年にはポメラニア、1828年にはサンニキポーランド中央、マゾフシェ県の村。ワルシャワから西に約79km。(Sanniki)を訪れた。

休暇で訪れたシャファルニャ村やその他の町では、ショパンは民謡に触れた。この経験は後になって彼の作品へと形を変える。シャファルニャから彼の家に送られた長い手紙は、時代を反映した活き活きとしたポーランド語で綴られており、ワルシャワの新聞のパロディとして仕立てられたその手紙は大いに家族を楽しませた。

File:Szafarnia Manor Hause.jpg|シャファルニャ1824年・1825年にショパンが滞在した。写真はシャファルニャのマナー・ハウス。 File:Duszniki - muzeum.JPG|ドゥシュニキ・ズドルイ村温泉リゾート。ショパンは1826年に訪れた。 File:UW Gmach Porektorski bok.JPG|ショパンの住居ショパンがワルシャワに移って最初に住んだ家。ワルシャワ大学の構内だった。現在はワルシャワ大学東洋学部日本学科が入っている。

教育

ショパンは13歳になるまで家庭でジヴヌィから指導を受けており、1823年のワルシャワ学院入学後もその関係は続いた。1825年には演奏会でイグナーツ・モシェレスの曲を弾くとともに即興演奏で聴衆を魅了し、「ワルシャワで最高のピアニスト」と絶賛された。

ショパンは1826年にシレジア出身の作曲家ユゼフ・エルスネル(エルスナーなどと表記されることもある)の指導の下、ワルシャワ音楽院で3年の教育課程に入った。。そして1826年に本格的な師弟関係が始まり、ショパンはエルスネルに付いて音楽理論・通奏低音・作曲の勉強を開始した。

エルスネルはショパンの通知表に「顕著な才能」そして「音楽の天才」と記している。ジヴヌィもそうだったように、エルスネルもまたショパンの才能が開花するのに対して手を施すことはなく、ただ見守るだけだった。エルスネルはショパンを指導するにあたって「偏狭で、権威的、時代遅れな」規則で「押さえつける」ことを嫌い、若い才能を「彼自身の決めたやり方の通りに」成長させていくことにした。

1827年に一家はワルシャワ大学と通りを挟んで丁度向かいにあたる、クラコフスキ区宮殿や教会などに囲まれた、ワルシャワでも有名かつ誉れ高い一角。(Krakowskie PrzedmieścieKrakowskie Przedmieście )のクラシンスキ宮殿チャプスキ宮殿の別名。ポーランドでも優れたロココ調建築の一つと考えられている。(Czapski Palace )南館に移り住んだこの場所は現在、ワルシャワ芸術アカデミー(Academy of Fine Arts in Warsaw)になっている。。この場所でもショパンの両親はエリート男子学生のための寄宿塾の経営を続けた。ショパンは1830年にワルシャワを後にするまで、ここに住んだ。1837年から1839年には詩人のツィプリアン・カミル・ノルヴィト1821年生まれ。ポーランドの詩人・劇作家・画家・彫刻家。ポーランド王ヤン3世の血筋に当たる。(Cyprian Norwid ()が芸術アカデミーで絵画を専攻する間、ここに住んだ。彼は後に1月蜂起でロシア兵がショパンのピアノを投げ捨てたことに関して、『ショパンのピアノFortepian Szopena』という詩を詠んだ。ショパンが通った床屋は現在博物館として公開されている。ショパンはその店で幼少期の作品の多くを初演した。

File:Piano of Chopin.JPG|ショパンのピアノ File:Rekopis chopin.jpg|『ショパンのピアノ』ノルヴィト作 File:Warszawa, ul. Krakowskie Przedmieście 5 20170516 002.jpg|ショパンの住居ショパンがポーランドを離れる直前まで住んだワルシャワの家。チャプスキ家宮殿(チャプスキ家が購入する前のオーナーの名前を取りクラシンスキ家宮殿とも呼ばれる)。

両親の営む寄宿塾の寮生の中で4人がショパンと親しくなった。ティトゥス・ヴォイチェホフスキ1808年生まれ。実業家・芸術家のパトロン。(Tytus Woyciechowski)、ヤン・ビャウォブウォツキ、ヤン・マトゥシンスキ1809年生まれ。医師。(Jan Matuszyński)、ユリアン・フォンタナである。ショパンは同じジヴヌィ門下だったティトゥスとは特に親しく付き合った小坂 p27-28.。またマトゥシンスキ、フォンタナとはパリに出てからの生活でも交流を続けた。

1829年、ポーランドの肖像画家のアンブロツィ・ミエロシェフスキがショパンの両親、姉のルドヴィカ、妹のイザベラとショパン本人の肖像画を描いた(一番下の妹のエミリアは1827年に亡くなっていた)。この肖像画の原本は第二次世界大戦で消失しており、現在はモノクロの写真が残る。1913年にフランスの音楽学者・ショパンの伝記作家のエドゥアール・ガンシュ1880年生まれ。ショパン研究家。1911年にはラヴェルらと共にパリにショパン協会(Société Chopin)を設立している。(Édouard Ganche)はこう記した。「(この肖像画からは)この若者が結核に罹っていることがわかる。彼の肌は極端に白く、喉頭隆起が見られ、頬は落ち窪んでいる。また耳も結核に典型的な消耗を呈している」。妹エミリアの14歳での死因も結核であり、また父も1844年に同じ病に倒れることになる。

ポーランドの音楽学者・ショパンの伝記作家のズジスワフ・ヤヒメツキ1882年生まれ。ポーランドの音楽史家・作曲家。ヤギェウォ大学やクラクフ音楽アカデミーの教授を務めた。(Zdzisław Jachimecki)によれば、若いショパンはそれまでのどの作曲家と比べることも困難だという。なぜなら、ショパンが人生の前半に作曲した作品には既に高い独創性が見られるからだ。バッハやモーツァルト、ベートーヴェンですら、同じような年頃には初心者の域を脱しなかったのに対し、ショパンは貴族や聴衆から既に来るべき時代の行方を示す大家として受け入れられていたのである。

ショパンは自作に自ら表題を与えることはせず、単純に曲のジャンルと番号によって個々を区別していたJachimecki, p. 421. Hedley, Encyclopædia Britannica, p. 264:「彼は生涯を通じて、叙述的な表題や『筋書き』を下敷きにするのを嫌悪するのと同様に、(美的な感覚に)重きを置いていた」。彼の作品には内容を表すかのような表題が付つけられているものがあるが、それは出版社などの他人が、彼の意に反して付けたものである。。しかし、彼の作品は感情的・感覚的な人生体験に触発されることもしばしばあった。そのような霊感を与えた最初の人物は、ワルシャワ音楽院の声楽科学生で後にワルシャワ・オペラの歌手となった美しいコンスタンツヤ・グワトコフスカ1810年生まれ。ポーランドのソプラノ歌手。1830年にポーランドを後にするショパンの送別会で歌っている。2年後に結婚し、5人の子をもうける。1845年に失明。1889年にスキェルニェヴィツェで死去。(Konstancja Gładkowska)である。親友のティトゥス・ヴォイチェホフスキに宛てた手紙の中で、彼のどの作品のどのパッセージが彼女への恋心から生まれたものであるかを綴っている。彼はティトゥスにだけ自分の気持ちを吐露していた小坂 p28.。彼の芸術家としての精神はマウリツィ・モツナツキ1803年生まれ。ポーランドの文学・演劇・音楽批評家。また、出版者・記者・ピアニストなどとしても活躍した。(Maurycy Mochnacki)、ユゼフ・ザレスキ1802年生まれ。ポーランドの詩人。アダム・ミツキェヴィチの友人だった。ウクライナ詩作学校(Ukrainian school)の創設に関わる。(Józef Bohdan Zaleski)、ユリアン・フォンタナとの交友で豊かになっていった。

