【「せかいのおきく」評論】凜とした映像で江戸庶民の悲喜交々を描く、阪本順治の “活劇”
2023年4月30日 13:30
観終わって最も印象に残ったのは、笠松則通の撮影が生み出す映像の力だった。輪郭が立ちながらも柔らかさが損なわれていない。凛とした映像が音を際立たせ、画面に吸い込まれるような感覚に包まれる。阪本順治監督は、スタンダードの画角、モノクロームの映像に最小限の色味を添えると決め、独特な佇まいが宿る作品に仕上げた。自ら脚本を書き、声を失ってしまうヒロインを描くサイレント映画の語り口が新鮮だ。
「せかいのおきく」の時代背景は、江戸末期、安政五年から文久元年までの約4年間。強硬派の井伊直弼による安政の大獄、そのしっぺ返しとなる桜田門外の変が起こった頃。大国が押し寄せ、400年続いた江戸幕府は崩壊寸前、価値観も大きく変わるまさに激動期である。時代の趨勢に押されて居場所をなくした武士の中には、髷を切って長屋暮らしを始める者も多かった。不義を訴えたために武家屋敷を追い出されたおきくの父、松村源兵衛(佐藤浩市)もそのひとりだ。
でも、どれだけ世が変わろうとも市井の人々の暮らしは変わらない。飯を食らえばうんこも垂れる。溜まったものは汲み出され畑の肥やしとなる。育った野菜は人々の胃袋に収まり、また排出される。これぞSDGsの原点そのものではないか。
「せかいのおきく」の始まりは美術監督の原田満生が阪本に声をかけたこと。まずは試しに短編を撮ってみようと話が弾み、僅か1日で撮影されたのが第七章「せかいのおきく」だった。自由に撮った短編を観たふたりは確かな手応えを感じる。監督が脚本を書き足し、キャスト、スタッフも巻き込んで、序と結に七章からなる本編が完成した。
おきくには黒木華。常に身だしなみを整え、背筋を伸ばした22歳の女性の喜怒哀楽を豊かな表情で印象づける。武士くずれの父と長屋生活を始めた彼女は、寺子屋で子どもたちに読み書きを教えている。ある日、お寺の厠で雨宿りする紙屑拾いの中次(寛一郎)と下肥買いの矢亮(池松壮亮)と隣りあわせになる。どうやら彼女は顔見知りの中次に“ほの字”の様子。
物語を横につなぐのは、下肥買いを始めた中次と矢亮の凸凹コンビの珍道中。おきくが暮らす長屋、お寺、武家屋敷を回り、汲み取った肥やしを買い取ると舟で葛西の農家まで届けて代金をもらう。貨幣経済が末端にまで浸透していた当時、社会の片隅で奮闘する彼らも循環社会の中にいた。
先に述べたが、武士に連れさられた父を追ったおきくは声を失う。けなげで一途な彼女が内にこもってふて寝を続ける。心配した長屋の住人、和尚と寺子屋の子どもたち、内気な中次らが次々とやって来る。障子に影を浮かべて労りの心を伝える控えめな表現が優しい。
気負うことなく撮影に臨んだ監督と、楽しむことを忘れずに役柄に向き合った役者たちの献身的な演技が、庶民の悲喜交々となって時代と社会を映し出す。懸命に生きる人々を描く映画を“活劇”と呼ぶならば、どんな環境にあっても前を向いて進んでいく姿を活写したこの作品こそ“活劇”と呼ぶにふさわしい。
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