【「ピアノ・レッスン」評論】映画という言語を用いた表現を最大限に活かし、自ら選び取るヒロインを描いた女性映画の最高峰
2024年3月24日 09:00

これほど映画評論や考察が書かれた作品は、そうないだろう。ジェーン・カンピオンに女性初となるカンヌ国際映画祭パルム・ドールをもたらした本作は、フェミニズム映画の象徴のように語られてきてもいる。だが、これは「男性によって抑圧された女性の悲劇」という類のものとはまるで違う。公開から30年経った今、新たな観客がヒロインの強さと主体性に驚き、共感を巻き起こすさまを想像するだけで、胸が躍る。
19世紀半ば。父親によってスコットランドからニュージーランドへの嫁入りを強制されたシングルマザーのエイダは雨天の中、娘のフローラと1台のピアノを伴って上陸する。そして夫は、運ぶには人手が足りないという理由でこのピアノを海辺に置き去りにしてしまう(大間違い)。
荒れた海辺に置かれたピアノ。このイメージの美しさと凄み。ああ、カンピオンは映像という言語での語り方を完璧にわかっているなと思う。この作品の原点は、このイメージだったというのも納得だ。エミリー・ブロンテの「嵐が丘」にインスパイアされたカンピオンは、愛するニュージーランドの原風景のなかに、複雑で繊細なゴシックロマンを描写していく。
エイダのナレーション(冒頭とラストのみ)が言う。「これは私の発している声ではなく、心の声だ。6歳のときに話すのをやめた。理由は自分でもわからない」。エイダは声を発しない。これが、映像美とともにこの映画のパワー源だ。
エイダはしゃべれないのではなく、しゃべらないことを「選んだ」のだ、自らの意志で。どれほどの意志の強さだろう。しゃべらない代わりに、彼女はピアノを弾く。ピアノは彼女にとって自由そのものだ。そしてエイダを演じるホリー・ハンターは、声で表現する代わりに音楽(マイケル・ナイマンの美しすぎる旋律!)と、表情ですべてを語るのである。大きな瞳を見開き、意志の強さをどんな言葉より雄弁に印象づけるエイダ=ハンター。「くるくる変わる表情」というほどではないのに、その顔には彼女のキャラクターと信ずるもの、内面の変化が手に取れそうなほどわかりやすく浮かんでいる。ここへ来る運命は強制されたことで不本意だっただろうが、来てからのエイダは多くのことを自ら選んでいるのだ。夫を差し置いて、ニュージーランドの原住民と同化したヨーロッパ人移民、ベインズと情を交わすようになるまでの駆け引きも、けっして脅迫され強要されたものではない。
映画はエイダを、単に男性の被害者として描かない。ベインズにしたところで性的欲望を抑えられずに交換条件を出してくるが、最終的には欲望を抑え、エイダの意のままになって苦しむ。もちろん夫は鈍感だし間違いを犯すが、エイダが声を発しないという時点で夫より野性的なベインズに有利であり、エイダはアンフェアー。男性(とくに夫)もエイダの被害者なのである。そんな女性の身勝手さ、残酷さをも包み隠さず描く。男性も楽しめる女性映画の最高峰であることは間違いない。
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