青年期

1828年、ショパンはより広い世界に活躍の場を広げていく。家族的な付き合いのあったフェリクス・ヤロツキ1790年生まれ。ポーランドの動物学者・昆虫学者。40年以上にわたってワルシャワ大学の動物学科を組織した。(Feliks Jarocki)が 学会に出席するので同行して、ベルリンに赴く。ベルリンでは、ガスパーレ・スポンティーニの指揮する馴染みのないオペラを鑑賞し、演奏会を聴きに行き、またカール・フリードリヒ・ツェルター1758年生まれ。ドイツの作曲家・指揮者・教育者。メンデルスゾーン姉弟やマイアベーアなどを教えた。(Carl Friedrich Zelter)やメンデルスゾーンなどの著名人らと出会い、ショパンは楽しんで過ごす。また、彼はその2週間ほどの滞在中にウェーバーの歌劇『魔弾の射手』、チマローザの歌劇『秘密の結婚』、ヘンデルの『聖セシリア』を聴いた。その帰途ではポズナン大公国の総督だったラジヴィウ公に客人として招かれた。ラジヴィウ公自身は作曲をたしなみ、チェロを巧みに弾きこなすことができ、またその娘のワンダ(Wanda)もピアノの腕に覚えがあった。そこでショパンは『序奏と華麗なるポロネーズ Op.3』を二人のために作曲した 。

1829年、ワルシャワに戻ったショパンはパガニーニの演奏を聴き、ドイツのピアニスト・作曲家のフンメルと出会った。同年8月には、ワルシャワ音楽院での3年間の修行を終えて、ウィーンで華やかなデビューを果たす。彼は2回の演奏会を行い、多くの好意的な評価を得た。一方、彼のピアノからは小さな音しか出なかったという批判もあった。続くコンサートは12月、ワルシャワの商人たちの会合で、彼はここで『ピアノ協奏曲第2番 Op.21』を初演した。また1830年3月17日にはワルシャワの国立劇場で『ピアノ協奏曲第1番 Op.11』を初演した。この頃には『練習曲集』の作曲に着手していた初演時期などには異説がある。各曲へのリンクなども参照。。

File:4 Warszawa-Lazienki Krolewskie 092.jpg|ワジェンキ水上王宮ポーランドのワルシャワに位置する。写真は王宮のオランジュリー。ショパンがよく演奏会を行った。 File:4 Warszawa-Lazienki Krolewskie 107.jpg|王宮公園内のショパン像 File:Poland Warsaw Łazienki Park 2.jpg|像のもとでのコンサート初夏から初秋にかけて同ショパン像のもとでは、毎週日曜日の午後に無料ピアノリサイタルが開かれ、ショパンの曲目が演奏されている。 File:SM Antonin pałac myśliwski(3) ID 653820.jpg|ラジヴィウ家の宮殿ポーランド西部、ヴィエルコポルスカ県アントニンにある、狩猟用の宮殿・邸宅。ラジヴィウ家は大貴族(マグナート)であり、その当主のアントニ・ヘンリク・ラジヴィウに招かれてショパンが頻繁に滞在し演奏会を催した。現在はここでショパン祭りが毎年開催される。 File:6 Antonin 16.jpg|宮殿の内装

演奏家・作曲家として成功したショパンは、西ヨーロッパへと活躍の場を広げていく。1830年11月2日、指にはコンスタンツィア・グワドコフスカからの指輪、また祖国の土が入った銀の杯を携えショパンは旅立ったこのあたりのエピソードに関しては、作り話という指摘もある。。ヤヒメツキはこう記している。「広い世界に出ていく。こうでなくてはならないと決まりきった目的は、これからもない」。ショパンはオーストリアに向かったが、その次にはイタリア行きを希望していた。

その後、11月蜂起が起こる。ショパンの友人であり、将来的には実業家・芸術家のパトロンとなる旅の仲間のティトゥス・ヴォイチェホフスキは戦いに加わるためにポーランドに引き返した。ショパンは一人ウィーンで音楽活動をするが活躍できなかった。ヤヒメツキはこう記す。「望郷の念に苦しみ、演奏会を開いたり曲を出版したりする当てがはずれたことで、成長し、精神的な深みを増した。彼はロマン派の詩人だったのが、祖国の過去、現在、未来を感じることができる霊感豊かな国民学派的詩人へと成長したのである。この時、この場所からでこそ、彼はポーランド全体を適切な見通しを持って眺めることができたのであり、祖国の偉大さと真の美しさ、そして悲劇と栄光の移り変わりを理解することができたのである」。この蜂起を受けてウィーンでは反ポーランドの風潮が高まり、また十分な演奏の機会も得られなかったため、ショパンはパリ行きを決断した。

1831年9月、ウィーンからパリに赴く途上、ショパンは蜂起が失敗に終わったことを知る。彼は母語のポーランド語で「コンラッド(Konrad)コンラッドはショパンの友人のアダム・ミツキエヴィチの詩に登場するポーランド愛国の英雄。ショパンは後にミツキエヴィチの詩のいくつかに作曲を行う。の最後の即興詩のような、冒涜に冒涜を重ねた言葉」を小さな雑誌に書き込んで、終生それを隠した「このショパンの志の形になったもの(文章は1871年にStanisław Tarnowskiが最初に出版したもの)は、今日(1937年現在)ワルシャワのポーランド国立図書館のショパン記念品類の中にある(もともと雑誌は、ショパンの弟子だったMarcelina Czartoryska王女が保管していたもの)」Zdzisław Jachimecki, "Chopin, Fryderyk Franciszek," Polski słownik biograficzny, vol. III, 1937, p. 422.。彼は家族と市民の安全が脅かされることや、女性がロシア兵に乱暴されることを懸念していた。また「親切だったソヴィンスキ大将1777年生まれ。ポーランドの砲兵隊大将。1831年9月6日にはロシア軍の侵攻からワルシャワを防衛するが、降伏後に銃剣で殺害されたという。(Józef Sowiński)」の死を悲しみ(ショパンは大将の妻に作品を献呈したことがあった)、ポーランドの援護に動かなかったフランスを呪った。そして神がロシア軍にポーランドの反乱を鎮圧することを許したことに幻滅した。「それともあなた(神)はロシア人だったのですか」。こうした心の痛みによる叫びは『スケルツォ第1番』『革命のエチュード』などを作曲した。

パリ時代

パリに到着したが、このときはまだこの地に居を構えるか迷っていた。最初は、現在のパリ2区ポワソニエール大通り (Boulevard Poissonnière) 27番地に住みAndré Boucourechliev 「<i>Regard sur Chopin</i>」Fayard, collection. « Les Chemins de la musique », 1996. p61 フランス語、翌1832年に現在の9区シテ・ベルジェール (Cité Bergère)、1836年に同ショセ=ダンタン通り38番地へ転居したようにMarie-Paule Rambeau 「Chopin : l'enchanteur autoritaire」 L'Harmattan,collection. « Univers musical », 2005. p269, p307 フランス語、実のところ彼は二度とポーランドに帰国することはなかったので、多くの「ポーランドの大移民1831年から1870年の間に、ポーランドから国外へ移住した知的階層を指す。これは当時ポーランドがロシア帝国・プロイセン王国・ハプスブルク君主国の3国に分割されていたことに起因する。(Great Emigration)」の一人となったことになる。1832年2月に開いた演奏会では、誰もがショパンを賞賛した。大きな影響力を持っていた音楽学者・批評家のフェティスは「ルヴュ・ミュジカル誌 Revue musicale」にこう記した。「ここにいる若者は、完全なるピアノ音楽の刷新ではないとしても、とにかく長きに渡って希求されつつも果たされなかったこと、つまり史上かつてないような途方もない独創的発想を、誰かを範とすることなく成し遂げたのである」。その3ヶ月前の1831年12月には、シューマンがショパンの『ラ・チ・ダレム変奏曲 Op.2』を評して「一般音楽新聞 Allgemeine musikalische Zeitung」にこう記している。「諸君、脱帽したまえ、天才だ」

パリでショパンは芸術家や他の著名人と出会い、才能を磨き名士として認められ、ヨーロッパ中から集まる多くの弟子にピアノを教えることで、相当の収入を得た。彼はベルリオーズ、リストベッリーニ、ヒラー、メンデルスゾーン、ハイネ、ドラクロワ、チャルトリスキ公、ヴィニー、アルカンらと交友関係を築いた。

ショパンは熱烈なポーランド愛国主義者だったが、フランスではフランス式の名前を名乗っていた。フランスの旅券で旅行していたが、これはロシア帝国発行の書類に頼るのを避ける必要があったためではないかと思われるショパンのフランスのパスポート。Tad Szulcはこう記している。「(略)フランスが彼にパリでの無期限の滞在資格を与えたのは『彼の芸術を完成させるため』である。4年後、フレデリックはフランス国民となり、1835年8月1日付けでフランスのパスポートが交付された。彼が国籍を変更することに関して、父を含め誰かに相談したという事実は知られていない。彼が国籍を変更したのは、ロシア大使館に赴いてロシアのパスポートを更新するのを愛国的な理由から避けたいがためだったのか、それとも単に日常の利便性の問題だったのか、定かではない」Tad Szulc Chopin in Paris, p. 69。このフランスの旅券が発行されたのは1835年8月1日であり、これを境にショパンはフランスの市民となった。

