ピエール・プティ : ウィキペディア(Wikipedia)
ピエール・プティ(Pierre Petit、 1598年12月31日 又は 1594年12月8日 - 1677年8月20日)は、フランスの数学者、物理学者、天文学者、装置製作者である。
生涯
プティは、フランス中部のモンリュソンで、地方官吏の家に、4人兄弟の長男として生まれた。数学と物理学に才能を示したが、1626年に父親の仕事を受け継いだ。
両親が亡くなると、職を辞して官職を売却し、1633年にパリへと移る。パリでは、国王の技師として登用され、砲兵の軍政官も務めフランス各地の港を巡検、イタリアにも派遣された。その後は、国王の技術・地理学の顧問官や、要塞管理官などの任に当たっている。
晩年は、パリ郊外のラニー=シュル=マルヌで過ごし、その地で亡くなった。
業績
パリに出たプティは、マラン・メルセンヌを中心とする学者達の集まりに加わり、エティエンヌ・パスカル、ブレーズ・パスカル、ルネ・デカルト、ピエール・ド・フェルマーらと親交があった。プティは、デカルトの哲学に強く共鳴し、一方デカルトは、プティの数学・天文学における才能を高く評価している。
科学者としてのプティの仕事は、多岐にわたっている。1646年からパスカル父子と共同で、トリチェリの真空実験の再現実験を行ってその真実性を確認し、新たに追試も実施した。また、フランス有数の天文機器の収集家で、自身でも装置を製作しており、特に星の視直径を正確に測定するマイクロメータの発明は、ジョヴァンニ・カッシーニによる惑星の自転の発見にも一役買った。自身の研究としては、日食・月食の観測や予報、彗星の観測などを行い、論文に発表した。
プティはまた、王立協会で設立当時から幹事を務め、1667年4月4日には外国人初の王立協会フェローの一人に選ばれている。
国王の顧問官を務めていたプティは、フランスの科学研究を発展させるべく、王立天文台などの国家公認の科学機関の創設を訴えていた。しかし、実際にパリ科学アカデミー設立を推進したのは、財務総監のコルベールであって、プティはアカデミーの会員にはなっていない。
著作
出典
関連項目
- ピエール・ガッサンディ
- ジル・ド・ロベルヴァル
- ジャン=バティスト・デュアメル
- ヘンリー・オルデンバーグ
外部リンク
- Petit, Pierre - Encyclopedia.com
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2022/10/08 00:52 UTC (変更履歴)
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