死を想って48歳で初めてのセックスを体験する主人公の孤独が美しい「ブラックバード、ブラックベリー、私は私。」【二村ヒトシコラム】
2024年12月30日 21:00
作家でAV監督の二村ヒトシさんが、恋愛、セックスを描く映画を読み解くコラムです。今回の作品は、ジョージアの新進女性作家タムタ・メラシュビリの大ヒット小説を原作に、新しい人生を踏みだそうとする中年女性の日常をオフビートに描いた異色の青春ドラマ「ブラックバード、ブラックベリー、私は私。」。二村さんは、自立した人生を送る主人公の「孤独の自由さと美しさが描かれている」と語ります。
あんなふうに処女が一瞬で発情し、そして騎乗位で初体験するなんてこと現実にありえるんだろうか。ありえるんでしょう。この映画は女性の性欲を(も)あつかってはいるが、男が思い描く女のセックスについてのファンタジーではない、現実的な映画だから。
主人公エテロは大きな黒い鳥のような、いかめしい顔をしている。表情はゆたかではない。本人にはそんなつもりはないのだろうが他人をちょっと怖がらせそうだ。そんなエテロが48歳で初めてセックスをした。それから恋愛をした。それまでは彼女は孤独だった。だが、恋愛によって彼女は孤独ではなくなり元気になって外見がなんだか前より少し美しくなったのでした皆さん感動してください、みたいな凡庸な映画ではない。この映画は恋愛を礼賛していない。
現実的な映画だが、とても美しい映画でもあった。何が美しかったのか。孤独が美しかった。この映画ではエテロの孤独の、自由さと美しさが描かれている。セックスも恋愛もすばらしいことだが、たかがセックスや恋愛を楽しんだくらいでは人間の美しい自由と孤独は失われない。孤独な自由は屈強なものだ。そして孤独も自由も、強くならざるをえなかった人間の強い感情が作りだす立派なものだ。
もっと言うと、ちゃんと自分の家族のトラウマや周囲の無理解や未来の死をみつめて、さみしさを味わい日々を楽しみつづけている気合いの入った人にしか、ほんとうの意味でセックスや恋愛を楽しむことはできないのだなとも僕はこの映画を観て思った。エテロはついこのあいだまで処女だったのに、いまや(彼女は無口なので、あまりそうは見えないかもしれないが)めちゃめちゃ恋愛やセックスを楽しんでいる。そして、ここが重要なのだが、恋愛やセックスにのめりこんで心を殺されてはいない。
すがるような、愛を乞うような気持ちを男にむける女は(そういう気持ちを女にむける男も、そういう気持ちを同性にむける同性愛者も)まったく魅力的ではない。自由ではないからだ。エテロは魅力的だ。僕は彼女に性的な魅力を感じた。性的魅力というのは必ずしも外見の美しさによるものではないと(僕にとっては)証明されました。
これはある種のフェミニズムの映画、ある一人の女の生きかたを肯定している映画なのはまちがいない。だが女たちの連帯は肯定的には描かれていない(連帯させられることに違和感を抱いている女同士の淡い友情やケアは肯定的に描かれる。エテロは孤独ではあるけれど孤立はしていない)。
連帯が自分の傷をごまかす行為になってしまうことがある。自分たちに連帯しようとしない異物を意地悪に排除したり、クソバイスしたがる上から目線も生みがちだ。他人の生きかたについてつべこべ言いたがる村の女たちは、外見はエテロよりも多少は、ごくごく多少は美しいのかもしれないが、心は美しくない。彼女たちは同質性のコミュニケーションには長けているかもしれないが、お茶を飲みながらエテロを論評することで自分たちも本当はさみしいのだということを忘れようとしている。
孤独を選んでいるエテロを嗤(わら)う女たちは、エテロの容姿を遠くから論評する無作法な男と同じだ。
彼女たちが(我々が)しているのは「会話」にすぎない。会話はもちろん人間関係の潤滑油としては必要なのだが、永遠にそれだけをつづけていても仕方あるまい。エテロは孤独なままで彼女たちの馴れあいのコミュニティに、言葉少なに(ときには奇妙に饒舌に)対話をもちこむ。「対話する」とは、べつにことさら相手を説得しようとする行為ではない。空気を読まず、異物としてそこにあるということだ。エテロは女たちの同調圧にも男のルッキズムにも屈しないで、一人でむしゃむしゃと高カロリーのスイーツを頬ばる。うまそうだ。おみやげにも買って帰る。
人間は何のために生きるのか。そんなふうに主語を大きくしたら「子孫を残すため」みたいなくだらない話になっちゃって、ついに子を作らなかった人は困ってしまう。主語は小さく。人類の一人である「あなた」は何のために生きて、どういうふうに死んでいくのか。人類みな兄弟なんだから子供なんかは人類の他の誰かが作ってくれるだろう。
エテロは映画の冒頭で孤独とともに自分で摘んだブラックベリーを味わい、小さな魂のような黒い鳥の瞳と羽ばたきを眺め、自分の近未来の死を幻視した。死を想ったから、いままでの人生で縁がなかったセックスがしたくなった。セックスの意味なんてそんなものだ。だが切実なことだ。
村の女たちはバイアグラが開発されたことを(ジョージアの田舎の薬局でも、きっと世界中で、勃起補助薬は売られているのだ)嗤っていた。彼女たちにとってセックスはそんなに切実ではない。子供を作るとか夫をつなぎとめておくとかの「機能」にすぎない。もしくはマウンティングの道具。もしくは本当は切実なことなのに、惨めな男の滑稽さを嗤うことで自分の切実さを忘れようとしている。
中年の女、あるいは初老の女にとってのセックスの切実さを描いているのは、先月このコラムで紹介したやはりとても美しい映画「山逢いのホテルで」と似ている。あちらの主人公クローディーヌも、エテロとはタイプは全然ちがうが、やはり秘かにとても自由な女だった。どちらにせよ恋愛やセックスは昼間の社会に祝福されるものではない。恋愛で祝福されようと思ってはならない。恋愛は秘密だ。秘密を守ることと引き換えに自由を得ることがセックスだ。
だが、もしかしたら彼女自身がどんなに強い意志で孤独とともに自由を指向していても、彼女の肉体そのものが孤独を裏切る人生に、これからなっていくのかもしれない。自分の死のことをみつめたからこそエテロにはセックスが訪れ、そのセックスが恋愛の楽しみを連れてくると同時に、肉体への意識も連れてきてしまったのだから仕方がない。
エテロは、がんこな意志が自分の肉体の自由によって裏切られてしまうほど「自由」だったのだ、とも言えるかもしれない。
主人公が自らの自由さがもたらした事態にとり乱し、つらいのか嬉しいのかもわからず声をたてて泣き、これからもつづく彼女の人生はどうなっていくのだろうという問いでブツッと映画が終わるのも「山逢いのホテルで」と同じだ。問いは映画を観た我々にむかって開かれている。
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