ショパンがパリで公開演奏会を行うことはほとんどなかった。後年、彼は300席を擁するサル・プレイエルで毎年1回コンサートを行うようになるが、それよりも彼が頻繁に演奏を行ったのはサロンだった。サロンは貴族や芸術・文学のエリートの集まる場だったが、彼はパリの自宅で友人との小さな集まりを開いて演奏するのをより好んでいた。彼の健康状態は思わしくなく、そのためヴィルトゥオーゾとしてあちこち外遊することはできなかった。一度ルーアンで演奏した他には、首都を出て旅をすることはほとんどなかったという。彼は教育・作曲によって高収入を得ていたため、もともと好きではなかった演奏会を開かなければならないという重圧から逃れることができた。アーサー・ヘドレイ1905年生まれ。イギリスの音楽学者。ショパンの伝記を著した。(Arthur Hedley)はこう見ていた。「生涯を通じてわずか30回を少し超えるくらいという、できるだけ公の場に出なかったショパンが、ピアニストとして最大級の名声を獲得していたことは特殊なことである」

1835年、ショパンはカールスバートに行き、そこで生涯最後となる両親との再会を果たした。パリへ戻る途中でザクセン州を通った彼は、ドレスデンでワルシャワ時代に親交のあったポーランド人貴族のヴォジンスキ伯爵(Wodziński)一家に会った。5年前にポーランドで顔見知りだった娘のはその時16歳になっていた。その若い彼女の知的で、芸術の才にも優れた魅力的な様子に、彼は恋に落ちてしまう彼女は「ショパンがピアノを弾き、喋っている間に彼の頭部をスケッチし、次に彼を肘掛け椅子に座らせて水彩で肖像を描いた。これは現存する中でドラクロワの作品に次いでよく出来た肖像画である。ショパンはリラックスし、哀愁を帯び、平和そうに見える」Tad Szulc, Chopin in Paris, p. 137. ヴォジンスカの肖像画が正確だったことは、彼女の1830年代の自画像と後年に撮られた写真を比べることで想像がつく。。翌1836年の9月にはヴォジンスキ一家とマリーエンバートでの休暇を取り、ドレスデンに戻るとすぐにショパンは彼女にプロポーズする。彼女は求婚を受け入れ、その母のヴォジンスカ夫人も一応認めたものの、マリアがまだ若かったこととショパンの健康状態の悪さ1835年から1836年にかけての冬には彼の病状は非常に悪く、ワルシャワではショパンは死んだという噂が囁かれたほどだったによって結婚は無期限の延期を余儀なくされる。この婚約は世に知らされることはなく、結局ヴォジンスキ家がショパンの健康状態への懸念から破棄したことにより、結婚はついに現実のものとはならなかった1841年7月24日、マリア・ヴォジンスカはショパンの名付け親であるFryderyk Florian Skarbekの息子のJózef Skarbek伯爵と結婚した。2人は7年後に離婚し、マリアは1848年に1人目の夫の土地の賃借人だったWładysław Orpiszewskiと再婚している。。ショパンはマリアからもらったバラの花、そしてマリアとその母からの手紙を1つの大きな紙包みにまとめ、その上に「我が哀しみ Moja bieda」と書いた。

ショパンのマリアに対する想いは、9月のドレスデンを去る朝に書かれた「別れのワルツ」として知られる『ワルツ 変イ長調』に残されている。パリに戻ったショパンはすぐに作品25の『練習曲集』の第2曲ヘ短調を作曲し、これを「マリアの魂の肖像」と述べた。これと同時に、彼はマリアに7つの歌曲を贈った。それらはポーランドロマン派1820年頃からのポーランドの知的・芸術的文化の栄えた時期をいう。1864年の1月蜂起に伴う抑圧により終了した。(Romanticism in Poland)の詩人たち、ステファン・ヴィトフィツキ1801年生まれ。ポーランドの詩人。ショパンは彼に『マズルカ Op.41』を献呈し、また10編の詩に曲をつけている。(Stefan Witwicki)、ヨゼフ・ザレスキ、アダム・ミツキェヴィチの詩に曲をつけたものだった。

婚約破談後は、ポーランド人のポトツカ伯爵夫人がショパンにとって創作上の、また女性として興味を注ぐ対象となった。彼は伯爵夫人に有名なワルツ作品64-1『子犬のワルツ』を献呈している。

パリにいる間、ショパンはわずかな数の公開演奏会に参加した。そのようなプログラム掲載の参加者目録を見ると、この時期のパリがいかに芸術的に豊かな場所だったかがわかる。例えば、1833年3月23日の演奏会ではショパン、リスト、ヒラーがバッハの『3つの鍵盤楽器のための協奏曲』を演奏し、1838年3月3日にはショパン、その弟子、アルカンとその師のピエール・ジメルマン1785年生まれ。フランスのピアニスト・作曲家・音楽教師。作曲に関してはシャルル・グノーセザール・フランクジョルジュ・ビゼー、アンブロワーズ・トマらの師だった。グノーは彼の娘と結婚している。(Pierre-Joseph-Guillaume Zimmermann)の4人で、アルカンのピアノ8手用編曲でベートーヴェンの『交響曲第7番』を演奏している。

また、ショパンはリストのベッリーニの主題による『ヘクサメロン変奏曲』の作曲に参加し、最後の第6変奏を担当した。

ジョルジュ・サンドとの生活

1836年、友人であり仲間だった作曲家のリストの愛人だったマリー・ダグー伯爵夫人のホームパーティーの場で、ショパンはジョルジュ・サンドとして知られるフランスの文筆家・男女同権運動家のアマンディーヌ=オーロール=リュシール・デュパン(Amandine-Aurore-Lucile Dupin)、デュドヴァン男爵夫人(Baronne Dudevant)と出会った。サンドの過去の恋人にはジュール・サンドー1811年生まれ。フランスの小説家。1858年にアカデミー・フランセーズの会員に選ばれている。(Jules Sandeau)(2人が文学において協力関係にあったことで「ジョルジュ・サンド」というペンネームが誕生した)、プロスペル・メリメアルフレッド・ド・ミュッセ、ルイ=クリソストム・ミシェル(Louis-Chrysostome Michel)、作家のシャルル・ディディエール(Charles Didier)、ピエール=フランソワ・ボカージュ(Pierre-François Bocage)、フェリシャン・マルフィーユ1813年生まれ。フランスの小説家・劇作家。リストの未完のオペラ『』の台本を書いた。(Félicien Mallefille)がいた。

ショパンは当初、サンドに嫌悪感を抱いていた。彼はヒラーにこう宣言している。「なんて不快な女なんだ、サンドというやつは!いや、彼女は本当に女性なんだろうか。疑いたくなってしまうよ」。しかし、サンドは自らとショパンの共通の友人のヴォイチェフ・グジマワ伯爵(Wojciech Grzymała)に32ページにわたる率直な手紙をしたため、そこで彼に対する強い感情を認めている。その手紙の中で、彼女は自分がショパンとの関係を始めるために現在の恋人を捨てるべきか思案しており、またショパンとマリア・ヴォジンスカの以前の関係がいかなるものだったかを知ろうとしていると述べている。マリアとの関係については、万一まだ続いているのであれば彼女は邪魔したくないと考えていた。1838年の夏、ショパンとサンドの関係は公然の秘密となった。

彼らが2人でいた時期の特筆すべきエピソードには、大荒れで悲惨だったマヨルカ島での冬(1838年11月8日 - 1839年2月13日)が挙げられる。彼らとサンドの2人の子供は、ショパンの悪化する健康状態が改善するよう願ってその地へ赴いた。しかし宿泊施設を見つけられず、4人は景色は良いながらも荒れ果てて寒々とした、ヴァルデモッサマヨルカ島内の村。彼らが泊まった修道院(Valldemossa Charterhouse)は14世紀(1399年)の建築。(Valldemossa)のかつてカルトジオ会の修道院だった建物の軒を借りざるを得なくなったMajorca: sun, sand and Chopin デイリーテレグラフ 2009年12月29日付け記事 英語。

ショパンもまた自分のプレイエルのピアノを輸送するのに問題を抱えていた。ピアノは12月20日にパリから到着していたが、税関で止められてしまったのだ。ショパンは12月28日にこう記している。「私のピアノが税関に引っかかって8日目になる。彼らがピアノを渡すために要求している金額は、信じられないほど高額なのだ」。その間、ショパンはガタガタのピアノを借りて、それで練習をし、作曲を行った。

12月3日、ショパンは体調の悪さとマヨルカ島の医師が無能なことに不満を呈している。「この2週間の間、私は犬のように病にかかっている。3人の医者が往診に来た。1人目は私が死ぬと言い、2人目は今吸っている息が最後になると言い、3人目は私がすでに死んでいると言った」

1839年1月4日にジョルジュ・サンドが300フラン(要求額の半分だった)を払うことを承諾し、プレイエルのピアノは税関を通過することができた。それが届いたのは1月5日だった。その後ショパンは待ちわびた楽器をほぼ5週間にわたって使えるようになり、その十分な時間でいくつかの作品を完成させた。『前奏曲 Op.28』の数曲、『バラード第2番 Op.38』の改定稿、Op.40の『2つのポロネーズ(第3番と第4番)』、『スケルツォ第3番 Op.39』、『マズルカ Op.41』のホ短調、。このマヨルカ島でのひと冬は、ショパンの生涯の中でも最も創造的な期間の1つと考えられている。

冬の間の悪天候はショパンの健康に深刻な影響を及ぼし、慢性的な肺の疾患から彼の生命を救うために一行は島を去らざるを得なくなる。愛用のフランス製のピアノは急な帰国の邪魔になった。そのような状況だったが、サンドはなんとかピアノをフランス人夫婦に売却したカヌ夫妻 Canutである。カヌ夫妻の子孫は、マヨルカ島のショパンの遺産とショパンが使用したファルデモッサの一人部屋の博物館の管理人をしている。。

4人の一行はまずバルセロナへ、次にマルセイユへと向かい、そこで数か月滞在して回復を待った。1839年5月、彼らはサンドの別荘で夏を過ごすためにノアンフランス中央部、アンドル県のコミューン。シャトールーから南東へ約36キロ。(Nohant)を目指した。彼らは秋にはパリへ戻り、最初は離れて暮らした。ショパンはすぐに現在のパリ8区トロンシェ通り(rue Tronchet)5番地のアパートを離れ、現在の9区ピガル通り(rue Pigalle)16番地のサンドの家へ移り住んだ。4人はその住所で1839年の10月から1842年の11月まで一緒に暮らしたが、1846年まで夏季のほとんどはノアンで過ごした。彼らは1842年に現在のパリ9区スクワール・ドルレアン(Square d'Orléans)があるテブー通り(rue Taitbout)80番地に移り、隣同士の建物で暮らした。

File:02001 Church of the Valldemossa Charterhouse - Charterhouse.jpg|マヨルカ島の修道院 File:Valldemossa 021.JPG|マヨルカ島に遺されたショパンのピアノ File:Square d'Orléans, 9 plaque.jpg|ショパンの住居の銘板 File:Square d'Orléans, 5 plaque.jpg|サンドの住居の銘板

この時期にショパンがピアノ以外の楽器を演奏したという証拠がある。ナポリで急逝したテノール歌手のアドルフ・ヌリ1802年生まれ。フランスの歌手・台本作家・作曲家。歌手としては特にロッシーニの作品を得意とした。(Adolphe Nourrit)の遺体が埋葬のためにパリへ戻った際、その葬式でショパンはシューベルトのリート『天体 Die Gestirne』のオルガン編曲を演奏した。

ノアンでの夏、特に1839年から1843年にかけてはショパンにとって静かながらも創造的な日々となり、そこで多くの作品を生み出した。ショパン作品の中でも有名な『英雄ポロネーズ Op.53』もそうした作品である。サンドはショパンの騒々しい創作の過程について記している。ショパンは情熱に溢れ、涙を流し、不平を口にしつつ、時には着想そのものまで覆してしまうほど多くの構想の見直しを行った。友人のドラクロワと過ごしていた、ノアンでのある午後のことである。

ショパンの病が進行するにつれて、サンドは彼の恋人というより看護師となっていった。サンドはショパンを自分の「3番目の子ども」と呼んでおり、その後の数年間は彼女はショパンとの交友関係を維持しつつも、しばしば第三者に宛てた手紙の中で彼に対する苛立ちを吐露していた。そうした手紙の中では、彼のことを「子ども」「小さな天使」「受難者」「愛しい小さな死人」などと記していた。

1845年、ショパンの病状が悪化を続ける中、彼とサンドの間に深刻な問題が生じた。1846年には彼女の娘のソランジュ(Solange)と若い彫刻家のオーギュスト・クレサンジェとの関係などの諸問題によって、2人の関係はますます険悪になった。サンドは1847年に小説『ルクレツィア・フロリアーニ Lucrezia Floriani』を出版した。主人公の裕福な女優と身体の弱い王子は、サンドとショパンのことを指すと解釈できる。サンドのゲラ刷りの校正を手伝ったショパンが、彼にとって失礼なこの話の内容を見逃すはずはなかった。1847年、彼はノアンを訪れなかった。共通の友人たちは2人を和解させようと試みたものの、ショパンが応じることはなかった。

そのような友人の1人にメゾ・ソプラノのポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルドがいる。サンドは1843年にヴィアルドをモデルに小説『コンシュエロ Consuelo』を執筆しており、三人はノアンで多くの時間を共に過ごした。ヴィアルドは著名なオペラ歌手だったが、元来ピアノで身を立てることを希望しておりリストとレイハに師事する優れたピアニストでもあった。彼女はショパンと互いに尊敬しあい、また気が合ったことから友人として付き合っていた。2人はしばしば共演することもあった。ショパンは彼女にピアノの技術的な助言を与え、彼女がショパンの『マズルカ』の旋律をもとに歌曲を作曲するのを手伝った。彼はお返しとして、ヴィアルドからを直接知ることができた。

1847年、サンドとショパンの10年に及ぶ関係は静かに終わりを迎えた。なれそめから2人の恋路を見届けたヴォイチェフ・グジマワ伯爵はこう述べている。「もし(ショパンが)G.S. (ジョルジュ・サンド)に出会うという不幸に見舞われず、彼女にその生命を毒されなかったとしたら、彼はケルビーニの歳まで生きていただろうに」

File:Eugène Ferdinand Victor Delacroix 043.jpg|ショパンドラクロワ画当初はジョルジュ・サンドと二人で一枚に書かれた絵だったが、彼らの交際の破局から二枚に分割され、ショパンの部分はルーヴル美術館に、サンドの部分はオードロップゴー美術館に所蔵されている。 File:Sand big.jpg|ジョルジュ・サンド File:ChopinSandDelacroix.jpg|左2枚の下書き

晩年

ショパンのヴィルトゥオーゾとしての一般からの人気は翳りを見せ、それに伴って弟子の数も減少した。1848年に彼はパリでの最後の演奏会を開く。パリでは革命が進行中だった4月ショパンが幻滅したことに、これによってサンドの急進的・政治的な友人たちが適宜権力を得ていった。Tad Szulc, Chopin in Paris, pp. 366–73.、彼はロンドンへと旅立ちいくつかのコンサートを行って大規模な会場で大きな喝采を受けた。この演奏旅行は彼のスコットランド人の弟子で、時に秘書もこなしたジェーン・スターリングとその姉のキャサリン・エースキン(Katherine Erskine)の発案によるものだった。また、スターリングは必要な準備をすべて整え、必要経費を提供した。彼女はサンドとの別離の後、脱出できない鬱状態に陥ったショパンの支えとなった。

夏も終わりかけた頃、ショパンはスターリングに招かれて、スターリング家の者が所有するエディンバラ近郊のカルダー邸(Calder House)と居城(グラスゴーに程近いレンフルーシャーのジョンストンペイズリーより3マイル、グラスゴー中心街からは12マイル西に位置し、スコットランドでも最大のコナベーションの一角をなす。(Johnstone)にあった)に滞在した。そうしているとスターリング嬢とショパンが間もなく婚約を発表するという噂が国を超えて広がったが、ショパンが彼女に恋愛感情を抱いていないことは明らかだった。エディンバラでは開業医のアダム・ウィシュツジニスキ(? Adam Łyszczyński)医師の住むワリストン街路(Warriston Crescent)10にも滞在しつつ、そこで医師の治療を受けた。ショパンはあまりにも弱っており、階段の上り下りでは医師またはその召使が彼を抱えなければならなかった。ショパンはエディンバラでは1度だけ演奏会を開いている。それはクイーン通りのホープトーン・ルームズ(Hopetoun Rooms 現エースキン邸)においてだった。

1848年10月の暮れ、ウィシュツジニスキ医師の家でショパンはこの医師と過ごした数日間を非常に心地よく思っていた。というのも、彼は常にポーランド語で会話できる人間を探していたが、この時は特に彼は全く英語が出来なかったということも大きかった。Tad Szulc, Chopin in Paris, p. 382 and passim.、ショパンは最後の遺言をしたためた。「万一私がどこかで急死するようなことになったら、将来私の原稿は処分等がなされるように」と友人のヴォイチェフ・グジマワに宛てて書き送っている。スコットランドの寒い午後、スターリング嬢の城の中でショパンは母や姉と共にいる空想にふけり、祖国の地で民謡を題材とした自作曲を演奏する自分の姿を眼前に思い浮かべていた。1848年11月16日、彼はロンドンのギルドホールロンドンで数百年にわたり市民ホールと使用されてきた建物。現在はシティ・オブ・ロンドンとその地方公共団体(City of London Corporation)の行政の中心となっている。(Guildhall, London)の演奏段上で最後の公開演奏を行った。それはポーランドの避難民の慈善演奏会だったが、彼の最後の愛国的行動となった。この時の彼の出演は善意からの失敗となってしまった。ほとんどの参加者はショパンのピアノ芸術よりもダンスや気晴らしを目的としており、ショパンはそれによって多大な労力を割いて身体的不快感を負ってしまったのである。

11月の終わりにショパンはパリへ戻った。イギリス旅行はロンドンでのヴィクトリア女王の御前演奏など成功したものだったが、日程の厳しさから彼は体調を更に悪化させていたDEAGOSTINI刊、The Classic Collection 第3巻。冬の間、彼は絶え間なく病に苦しんでいたが、それでも友人に会うことを続け、病床のアダム・ミツキエヴィチを見舞ってピアノ演奏で彼の神経を和らげた。ショパンにはレッスンを行う体力はもはやなかったが、作曲への熱意は冷めていなかった。生活必要経費の大半と医師の診察代を払う金も不足するようになり、彼は価値のある家具や所有物を売り払わなければならなくなった。

2011年3月24日、ワルシャワのフレデリック・ショパン博物館が長く行方不明だったショパンの手紙を発見した。それらの手紙の日付は1845年から1848年とされており、彼の日常生活と『チェロソナタ』に関する記述がなされている。手紙は博物館で2011年4月25日まで展示されていた。

最期

ショパンは家族と共に居たいという思いを募らせた。1849年6月、姉のルドヴィカにパリへ出てきてもらう約束を取り付けた。同年9月には最後の住居となるヴァンドーム12の陽の当たるきれいなアパートに移り住んだ。それは以前はロシア大使館が入居していた物件で、7部屋を有する2階の賃料はショパンに払えるものではなかったが、ジェーン・スターリングが彼のためにそれを肩代わりした。

10月15日になるとショパンの病状は一層深刻となり、彼を訪ねてくる多くの者は会うことを許されず、一握りの近しい友人のみが病床に寄り添った。この最期の2日間で彼らは2回ほどショパンが事切れたものと思ったが、彼は再び息を吹き返すことができた。ポトツカ夫人が見舞いに訪れており、病床の彼のために歌を歌っている。また、彼はポトツカ夫人にソナタを弾いてくれるよう頼み、神に大きな声で祈りをささげた。もっとも、その数日前には自分は神の存在を信じないからと、信仰告白を拒んでいた。彼はジョルジュ・サンドが自分に「私の腕の中で息を引き取らせあげる」と約束したのに、と不平を口にした。彼は紙片を要求し、そこにこう記した。「Comme cette terre m'étouffera, je vous conjure de faire ouvrir mon corps pour [que] je ne sois pas enterré vif.(土に押しつぶされるから埋葬しないで欲しい。生き埋めになりたくないんだ。)」。10月17日の深夜12時過ぎ、医師がショパンの身体に乗りかかってひどく苦しいかと尋ねた。「もう何も感じない」とショパンは答えた。そして午前2時を回る少し前、ショパンは息を引き取った。

ショパンの病とその死因は明らかになっておらず、そのため医学的な議論の的となってきた。死亡診断書では死因は肺結核とされている。一方でショパンの病気は他の疾患(たとえば遺伝子疾患の嚢胞性線維症など)とする説もあるジョン・オシエー『音楽と病 病歴に見る大作曲家の姿』(法政大学出版局、2007年11月、〈改装版〉2017年1月)(2005年10月25日時点のアーカイブ)。しかし、現代の呼吸器治療と医療的支えのない19世紀において、嚢胞性線維症を抱えながら39歳まで生き延びることは事実上不可能という検討もさらになされ得る。ショパンが長く苦しんだ病についての総説が2011年に出版されている。文脈から事実を読み解くと、ショパンを苦しめた疾病は肺結核の可能性が高いショパンの病(英文記事)も参照。。

ショパンの最期を看取ることができなかった多くの人が、後になって「ショパンの最後に居合わせた」と主張するようになったと、タッド・シュルツ(? Tad Schulz)は記している。彼らは「歴史の証人になりたがっているようだ」。実際にショパンの死の床に付き添ったのは、姉のルドヴィカ、マルツェリーナ・チャルトリスカ公爵夫人1817年生まれ。ポーランドの貴族・ピアニスト。チェルニーに学んだあとショパン門下となる。フランツ・リスト、ポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルド、アンリ・ヴュータンなどとともにヨーロッパを演奏旅行するなど、ピアニストとして成功した。(Marcelina Czartoryska)、ソランジュとオーギュスト・クレサンジェ夫妻、ショパンの弟子で友人のアドルフ・グートマン、友人のトーマス・アルブレヒト(Thomas Albrecht)、信頼を置いていたポーランドのカトリック教会司祭のアレクサンダー・イェウォヴィツキ(Aleksander Jełowicki)神父だった。

夜が明けてから、クレサンジェはショパンのデスマスクを作り、また彼が傑作を生み出した左手の型を取った。彼の遺言に従い、葬儀の前に取り出された心臓は姉のルドヴィカによって祖国に持ち帰られ、クラコフスキ区の聖十字架教会ワルシャワ大学のキャンパス正面にあるカトリック教会で、ワルシャワにおいて名高いバロック様式の建築。(Holy Cross Church)のレオナルド・マルコーニ1835年生まれ。ポーランド及びオーストリア=ハンガリー帝国の彫刻家。(Leonard Marconi)作のエピタフの下の柱に、コニャックと思しきアルコールに浸けられて収められた。そこにはマタイによる福音書6:21「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」が刻まれている。ショパンの心臓は第二次世界大戦中に避難のため持ち出された時を除き、その教会で眠っている。現在の教会は1944年のワルシャワ蜂起で大きく破壊されて再建されたものである。教会はショパンが最後に住んだポーランドの家であるクラコフスキ区5のクラジンスキ宮殿からすぐ近くのところにある。

File:PL Warsaw Stare Powązki rodzice chopina.jpg|ショパンの両親の墓ポーランド、ワルシャワのポヴォンズキ墓地。 File:Warszawa bazylika św. Krzyża 2010.jpg|ワルシャワの聖十字架教会 File:Epitaph for heart of Frédéric Chopin in Holy Cross Church in Warsaw.PNG|ショパンの心臓が埋め込まれている柱

葬儀

パリのマドレーヌ寺院で行われることになっていた葬儀は、準備が非常に凝ったものとなったため、ほぼ2週間も遅れて10月30日に行われることになった。予定が遅れたため通常なら出席不可能であるような人びとが大勢ロンドン、ベルリン、ウィーンから集まることができた。招待された参列者には多くのフランスの文学・貴族の名士らが名を連ねたが、音楽上の同胞たちは慎重に外された。

モーツァルトの『レクイエム』が歌われることが、急遽決められた。これはショパンの遺言とも言われたが、友人のグートマンはショパンがそのようなことを頼んだことはなく、報道の自由から生まれた夢物語であるとしている。ショパンの死から葬儀の間までにパリでは彼にまつわる膨大な出版物が出回っており、その中のいくつかの創作が後に事実のように本に記載されていったようである。『レクイエム』は大部分が女声合唱によって歌われるが、マドレーヌ寺院は合唱隊に女性歌手が入ることを許可していなかった。しかし、教会は女性歌手を黒いベルベットのカーテンの奥に置くこととして、好意的に協力した。『レクイエム』のソリストは、ソプラノがジャナネ・カステラン(? Jeanne-Anais Castellan)、メゾソプラノがショパンとサンドの友人だったポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルド、テノールがアレクシス・デュポン1796年もしくは1798年生まれ。フランスの歌手。オペラ=コミック座やパリ国立オペラなどで歌っていた。(Alexis Dupont)、バスがハイドンやベートーヴェン、ヴィンチェンツォ・ベッリーニの葬儀でも歌ったルイージ・ラブラーケ1794年生まれ。フランスとアイルランドの血を引く歌手。『ドン・ジョヴァンニ』のレポレッロは適役だった。(Luigi Lablache)である。また、ショパンの『前奏曲集』から第4番 ホ短調と第6番 ロ短調が演奏された。葬儀には3,000人近くが参列したが、その中にジョルジュ・サンドの姿はなかった。

葬送の行進は町の中央のオペラ座の隣にある教会から始まり、ショパンが埋葬を希望していた街の東の端のペール・ラシェーズ墓地までの非常に長い距離にわたった。葬列を先導したのはポーランドの大移民の長だった年老いたチャルトリスキ公であり、芸術家たち(ウジェーヌ・ドラクロワやチェリストのオーギュスト・フランショーム、ピアニストのカミーユ・プレイエル(Camille Pleyel)など)が交代で担いだ棺のすぐ後ろには、姉のルドヴィカがいた。

埋葬の際には、その横でナポレオン・アンリ・ルベール1807年生まれ。フランスの作曲家。バレエ・喜劇・4曲の交響曲などを遺している。(Napoléon Henri Reber)の管弦楽編曲によるショパンの『葬送行進曲』が演奏された。このことについて、参列していたジャコモ・マイアベーアは後年、自分が編曲者として選ばれなかったことに失望したと述べている。

ショパンの墓石はオーギュスト・クレサンジェが設計・製作したもので、音楽のムーサのエウテルペーが壊れたリラの上で涙を流す姿をかたどったものである。葬儀と碑の製作にかかった費用は合計5,000フランだったが、姉のルドヴィカがワルシャワへ戻る渡航費用も含めて、全てはジェーン・スターリングが負担した。スターリングはその後長い間、黒衣に身を包み喪に服していた(生涯そうしていたとする文献もある)。

ショパンの墓には多くの人が訪れ、冬場でも捧げられる多くの花が絶えることはない。

人物

生涯を通じて肺結核に悩まされた病弱の芸術家として有名であり、残された肖像画などからも、赤みがかった頬などその徴表が見られる。しかしそうした繊細なイメージとマッチした作風の曲ばかりでなく、自らの中の閉塞感を打破しようとする想いや、大国ロシア帝国に蹂躙される故国ポーランドへの想いからか、情熱的な作風の曲も多く見られる。

幼少の頃からいろいろな面で才能を発揮し、ユーモアにあふれ、ものまねと漫画を描くのも得意で学校ではクラスの人気者だったという。

後半生は大部分をフランスで過ごしたが、望郷の思いは終生已まず、死後遺言により心臓がポーランドに持ち帰られ、ワルシャワの聖十字架教会に埋葬された。故郷を支配する列強への反発心は若い頃から強く、「美しい花畑の中に大砲が隠されている音楽」(シューマン)と評されることもある。

女性との愛の遍歴も伝説を交えて語られることがあるが、特に年上の女流作家ジョルジュ・サンドとの9年におよぶ交際の間には『24の前奏曲集』『幻想曲』『バラード第4番』『英雄ポロネーズ』『舟歌』『幻想ポロネーズ』など多くの傑作が生まれた。

ピアノの技術革新の時代に生きたショパンは新しい演奏技術の開拓に果敢に挑み、自身の練習の意味も込めて『練習曲集』(『3つの新練習曲』を除く12曲)を2つ編んだ。一方で古典の作曲家への敬意は強く(実際ショパンは自身がロマン派に属するという考えを否定した)、特にバッハとモーツァルトは彼の作品に影響を及ぼした。例えば『24の前奏曲集』は5度循環で24の全長短調を経る小品集だが、これはバッハの『平均律クラヴィーア曲集・24の前奏曲とフーガ』を意識したものである。また心を落ち着けるためにバッハの平均律をしばしば好んで弾いた。『前奏曲作品28』を作曲したマヨルカ島に持っていった印刷された楽譜は、バッハの平均律クラヴィーア曲集のみだったという。

同時代の有名な作曲家で評論家でもあったシューマンとは違い、批評活動は全く行わず、音楽作品と文筆作品(ことに詩)との融合にもあまり積極的ではなかったという。

性格が激しく、それ故にしばしば欲求不満に陥ることもあったらしい(例えば1830年にウィーンに来た時の、一般の音楽的嗜好が浅薄なものだったことに対して)。

写真は2枚残されており、1846年の写真は損傷が激しい。もう1枚は、死の直前にによって撮られたものである。

2011年3月にショパンの死後撮影された写真を発見したとポーランドの写真収集家が発表した。この写真には、ベッドに仰向けに横たわるショパンの横顔が写されており、ビソンの署名がある。しかし、ショパン博物館の学芸員・パリのポーランド図書館の写真専門家・ショパン研究家の3者は、この写真を偽造としている■ショパン博物館の学芸員「死後に写真撮影された記録がない」 ■パリにあるポーランド図書館の写真専門家「写真とデスマスクとは似ておらず、またビソンが自分の名前や日時を写真に添えたことは一度もなく、むしろ偽作と明らかにされている写真に見られるものである」 ■ショパンの研究家「写真はショパンに似ておらず、またショパンの死後三日間遺体に付き添った人々は、数時間を要する撮影に気づきもしなかった」。

2017年1月にスイスの物理学者アラン・コーラーによる新たな写真の発見が発表された。

File:Chopin Intl Piano Competition 2005.jpg|ショパン国際ピアノコンクールの会場風景(ポーランド、ワルシャワ、2005年) File:Zamek Ostrogskich w Warszawie 2022.jpg|フレデリック・ショパン博物館(オストログスキ家宮殿)。ポーランド、ワルシャワヤヌシュ・オストログスキが1681年より建築、のちにザモイスキ家が購入してワルシャワでの下屋敷として使用し、その後は学生寮、陸軍病院、音楽大学として使われ、第二次世界大戦後にフレデリック・ショパン協会に渡って本部事務局および博物館となった。撮影は2007年のものだが、その後全面改装し2010年3月に再開館している。

ショパンの書簡に関する問題

ショパンの書簡については、作品同様に戦乱によってその大部分が消失していること、ら一部の友人及びら後世のポーランドの伝記作家が国粋主義的な動機から改竄を加えたことなどから、友人による写しなどソースが怪しいものが多く、それらにもとづく虚実不明のエピソードが現在に至るまで流布している。

代表的な事例として、第二次大戦直後にポーランドの音楽研究家パウリーナ・チェルニツカが、ショパンがデルフィヌ・ポトツカ伯爵夫人に書いたという大量の書簡を公表した、というケースがある。これらにはショパンの私生活に対する言及や彼の音楽思想、他の音楽家に対する批評が多く含まれていたため議論を巻き起こした。彼女は原本の公開を拒否したまま謎の自殺を遂げたが、現在では(一部に議論はあるが)少なくとも大部分が彼女による偽作とされている。1950-60年代に書かれた伝記などにはこれらの書簡を引用したものが多い。ちなみに、ショパンがポトツカ伯爵夫人に書いた本物の手紙は一点のみ現存しているスモテル 1985年。

作品

ショパンは、多くのピアノ作品を残したが、その中には未知の作品や、原稿消失作品が複数あることが確認されている。出版されている作品についても、戦乱により自筆譜が失われているものが多い。

ショパンの作品にはいろいろと逸話のあるものが多く、それらの中にはきちんと確証の持てないものも多い。サブタイトルは、ショパンが曲にタイトルを付けることを好まなかったため、ほとんどはショパン自身によるものではない。

ショパンは、遺言で自分の未出版作品の破棄を希望していたが、その希望は受け入れられず、友人でもあったユリアン・フォンタナをはじめとするショパン研究者によって出版された。主な遺作には、『幻想即興曲』『レント・コン・グラン・エスプッレシオーネ 嬰ハ短調(夜想曲 第20番)』などがある。

フォンタナは、ショパンの原稿を整理し、また作曲年代に関係なく作品番号を付けて出版した。遺作にあたる作品66から74は、フォンタナによって付けられた作品番号である。

なおショパンの作品の分類番号は2つある。KK(クリスティナ・コビラィンスカによる作品番号のついていない作品)とBI(モーリス・ブラウンによる作品分類番号)の2つである。ヤン・エキエルは、彼自身が編纂しているナショナル・エディション(ショパン全集)の中で、作品番号の付いていない作品に限って、WN(Wydanie Narodowe = ナショナル・エディション)というエキエル独自の作品分類番号を記している。

編曲

オーケストラ曲

有名なものとして、いくつかの楽曲にオーケストレーションを施してまとめた数種のバレエ音楽がある。

  • レ・シルフィード(Les Sylphides) - 1909年初演のバレエ曲目。バレエ演目としてのショパンの編曲では最も有名なもの。編曲者は多数にわたるが、次項のグラズノフを含む。ラ・シルフィード(La Sylphide) - 1835年初演のバレエ曲目と混同される事があるが、こちらはショパンとは関係ない。
  • ショピニアーナ(Chopiniana) - グラズノフ編曲によるもの。バレエ音楽としての『レ・シルフィード』そのものを指す場合と、『レ・シルフィード』からグラズノフの編曲によるものをさらに抜粋した演奏会用組曲を指す場合がある。英雄ポロネーズや軍隊ポロネーズ、ノクターンやマズルカなどにオーケストレーションが施されている。

ピアノ曲

  • フランツ・リスト 『ポーランド歌曲集』 - ショパンの歌曲集作品74をピアノ独奏用に編曲。
  • ステファン・ヘラー 『エレジーと葬送行進曲 作品71』 - 前奏曲作品28-4と作品28-6の編曲。
  • ミリイ・バラキレフ 『ショパンの2つの前奏曲の主題による即興曲』 - 前奏曲作品28-11と作品28-14の合体編曲。
  • レオポルド・ゴドフスキー 『ショパンの練習曲に基づく53の練習曲』
  • マックス・レーガー 『ピアノのための5つの特別練習曲』 - 第1番(作品64-1の編曲)・第2番(作品42)・第3番(作品29)・第4番(作品25-6)・第5番(作品64-2)。

歌曲

  • ポーリーヌ・ヴィアルド 『6つのマズルカ』 - ルイ・ポメ(Louis Pomey)のフランス語の詞による歌曲への編曲。ショパンの面前でも演奏されたUrszula Kryger (mezzo), Charles Spencer (piano) "Chopin Polish Songs" Hyperion CDH55270 のMieczyslaw Tomaszewskiによるライナーノーツ。
    • 第1集(1864年出版)作品6-1・作品7-1・作品24-1・作品33-3・作品50-2・作品68-2の編曲。
    • 第2集(1888年頃出版)作品6-4・作品7-3・作品24-2・作品33-3・作品50-1・作品67-1の編曲。

楽器

ワルシャワ在住時にショパンが作曲と演奏に使っていた楽器は、ブッフホルツ製のピアノであったMajorek, Czeslaw; Zasztoft, Leszek (1991). "Popularyzacja nauki w Krolestwie Polskim w latach 1864–1905". History of Education Quarterly. 31 (1): 109. doi:. ISSN . JSTOR 368794.。この楽器については、2018年にポール・マクナルティが復元楽器を製作し、ワルシャワ大劇場で公開演奏されたほか"Narodowy Instytut Fryderyka Chopina". muzeum.nifc.pl. Retrieved 24 June 2021.、ショパン研究所主催の第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクールで使用されたことが知られているMoran, Michael (31 January 2018). "1st International Chopin Competition on Period Instruments. 2–14 September 2018". Classical Music Festivals and Competitions in Poland and Germany - with occasional unrelated detours. Retrieved 24 June2021.。

ショパンはその後、ワルシャワを離れたパリ在住時に、プレイエルから楽器を購入した。彼はプレイエルのピアノを、「ノン・プルス・ウルトラ」(極致!)と評価しているAudéon, Hervé (2016). "L'œuvre de Frédéric Kalkbrenner (1785–1849) et ses rapports avec Frédéric Chopin (1810–1849)". In Hug, Vanya (ed.). Chopin et son temps / Chopin and his time (in French). ISBN .。パリでショパンと交友関係にあったリストは、ショパンのプレイエルの音を「クリスタルと水の結婚」のようだと述べているLiszt, Franz; Cook, M. Walker (1 April 1877). "Life of Chopin". The Musical Times and Singing Class Circular. 18 (410): 184. doi:. ISSN . JSTOR 3351980.。

また1848年にロンドンに滞在していたショパンは、自分のピアノ3台について「大きな応接間にはピアノが3台あり、プレイエル1台、ブロードウッド1台、エラール1台がある。」と手紙に記しているChopin&#39;s letters. By Chopin, Frédéric, 1810-1849; Voynich, E. L. (Ethel Lillian), 1864-1960; Opienski, Henryk, 1870-1942

楽譜

ポーランド音楽出版社(パデレフスキ版およびエキエル版)やヘンレ社やペータース社などの原典版楽譜では、ショパン自筆の楽譜と、フォンタナやその他の編集者による楽譜が掲載されており、比較することができる。

パデレフスキ版
ショパン旧全集(全27巻)イグナツィ・パデレフスキ編集。クラクフ版と呼ばれることもある。 全27巻の中から1曲または数曲を収めたピース版と作品選集も刊行されている。
エキエル版
ショパン・ナショナル・エディション財団(FWN = Fundacja Wydania Narodowego Dziel Fryderyka Chopina)ショパン新全集(全37巻)ヤン・エキエル編集。通称「エキエル版」または「ナショナル・エディション」(補遺作品集以外は、2010年に完結)1995年に装丁デザインが変更された。要約及び校訂報告がポーランド語版だけでなく英語版も出版された。一部の楽譜ではフランス語版とドイツ語版も出版されている。2021年5月からは全音楽譜出版社より日本語版が順次出版されている。
ペータース社版
ブロニスラウ・フォン・ポツニアク(ブロニスワフ・プズニャク)とヘルマン・ショルツ編集
ショパン全集・新校訂による原典版(ロンドン・ペータース社から現在刊行中)
ウィーン原典版
ヤン・エキエル編集。ただし、エチュード集がパウル・バドゥラ=スコダ編集、24の前奏曲作品28がコンラート・ハンゼン編集、ポロネーズ集これとは別に、ポロネーズ変イ長調 《英雄》

作品53が単独でも出版されている。とアンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ作品22がクリスティアン・ウーバー編集。

ヘンレ社原典版 (通称「ヘンレ版」)
旧ショパン集・Ewald Zimmermann校訂による旧原典版 1980年代の校訂。
新ショパン集・Norbert Müllemann校訂による新原典版 2010年代以降の校訂。
サラベール社版(アルフレッド・コルトーによる校訂。通称 「コルトー版」)
デュラン社版(クロード・ドビュッシーによる校訂)
音楽之友社版
春秋社版(井口基成による校訂)
全音楽譜出版社版
エチュードのみ原典版に基づく山崎孝校訂版もある。

メディア

ピリオド楽器による録音

フレデリック・ショパンを扱った作品

題名及び歌詞に出てくる楽曲

  • 『謝肉祭』作品9 - ロベルト・シューマン
  • 『月に憑かれたピエロ』作品21 - アルノルト・シェーンベルク
    • 第1部第5曲が『ショパンのワルツ』と題されている。
  • ライヒとライリーのいる自画像、背景にショパンもいる』 - ジェルジ・リゲティ
    • 繰り返しを基調とするリゲティ自身の1970年代以降の音楽について、アメリカ発のミニマル・ミュージックとの共通性を題名で告白しているが、同時にその源流をショパンにも見いだしている。
  • 18の小品『15.ショパン風に』Op.72-15 - ピョートル・チャイコフスキー
  • 『気分』第5曲 練習曲「ショパンへのオマージュ」Op.73-5 - エドヴァルド・グリーグ
  • 『ショパンの主題による変奏曲』- フェデリコ・モンポウ(ショパンの『24の前奏曲』第7番イ長調による。第10変奏には幻想即興曲のメロディも使われている)
  • 雨音はショパンの調べ - 1983年にイタリアの男性歌手ガゼボが発表した楽曲。英語で歌われており、原題は『I like Chopin』。日本でも小林麻美 with C-POINTのほか日本語カバーが複数存在する。

映画

  • 別れの曲 - 1934年公開のドイツ映画。ショパンの伝記映画であり、『12の練習曲 作品10』の第3番が「別れの曲」と呼ばれる所以となった作品。
  • 楽聖ショパン - ショパンの伝記映画。1945年公開のアメリカ映画。
  • ソフィー・マルソーの愛人日記 - サンドとショパン、娘ソランジュらを描いた1991年のフランス映画。
  • ショパン 愛と哀しみの旋律 - ショパンとサンドの恋愛を描いた2002年公開のポーランド映画。
  • 戦場のピアニスト - 2002年公開。ショパンを扱った作品ではないが、ショパンのピアノ曲が多数演奏される。

小説・漫画

  • "Życie Chopina(ショパンの生涯)" - ポーランドの詩人カジミェシュ・ヴィエジンスキが1949年にニューヨークで出版。
  • 葬送 - ショパンを主人公とした平野啓一郎の長篇小説。
  • 虹のプレリュード - ポーランド時代のショパンが登場する手塚治虫の漫画。
  • 僕のショパン - ショパンとリストの友情を描いた桃雪琴梨の漫画。
  • 君のために弾くショパン - ショパンの精霊が現代の日本で現れる長江朋美の漫画。

ゲーム

  • トラスティベル 〜ショパンの夢〜 - トライクレッシェンドが開発し、バンダイナムコゲームス(現・バンダイナムコエンターテインメント)より発売されたロールプレイングゲーム。ショパンが今際に病床で見た最後の夢の世界を彼とは違う夢の世界の住人の少年を主人公に付き添う形で冒険する。
  • モンスターストライク - 株式会社MIXIから配信されているiOS・Android用ゲームアプリ。使用キャラクターとしてショパンが登場する。
  • ラヴヘブン - 株式会社アンビションから配信されているiOS・Android用ゲームアプリ。使用キャラクターとしてショパンが登場する。

アニメ

  • クラシカロイド - NHK制作のアニメーション。登場人物としてショパンが登場する。
  • ルパン三世 グッバイ・パートナー - 金曜ロードSHOW!で放送されたルパン三世のテレビスペシャルシリーズ。過去の登場人物としてショパンが登場する。

舞台

  • ザ・クラシック-I LOVE CHOPIN - 宝塚歌劇団宙組によるショー。ショパンの楽曲や生涯を題材にした華麗なレヴュー作品。
  • 巡礼の年~リスト・フェレンツ、魂の彷徨~ - 宝塚歌劇団花組によるミュージカル。作曲家リストの若き日の苦悩と情熱を描いた。ショパンは、リストの盟友であり好敵手として登場する。演:水美舞斗。

注釈

出典

書簡訳書

  • 『ショパンの手紙』アーサー・ヘドレイ編、小松雄一郎訳、白水社、1965年、新装版1980年、2003年
  • 『ショパン全書簡 1816~1831年 ポーランド時代』岩波書店、2012年
  • 『ショパン全書簡 1831~1835年 パリ時代 上』岩波書店、2019年10月
  • 『ショパン全書簡 1836~1839年 パリ時代 下』岩波書店、2020年12月
    各・ゾフィア・ヘルマン/ズビグニェフ・スコヴロン/ハンナ・ヴルブレフスカ=ストラウス編
    各・関口時正/重川真紀/平岩理恵/西田論子/木原槙子 訳

参考文献

  • Arthur Hedley et al., "Chopin, Frédéric (François)," Encyclopædia Britannica, 15th ed., 2005, vol. 3, pp. 263–64.
  • Édouard Ganche, Frédéric Chopin: sa vie et ses œuvres (Frédéric Chopin: His Life and Works), Mercure de France, 1913.
  • Gastone Belotti, Chopin, l'uomo (Chopin the Man), 3 vols., Milan, Sapere, 1974.
  • Gastone Belotti, Chopin, Turin, EDT, 1984, ISBN 88-7063-033-1.
    • アダム・ザモイスキ『ショパン-プリンス・オブ・ザ・ロマンティックス』大西直樹・楠原祥子 訳、音楽之友社, 2022.ISBN 978-4-276-21007-3
  • Michałowski, Kornel, and Jim Samson, Chopin, Fryderyk Franciszek, Grove Music Online, edited by L. Macy (Retrieved 31 October 2006) (subscription access)
  • [The Book of the Second International Musicological Congress, Warsaw, 10–17 October 1999:] Chopin and His Work in the Context of Culture, studies edited by Irena Poniatowska, vols. 1–2, Warsaw, 2003.
  • André Maurois, Leila: the Life of George Sand, translated by Gerard Hopkins, Penguin, 1980 (c 1953).
  • George Richard Marek and Maria Gordon-Smith, Chopin: A Biography, New York, Harper & Row, 1978.
  • Chopin's Letters, collected by Henryk Opieński, translated by E. L. Voynich, New York, 1973.
  • The Book of the First International Musicological Congress Devoted [to] the Works of Frederick Chopin, Warsaw, 16–22 February 1960, edited by Zofia Lissa, Warsaw, PWN, 1963.
  • Selected Correspondence of Fryderyk Chopin, collected and annotated by B.E. Sydow, translated and edited by Arthur Hedley, London, 1962.
  • Krystyna Kobylańska, Chopin in His Own Land: Documents and Souvenirs, Kraków, P.W.M., 1955.
  • James Huneker, Chopin: The Man and His Music, 1900.
  • Chopin and Other Musical Essays (1889) by Henry T. Finck
  • Jeffrey Kallberg, "Chopin in the Marketplace: Aspects of the International Music Publishing Industry in the First Half of the Nineteenth Century," Notes 39, no. 3 (March 1983): 539.
  • Kazimierz Wierzyński, The Life and Death of Chopin, translated from the Polish by Norbert Guterman, foreword by Arthur Rubinstein, New York, Simon and Schuster, 1949.
  • Mieczysław Tomaszewki, "Chopin. Człowiek, dzieło, rezonans", Polskie Wydawnictwo Muzyczne, 2005, ISBN 83-224-0857-9. (English version: Chopin, ISBN 978-83-7576-075-0).
  • Piotr Mysłakowski, Andrzej Sikorski, Fryderyk Chopin: The Origins, Narodowy Instytut Fryderyka Chopina (The Fryderyk Chopin Institute The Fryderyk Chopin Institute), Warsaw, 2010.
  • Zdzisław Najder, Joseph Conrad: a Life, translated by Halina Najder, Rochester, Camden House, 2007, ISBN 1-57113-347-X.
  • Cecilia Jorgensen and Jens Jorgensen, Chopin and the Swedish Nightingale, Brussels, Icons of Europe, 2003, ISBN 2-9600385-0-9.

関連項目

  • ショパンの楽曲一覧
  • マズルカ (ショパン)
  • ショパン国際ピアノコンクール
  • ジョルジュ・サンド
  • カール・チェルニー
  • エクトル・ベルリオーズ
  • ロベルト・シューマン
  • フランツ・リスト - 友人で伝記『フレデリック・ショパン』(八隅裕樹訳、彩流社、2021年)を著した。
  • シャルル=ヴァランタン・アルカン - ショパンと親交があったことで知られる同年代の作曲家。
  • ウジェーヌ・ドラクロワ - ショパンの肖像画を手がけた画家。
  • カール・ミクリ - ショパンの弟子。
  • ジョルジュ・マティアス - ショパンの弟子。
  • トマス・テレフセン - ショパンの弟子。
  • - ショパンの弟子。
  • - ショパンの弟子。
  • - ショパンに師事した神童。
  • - 小惑星番号3784の小惑星。
  • ワルシャワ・フレデリック・ショパン空港 - ショパンにちなみ命名された。
  • フリデリク・ブッフホルツ - ワルシャワのピアノ製作者。

外部リンク

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